57-2 クライスレリアーナ

〈三〇四号室 下野しもつけ/飛島〉


〔下〕「飛島君、俺まっつんの事すごく応援したいんだけど。その『生き地獄』ってコンクールを見に行ったらダメなん」

 スポーツバッグから着替えを引っ張り出しながら、下野しもつけが飛島にたずねる。


〔飛〕「僕も見たかったんだけど松田君はシード扱いで三次予選からのエントリーなの。それで三次予選以降は全席売り切れちゃった」

〔下〕「だったら寄せ書きとか。でもまっつんはコンクール後の事を思い出したくないって事なんよな」


〔飛〕「多分ね。マイアミの後に何があったのかを知っているのは、坂崎先生と仏像さんぐらいだと思う。去年の冬に松田君のSNSがいきなり鍵垢になっちゃって。その頃に何かあったのかもね」

 飛島は、目線を床に落とした。



〈三〇二 服部/仏像〉



〔服〕「粟島あわしま監督から、太もものケアをするから風呂上がりに食堂においでって言われた。だから先に寝てて」

〔仏〕「一人で行くのか。まずいだろ。言われてみれば、あいつが服部君を見る目がちょっと(※2)」


 大臀筋だいでんきんトレーニングとえさラップ騒動で粟島あわしまを『ヤバい人』認定した仏像は、あからさまに警戒の声を上げた。


〔服〕「でも粟島あわしま監督に悪気がなかったら、多良橋たらはし先生の顔に泥を塗るし」

〔仏〕「矮星わいせいの面なんて最初っから泥まみれなんだから気にすんな」


〔服〕「政木まさき君って多良橋たらはし先生と本当に仲良いよね」

〔仏〕「ただの腐れ縁。念のため矮星わいせいに話通すから来て」

 服部を連れた仏像が、多良橋の部屋のドアホンを押す。


〔多〕「どうしたゴーちゃん夜這よばいかな」

 インターフォンに向かって冗談を飛ばしながら多良橋たらはしがドアを開けると、仏像が深刻そうな顔で立っていた。


〔多〕「粟島監督の、あれねえ」(※3)

 多良橋は大臀筋だいでんきんに固執する粟島の姿を思い起こす。

 一しきり仏像の言い分を聞くと、深刻そうな顔の仏像と服部を交互に見比べた。


〔多〕「勘ぐりすぎだと思うけど。あ、そうだ服部君が僕と同室になろう。食堂には僕が一緒について行って、ケアの視察しさつをするって事でどうだい」

 服部はモアイのような目元を細めてうなずいた。



※※※


 風呂を済ませて食堂に戻った一同の耳に飛び込んだのは、『生き地獄』の三次予選の映像に交じって響く鈍いうめき声である。


〔多〕「ゴールドフィンガー粟島あわしま監督のスポーツマッサージ教室開催中だ」

 多良橋たらはしは苦笑しながら天河てんが長門ながとを手招きした。




〔仏〕「疑った俺が悪かった。粟島あれは本物だわ」

 グラスに水をなみなみと入れた仏像が、松尾の勇姿を見つめる下野しもつけ達のもとにやってきた。


〔仏〕「何が良くて松尾はこんな曲を弾いてるんだ」

〔飛〕「課題の現代曲だから弾かざるを得ないんです」

〔シ〕「おっ、この曲はカッコいい」

 シューマン作曲のクライスレリアーナに曲が変わった途端に、男子高校生の群れが前のめりになった。


〔仏〕「よほどポカしないかぎり、松尾はファイナルに行けるんだろ」

〔飛〕「まず間違いなく」

 飛島はそれきり画面の松尾にくぎ付けになった。




〔服〕「一人何分なのこれ。えっ、一時間?! 全部覚えて弾くんだね」

 服部がゴールドフィンガー粟島あわしまのケアから解放された頃には、画面の松尾はクライスレリアーナの第七曲を弾いているところだった。


〔天〕「何で国際コンクールに優勝した人が、わざわざ国内のコンクールを受ける必要があるの」

〔飛〕「『生き地獄』の優勝者は留学費用がかなり安くなるので。それに国内のプロは『生き地獄』を通ってナンボですから」

 それで七組(海外進学コース)なんだと、飛島の説明を聞いた下野しもつけは少し寂しそうにつぶやいた。



〈三〇二号室〉



 松尾の勇姿を大画面で見終えた仏像が一人きりの部屋に戻って深い眠りについた頃、ドアホンが短く何度も鳴った。

〔仏〕「うるっせえ。出る、出るから。誰だよ」

 寝ぐせのついた髪もそのままに仏像がドアチェーンを掛けたままドアを開けると、一人の男がドアの隙間に足を差し込んだ。


※本作はいかなる実在の団体個人とも一切関係の無いフィクションです。


※2「言われてみれば~ちょっと」および※3 本行以下三行分を加筆(2024/3/17)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る