第118話 追憶

 遥か昔、まだ世界が閉ざされていなかった頃。神々が自由に天空と大地を行き来し、大地には神の力があふれていた。天空に住む神々は空の宮殿から地上を見守り、時折大地に降りて人々や獣達と戯れて遊んでいた。


 世界のことわりに縛られず混沌に住む自分もまた、時々片割れが創った大地に降りてさまざまな場所を巡っていた。生き物達が暮らす大地はまだ物珍しく、人に紛れて街を見に行くこともあった。


 人間の姿に身をやつしている時、自分はロキと名乗っていた。

 黒い髪はそのままだったが、赤い眼は人の目を引きすぎる。多くの人間がそうであるように、瞳を青くして衣服も簡素なものを身につけるようにしていた。


 それでも素の自分からさほど変えていない顔立ちは、冷たく感じさせるものの見る者の興味をひくには充分なようだった。旅の流れ者のように振る舞い、余り目立たぬように顔を隠し人の間で長くいようとはしなかった。

 その日も気まぐれで訪れた街の酒場で絡まれそうになり、面倒に巻き込まれないよう森へ逃れて来たところだった。



「誰かいるの?」



 木陰で休もうとしていた時、森の奥から声がした。

 まだ若い女の声だ。


(こんな森に女が?)


 疑問に思って声がした方へ首を突き出すと、思ったよりも近くで蜜色のゆるい巻毛が跳ねるのが見えた。



「きゃあ、びっくりした!貴方誰?」



 バサバサバサと羽ばたきの音がして、一斉に集まっていた鳥達が飛んでいく。鹿やウサギなどの動物達も驚いて森の奥へと走り去っていった。

 残された草むらの上で一人の女性が座り込んでいる。


 エメラルド色の瞳が見開かれ、驚きに紅潮した頬を両手で押さえていた。



「あーあ、動物達が逃げちゃったわ……。ねえ、貴方どこから来たの?」



 胸を撫で下ろしながら立ち上がる彼女を見つめて、ロキは立ち尽くしていた。



「初めて見る顔ね。この街の人じゃないでしょう?」


「そうだ……」


「私はレイリィ。貴方は?」


「ロキ」


「よろしくね、ロキ」



 にっこりと笑顔を見せる彼女の姿に釘付けになっていた。

 無邪気に自分に微笑みかけるレイリィに、心がざわざわと揺れる。

 その日初めて自分に恋情というものがある事を知った。


 まだ、お互いの事を人間だと信じていた頃の出来事だ。






 それから自分はレイリィと逢うため幾度も森に通った。彼女は森の近くに住んでおり、いつも森の動物達と遊んでいるようだった。

 たまに街へ森の薬草を売りに行っているところをみると、薬師の家の娘かもしれない。自分も彼女を手伝って薬草を運んだりするようになった。


 彼女は街の人々にとても人気があり、よく声を掛けられていた。彼女の売る薬草はよく効くと街では重宝されており、時々遠くの街からもわざわざ買いに来る客もいるようだった。

 彼女は誰ともすぐに打ち解け、ニコニコとよく笑い美人で気立てが良いと評判だったが、誰もその素性をよく知る者はいなかった。


 多少気にはなったが、彼女のそばにいれるのであればどうでもよいことだった。彼女の方も、得体の知れない流れ者に見えるであろう自分のことを詮索することもなかった。

 何か秘密のある者同士、心地よい関係だったのかもしれない。


 二人が恋仲になるのにさほど時は必要ではなかった。






 幾月か経った頃、森を訪れるとレイリィが暗い顔をして俯いていた。

 いつものように彼女の周りを森の獣達が囲んでいる。その毛皮を撫でながら、彼女は溜息を幾度もついた。



「どうした?」



 心配げな言葉に、レイリィが自分を見上げる。

 いつも曇りのない笑顔を見せていた彼女だったが、その日は違っていた。

 困ったような悲しんでいるような、そんな複雑な笑い方をしてみせる。



「迎えが来るみたいなの」


「迎え?誰の?」



 彼女は元々この街に住んでいるのではなかったらしい。



「父……みたいな人。帰って来いって」


「何処に?ここから遠いのか?」


「そう。凄く遠いの。もう帰って来れないかもしれない」



 ぞくりと背中を冷たいものが流れる。

 彼女を失うかも知れない。

 その事に初めて恐怖を感じた。



「場所を教えてくれ。逢いに行くから」



 この世界の何処にいようとも、自分ならば追いかけて行ける。そう考えて彼女の手をとり尋ねた。

 だが、レイリィはただ首を横に振った。



「無理。遠すぎるわ」


「大丈夫だ。何処であろうと必ず追いかける」



 真摯な言葉に緑の瞳が喜びの色を浮かべる。

 しかし、それでも彼女が頷くことはなかった。



「どうして教えてくれない?」



 言いつのろうと身を乗り出した時、何処からか狼の遠吠えが聞こえた。森の奥から急に激しい風が吹き始める。

 レイリィが驚いたようにその手を振り解いた。



「隠れて!」



 訳のわからぬまま木の陰に押し込まれる。

 彼女はその木を背にして森の奥を振り返ると、風を受けながら声を張り上げた。



「スコル!ハティ!」



 森の奥から姿を現したのは、巨大な二匹の狼だった。

 白銀に輝く毛並みに漆黒の瞳。

 威厳を漂わせた美しいその姿を見て驚いた。

 ——神獣フェンリル。


 神獣の中でも飛び抜けて強大な力を持つ神の従獣だ。

 そしてフェンリルの仕える神は太陽の女神アイレイリア。


 二匹のフェンリルは彼女の前まで来ると、身を低くして頭を下げた。



『主、天空へ戻って。こんなに長く空の宮殿を開けるなんて今までなかった』


『アルカ・エルラに怒られる』



 レイリィ——アイレイリアは二匹の頭に手を置き頼んだ。



「もう少しだけ待って。あと少し」


『もう待てない。月の神セレネスも困ってる』


『僕等が怒られるよ』


「ごめんなさい。それでも、もう少しだけ」



 幾度かの押し問答の後、二匹の狼は再び森の奥へと走り去った。

 残されたレイリィは自分の隠れる木の方へ向き、悲しげな笑みを見せた。



「ごめんなさい」



 木の陰から出て来た自分は、何も言うことが出来なかった。

 知りたいと思った彼女の秘密は、知らなければ良かったものだった。

 蜜色だった彼女の髪は、輝く黄金の色に変わっていた。

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