79 激走

【『生き地獄』(コンクール)ファイナル 午前十時二十六分】


 プロコフィエフのピアノ協奏曲第三番はいよいよ終盤。

 すでにホール全体がトップバッターである松田松尾まつだまつおの勝利を確信していた。


〔色〕(この演奏を残りの子たちが超えられるか――。いや、この演奏を超えられるプロは世界広しと言えどそうはいまい)

 独特なグリッサンドで知られる難所に差し掛かった松尾は、全身を鞭のようにしならせながら駆け上がる。

〔長〕(すっげえ)

 長津田も、常の彼にはあり得ないほど子供のような一言を心中でつぶやいた。



 喧嘩神輿けんかみこしに水をぶっかけつつ豪壮に神社へと駆け上るようなやり取りをしながら、ピアノとオーケストラは混然一体となって会場中を静かな熱狂へと巻き込んでいく。

 そして、松尾は『落研ファイブっ』と自身の勝利に捧げるように、最後の一音を鳴らし終えると手を高く空へと振り上げる。


〔色〕(ああ、何と言う事だ。私が今まで見聞きしてきた音楽とは何だったのか。これぞ天の音。これぞ地の音。松田松尾まつだまつお君。君は一体なのだ)

 放心したように椅子に座り込む色川とは対照的に、長津田は観客たちと共に立ち上がって拍手を送る。

 ロックやパンクのライブであれば、間違いなくダイブや失神者が出るであろうクラスの熱狂の中、松尾は観客席に向かって深く頭を下げる。

 会場の電光時計は、午前十時二十七分を告げていた。



〔松〕(三崎口みさきぐち行き快特に乗れれば何とか間に合う)

 深々と神妙な顔でお辞儀をする松尾がそんな事を考えているとはだれ一人思わず、会場は総立ちで松尾に盛大な拍手を送っている。


〔指〕「松田君、素晴らしかった。やはり君は大一番にめっぽう強いね」

 止まらない拍手に内心焦りつつ応じてようやく舞台袖に入った松尾に、指揮者がねぎらいの言葉を掛けるも。

〔松〕「先生のおかげです。本当に、あのちょっと、お手洗いに」

 松尾は下腹部を押さえて一目散に控室方面へと駆け去った。


〔指〕「あの松田松尾君でさえ、さすがに相当なプレッシャーだったのかね」

〔ス〕「そりゃまだ高校一年生ですもの。少しは子供らしい面が見えてかえって安心しましたよ」

 お手洗いに駆け込んだ松尾をほほえましく見送ると、二人は次なるコンテスタントを迎え入れた。




〔松〕(間に合え、間に合ってくれ)

 二十七分ジャストでプロコフィエフのピアノ協奏曲第三番を弾き終え、礼をして舞台袖にはけて二十八分。会場を出て駅まで全力で十分、それから――。


 お手洗いを口実に会場を飛び出した松尾は、タキシード姿のまま人気の少ない大通りを駅方向へと全力で走り出す。

〔松〕「青になって、早く。お願い」

 タキシードの下に着こんだ赤いうどん粉病Tシャツが肌にまとわりつくのを感じつつ、いらつきながら信号待ちをしていると。

〔松〕「えっ、何で?!」

 大きなクラクション音と共に、白魚のような手が松尾を白いスポーツカーに飲み込んだ。


※本作はいかなる実在の団体個人とも一切関係の無いフィクションです。

(2024/8/31 加筆修正『勝利へ』より改題)

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