92a ラスボス

「父ちゃん! 父ちゃん!」

 大会運営のアナウンスに従って人の波が動き始める中、多良橋たらはしの制止を振り切って一目散に人の波へと駆け込んだ餌。


「こらっ。ほら戻れ。先生が呼んでいるぞ」

 足早に立ち去ろうとするチョイ悪オヤジこと餌の父。その腕を取る餌の足腰は、三か月近くビーチサッカーで鍛え上げたおかげで父親のそれをはるかにしのぐ。

「痛ててっ。何て馬鹿力だよ。ほら、俺はお前のゴールを見たから大満足だ。もう行くから。予定があるんだよ」


「あれがジャカルタで自分を襲ったマフィアを手中に収めた噂のお父様ですか……」

「想像以上の『筋モノ』っぽさ。香ばしい」

 餌から直接『鳥の餌』事件を聞いていた松尾と飛島は、思わず顔を見合わせる。


「大学時代にコソ泥から光熱費と家賃をせしめたリアル『夏どろ』オヤジな……。うちみたいな場末の食堂に、あんなオッサンが来店したらと思うと」

 三元の家である『味の芝浜』は仕出し割烹なのだが、客層的に大衆食堂感が否めない。

 三元はこわいこわいと言いながら信楽焼の狸のような首をすくめていた。


「待って、待って。試合が中断したからちょっと話そうよ」

 餌が大声で父親を引き止める。

 このまま帰られるわけには絶対に行かないのだ。なぜならば――


「ちょいと待ちな。伴林太郎」

 足早にその場を立ち去ろうとした餌の父に、懐かしい声が届いた。


 ひた、ひた、ひた――。

 マフィア映画のラスボスをもしのぐ威圧感が、見えない壁となって餌の父にのしかかる。


「久しぶりだな。八年ぶりか」

 餌の母は、餌の父を見据えた。彼女の体躯は小柄だが、心情的には『見下ろした』と言うべきか。

 すっかりしょぼくれた顔しやがって。

 吐き捨てるようにつぶやくと、母は餌に退くように告げた。


「よくもあたしの可愛い息子にパパ活の濡れ衣を着せやがって」

 蛇ににらまれた雨蛙。

 餌から解放されたはずなのに、一歩も動けない。


「全く情けねえ男だな。てめえの子供に嘘つかせて金握らせて、ケーキや花を押し付けて」

 まさか太郎がパパ活なんてする訳無いって分かってたよと、母は餌の父を見すえる。


「あんた本当にマフィアの手先になっちまったのか」

「俺は、もうお前達と一緒にいた頃の俺じゃねえ。今の俺は、ハゲタカの死骸をむさぼる薄汚いハイエナに落ちぶれちまった」

「そんなしょぼくれた男がのこのこ出てきて父親面すんじゃねえ。結局マフィアに良いようにされたんか。猪口才が調子に乗りやがってこのざまだ」

「何とでも言え。太郎、母ちゃんの言う事を良く聞いて達者で暮らせよ」

 サングラスの下の目の色は、餌からは見えない。


「嫌だよ父ちゃん。もう一回三人で暮らそうよ。新子安しんこやすの家だって母ちゃんと二人じゃ広すぎるんだよ」

 餌はまるでジャカルタにいた子供の頃のように、父に再度しがみつく。


「止めな。あいつはあんたに嘘をつかせて母ちゃんをだました最低の男だ」

 餌の手がだらりと空を切る中、餌の父は会場出口へと歩き出した。だが、その足取りはわずか数歩でさえぎられる。

「お久しぶりです、H&Tキャピタルマネジメントの伴林太郎共同代表。こちらハゲタカの死骸です」

政木まさき十五じゅうご。伝説のハゲタカが、どうしてここに――」

 サングラス越しに、餌の父が呆然とつぶやいた。


※本作はいかなる実在の団体個人とも一切関係の無いフィクションです。

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