第116話 霧の牢獄
エルディア達よりほんの少し先を進んでいたフェン達は、濃い霧の立ち込める視界の悪い中を走っていた。既に今いる場所は神殿の地下ではない。神殿を入り口とした別の次元、光と闇に分られる前の混沌の満ちる世界だ。
そこは神々の住む天空に近く、そして運命と時の女神達の干渉も受けない、時の流れぬ世界だった。
太陽の女神はただ一人で、この止まった世界に眠っている。大地では何千年の時が経とうとも、ここでは全てが停止している。彼女の眠りを妨げるものは何もなかった。
(こんな所で何年も……)
フェンはかつての主の姿を思い浮かべる。
艶やかな金髪に透き通るエメラルドの瞳。ほのかに薄紅色をした頬と、笑みをたたえた唇。優しげに自分を呼ぶ声。いつも彼女の周囲には人や獣達が集まり、笑い声が満ちていた。
誰よりも輝かしい太陽の女神がたった一人で眠る場所。ここはあまりにも静かすぎる。
まるで牢獄のようだと彼は思った。女神が自身に課した罰なのだろうか。
自分の従獣が犯した罪を償う為の。
唇を噛んで、フェンは霧の先を見据えた。
力の気配をたどり追いかけるうち、前方に黒い人影が霧の向こうで揺らめいているのを見つけた。
「待て!ガルザ・ローゲ!」
レオが大声で叫んだ。
何かを探すようにゆっくりと歩いていたガルザ・ローゲは、仕方なく足を止めて振り返る。
「邪魔をするな」
冷たい顔に若干の苛立ちを浮かべて、彼は神獣達に向き直った。
「女神の眠りを妨げるな」
ヘイロンの静かな威圧のこもる言葉に、黒衣の神は首を傾げた。
「たかが従獣ごときが私を止められるとでも?」
揶揄するように薄く笑う。その言葉に答える事なく、代わりにニンギルスの放った業炎が彼を襲う。だが、その高温の白い炎は彼の周囲を取り巻いたかと思うと、右手の一振りでかき消すように消えた。
一瞬で攻撃を抑え込むその力に緊張が走る。予想はしていたものの、神とはこれほどまでに強大なものなのか。
彼等の反応にガルザ・ローゲは少しだけ呆れたように溜め息をついた。その赤い瞳をフェンが睨みつける。
「お前の目的は何だ?女神の結界を壊し魔物をこの世界に呼び込み、再び混乱に陥れる事なのか?何故そんな事をする必要があるんだ」
神のくせにと詰るフェンの問いに、ガルザ・ローゲはわざと大袈裟な仕草で首を横に振り否定した。
「私を呼んだのは人間だ。欲深き人の子がこの世界の覇者となる事を私に望んだ」
「契約の為?」
「戦を仕掛けるのに力が欲しいと言うのでな、駒を与えた」
「魔物を?」
「人の子にも魔力を持つ者がいる。それにそなたらのような従獣もいよう?連れて来たものだけでは足りない事はわかっていた」
「……
疑わしげなフェンの質問に、彼はふふふと小さく笑った。
「覇者となるには戦って勝ち取るという過程が必要であろう。私が直接手を下すわけにはいかぬ。楽しませてもらったぞ……残念ながら願いを叶える前に死んでしまったが」
トルポントの王はもうすでにこの世を去った。大国イエラザームの皇帝の率いる軍によって討ち取られたのだ。
思いもよらず人間達によって聖地の魔物達が消されかかり、残る二匹を連れて向かった。半分見捨てたようなものだが、邪魔になったものは仕方がない。開戦の前に雄牛に食わせる贄を寄越せと命じたのに、聞き入れなかったのはあちらの方だ。
雄牛の魔物の援護のなくなったトルポント軍は、エディーサ王国の魔術師も加わったイエラザームの大軍に飲み込まれるように掃討された。小さな魔物達も炎や雷を操る魔術師達に攻撃を封じられ、容易く敵の騎兵に倒されていった。
「用がなくなったのなら元いた場所に戻ればいいだろう」
趣味が悪い、とレオが呟く。ガルザ・ローゲはその言葉に唇を尖らせ、睨むフェンに向けて煽るように言う。
「つまらぬだろう?どうせ結界を壊し、私の子供達を遊ばせるつもりだったのだ。フェンリルよ、そなたももう一度暴れてはどうだ?」
「ふざけるな!お前の暇つぶしでこの世界を滅ぼすのか?」
「そうだ。壊れたらまたアルカ・エルラが新しい世界を創る」
淡々と答えるその声に迷いはない。
「もうこの大地も完成してしばらく経つ。そろそろ終わりにしてもよかろう」
幼児が粘土で作ったものを壊してまた作りなおす。そのくらいの気軽さでいう神の姿にぞっとする。
ヘイロンが青い光に包まれたかと思うと、黒竜の姿に変じた。
ニンギルスとレオもそれに倣うように、赤い鷲と黄金の獅子に変わる。
「僕は終わりにしたくはない。女神が守ったこの世界を壊させるわけにはいかない」
そう言って白銀の狼に戻ったフェンは、ガルザ・ローゲに飛びかかった。フェンリルの牙が黒い神の喉元を狙う。
だが、その身体は手を伸ばした神の指先で跳ね返され、同じく攻撃を仕掛けようと構える三匹に向けて投げつけられた。
フェンを受け止めてヘイロンが鱗を逆立てる。コポコポと音を立てて水流がその身体の周囲に生まれた。
レオのたてがみにパリパリと雷電が走る。
「神とはいえ、そのような勝手許すわけにはいかない」
竜と獅子が魔力を放ち、ガルザ・ローゲに襲いかかった。喰らい付く竜の口を横に飛んで避けた神の腕を獅子の爪が掠る。そこへ上空に飛んだ鷲の嘴から白い火球が撃ち込まれた。
火と水から生じた蒸気の白い煙がたなびき視界を曇らせる。フェンリルの遠吠えが響き渡り、透明の槍が天上から落ちてきて、白い床に突き立った。
フェンが怒りと共に吹き上げた風が煙をかき消したその向こうで、黒衣の神は平然と立っていた。風に髪の一筋すらなびかせることもなく、何事もなかったかのように。
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