46 普通のオジサンに戻りたい♡

 政木まさき家の朝は早い。

 外資系投資会社の元CIO(最高投資責任者)・現無職の政木十五まさきじゅうごは、えさも真っ青のショートスリーパー。

 ミトコンドリアが異常なほど活発に働いているらしく、朝も早よから包丁をリズミカルに操っている。


〔父〕「五郎君起きて。ご飯だよ♡」

〔仏〕「これがこれから毎日続くのかよ。地獄だ」

 目覚まし時計は朝四時を指している。

 日曜日。久しぶりに部活も無い完全なる休日だ。


〔仏〕「一人で食ってろ」

 仏像はタオルケットをかぶると二度寝を決め込んだが――。


〔父〕「五郎君。ダディ特製のフレンチトーストだお♡」

〔仏〕「熱い熱い熱い熱いっ。何すんだっ」

 タオルケットをはぎ取られ、出来立てのフレンチトーストを口元にあーん♡された仏像は、思わず飛び起きて猛抗議もうこくぎした。


〔父〕「だって五郎君マミー特製のフレンチトーストが大好きだったでしょ。メープルシロップで小さなお手々をベタベタにして」

〔仏〕「いつの話だよ」

 ため息をついて父を見やると、目に悲しみをたたえた中年男がそこにいた。



〔仏〕「で、フレンチトーストのどこに包丁を使った。とんとんとんとん夜明け前から何のつもりですか」

〔父〕「リズム運動的な」

〔仏〕「何にも切らずにとんとんやってたの。迷惑すぎでしょ」

 だって、と父は肩をすぼめて上目遣いで仏像を見る。

 ちなみにかわいらしさの欠片もない。




〔仏〕「平常心でいられないのは分かるんだけど。頼むから毎日朝四時に俺を起こして、朝飯に付き合わせるのは止めてくれる。ずっとこんな感じなら、俺マミーの所に家出する」

 仏像は、不満もあらわに父を見た。


〔父〕「そりゃ無理だ」

〔仏〕「分かってる。マミーの家はトロントだし飛行機代だって高いし、どうせ仕事だし」

〔父〕「いや、そう言う事じゃなくてだな。あのな、落ち着いて聞いてくれ」

 ただならぬ父の様子に、仏像は大きく深呼吸した。


〔父〕「五郎君にね、弟が出来たんだ」

〔仏〕「はああああっ?! まさか、マミー」

〔父〕「もう何も言えねえ」

 父親はスマホを仏像に差し出すと、ダイニングテーブルに突っ伏した。


〔仏〕「ハイスクールの同級生の高校教師と交際五か月で『出来ちゃった』と。はいそうですかオメデトウってなるかああああっ」

 仏像も父よろしくダイニングテーブルに突っ伏した。


〔父〕「ダンボールごと会社から追い出された直後にこの怪文書かいぶんしょ。ダディはこのダブルコンボで、完全にハゲタカ人生から足を洗うって決めたんだ」


〔仏〕「足を洗う洗うとは言うけど、まさか本当に毎日が夏休みのアーリーリタイヤコースに突入する気なの。さすがに早すぎでしょまだ四十七歳だよ」 


〔父〕「元々ハゲタカ生活に飛び込んだのも、若いうちにガンガン稼いで元気なうちにリタイアして、人生エンジョイ組に転職するつもりだったからだし」

 父はごくりとコーヒーを飲んだ。


〔父〕「だったんだけどね五郎君。ダディにまたまたショッキングな出来事が起こりまして」

〔仏〕「まだあんの」

 仏像はフレンチトーストの空き皿を洗いながら父親にたずねた。



〔父〕「ブラックカードが切れなくなる事に気が付きまして」

〔仏〕「ああ無職だもんな。さっさと手続きしないと、電気水道ガス全部止まるよ」

〔父〕「何でそんなに冷静なの五郎君。ショックだよ。ダディは懸命にハゲタカ(※)化してお金を作ったのに、無職ってだけでカードが使えないんだよそんなのってアリ」


〔仏〕「ぼやぼやしてるとブラックカードからブラックリスト行きだ」

〔父〕「今のダディが使えるブラックカードは、スーパーのポイントカードだけ」

〔仏〕「無職に優しいEDLPエブリデイ・ロープライスのスーパーな」

 仕立ての良い長財布を開きながら、父はがっくりと肩を落とした。


〔仏〕「そう言うことがあるから、早めに転職するなり起業するなりした方が」

〔父〕「ダンジョン配信と美容は儲かるって。インスチャグラミュっでイケオジ美容法ってどうかな」

 ちなみに中身はともかく、見た目と経歴はロイヤルストレートフラッシュ級の渋イケオジである。

 実に腹立たしい。


〔仏〕「どうせやるなら金融系の情報発信は。餅は餅屋って言うでしょ」


〔父〕「絶対拒否。ダディはハゲタカ稼業かぎょうとはすっぱり手を切るの。と言う訳で、五郎君。明日山登りしない」

〔仏〕「海外生活が長すぎて日本語が怪しくなっちゃったの。『と言う訳で』の前後が全くつながってない」

 呆れたようにセミロングヘアに手をやった仏像とは対照的に、父はいたって本気であった。


〔父〕「四国にお遍路へんろに行こうとして宿泊情報を調べたんだけど満員でね」

〔仏〕「本当に四国にお遍路へんろに行くつもりだったの」

 父はこくりとうなずいた。



〔父〕「で、四国はまたの機会にするとして。ダディはハゲタカから普通のオジサンに戻るために、一度心をしっかり清めようと考えた」

〔仏〕「リストラに元嫁の妊娠発覚のダブルコンボが一日で来たんじゃな。弱った所に」

〔父〕「五郎君。大山阿夫利神社おおやまあふりじんじゃって知ってる」

 落語好きにはおなじみの神社の名前を、父は実に神妙そうに口にした。



〔父〕「父と息子、二人で夏の大山詣おおやままいり。素敵なひと夏の思い出になるじゃないか。今まで仕事にかまけて五郎君を遊びにも連れていけなかったから、罪滅ぼしもかねて」


〔仏〕「罪滅ぼしのつもりなら、一人で行ってほしいんだけど。俺は朝の四時から飯を食うライフスタイルじゃないし。暑い中山登りをするぐらいなら、家で勉強の遅れを取り戻したいんですけど。それに明日はそもそも学校だよ」


 むうと口をとがらせた父の表情が多良橋たらはしそっくりで、思わず仏像は深いため息をついた。


〔父〕「今なら宿に空きが二部屋だけあるんだよ。値段も無職に優しいし温泉だってあるし、良いでしょ」

 きらきらとした目でスマホを差し出す父に取り合わず、仏像は眠そうに生返事をした。


〔父〕「鶴巻中亭つるまきあたりていから神奈川県下をのぞむだって。絶景だよね。ここに今夜五郎君と泊まって、夏の朝日を浴びながら父子二人で大山詣おおやままいり」


〔仏〕「一人で行ってよ。俺二度寝する」

〔父〕「五郎君、本当に行かないの」

 父の懇願こんがんに負けず自室でタオルケットをかぶっていると、三元さんげんから急報が入った。



【シャモが家出した。シャモがしほりちゃんから逃げた可能性を考えて、藤巻ふじまき家と警察には情報を伝えていないらしい】


〔仏〕「シャモ、正念場しょうねんばだぞ」

 朝四時に起こされた仏像は、今度こそ二度寝した。


※本作はいかなる実在の団体個人とも一切関係の無いフィクションです。


※ハゲタカ 企業買収ファンドの一部手法/組織にたいする批判的なニュアンスの込められた呼称。

本作では外資系投資会社のCIO(最高投資責任者)であった政木十五まさきじゅうごが、自らを自虐的に『ハゲタカ』と呼んでいる。


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