麗しのパトロン
15 午後八時の美人女医
〔仏〕「今夜八時からの【みのちゃんねる】を絶対見ろだって。どうする」
時刻は午後七時五十五分。
お互い一人ぼっちで夕食を摂るのも味気ないからと松尾を家に誘った仏像は、二人分のコーヒーを注ぐ手を止めた。
〔松〕「結局まだ一度も見たことがないんです」
〔仏〕「一度ぐらいは見てやったら。時間の無駄遣いの見本みたいなチャンネルだが、あれで十万人以上のチャンネル登録者がいるんだから世の中広い」
仏像は静かに『
※※※
〔シ〕『はいこんばんは『みのちゃんねる』ですーっ。本日は【みのちゃんバクイケ
午後八時の時報と同時に始まった【みのちゃんねる】。
本日はコラボ回とあって、再生回数をいつも以上に稼ぎたいシャモは手あたり次第に知り合いに視聴するようにと念押ししたのである。
そして、真っ先に声を掛けられた
〔餌〕「こう言う時の美人〇〇って
〔三〕「
味の
〔ナレーション〕『ナンパ橋のたもとでやさぐれるみのに舞い降りた女神。何と彼女は』
〔三/餌〕「CMかよーっ」
十五秒間転職サイトのCMを大人しく見ると、明らかに目新しい高級ビルがアップになる。
〔シ〕『はい、本日のスペシャルゲスト。みのチャンバクイケ
ドアップになった『超美人女医』に
〈仏像家リビング〉
シャモを出迎える
〔千〕『みのちゃんねるさんはVIOラインも未処理。なるほど』
〔仏〕「何がなるほどなんだよ。どうして
〔松〕「絶対
松尾が改めて固くVIOラインの死守を誓う中、画面の中の
〔千〕『本日はVIO脱毛体験をされると
〔シ〕『ちょ、ちょちょっと待ってください。誰からそんな事を『伺った』のでしょう。VIO脱毛体験を映像化すると【みのちゃんねる】が凍結されます。ビーチサッカー用に両足の脱毛体験のはずですよね』
〔千〕『大丈夫です。医療用映像のプロをこちらで用意いたしましたので、みのさんは大船に乗った気持ちでゆったりと』
〔仏〕「何が大丈夫なんだ。まるで話がかみ合わねえ。シャモの鬼母、シャモには細かい事を言わないまま話を進めたんじゃ」
〔松〕「シャモさんは成人済みですから、本当は全部承知の上でこの演技かもしれません。それはそうと、明日からシャモさんのあだ名がVIOさんになるでしょうね。一家の
二人は改めて、千景にVIOは頼まないと決意を新たにした。
※※※
〔餌〕「明日からVIOさんですね」
〔三〕「VIOさんっ(笑)。金の亡者にプライドはねえのか」
味の芝浜の座敷席では、さっそくシャモのあだ名がVIOさんに変更となっていた。
〔千〕『それでは
〔シ〕『あの、つかぬ事をうかがいますがこちらの
シャモがカウンセリングルームに大きく張り出された四枚のパネルを指さした。
〔千〕『当院での顔出し無料モニターを体験された、五十代後半の男性です。こちらがフォトフェイシャル初回
〔餌〕「まぎれもない
あっさりと状況を受け入れる
〔千〕『こちらが一回目の施術後』
〔餌〕「何とはなしにこざっぱりしてきているような。髪も染めたか」
〔千〕『こちらが二回目の施術後のお写真です』
〔三〕「これはあの『吾輩は
〔千〕『そしてこちらが二回目の施術後三週間経過時のお写真です』
〔餌〕「何でカウボーイスタイルに変更した。方向性が定まってない」
〔シ〕『興味深い写真をありがとうございます』
〔餌〕「シャモさん、かなり心理的ダメージを受けていますね」
チーズスナックの袋をパーティー開けしながら
☆
見苦しさのあまり『みのちゃんねる』から離脱した仏像が隣を見ると、燃え尽き症候群のごとく松尾が肩を落としていた。
「男達のうめき声とムダ毛の上に千景おばさんの生活は成り立っている。わらしべ長者ならぬVIO長者。それが千景おばさん。そして僕はVIO御殿にかくまわれた無力な存在」
「ムダ毛錬金術か。その金が例の
「僕の
「どうせ親も帰ってこないし俺は良いけど、
「僕の快適横浜ライフを支える金の出どころは『わらしべ』。そんなのって」
「早まるな。親御さんからの仕送りだってあるだろう。それに
「それじゃ、コンプレックス御殿って事? もっと帰りたくない!」
うわあっと頭を抱える松尾を仏像は見下ろした。
「泊まっても良い。ただし、
クローゼットから黄緑色のTシャツを引っ張り出して松尾に投げ渡すと、松尾は大人しく着替え始めた。
「風呂には入って来たんだろ。俺まだだからちょっと入ってくる。部屋で適当にごろごろしてて」
仏像の部屋に一人取り残された松尾は、ベッドに顔をうずめてスマホの電源を切った。
仏像が自室に戻ると、松尾はベッドに顔をもたれ掛けさせて眠りこけていた。仏像のお下がりの眼鏡も外した寝顔をじっと見ると、仏像は
いつの間にやら起きていたらしい松尾が、とろんとした目で画面を見ている。
「
「忙しいみたい。これも『宮戸川』」
「小柳屋御米版。一緒に見るか」
仏像は松尾と一緒にベッドに腰掛けると『宮戸川』の続きに耳を傾ける。
「珍しいな、こんな時期に」
「梅雨入りにはいくら何でも早すぎます」
仏像がわずかに窓を開けると、叩きつけるような雨粒が部屋の中に入った。
「ゲリラ豪雨級だな。
「帰る気ないし連絡来ないし」
「こら、許可をもらえなかったら泊まっちゃダメだぞ」
松尾が生返事をする間に、高級マンションのサッシを揺らすレベルの雷が引っ切り無しに落ち始めた。
「うおおおっ! おへそおへそっ!」
雷が鳴るたびに、松尾が謎の呪文を唱えながら仏像にしがみついた。
「ガキかよ! 何その『おへそおへそ』って」
「雷が鳴ったら『おへそおへそ』です!」
震えながら仏像にしがみついた松尾は、『おへそおへそ』と謎の呪文を唱えつづけた。
「あ、今スゲー近くに落ちた。いい加減雷に慣れろ」
「おへそおへそ」
「暑い、くっつくな」
「おへそおへそ」
ひたすら震えながら仏像にしがみ付く松尾は、もはや『宮戸川』を視聴している事など頭からすっ飛んでいる。
画面の中の小柳屋御米師匠が深々と礼をするのに合わせ、しがみ付かれたままの仏像はDVDをデッキから取り出した。
「
「まだ入りません。仕事帰りに飲んでるかも。たまに午前様になるから」
「こんな雨の日に? 先生大丈夫か」
「タクシーで戻ってくるでしょうから。絶対に帰りませんよ。あの汚い『わらしべ』御殿から脱出する手はずを整えないと。あっ、おへそおへそ」
「だからくっつくな! 雷に慣れろ」
雷鳴が遠くなりようやく松尾から解放されると同時に、仏像のスマホが着信音を奏でた。
『
「松尾、
「あ、電源が落ちてた。何でだろう」
確信犯の松尾は、スマホを取り出して電源を入れ直した。
『帰宅した叔母さんから、松田君がいないしスマホに連絡しても全然繋がらないって坂崎先生に連絡があった。とても心配している。すぐに連絡して帰りなさい』
「嫌です。政木先輩の家に泊まるとは連絡を入れたはずです」
『許可は取っていないよね。まずは連絡を返しなさい』
『だって、VIO御殿。『わらしべ』長者」
『何だそれ。良いからすぐに連絡を入れなさい。分かったね』
松尾がスマホを見ると、着信が二十件以上入っていた。
「電話しろ。泊めねえからな」
しぶしぶうなずくと、松尾は
※※※
松尾が仏像に引きずられるようにタクシーに乗せられてマンションにたどり着くと、千景は雨の中車寄せで待っていた。
「どうしていきなりあんな事したの、
仏像の背にしがみ付く松尾に
「
「それが何か」
仏像の言葉に
「『わらしべ』長者、VIO、コンプレックス御殿……」
「【みのちゃんねる】は僕らの部活の先輩なんです。今日の配信を見ていたら、松田君がかなりショックを受けてしまったようで」
松尾はぶるぶる震えながら仏像にしがみついた。
「松尾ちゃんが無事で良かった。あなた、
※※※
「そうか、松尾ちゃんは私の仕事に疑問と嫌悪感を持っちゃったのね」
千景はカモミールティーを三人分注ぐと、松尾の目の前に腰掛けた。
「私は自分の仕事を本当に大切に思ってるし、人から感謝される仕事だと思ってる。そしてその対価を正当に受け取っているだけ。VIO脱毛だって、衛生上も大切な役割があるのよ」
「人のコンプレックスを刺激してお金儲けをしているじゃないですか」
松尾は仏像のTシャツの裾をつかんでうつむいている。
「コンプレックスが刺激される時点で、その人にはまだ見ぬ真の姿があるの。そうでなければ美容外科の門は叩かない。私は施術を受けて人が変わったように明るくなったり自信を持ったり、夢をかなえた人をたくさん見てる」
松尾は納得がいかなそうにじっと千景を見る。
「私の仕事は、人の自尊心を回復させてイキイキと暮らす事が出来るようになるお手伝い。松尾ちゃんのお母さんが心から患者さんの自尊心を回復させるように、私は形から患者さんの自尊心を回復させるの。ちょうどコインの裏表ね」
「それにしても、おむつを替えていたはずの松尾ちゃんが、いつの間にかこんなに大きくなって。十五歳。物事を何でも難しく考えてしまう時期なのよね。
それでも家出はしちゃダメ。いきなり泊るって言われても政木君だって困るわ。前もってちゃんと誰とどこに行くのか、どこに泊まるのか話しなさい。お友達と一緒に外をふらついたり、ネットカフェで夜を明かしたりするのは駄目よ。それから明日学校に行ったら先生方にしっかり謝りなさい。とても心配されていたのよ」
千景はじっと松尾を見た。
「
一しきり話し終えた
※※※
「それにしても【みのちゃんねる】さんが松尾ちゃんの部活の先輩だったなんて。落語研究会って不思議な部活ね」
「そうですね。ちなみに無料体験の五十代男性は、元の
「そうそう、『メジャーデビューへの道』をテーマに、密着ドキュメンタリーを作るって仰っていたわ。無料体験に申し込めば、無料で自分の宣伝が出来るって。変わった人ね。それにしても人のご縁って本当に不思議。まるで昌華さんも政木君もみのさんも、松尾ちゃんが私につないだみたい」
車寄せにたどりつくと、千景は仏像にそっと三万円を握らせた。
「タクシー代」
「えっ、ワンメーターの距離ですよ」
千景が差し出した金額は、タクシー代としては余りに高額に過ぎた。
「この先松尾ちゃんがここにいたくない時に逃げ込むとしたら、政木君の家だと思うの。食費と迷惑料込みだと思って受け取って」
「分かりました。外にふらふら出ないように家で預かります」
「ありがとう。遅くまで付き合わせてごめんなさいね」
「こちらこそ、済みませんでした」
仏像は千景に頭を下げてタクシーに乗り込んだ。
※本作はいかなる実在の団体個人とも一切関係の無いフィクションです。
(2024/7/12 ☆以降を大幅加筆修正)
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