兄弟
ヴィーは眼を覚ますと、自分の瞼が泥をかぶったような違和を感じた。額の血が彼女の瞼を覆って黒く固まっていた。血をぬぐって、彼女は立ちあがった。すると、戸口からちょうど、ホウロウが両手をあげてポロに襲いかかっているのが見えた。
ポロとホウロウは意図せず門楼や生垣や家屋を破壊した。まるで、目の前の敵しか見えていないようだった。息遣いが暴力の息継ぎのように聴こえてくる。
彼女は絶句した。ホウロウは神域に到達した魔族である。すくなくとも、ヴィーには彼に対抗できる魔族は想像できなかった。――ホウロウが変身すれば、たとえ弟のポロが相手だろうが、この紛争は手中に収まる。そう思っていた。
けれど、彼女が刹那的な二人の暴の応酬を見るに、その優劣はかぎりなく無いように見えた。
怪物の弟は結局、怪物だった。
ヴィーは援護できることがないと悟って、ぼう然と大暴れする二頭の虎を眺めていた。先んじて、住民がこの近くから退去したのは幸いだった。もし住民の生活の中に、この虎たちが乱入したら多くの無実の民を巻き込んでいただろう。
――ずどん、と大砲のような音が鳴った。ポロがホウロウを殴った音だった。ホウロウは直線的にあばら家の壁にぶつかって瓦礫や砂塵を巻き上げた。が、ホウロウはより一層の血気を宿して、瓦礫を薙ぎ払い再度ポロに突進した。
その一連の闘争の音は太鼓みたいにヴィーの内臓の奥を揺らした。(人が殴り合ってる音じゃない)と彼女は思った。
もっと恐ろしいのは、それほどの激音を鳴らす力で殴られても平然と殴り返す両者の耐久力だった。
(これは……終わるのか?)と彼女は思う。じじつ、二人は何度もお互いの横っ面を首がねじ切れるほどの力で殴り合っているのに、傷はおろか疲労の色さえ見せないのである。ヴィーは不安を感じた。このままでは、ホウロウが勝ったとしても再起不能の傷を負い、彼女の行動はすべて徒労に終わる。
一番の誤算は思った以上に力が拮抗していることだった。美しいほどの均衡が保たれている。
もったいない。ふたりとも、ここで空費されるにはあまりに惜しい天賦の才だった。
(わたしが天なら運命を変えたい。捻じ曲げたい)と歯噛みした。
とはいえ、彼女は動かなかった。自分の無力を弁えていた。
――そして、その無力感は、ホウロウとポロの闘争の音を触媒にして伝染していった。もはや、そこに種族はない。ハーフの賊も吸血鬼の貧民も皆、ひとしく恐れた。しかも、だれも逃げ出そうとしなかった。
彼らは逃げ場がないのを悟った。
ホウロウとポロは掴み合ったまま、彼らの頭上の屋根を跳ね回っている。安全だと思っていると、一瞬で風圧で巻き上げられた粉塵が飛んできた。すでにどこにいても危険だった。巻き込まれるかどうかはささいな運である。ならば、よけいな気をひかないように静かにしたほうがいいと思って、みんな、小さく縮こまっている。
そして、兄弟げんかは均衡し続けながら、徐々にその爆心地を移動させ始めた。
「……もしかして」
ヴィーは目を細め、首を振った。ホウロウが余計なことを考えているのが分かった。人を巻き込みたくないという元来の甘さが出ている。<変身>した二人の膂力を考えれば、間違って肘がぶつかっただけで凡人は即死だろう。だから、ホウロウは神経をすり減らしながら戦っている。あばら家を吹き飛ばすたびに、人を巻き込んでいないか不安におそわれる。
こうなると、すでに人道をはずれたポロが有利である。その心理の溝はゆっくりと巨大な溝を穿った。
気づけば、ホウロウは額に冷や汗をかいて、ブレージアーの茶色門を背にしていた。
その心理の隙は当然、ポロにも伝わった。
ポロは首を振って呆れたように「あにじゃ。余計なことを考えて俺に勝てるとおもうのか?」といった。
「……」
安っぽい挑発にホウロウは言い返すことが出来なかった。焦った表情も隠す気力もない。
ポロの背後にいつの間にか賊徒たちが集まってきていた。しょせん、日和見の小悪党の集まりだった。ポロが有利とみるや、元気を取り戻して、いつの間にか虐殺が再開している。すでに流血の中心にいた。今、ホウロウがいる場所が貧民街の端っこだった。吸血鬼たちはハーフの進軍を恐れて、固く閉じた茶色門の手前まで逃げてきたのである。
そして、追い込まれた魚群のように蝟集して一網打尽にされていた。黒門のあたりとは比較にならない血の海だった。
足もとで、腹を裂かれた女が地面を這いずっていた。真っ赤な血液が線を描いて続いているのを見るに、死ぬに死ねずここまで這ってきたらしい。ホウロウは眼の奥に鋭い痛みを感じた。もうすでに流血は嫌というほど見てきたが、一向に慣れない。いや、むしろ血液の赤は呪いのような性質まで帯びて、心を掻きまわすようになってきた。
ホウロウは激しい頭痛に頭を抱えた。気付けば、龍のアギトの光景がそっくり、そのまま顕現していた。――ドマの亡霊が死屍累々の湖面に浮かんでいる。
「あにじゃ、そこをどけ。俺はその向こう側に用があるんだ」ポロの言葉でホウロウは我に返った。
「だめだ、だめだ」
ホウロウは首を振った。困惑の色が言葉に如実に表れている。ホウロウは視線を落とすと地面を這っている女が泥まみれの顔をあげた。一瞬目が合って、その瞳の奥に燃えるような怨嗟の渦が見えた。
今際の際に人を呪い殺そうとする眼つきだった。女はそれで事切れたように顔を地面につけたまま動かなくなった。ホウロウは眼をそらした。ふいに、つんざくような赤ん坊の泣き声がした。ポロもホウロウも場違いな声に止まった。女の背には、布に包まれた赤子がいた。その声は(腹が減った)といった生理的な鳴き声にちがいなかったが、いまは母親の死を嘆く声にしか聞こえなかった。赤子の声を挟んで、ホウロウとポロはにらみ合った。
ホウロウの眼は(お前のせいだっ!)と責めるような鋭い光をおびている。戦いの無為を語るように風が二人をなでた。
「この赤子は将来、俺たちを恨むだろう。同じことが繰り返されるだけだ」ホウロウがそういうとポロは鼻で笑って「なら、その赤子も殺せばいい」といった。
一歩、ポロが足を踏み出すと、彼の言葉の本気を感じて、ホウロウは即座に歩み出て、赤子を手に抱いた。
「なんだよ、あにじゃ」ポロは陽気な微笑をもってそういった。笑顔の下に狂気がある。――少しでも遅れたら、ポロがほんとうに赤子を踏みつぶしていたと確信してホウロウは身震いした。
ヴィーはその様子を遠くから眺めていたが、すぐに何が起きているのかを察してポロの死角を縫うように近づいていった。おそらく、ホウロウは赤子を庇って戦おうとするだろう。そうなれば、ポロの有利は決定的である。
(ならば、隙を見て赤子を受け取って逃げよう)とヴィーは考えた。そうすれば、ホウロウは一応、ポロとの一騎打ちに集中できる。
――が、刹那にヴィーは茶色門の望楼の方に異様な光を見つけて、ぼう然と立ち尽くした。
小さな火焔が白昼の景色に不穏な光を放っている。それは群れをなして、横に広がった。火焔の瞬きのような丸い光だった。それを見た瞬間、ヴィーは発作を起こしたように目を見開いて脱兎のごとく踵を返し逃げ奔った。逃げる速度も十分速いが、それ以上に見切りが抜群に早い。賊徒も貧民も跳び越え、一心不乱に逃げる。追い越していった人々が死ぬことを知っていたが、そのことは気にも留めない。
ホウロウは頭上の異変にまだ気づいていなかった。ちょうど、彼は茶色門を背にしているので、その望楼の光が見えなかったからである。さきに気づいたのは、ポロだった。彼は眉根をよせて、望楼を覗き込むように見上げた。
一瞬、時間が止まった。ポロは息を呑んだ。
――望楼に居たのはレオンの弟のイグナーツだった。いまや彼は門楼の後ろに控える数万の兵卒を束ねる立場だったが、眼下の光景に足がすくんでいた。
「これは……夢か?」
思わず、副官が傍にいるのに、そう嘯いていた。まるで巨竜が寝返りしたように、貧民街が半壊していた。<王家の血>を持つ者でも、これほどのことは出来ない。――化け物の所業である。そして、戦場は敵味方入り乱れて混迷を極めていた。なぜか、変身したハーフが吸血鬼の方を守るように大立ち回りをしているのが見えた。
イグナーツは理解できなかった。
(ハーフがこれほどの力を持っているとは……。なぜ、いままで分からなかったんだ)。
その光景を前にして、彼の指揮下にある砲兵たちも一様に言葉を失っていた。望楼の真下では、吸血鬼の兵卒が一万ちかく、大通りを埋め尽くしていた。
けれど、その一万という数字は非力だった。門の向こう側からポロとホウロウが骨肉相食む破壊の音色が鳴るたび、一万の兵隊は逐一おびえている。士気はすでに低い。
背後のブレージアー城に変があったのは、末端の兵卒ですら知っている。しかも、それだけでなくコンラート王が死んだという真偽不明の風聞まで出て、軍全体はほとんど機能不全に陥っていた。戦いが始まってもいないのに喧嘩沙汰で数十人は死んでいる。ここまで来ると、脱走兵を抑えられない。もともと、良くも悪くも吸血鬼の兵隊は、<王家の血>を持つ者になびく。――彼らの性質はわかりやすい。貴族である指揮官が命を削って戦えば、兵卒たちもそれに応え命を賭して戦う。が、<王家の血>を持つ指揮官が臆せば、それは保身に傾いている心情が透けてしまうので信望を失うのも早い。単純な兵力にとどまらず、<王家の血>は精神的な指導者も兼ねているのである。
イグナーツは自分に注がれる(貴族なら早く変身して戦え)というような部下たちの視線が恐ろしくなってきた。彼はポロとホウロウの天地を揺らす大喧嘩を見て、気が萎えてしまった。
(仮に変身しても、こんな災害じみた怪物に勝つなんてムリだ)とイグナーツは思って膝から来る震えに耐えるので精いっぱいだった。
それに、この茶色門を防衛線に設定している時点で、多くの無辜の貧民を見捨てているのは明白だったし、最初にハーフを虐殺したのは吸血鬼の方である。祖国防衛戦は早くも大義を失っていた。
――そういった、いわば、敗色濃厚な空気のなか、砲兵のひとりが一発、火砲を撃った。福音のような一発だった。火砲は遠くに放物線を描いて撃つ火器だったので真下に撃つことを想定していなかった。ために放たれた弾丸は直線を描いて、眼下の貧民と賊徒の離散集合する地面に直撃した。
すると弾丸が地面にぶつかった衝撃で割れた。すると、魔術的な力学に運ばれて黒い液体が渦を巻き、雲霧のように広がった。
――沈黙の最中、転がった弾丸が発火した。
そして、その小さな火は黒い液体を伝って龍の胴体のようにうねった。火焔が天と地を覆った。枯れ木のようにありとあらゆるものが燃え上がって、火炎の流れを励ました。一発で大通りに面するあばら家の群れは火の海になった。
イグナーツは言葉を失った。煌々と燃え盛る火炎が彼の瞳に映った。火焔の中に燃えながら逃げ惑う人影がいくつも見える。さっきまで、賊徒と貧民、ハーフと吸血鬼に分かれていたものはすべて等しく、炎のなかで苦しみ混ざり合っていく。
そして、その一発を皮切りに、二発、三発と火砲が放たれた。砲手からとなりの砲手へと臆病は伝染した。
イグナーツは焦げる匂いが立ち込めて、胸のむかつきをおぼえた。彼は勝手に火砲を撃った部下を咎めることをわすれて、麻痺したみたいに立ち尽くしていた。兵卒のなかのたいていは、いま守っている茶色門に家庭を持っている。だから、ここだけは守らねばならないと期する気持ちが、それぞれにあった。
(しょせん、下賤の輩だ)と楼台の砲手たちは思った。そう思わずには、同族殺しの罪の意識を誤魔化せなかった。
そして、そもそも、先頭に立って戦わないイグナーツも、この罪に加担している。誰もこの罪を糾弾する気迫をもてなかった。そして、イグナーツは慚愧の念に苛まれる一方で、自分が戦う必要がなくなったことに安堵した。
――ホウロウとポロが死んだとイグナーツは思ったようだが、彼らは普通に生きていた。火焔すら今の二人には生ぬるい。ポロは瓦礫のなかで大の字になっていたが、何が起きたかすぐに理解して火の粉の舞う天を仰ぎ見て「はは、はははは」と笑った。
彼は吸血鬼の精神的敗北を嗤うのである。吸血鬼が貧民とはいえ同族を巻き込んでまで火砲を撃ったことが愉快だった。
一方、ホウロウは燃え盛る地面に座して、自分の手のひらを見て青白い顔をしていた。大きな手に煤のような染みが出来ていた。
「う、う」
彼は頬を腫らして泣いた。染みは抱いていた赤子が火炎に溶けて出来たものだった。
――ふいに悲鳴をあげる燃える人影が走りながら、ホウロウの足に引っ掛かって転んだ。火砲にやられた哀れな吸血鬼の民だった。火焔の渦のなか、それは陰影を持った人の型に見えた。
そして、人影は、立つ力なく「あつい、あつい」と叫んで転がりまわる。ホウロウは苦悶に顔をゆがめた。彼は肌を焼かれる地獄の苦しみを感じ取った。それは強風のように心をゆらした。ホウロウは自分が燃えているような錯覚すらおぼえる。この場合、人が持ち得る最高の憐憫はなにか? 死である。苦しみからの解放である。ホウロウは自分を守る意味でも目の前の哀れな他人を殺さなければならない。そうしなければ、情念の濁浪に彼自身が狂ってしまう。
そう理解していてなおホウロウは迷った。迷っているうちに脳漿が沸騰するような頭痛に襲われた。
すると、炎のなかを鷹揚とポロが歩いてきて「あにじゃ。これでわかったか。あんたは虫以下の連中を守っている」とのたうち回る哀れな吸血鬼を踏みつぶした。ぶちんと寸断されたようにホウロウの頭脳を脅かしていた狂風はやんだ。
「……」
ホウロウは地面に座ったまま、額の汗をそのままにポロを一瞥した。ポロは余裕を見せているが引き連れてきた賊徒の大半をいまや焼き殺されているので、実際は彼も窮地に瀕している。けれど、その戦略の不利以上に彼の胸に落ちていくものがあった。
(そら、見たことかっっ!!)とポロはホウロウを見下ろして思った。ホウロウも彼がそう思って勝ち誇っているのが分かった。――けれど、ホウロウにはそのような自説を守る気持ちなどなかった。
ただ苦しいのだった。彼は火の海から湧き上がってくる悲哀を、拒んでも拒んでもすべて受け止めてしまうのだった。そして、ちょうど、龍のアギトで見た惨たらしい光景が思い出された。あの時の無力感が押し寄せてくる。
いったい、世間というのはどうしてこうまで残酷になったのか。しかも、つい最近まで、生活は貧しくありながらも平凡に進んでいた。
(どこに怪物が住んでいたのだ?)。
すると、その幻影をかき消すように、彼方からダメ押しの火砲の砲弾が飛んできて近くに着弾した。
――(もう十分だろうっっ!)とホウロウは怒りを覚えて、楼台に並ぶ大砲を睨んだ。すでに火焔は静まりかけていたのが、再度、燃え上がってあたり一面火鉢同然になった。もはや焼け死ぬ者もいない。悲鳴さえ聞こえない。
すでに炎は無辜の民と賊徒の皮膚の奥底まで焼き焦がしていた。一撃目で生まれた灰燼はふたたび熱せられ、火の粉はより高く運ばれていく。
ポロは腹が立ったらしい。楼台の方に向かって「うるせえっ!」と一喝した。尋常ではない声量は沸き立つ熱波を吹き飛ばさんばかりに響き渡った。――すると、ポロは体をくの字に曲げて激しくせき込んだ。大粒の血塊を吐いて、ポロはばつが悪そうに手のひらの血を払ってホウロウを睨んだ。
「ポロ、もう終わりにしよう。――こんな<力>をもっている奴らは、ここにいるべきじゃない」
ホウロウは冷ややかにそう言った。するとポロは「……俺たちは英雄だっ! 吸血鬼の外道の妄信を啓くために生まれたんだっ!」と叫んだ。喉に砂でも詰まっているようなざらざらした声だった。
ホウロウは黙った。ポロの言ったことは矛盾だらけである。が、論理では否定できない気迫と狂気が宿っていた。なにか物の怪のようなモノが憑依しているようであった。ホウロウはたち上って反駁した。
「英雄が、どうして死体に囲まれている。見てみろ、この有り様。関係のない人が大勢、焼き殺されたんだぜ。気付いてるか? 吸血鬼の大砲はお前の連れてきたならず者を狙ったんじゃねえ、俺たちを狙ったんだ。……なにが英雄だっ! おれたちは化け物だっ!」
すると、ポロは怒りに顔を歪ませて、ホウロウに殴りかかった。――もはや、声も動作も尋常の人ではない。ホウロウは今際の際に倒すべき相手と腹を決めて、応戦した。火の粉はふたりの殴り合いに呼応していっそう高く舞い踊り狂っている。
もう火砲は飛んでこなかった。楼台で茫然としている吸血鬼もただ傍観するしかないことを悟ったからだった。すると、耐えきれなくなったのか砲手のひとりが逃げ出そうとした。すると、一人また一人と先をあらそって逃げ出し始めた。狭い楼台のうえである。押し合いになって、何人かが落っこちて死んだ。そのようすを見た茶色門に参集した兵卒も「これはもう無理だと」と思って減っていった。
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