第3話
空気を読むというのは詰まるところ、その場の空気つまり雰囲気を察しその場に適した言動をすることを指す事らしい。
そうしてボクはまた一つ賢くなってから、刹那の携帯の中に戻るがまだ窓は暗いままだった。検温がまだ終わっていないのだろうか?
ちなみに窓というのボクが鼻面を思いっきりぶつけたあの憎き見えない壁のことで、ちょうど部屋にはめ込まれたガラス張りの窓に似ていたのでそう呼ぶことにしていた。
正直やろうと思えばこっちからスリープを解除することも出来るのだけど、それをやると刹那が怒るのでボクは大人しく待つことにした。
ボクは部屋の隅に置いてある枕に頭を乗せて、刹那の検温が終わるまで横になることにした。
ボクには睡眠というものが必要ないらしく今まで眠るということをしたことはないのだけれど、こうして横になると何だか落ち着く気がして嫌いじゃない。
だからこの枕はお気に入りだった。
そろそろ枕以外にも、お布団なんかもどうにかこっちに持ってくることは出来ないかな?
刹那が家に帰る時期が決まったら、それも頼んでみようと決めた。
そうしてボクはワクワクしながら目を閉じて、また少しだけ昔のことに思いを馳せることにする。
この枕がこの場所にやってきて、初めて食事という物をしたあの時のことを。
初めて会ったあの日から刹那はボクに頻繁に話しかけてくれた。多くのことを教えてくれた。言葉やその意味、童話なんかも読み聞かせてくれた。
そうして教えてもらったことを夜、彼女が寝ている間にインターネットでこっそり検索をかけ補完する。
それが一日のサイクルだった。
インターネットの使い方は誰かに教わったわけじゃなかった、だが気がつけば不思議と出来るようになっていた。
赤ん坊が誰に教わるでもなく立ち方や歩き方を覚えるみたいに、ボクの中の本能かなにかにやり方が刻まれていたのかもしれない。
そのお陰もあってか刹那のパソコンに住み着いてから僅かな間で、ボクは辿々しいながらも会話が出来るようにまでになっていた。
刹那はボクのそんな急激な成長に驚いていたけれど、同時にとても喜んでくれた。
「うーん、うーん」
ボクが刹那の元に来てちょうど一週間が経った頃、ボクの身体に異変が起きていた。
「どうしたのソラ。大丈夫?」
そんなボクに刹那が心配そうに声を掛けてくれた。
その日ボクは朝から奇妙な違和感を覚えていた。何というかこう、頭の辺りがムズムズしたんだ。
痛いとも痒いとも違うのだけど、とにかく落ち着かない。
「何か病気なのかな? でもそもそもソラって病気になるの? コンピューターウイルス? だったらワクチンソフト入れれば直るのかな? いやでも」
刹那おろおろしていたがその時はボクも軽くパニックになっていた。
原因不明のムズムズに胸の方から何かがせり上がってくるような、それでいてジッとしていられないようなそんな気分になる。
それが不安という感情なのだと言うことをボクが知るのはもう少し後になってからだ。 謎のムズムズは次第に強くなる。
そしてついにはボクの中で何かが弾けた、そんな感覚あった直後。
「わわッ」
突然驚きの声を上げる刹那。
それもそのはずで。
ボクの頭、正確には一本だけ虫の触角みたいに跳ねていた髪の毛の先から、謎の光線が突然照射されたのだ。
光線はボクと刹那を隔てる窓をすり抜けて。咄嗟に身を躱した刹那の後ろにあった枕に命中しその瞬間消えてしまった。
「……びっくりした~。何だったの今の」
刹那は枕のあった場所呆然と見つめていて、触ったりもしてみていたやっぱり枕はそこにはなくて。
「刹那、刹那」
「どうしたのソ、あーそれ!」
枕は今ボクの目の前にあった。
「なにこれ、どういうこと?」
刹那が眼をパッチリ見開いて詰め寄ってきた。どういうことと言われてもボクにも正直よく分かっていない。聞かれても困る。
「それってやっぱりここにあった枕だよね、と言うことはこれって枕がパソコンの中に入っちゃったって事? なにそれってすっごいことじゃない!?」
何だか一人で盛り上がってる刹那だったけど、ボクとしては正直それどころじゃない。
自分の身体の一部から何だかよく分からない物が出て、何だかよく解らない事が起きたのだ。動揺もする。
「ねぇそれってホントにここにあった枕なの、触れる?」
ボクの内心の動揺を知ってから知らずか、刹那は好奇心に満ち満ちた視線をボクに向けてくる。
刹那に促されて目の前に落ちている枕に触れてみる。
枕にボクの指が軽く埋まる。その感触は簡素で何もなかったこのパソコンの中で生きてきたボクにとって初めての物で。
最初こそ不安に駆られ怖々と触れていたボクだったけれどそれも次第に好奇心の波に押し流されて、気がついたらボクは押したり叩いたり持ち上げてみたり、その初めて感覚に夢中になっていた。
その時、不意に笑い声が聞こえた。
「何だかソラったら子供みたい」
そう言われて何だかさっきとは違う意味で落ち着かない気分になって視線をそらした。「あれ? すねてる? ごめん、ごめん悪気はないのただ何だか微笑ましくて。なんて言うのかな母性本能をくすぐられる、見たいな?」
刹那はそんな風に言っていたけど、ボクは何だか面白くなくて唇がアヒルのくちばしみたいになる。
「ごめんってば~。それよりねぇ、あのビームってまた出せるのかな?」
謝るのもそこそこに眼をキラキラさせながら訪ねられて、さらにアヒルのくちばしが長くなるが取りあえず言われた通りさっきの感覚を思い出しながら意識を集中してみる。
……出来る気がした。理屈や仕組みはよく分からないままだがもう一度さっきのビームを出せるような気がした。
そう刹那に伝えると彼女はポンッと一度手を叩いた。
「じゃさ、じゃあさ」
そう言って刹那の姿が消えたかと思うとなにやらごそごそと音がしてから彼女が帰ってくる。
「これ! 今度はこれにビームを当ててみてよ」
そう言って手に持っていたのは真っ赤なリンゴだった。
「これね、この前お母さんがおじいちゃんから送られてきたって持ってきてくれたんだけどお母さんったらいっぱい持って来ちゃって、一人じゃ食べきれなくてもてあましてたの。だから一個くらいいいかなって」
そうなのかな? と思わないでもなかったけれど、ボクも一体どうなるのか興味があった。
「いいよ」
そう言うと刹那はリンゴを窓の前に置いた。
さっきビームが出たときの感覚を思い出しながら頭の天辺あたりに意識を集中する。そうしているとさっきのムズムズした感覚がやってきた。
そのムズムズはだんだんと大きくなり、やがて最大になったその時それを解放してやる。
するとさっきと同じようにビームが照射された。その瞬間リンゴは一瞬パッと発光し思うと次の瞬間には跡形もなく消えていた。
自分の足下を確認してみるとそこには真っ赤なリンゴが一つ転がっていた。
「凄い! 凄い! ちゃんと中に入ったよ。これひょっとして大発見なんじゃない?」
その一部始終を見てはしゃぐ刹那。その様子はさっきのボクをとやかく言えないじゃないかと思えるくらいに子供だ。
落ちているリンゴを手に取ってみる。
中に蜜が詰まっているお陰かそれは見た目以上にずっしり重く、密度があるような感触がした。
ボクが矯めつ眇めつしていると、不意に刹那からある疑問が投げかけられた。
「ねぇ。それって食べられるの?」
刹那にそう訪ねられボクは少しハッとする。
ボクは食事というものをしたことがなかった。
人が生命を維持するために食物を食べること。固形の食物を噛んで飲み込むこと。そう言った知識はあるがその行為そのものをしたことは一度も無かった。
なぜならボクは空腹という物を感じたことがなかったし、実際今まで食べ物を摂取しなくても自分の身体機能に異常が出るようなことはなかった。
だからこそ今まで食事に興味が無かったし別段それをしてみたいとも思わなかった。
だが目の前にリンゴという食べ物がある今、別段興味も無かったはずのその行為に好奇心がムクムクと頭を擡げて来る。
ボクは手に持ったリンゴをジッと見つめた後、内心戦々恐々としながらゆっくりと口元に持って行く。
するとほんのりと甘い香りがボクの鼻をくすぐった。ボクが匂いという物を初めて体験した瞬間だ。
口を控えめに開きリンゴを囓る。
加減が解らず最初の内は文字通り歯が立たなかったがゆっくっり、徐々に徐々に噛む力を強くしていくと歯はリンゴに少しずつ沈んでいきやがてシャクリと快音上げた。
口の中のリンゴを口の中で転がし二度三度と咀嚼する。その度にシャリシャリと気持ちのいい音と甘い果汁と香りが口の中いっっっっっぱいに広がっていく。
ボクが初めて食事という事をした瞬間だ。そして同時に初めて強い感動を覚えた瞬間でもある。
気がつけばボクは二度三度とリンゴに食らいついていた。初めて味わう感動と幸福感に酔いしれていたと言ってもいい。貪り付くとは多分あの時のボクのことを言う。
ボクにとって初めての食事というのはそれほどまでに鮮烈で衝撃的な物だった。
ボクの中が幸福感に満たされていくこの感覚と感動。これを表す言葉をボクは知っている。
そう、こういう時はこう言うのだ。
「美味しい」
「ふふ、良かったね」
ボクの心からあふれたその言葉に刹那は笑顔を浮かべてそう言ってくれた。
「でも不思議だね~。こっちの物がパソコンの中に入っちゃうなんて、どういう仕組みなんだろう?」
それは……ボクにも解らなかった。
自分のこととは言え、それがどういう理屈や原理で行われているのかは存外分からない物だ。
例えば手を動かして絵を描いたり、足を動かして歩いたりするこを当たり前の様に出来るけど、それが具体的にどういう仕組みや理屈で出来ているのか理解している人は少ないだろう、それと同じ。
詳しい理屈は解らないけどなんかできる、そう言うことだ。
「そっかー残念、大発見だと思ったんだけどな~」
刹那はそう残念そうに肩を落としたが「まっいっか」とすぐに切り替えた。
「ねね、せっかくだから色々実験してみない?」
「実験?」
「せっかくこんなに面白いんだから色々試さないと損だよ。そのビームを色々な物に当ててみようよ」
「色々?」
「そう、色々。そうだな~例えば~」
そう言いながら彼女はいつかのように人さし指で顎の先をたたき出した。
彼女と交流するようになってそれなりに経ったから気がついたことだが、その仕草は刹那が考え事をするときの癖だ。
トントン、彼女の指がリズムを刻んでいく。そうして刹那が思案して暫くしてからその指がピタリと止まった。
「例えば~」
リズムを刻んでいた指で自身を指さして。
「私……とか?」
恐る恐ると言った感じでそう提案してきた。
「刹那を?」
「うん。枕とかリンゴじゃなくて私にビーム当てたらどうなんのかな~、て」
「やって、みる?」
ボクがそう訪ね返すと、刹那は少しだけ逡巡するような仕草を見せて。
「ゴメン、やっぱりやめとく」
まったのポーズで刹那はそう言った。
「興味はあるけどやっぱり怖い。どうなっちゃうか分からないし」
「やめ、とく?」
「うん、やめとく。……でも」
不意に刹那は自分の髪を一房弄んだ。
「私なんて、本当はどうにかなっちゃた方がいいのかもしれないけど」
不意に零れたその言葉の意味をボクは分からなかった。
「ああ、ごめん。変なこと言っちゃって、忘れて」
彼女はあははと笑顔を浮かべてそう言った。
「どうか、した、の?」
ボクはそう聞いた。何となく聞かなければいけない気がしたから。
「何でも無いよ。ただちょっと魔が差しちゃっただけだから」
魔が差す[まがさす]
ふと悪い心を起こす事。
と言うことは、今彼女は何か悪いこと考えたと言うことなのだろうか?
「ああ、もう。とにかくもうこの話は終わり! ほらそんなことより今はビームの有効的な使用方法について考えようよ」
刹那はそうやって強引に話を戻した。
それからはビームで何をしようかという話しで持ちきりだった。
刹那はあれをしよう、これをしようと沢山案を出してきたけれどその前に話していたかとは話題に上げなかった。
ボクも、もうそのことを聞かなかった。
その日の夜。刹那が眠りについてからこっそりあることを調べることにした。
思い浮かべるのは刹那のあの表情。
今日浮かべていたあの表情。その裏にはどういう意味があったのかボクは知りたかったから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます