71 大人への階段

〈松尾下宿(千景宅)〉


 日本で一番ハードなコンクール――通称・生き地獄――本番前日のゲネプロ(通しリハーサル)を終えて帰宅した松尾に、落語研究会のグループSNSが入った。

「全く話が見えない。小柳屋御米師匠こやなぎやおこめししょうが僕に連絡を取りたいだと」

 松尾が三元さんげんに返信をすると、すぐに松尾のスマホが音を立てる。


『どうも松田さん。本番前のお忙しい所に済みません』

 小柳屋御米こやなぎやおこめは、開口一番かいこういちばん松尾に謝ってきた。


「いえ。どうされました」

『お宅の新入部員さんの件ですがね。津島のお坊ちゃんは菊毬師匠きくまりししょうの預かりで一件落着として』


「ええ、ええ。えええええっ?! 色川いろかわ先生に長津田ながつだ君を引き合わせるんですか。僕が」

 思わず大声を上げた松尾に、隣でスマホをいじっていた千景ちかげがぎょっと顔を上げた。


『本番が終わってからで構いません。色川先生の事ですから、きっと明日は会場に足をお運びになると思いまして。僕が落研さんに部活動指導員を紹介する段になって、引き受け手に恨まれるような状態でも困りますし』


「では部活動指導員の話も固まりつつあるのですか」

津島つしま家の坊ちゃんが落研に入った以上、部活動指導員の採用には理事長も首を縦に振る以外にはないですから。一並ひとなみ学園の設立には津島家も尽力じんりょくしたとのことですし、それに』

 松尾はごくりと唾を飲んだ。


『松田さんがこの間共演したオーケストラの財政危機も、津島つしま家が動いて事なきを得たぐらいです。日本の芸術・演芸界で津島家の果たした役割を考えればねえ。『国際コンクールで最年少優勝を果たした話題の新進ピアニスト・松田松尾』に津島家との繋がりが出来た事は、全くもって僥倖ぎょうこうですな』

 口ぶりこそ柔和ではあったが、松尾に否とは言わせぬ押しの強さである。


『色川先生は昨年退官されたばかりで若い世代との会話に飢えているのです。だから音楽が好きな長津田君を紹介しようと。松田さんも色川先生の長電話攻撃から逃れるチャンスでしょうよ。では、よろしくお願いしますね。松田さんにとっても悪い話ではないですよ』

 それきり一方的に通話が終わり、松尾はしばし目を虚空にさまよわせた。


「どうしたの」

 通話を終えた松尾の顔色が優れないのを察した千景が、心配そうに松尾を見つめる。

「僕も大人への階段を、否応いやおうなく登らせられる時が来たようです」

 松尾は大きく息を吸うと、連絡が入る一方の電話番号を表示した。



※※※



 元日吉ひよし大学文学部美学科の名物教授にして音楽評論家おんがくひょうろんか色川いろかわはとにかく話が長い。

 その上、一つ一つの単語を定義する所から話をするのが大好きだ。


「色川先生、詳しい事情は小柳屋御米こやなぎやおこめ師匠に」

 色川に長津田のメールアドレスと用件を手早く伝えると、松尾はすべてを丸投げしてさっさとベッドに立てこもった。


 その甲斐かいあってか、おとろえを知らぬ夏の日差しに顔をなぶられる頃には、松尾の目ははっきりと冴えていた。





「松尾ちゃんおはよう。今日は朝からパスタなの」

「カーボローディング用です」

 物音に気が付いたのか、いつもは目覚ましにたたき起こされるまで目の覚めることのない千景ちかげが松尾に声を掛けた。



「今日は『落研ファイブっ』も本番ね」

「本番日程さえかぶらなければ、絶対に行きたかったのですが」

「仕方がないわよ。松尾ちゃんだって一世一代の大舞台なんだもの」

 深皿にパスタを移しつつ、松尾はそれでも一緒にいたかったとつぶやいた。


※本作はいかなる実在の団体個人とも一切関係の無いフィクションです。

※一部改稿(2024/6/7)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る