王子、走る
ブレージアー城では残された者たちにひと悶着起ころうとしていた。ブルーノがヒルデガルトを無理やり制止したことに端を発して、彼女は地団太を踏み散らして怒り狂っていた。
「貴方がどこの馬の骨かはわかりませんが、この動乱が収まったら死刑。ぜったい、死刑」
と騒ぎ立てるのをブルーノは「うるさいから黙っておれ」といって、どうでもよさげに彼女の真横を通りすぎた。
「なっ。この無礼者っ! わたくしを誰だと思っているっ!」
「娼婦」
ヒルデガルトはブルーノの隠す気のない侮蔑に大口をあけて、後ずさった。
「き、きさま」
彼女はブルーノを指さしながら目を剥いた。指先が怒りにふるえている。ブルーノは顔を真っ赤にしている彼女を尻目に謁見の間を出ていった。まるで、道端の石ころ同然の扱いだった。しばらく、ヒルデガルトは茫然としていた。
ブルーノは急いでいる。レオン王子が勃然と謁見の間から飛び出していったのには理由がある。ブルーノは小走りで王子を追いながら(利発な少年だ。しかも、行動力がある)と舌を巻いていた。
その頃、王子は城の二階の欄干から身を乗り出して、目いっぱい手を伸ばしていた。その手は壁に刺さったレオンの代名詞である大剣を掴もうと必死にもがいている。ルドルフが投げた際に、ここまで飛んできて壁に突き刺さったらしい。幸か不幸か、欄干に足をかけ手を伸ばせば届くぐらいの距離に刺さっている。
王子は、この大剣に眠る力を詳しく知っているわけではない。噂では、この大剣には<鉄>の<王家の血>に呼応して開眼する秘密の力があるらしい。――とはいえ、噂は噂である。直接レオンに聞いたわけではないから確信はない。
けれど、王子は(大剣の話が迷信ならば、ルドルフがあれほど焦って、剣を投げ捨てるわけない)と直感していた。そして、その推測は当たっている。いまもレオンの手に、この利器がないことがなによりも足を引っ張っていた。
そして、時折巨龍が寝返ったかのような地鳴りがブレージアー城を揺らしている。レオンとルドルフの死闘の音が王子の背中を押した。――師は死地にある。どうして、自分がこの程度の高所を恐れていられようか。
とはいえ、王子は子供である。この高さから落ちれば、死にはしないにしても骨折は必至だった。王子はちいさな体に万丈の勇気をもって、欄干に立った。手を伸ばして、断崖に繁茂する蔦を掴むように大剣の柄を引っ張った。
つま先が伸びて、半分、宙づりのような体勢になったが、刀身は思ったより深くめり込んでいるらしくなかなか抜けない。体をつよく揺らして抜こうとすれば、そのまま落っこちそうだった。足がすくんだ。けれど、その縮みあがった心に反動のように押し寄せる気迫があった。
(俺は変身する気概がなかった。臆病者だ)。そういう自己を卑下する気持ちが王子の恐れを麻痺させた。恥辱の心だった。めりめりと音を立てて、大剣は壁から抜けた。そして、王子が握っていた柄は、その刀身が急に重力を思い出したように彼の腕を真下に引っ張った。王子は真っ逆さまに落っこちた。
グキリと音を立てて、前腕が折れた。足はねん挫程度で済んだが、それをかき消すほどの前腕の骨折の痛みだった。声をあげて泣きかけたが唇を噛んで耐えた。もはや城内には誰もいない。王や将軍は死に絶え、みんな、逃げ出して、家族のもとへ去った。
誰も見ていないはずなのに、まるで頭上に監視者がいるかのような羞恥心で我慢していた。
ふいに王子によぎったのは、母親への怒りだった。師レオンは母親のヒルデガルトをルドルフから守るために、この利器を投げた。――師は男が女を守る、という古臭い家訓めいたモノを、この乱麻の時代にも行い続けている。
(先生、申し訳ありません。我が母は、それに値する人ではありません)と王子は思って、折れた腕の痛みに耐えるようにうつむいた。すると、内庭の土を踏みしめる音がして、王子が振り向くと、鬼(オーガ)のように顔にしわを刻んだヒルデガルトが立っていた。
「そ、それが。それなのか? この親不孝ものめ」
ヒルデガルトは意味不明なことを口走りながら、王子が握っている大剣を忌々しそうに指さした。冷や汗で溶けた化粧が、その顔に奇怪な模様を描いている。頬が売れた果実みたいに真っ赤になって、目は地割れのような充血を起こしていた。
生きながらにして悪霊と化した観がある。
ヒルデガルトは、王子の手にある大剣が特別な霊威をおびているのを直感した。血は争えない。彼女も優れた頭脳をもった女性だった。――なにが一番、あの忌々しい男を困らせるか、彼女は考えた。すでに砕けた恋慕は燃えるような復讐心に転化している。
「――それをよこしなさい」ヒルデガルトは微笑を含んでそういった。
「いやです。これは母上の触れていいものではない」
「まあ、なにを勘違いしているのやら。その足で、どうやって剣公様まで届けるというのです? 私に任せなさい」
彼女は猫みたいに素早く王子に近付くと、力づくで大剣を奪おうとした。王子はとっさに身をよじって、大剣を自分の懐に隠すようにして守った。
「な、なにを」彼女はおどろいて、しばらく大剣の柄を両手でつかんだまま引っ張り合いになった。すると、王子はねん挫していない方の足でヒルデガルトの腹を蹴った。
「触るなっ!」
王子は一喝した。ヒルデガルトは後ずさった。王子の蔑むような目つきが彼女に火をつけた。
「いいわ。子供の一匹や二匹、いくらでも産めばいいのよ。ここ最近、貴方の名前がひどく忌まわしく思えてきたし」
王子はぎょっとした。彼も心のどこかで、母親を甘く見ていたのかもしれない。――さすがに、実の息子を殺しはしないだろう、と。けれど、いまヒルデガルトの眼の奥に映るのは古強者のような冷めた殺意だった。
彼女は何のためらいもなく、王子の折れた腕を足蹴にした。
「ほらほら。どうだ、痛いか」
王子は悶絶したが、師の大剣は離さなかった。なのでヒルデガルトはいっそう強く王子の腕を踏みつけた。そのうち、折れた前腕の骨が血肉を突き破って露出した。そのようすにヒルデガルトはおほほほと声をあげて笑い「どうせ、この国は終わりですからね。いっそ、すべて焼き払われたらよろしい。おまえも国を枕に死ねるのだから本望でしょう?」といった。王子はあまりの激痛に気を失いかけた。が、ヒルデガルトが頭上から「おまえの師も、どうせ死ぬ。――噂では、あの力を使った者は体の末端が腐るらしいわよ。どんな有様か、拝んでやりたかったわ」と笑ったので王子は腹をたてて、気をとり戻した。
(こんな獣に殺されてなるものか)と王子は思った。すると、その赫怒が目に宿ったのか、ヒルデガルトは「なに。まだ、反抗するか。さっさと、その得物をよこしなさい。他国へ逃げ延びたら質に入れてやる」と金切声で叫んだ。
彼女特有のひどく耳を逆なでする声音が廊下に響いたと同時に、巨鳥が通ったような影が足元に広がった。
内庭の砂地を踏む音がした。王子が顔をあげると、氷のような無表情でブルーノが立っていた。彼は城内を走り回って、王子とレオンの大剣とを探していたが、入り組んだ古城なのでなかなか見つからなかったところに、ヒルデガルトが叫び声をあげたので、それを頼りにやってきたのだった。
ブルーノは一目見て、何が起きているか察した。
「なにをしている」
静かながら深い怒りを思わせる声色だった。ヒルデガルトはふりかえってブルーノの姿に気づくと「いや、これは」とばつが悪そうに後ずさった。
ブルーノは彼女を睨んで(このような毒グモを宮中に入り込ませたのも、人心の壊乱を示している)と慨嘆した。とはいえ、感傷に浸っている時間はない。いまも、レオンはルドルフと命を削り合っている。
彼は懐刀をもって、ヒルデガルトの方へゆっくりと歩いた。とうぜん、殺すつもりだった。
ヒルデガルトの美しい顔貌が恐れに歪んでいる。恐怖する者の顔つきは悪人だろうが善人だろうが同じである。その顔はいくぶんか哀れな人に見える。
すると、ブルーノが手を下そうとした一瞬に先んじて、ヒルデガルトの背後から王子の半狂乱になった顔が現れた。――ガリ、と音をたてて王子の尖った八重歯がヒルデガルトの白い絹肌を切り裂いて突き立った。
声にならない悲鳴があがった。おそらく、彼女の目線からは何が起きたか分からなかっただろう。ヒルデガルトは痛みにもだえて暴れた。その分、激しく血煙が飛んだ。その顎力は、彼女の悪徳の深さに相応の強さだった。
王子は無我夢中だった。古来の吸血鬼のように生き血を飲み込みながら噛みつき続けた。もはや、腕の痛みさえ忘れていた。目の前の悪女を殺す一心であった。やがて、失血で元気を失い始めて、ヒルデガルトは血に膝をつくと「お助け。お助け」とブルーノの方へ手を伸ばした。
彼は無言であった。彼女が地面に顔を着けて、うつ伏せになって倒れるまでずっと無言だった。内庭の砂を真っ赤に染め上げて、ヒルデガルトは死んだ。大口をあげて、見開かれた瞳は、いまだ生命を残しているようである。
王子は母親の首から口を離した。顔面血塗れのまま、思い出したように痛みだす腕を抑えて、地面に座り込んだ。ブルーノは王子の傷を一見して「これはひどい。見せてごらんなさい」とかれのそばに膝をついた。すると、王子は「いえ」と傷を隠し「――戦時に子供の怪我など見ている暇はありません。そんなことより、あれを」と内庭に転がった大剣を折れていない方の腕を使って指し示した。その時、ふいに袖からのぞいた傷を見て、ブルーノは背筋に寒気をおぼえた。折れた骨が腕の筋肉を突き破って、傷口は紫色になっていた。王子は額に汗して、痛みに耐えている。
医者ではなくても、その腕が今後使い物にならないのは明白だった。いや、放置すれば腕にとどまらず命が危険なほどの重傷である。果たして、この遺子が死ねば、ブレージアーはどうなるのか。おそらく、早々に帝国の官吏が送られてきて帝国の傀儡と化すだろう。吸血鬼の郷里は帝国という怪物の胃袋に収まる。この中央の政治家から見れば辺境に位置する田舎は、涵養してきた文化を失い、数多生滅してきた剛毅な武士は土の下で忘れられる。
ブルーノの顔にうつろな影が宿った。すると、王子が青白い顔で「はやく、先生に剣を持って行ってあげてください。あの人には犬死してほしくない」といった。
ブルーノはおどろいて「王子、この傷は放置してはなりません。命にかかわりますよ」といったが王子は首を振った。
「もはや俺は王子ではありません。どこにでもいるただの童です。大丈夫が童一匹の命に心動かされてはなりません。先生にも、俺が死んだらそうお伝えください」
そういって、王子は天を恨めし気に睨んだ。
「どうして、天は俺をもっと早く生まれさせてくれなかった」
聴こえるか聴こえないかの声量で王子はひとりごちた。ブルーノは、王子の顔に死相を見た。背後に死神が見えるようである。これはまずいと思い、ブルーノは王子の肩を抱いて「王子よ。気持ちを強く持ちなさい。天命は気まぐれですが、最後には帰するべきところを知っているものです。――貴方が生きていれば、王統は途絶えない。どうか、自分の命を他人のものと思って、生きたいと念じるのです」
ブルーノはそういって王子を励まして、服の袖で王子の口についた血をぬぐってやった。すると、王子は朦朧とした頭をこくりと縦にうごかした。
「では、すぐ戻ります。なあに、心配いりません。あの大剣には神威が宿っていますから。ルドルフなど一瞬で粉々です」
とブルーノは笑い、大剣を背負って走っていった。
――そのころ、レオンとルドルフはふしぎな沈黙のうちににらみ合っていた。石塀をもろともせずに殴る蹴るを繰り返して、めくるめく戦場は色を変えていく。貴族の庭は美しい。他国の植物を植えて、池には橋が架かり地面は砂利や石畳で整えられている。貧民の生き血をすすってできた豪奢な装いだった。すでに二人が転がり込んだ邸の庭の梅林は荒らされて、白玉の庭砂利はところどころ剥げて茶色い土が見えている。
(押されている……)とレオンは思った。向かい合ったまま目は相手の動きを見逃すまいとにらみを利かせて、じゅうぶんに集中している。が、心の奥底で、うっすらと押されているとレオンは一瞬、考えた。――苦戦は当然と言えば当然だった。レオンは拳闘士ではなく剣客である。その筋肉は剣を振って磨かれてきた。しかも、<鉄>の系統そのものが殴り合いをすることを不得手としている。細胞そのものが「剣を取れ」と言っているような血脈だった。
大局的にみて、彼がヒルデガルトを救うためだけに大剣を捨てたことは痛恨の極みだったと言える。けれど、彼はそんなことは忘れていた。
(無いモノは無い)と殺し合いの熱も手伝って、すべてのことが刹那的に処理された。後悔や希望のような思考を形作るには、いま彼の生きている世界はあまりに一瞬のできごとである。
(犬死には決してならぬ)と父親のラインハルトは常日頃から言っていた。――要するに、天の恵みを受けて力を持った者は死んでも敵を道連れにせよ、ということなのである。父の遺訓をおもいだして、彼はルドルフを道連れにすることだけを念頭に置いていた。
けれど、厄介なのは、ルドルフの両翼だった。ルドルフは闘いながら要領を理解してきたらしく、それらを二本の腕のように使うようになった。そのうえ、隙があれば翼を使って逃げる魂胆なのである。
腹の読み合いをするうちに(翼をへし折ってやるか)とレオンは考え、同時にルドルフは(翼を狙っている?)と疑った。猛者と猛者が行き詰まって考えたことは芸術的な一致を見せた。ふいにルドルフが翼を背に隠すように仕舞い込んだのを見て、レオンは狙いがバレたのを悟った。
結局、深読みは深読みを呼んで、元の木阿弥になった。時間はレオンには不利だった。そもそも最近、すでに<王家の血>を開いたレオンと伏して時を窺っていたルドルフとでは体力的な差がある。もたつけばもたつくほど窮地に追い込まれるのは必至だった。
けれど、この時、意外にも焦っていたのはルドルフの方だった。
(遅い。ポロ王はなにをしている)と彼はいらいらを募らせた。訝るのも無理はない。ポロの力をもってすれば、万軍を乗り越え、<王家の血>を開いた将軍の一人二人は軽く屠っていける。すこし手こずったとしても遅すぎる。時おり、遠くの貧民街の方から火砲の音がするのも不安を助長した。
――援軍を頼みとする心根には悪魔が潜む。すなわち、恐れと焦りである。レオンはそのルドルフの間隙を射抜いた。彼の拳骨は剣を抜くように肩から下に一直線に突き抜けた。頬骨から斜めに斬り下ろされたような衝撃に殴り飛ばされてルドルフは石塀に背中からぶつかった。
<王家の血>の硬い外皮に包まれた者に本気で「痛い」と思わせる攻撃はめったにない。けれど、その痛みにたいしてルドルフは反射的に怒った。続けて、レオンが石塀にもたれていた彼の顔面に蹴りを入れようとしたところに、熊のように殴りかかって反撃したのである。
痛みを受けて怯むどころか怒って殴りかかるのは、ルドルフの性格的な傾きによるものだろう。しかし、その咄嗟の妄動はむしろ奏功した。
レオンの顎がまえがかりになったところに殴られて跳ね上がった。視界に虫のような光の粒が散り、眩暈が頭を揺らした。一瞬、意識が飛んで、ふいに我に返って真っ先に目に入ったのは、怒りに上気して悪魔のように皺を刻んだルドルフの顔貌だった。上肢に溜めた力が顔に乗り移っているかと思われた。
また、レオンは直撃を頬で受けた。反応が鈍っているとルドルフにも伝わるほど、簡単に押し返された。
だましだまし戦ってきたが、やはりここで一個、明白な差が生まれ始めた。レオンの潰れた片目が足を引っ張るようになってきたのである。いまのルドルフの一撃はちょうどの視界の影から飛んできたので反応できなかった。
レオンはもんどりうって転がり、庭砂利のうえに膝を屈した。目の前にルドルフが居ても、眩暈のせいで、すぐには立てなかった。これを受けて、なぜかルドルフは眉根をよせた。
(罠か? 誘っているのか?)と深読みをしたのである。それほど急に手ごたえがなくなったように彼には感じられたらしい。戦いの最中に、いちど疑ってみたことは肌に刺さった棘のように鬱陶しく疑義として脳裏によぎり続ける。
ルドルフは怯んで弱ったレオンのすがたを嘘と断じた。
(おそらく、レオン坊は城下から逃げようと我れが背を向けるのを待っているにちがいない。背を向けたら、後ろから一撃くらわそうという肚なのだ)。
彼はそう考えた。レオンの顔が鎧に遮られて、顔色がよく見えないのも、彼の疑いを深める一因となった。立ちあがったレオンはかぶりを振って、いぶかし気にルドルフの方を見た。――なぜ、追いうちに来なかったのか、とレオンは困惑した。
そのふいに漏れ出た名状しがたい機微にルドルフはさっきレオンが本気で足腰にきていたのだと気づいた。
(しかし、どうして急に弱体化した。……疲労か? いやいや、だまされるな。奴は阿呆だ。疲れなど知るはずがない)とルドルフは怪しさを消化できずにいた。疑義は膨らみ、彼はじっとレオンの顔を睨んでいた。ふいに、その兜の奥に見える瞳を見ていると、勃然(あっ!)と悟るものがあった。彼はようやく、レオンの弱体化している要因に理解が追い付いた。兜の奥に潰れた片目があることを思い出した。
(あっ。なるほど、奴は片目が見えていないのだ。今や、奴の視界の半分には帳が下りている)。
勝ち目を見て、ルドルフは白い歯を見せて笑った。唐突な微笑にレオンは眉根を寄せた。
(なにかしてくる)と彼は身構えた。すると、ルドルフは幽霊のように消えた。すくなくとも、レオンの視点からはそう見えた。彼の視界の欠落部分が陰になるようにルドルフは走ったのである。眼球の動きだけでは補足できず、首をうごかして視界の帳に消えたルドルフを追いかけようとした。
が、遅かった。ルドルフの無慈悲な一撃があばらを突き上げた。刃物が刺さったような衝撃が貫通した。ここまでの戦いで拳では肺腑まで力は届かないと知ってルドルフは肘をたたみ、その尖った先端でレオンのあばらを突いたのである。硬い肘は<鉄>の外皮をへこませた。鋭くへこんだ部分が肋骨を折り、折れた骨が臓器に刺さった。
レオンは庭の大堂の支柱に衝突した。意識は眩暈のなかに溶けた。
が、転がっていく中で、いかにも子供っぽい「きゃあああ」という女児の声が聴こえた。
たまたま、逃げ遅れて、レオンとルドルフの戦闘の音を聞いて隠れ潜んでいた子供がいたらしい。レオンは朱色の支柱にもたれかかりながら、首を動かした。風流な大堂の支柱の裏におびえる少女とその肩を掴んでいる薄幸そうな女がいた。どちらも吸血鬼の灰色の肌艶をして、頭部に小ぶりな角があった。――混血の奴隷である。
装いは、この土地柄にそぐわないほど貧相なものだった。おそらく、この邸の主人の妾とその子供だろうと想像がついた。――邸には家財はなかった。どうやら、この邸の主人は家財を持っていったが、奴隷は置いて逃げたらしい。(世も末か。女子供を捨てて逃げる主人があるかよ)とレオンは憤りを感じた。
「――気配を消して逃げよ」とレオンは母親に向かって言った。いかにも弱者然として悲鳴をあげて逃げれば、ルドルフは放っておかないだろう。あくまで、レオンは冷静に諭した。すると、母親は「剣公様ですか?」といった。
「――よけいなことをいうな」
反射的にレオンはいった。見れば、その母親は猛々しい顔つきをしていた。妾という環境に育てられた野性味を感じる。レオンの言葉に怯まず彼女は「お父上の御恩顧があります。非力な女の手にできることはありませんか」と聞いた。
その勇気と父親ラインハルトの遺徳に感じ入るまえに、彼は寒気を覚えた。ルドルフがすぐ目の前まで来ているのである。その悪魔のような眼がぎょろりと母親の方を睨んでいる。
「いらぬ。さっさと子を連れて逃げよ」
冷然とレオンはいった。彼女の顔を見もしなかった。彼の一つ目はルドルフだけを捉え続けている。けれど、その眼光には何もできない。すでに身体はぼろぼろで、朱色の支柱にもたれたまま、立つこともおぼつかなかった。そのようすに少女と母親は、逃げに逃げれず迷っている。母親はレオンとルドルフとを二度、三度と見直して、レオンの方が敗色が濃いことに気づいて、この国の兵士たちも持ち得なかった勇気を奮い起こした。
彼女は大堂の欄を跨いで、ルドルフのまえに立ちふさがった。
「なんだ、奴隷。殺されたいのか?」
「奴隷にも道徳があります。守られるだけが能ではありません」
「ははは、混血の徒の分際で、ずいぶん人間らしいことを言うではないか」ルドルフは哄笑した。<変身>によって、喉は震えて笑い声は万丈の高さまで広がっていくかと思われた。ルドルフはいかにも慇懃無礼な調子で「それでは、丁重にお頼み申す。そこを退いてくれぬか?」といった。口角の上がったところから嘲笑が見て取れた。
彼女がかぶりを振り、ルドルフは目を回しひょうきんな顔をした。レオンはなんとか立ち上がろうと歯を食いしばった。震える足を御するためにみじめに支柱に掴まった。――ルドルフの性格は知っている。残虐非道なだけでなく、演出家気質なところがある。精妙な悲劇が好みなのである。
この状況、悪魔の感性を刺激するだろう。
ルドルフは蛇のように高みから母親を見おろした。
「貴様、女だから殺されぬとでも思っているのだろう。居丈高に楯突く女はたいていそうだ。だが、それで結構、結構。そういう女を冷や水を浴びせるがごとく死の淵に立たせるのは、まことに愉しい……」
さすがに彼女も怖気を感じたらしく、花顔をひきつらせた。ルドルフは彼女の後ろ髪を掴んで持ち上げた。無力に宙ぶらりんになった彼女をルドルフは覗き込むと、微笑を含んで今まさに立ち上がろうとしているレオンの方を見た。
レオンは首を横に振って「やめなさい。若君、益のないことです」とあえて下手に出て諭した。言葉を紡いだけで痛む肋骨を抑えていた。そのような身体で助けに入れる距離ではなかった。すると、彼女は懐に潜ませていたらしい短刀を宙ぶらりんのままの体を振って、無理やり、ルドルフの顔に刺した。
カツンという金属みたいな音がなった。ルドルフの眉の端がすこし切れたが血はほんのりとしか出ていない。
「はっ。よほど、混血の徒のほうが気骨があるじゃないか。ははは」とルドルフは笑った。ひょいと短刀を彼女の手から奪うと、満足げにレオンを見下ろして、ふいに短刀を彼女の腹に向けた。
「よさないかっ! 若君」
レオンは思わず、叫んだ。声を励ました分、ボロボロの肺腑に響いて鋭い痛みが走った。
「我れは……そなたのような義の人とかいう怪物を駆逐するために生まれたらしい。なぜなら、この十年という星霜をそなたの絶望する顔を夢想するのみで生きたからだ。ただ、それだけで暗闇に耐えることができた。感謝しているとも、レオン坊」
それから何度もルドルフは短刀を彼女の腹に刺すフリをした。そのたびに身を震わせるレオンを見て愉しんでいた。それがとにかくしつこい。屈辱にレオンは怒りで奥歯を嚙み締めた。彼が怒れば怒るほど、ルドルフは悦んだ。
幼年のころからの地金である。いじめっ子だった。根っからの冷血な男だった。
「さすがにしつこいか。まあ、そう怒るな。我れは悪人にちがいないが、あの宮中でのことから善人を怒らせても良いことはないと知っている」
そういって、ルドルフは短刀を藪のなかに投げた。刀身が回転しながら、真昼の陽光を受けて光った。その光線の明滅に一瞬だけ、レオンの意識が向いた刹那、ルドルフは女の髪を強く握りしめて、毛根から引き千切れるほどの力で投げた。
大堂の支柱の一角に女は頭から突っ込んだ。臓腑を持ち上げられるような不快な音が鳴った。頭蓋が割れて、脳漿が朱色の支柱に水滴みたいに流れた。彼女の首は折れて真上を向き、支柱に体を預けたまま、ずり落ちていった。
レオンは激情に駆られて、肺腑の痛みをわすれて、獣同然の姿勢で殴りかかった。が、ルドルフは彼の激昂を読んでいた。起き上がろうとしたレオンの顔面を足裏で潰した。
――顔を蹴られ、彼の頭部は支柱にぶつかった。もはや、何度、脳に衝撃を受けたか知れない。ついに意識に死神が宿ったか、レオンの眼球はあらぬ方を向いた。視界は淀み、思考は微酔のなかにあった。
その様を睥睨して、ルドルフは「愚か者め。わかりやすい奴だ。――よいか、義の教えとは屑だ。豺狼の手にかかれば、利用され踏みつぶされ、いまやお前には葬られる墓もない」と瀕死の敵に好き放題言って笑った。
レオンは、その声に反応するように虚ろな瞳のまま、拳を突き出した。意識の淵の底に、まだ燃える闘志がある。目の前に憎むべき敵が立っていることだけは細胞が覚えている。逆にそれ以外のことはわからなかった。嘲りも侮蔑も耳を通らない。ルドルフは気圧された。
レオンの拳には力がなかったが、その不撓不屈の闘争本能に感興に浸っていたのもつかの間、彼は不愉快そうに眉をよせた。
すると、今度は「うわああああん」とルドルフに頭を割られて死んだ女の子どもが泣き始めた。母親を目の前で殺されたので、少女が泣くのはあたりまえだが、ルドルフは間のわるさにいっそう腹を立てた。
「うるせえ。真っ二つにするぞ」
彼は平素の慇懃さを失って怒鳴った。
その声は石塀を越えて響いた。少女の泣く声は止まらない。気付けば、灰色の空から生き物のような疾風が聴こえた。
石塀の向こう側で、その怒鳴り声を聞きつけた者がいた。ちょうど、大通りでレオンとルドルフの戦いの痕跡を追っていたブルーノだった。彼はルドルフの声を聞きつけると、四つ辻を斜めに塀や屋根を越えていった。十字路で入り組んだ街並みをまっすぐにルドルフの声がした方へ急いだ。
ふいに門楼の上に立つと、子供の泣く声がした。その方を見ると、ちょうど歩廊の屋根の影にルドルフの入れ墨だらけの顔が見えた。顔つきが遠くからでもわかるほどの怒り顔だった。そして、そのすぐそばに泣きわめく少女と溶けるように崩れている鉄の塊のようなものが見えた。
ブルーノは奈落に落ちていくような気がした。(遅かったっ!)と天に向けて慨嘆しかけた。その時、白銀の鎧はぬっと幽霊のように起き上がって、背後からルドルフの首を締めあげた。レオンは生きていた。が、生きていたが、ほとんど抜け殻のような無意識で戦っていた。
「ぐぬぬ。この死にぞこないが」といまだ元気なルドルフは自分の首を締めあげようとするレオンの腕を抑えて、大堂の支柱に彼の背中をぶつけ回った。
――ブルーノは背負った大剣を渾身の力で投げた。それは斜めに下降しながら、大堂の一柱に突き刺さった。
「倅殿っ!」と彼は声をあげた。大堂でもみくちゃになっているレオンとルドルフは、その声を聴いて止まった。
レオンはルドルフの背中を蹴り飛ばして、柱に刺さった大剣の柄を握った。ルドルフは突き飛ばされ、怒りを湛えた顔で振り返った。見覚えのある大剣が目に入って、ルドルフは背筋に悪寒を感じた。刃こぼれし、経年で劣化した枝鍔の装飾。ほとんど旧時代の骨董品のような武器である。
けれど、その柄にレオンが触れた瞬間、沼沢に清流が流れたように、刀身は錆びた灰色から白銀の輝きへと変質した。そして、大剣はレオンが力を入れるまでもなく、突き刺さった支柱をなでるようにするりと抜けた。――支柱には髪を滑りこませたような断面が残った。<王家の血>の神通力が乗り移ったように大剣は不気味なほど鋭くなった。
持ち主のレオンが誰よりもその鋭さを恐れていた。柄を握る手は、この世でもっとも恐ろしいモノを持っていると悟って汗ばんでいる。朦朧とする意識のなかに、明朗な良識が沈殿していた。
――一刀のうちに滅する。レオンはルドルフににじり寄った。
ルドルフは、その白銀の輝きに総毛立った。すでに一撃のもとに寸断されてもおかしくない距離にいる。一瞬で真っ二つにされる想像が働いた。どうして、遠くに放り投げたはずの大剣がレオンの手に戻ってきたのか、と考える暇すらなかった。先ほどまで気を失っていた者とは思えないほどの殺意をレオンの眉宇に見た。
<王家の血>を持つ者同士、戦ってみなければ、彼我の差はわからない。けれど、さすがに、その彼我があまりにも大きければ、相対しただけでわかるものである。それは主に、狩られる側の自覚によるものだろう。ルドルフは腰が引けた。
逃げるという一念が頭を支配していたが、軽々に動けば斬り殺される気がした。いや、彼がそう思ったときには、右腕の肘から下がぼとりと落ちていた。切れ味のすばらしさか、血はだいぶ遅れてから出始めた。同時に腕を切断された衝撃で<変身>が無意識のうちに解けた。ルドルフは無くなった腕と元にもどっていく自分の肉体を見ながら叫びも上げずに顔をひきつらせた。
「済まぬ。若君」とレオンは嘯いた。第一に、国の禄を食んだ者として王の血筋を傷つけることを恥じ、また、子供のころからの誼みを思い、彼を正道に導けなかったことを悔やんだ。柔らかな肌に大剣の先を突き刺して、悪逆非道の淵源たる心臓を潰した。幾人もの人々を奈落に突き落としてきた冷血は、その活性をうしなった。
ルドルフは血を吐き、大剣をと胸から引き抜かれると同時に前のめりに倒れた。舌が地面をこすり、血がとめどなくあふれて庭砂利を汚した。死すべき者は死んだ。けれど、レオンはなにも満足を得なかった。ふいに変身を解くと、銀色の皮膜は粒子のように散っていく。空は灰色で小雨が降っていた。
鎧が消えて、あざだらけの顔と潰れた目が曇り空から差す憂鬱な光に照らされた。
その片目は虚ろに遠くを見ていた。
この世には何も希望がないというような退廃的な目だった。一度、世界を眩し気に見つめて瞬きすると、その瞼は二度と持ちあがらなかった。彼はルドルフの死体のそばにどさりと倒れた。そうなって初めて、彼にも心の平穏が訪れた。
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