虎と虎

  茶色門が揺れている。ブレージアー城下の貧民たちが外の喧噪におどろいて、一心不乱に茶色門をたたいていた。

 口々に「ここをあけろっ!」とか「子供がいるのよっ!」とか、貧しい吸血鬼たちの哀訴が門楼のうえで火砲を構えている兵隊たちに送られている。イグナーツはその声を無視した。副官が「一瞬でも、門を開けることはできませんか」と聞くと「ならん。一度門を開いたら次から次へと押し通り、雑踏が延々と続く。その間に賊軍が黒門を破ったら、この茶色門まで押し通られる」といって聞かなかった。

 まだ、黒門を破られたわけではないが遠くから見る限り、遠くの望楼に並んだ兵士たちは戦意喪失ぎみである。それもそのはずで常備軍のほとんどは貴族たちを守るために赤門の防衛に充てられ、<王家の血>を持つ重臣たちはいまだブレージアー城で評議をしている。

 皆、口にはしなくとも貧民はすでに切り捨てられているのは明白だった。

 すると、なぜか兵卒たちが赤門の方から敗走してきた。敗走してきた兵士たちは「城内に異変ありっ!」と騒いでいるらしい。

 イグナーツは「余計なことを言うな」と口止めした。いま、敵を前にして後方のブレージアー城に異変があったと流布されたら士気に影響する。ただでさえ低い士気である。これ以上下がれば、逃亡する兵まで出てきそうだった。しかも、大将であるイグナーツがつねに逃げ出す機会を探している始末だった。

 ――ホウロウは顔を包帯で覆って隠しながら、路地の陰に潜んでいた。その眼は珍しいものを見るようにぎょろぎょろと動いている。

「ここはどこだ」

 隣に似たような恰好をしているヴィーに向かって彼は問うた。

「どこって……。ここはもう、この国の京師、ブレージアー城下町だよ」

「嘘つけ。こんなオンボロな街。二十四番町といい勝負だぞ」

「だって、ここは貧民街だもの」

 そう言われて、ホウロウは再度、街並みを見回した。低い土塀に仕切られて、地面は黄砂が吹き荒んでいる。ちょうど目の前を大家族が通っていった。母親の手にひかれて、子供が五、六人、芋づるみたいに歩いていく。母親は頭巾をかぶって、大きな風呂敷を背負っていた。――引っ越すような忙しなさである。

 ホウロウがボーっとそれを眺めているとヴィーは肘で彼の脇をつついた。彼女はすでに顔を伏せ、ハーフだと悟られないようにしている。

ホウロウも顔を伏せたが、一瞬、遅れたのか、目の前の丸坊主の少年が足を止め指をくわえて、じっと彼を見つめていた。

(やべっ)と彼は思った。

「……」

 少年は一向に動く気配を見せない。おそらく吸血鬼の少年は人生において初めて間近でハーフを見たのだろう。子供の好奇心は旺盛である。自分で見たものが信じられず、逃げるでもなくただじっとホウロウを見つめている。――見れば、五才か六才ぐらいの子どもだった。

 ホウロウは顔をあげて、にんまりと微笑を作って「あ、おかあさん。もう、あっち行ったぞ」と通り過ぎた少年の母親の方を指さした。

子ども「あっ」と言って母親の方へ走っていった。砂煙が足音に遅れて舞った。もはや、ホウロウの存在を忘れたような清々しさだった。――子どもは不思議な存在だとホウロウは思った。ふと、生まれる前にドマと共に谷底に沈んだ胎児のことを思い出した。けれど、それを振り払うようにホウロウはヴィーに「あぶなかった」といった。

「おバカなガキんちょでよかったね」ヴィーはそう言って笑った。

「吸血鬼はみんな、金持ちだと思ってたぞ」

「全然。ほとんどの吸血鬼の生活はこんなもん。あっちに茶色い門があったでしょ。あの向こう側は少しマシになるけど」

 ホウロウは感慨深げに吸血鬼の街の喧噪をながめていた。皆、逃げ場がなく右往左往して家財を引きずって歩き回っている。砂塵の舞う空中に弱者たちの不安が渦となっているのが見えるようだった。

「吸血鬼側はポロの攻撃にどう耐える?」とホウロウが聞くとヴィーはふっと嘲るような笑みをこぼした。

「常備軍は、あの茶色い門の向こう側に引き籠ってる。――これの意味がわかる?」

「貧乏人は見捨てる気か?」

「さあね。たぶん、兵隊たちも指揮系統が死んで迷ってるんだね。いずれにしても、ここは崩壊する。ハーフの奴らは吸血鬼にやられたことをそっくりそのままやり返すに違いないね」

「ああ、絶対やる。――なあ、俺はどうすりゃあいい?」

「……道はひとつ。怪物になったあんたの弟を殺すしかない。所詮、怪物に引っ張られてきた山賊の集まり。王が敗ければ、賊軍は退散する」

 ヴィーは明朗にホウロウに言った。激しく闘争を促すような語気をもって、その言葉はホウロウに聞こえた。――ホウロウの眼に澄んだ光が宿った。

 彼は視線を落として、俯いた。嘯くように弱弱しく「ダメかも。やっぱり、無理かもしれない」といった。

 突然の弱音にヴィーは目を丸くした。

「はあ? やれるって言ってたじゃん」

「あれは勢いだよ。勢いだけ。――本当は人を殺すのだって嫌なんだ。しかも、血を分けた兄弟だぜ」

「呆れた。ここにきて、そんな弱音言う? ふざけんな」

 ヴィーは怒った。憤然と立ち上がって、ホウロウの頭に浴びせかけるように「ありえないっ! もうやるしかないのっ!」と叫んだ。

 ホウロウもむっとした。

「お前は敵の首を取って喜ぶような奴だからな。わからねえよな。俺ぁ、いまだに、人を殺した瞬間がちらついてる。たぶん、死ぬまで忘れられない。俺はまともなんだよ。おまえと一緒にしないでくれ」

「甘いよ。そして、脆い考え方だね。忘れなよ、そんな感傷はさ」

 ホウロウはかぶりを振った。

「ちげえよ。感傷的になってるんじゃねえ。――感じるんだよ、人の痛み、苦しみが肌をひりつかせるんだよ。まるで、自分の痛みのようにだ。――お前のことだってわかる。感じるんだよ。お前はわるい奴じゃない。そういう風に感じるんだ。だから、信じたんだよ」

 ヴィーは眉をひそめ、ホウロウを睨んだ。

「あんたってもしかして……。へえ、すごいじゃん。めずらし。ははん、なるほどね。なんだ、ただの阿呆かと思ってた」彼女はホウロウを差し置いて何かを納得したようにうなずいた。

「誰が阿呆だよ」

「……ちなみにわたしも感じるんだよ。あんたは悪い奴じゃない。いや、大事を為すには善人過ぎるぐらいだね。もちろん、あんたの弟のことも分かるよ。彼は怒りっぽいけど本来、分別がある人だね。そして、良識があるからこそ、いま誰よりも苦しんでいる」

 ホウロウは顔をあげた。一瞬、驚いたような顔はおもむろにゆるんでいった。

「お前も、分かるのか。世界で俺だけだと思ってた」

「ま、めずらしいけどね。――なら、話は早いじゃん。弟クンはさ。他ならないあんたに止めてほしいんじゃないの? だから、苦しんでるんだよ」

 ホウロウは笑ってかぶりを振った。

「いいや、ちがうな。ちがうんだよ。そうじゃない。あいつは、正真正銘ブチ切れてる」

「じゃあ、どうして弟クンは迷ってるの?」

「……」

 ホウロウは黙った。その眼は遠くの城塞の壁を眺めている。――刹那に天を衝く轟音が背後のブレージアー城の方から鳴った。周りの吸血鬼の群衆は靡くように身を縮めている。世界の終わりかと思うような忌まわしい轟音だった。けれど、その音はどこか意志的なものを感じさせた。まるで、来い、と呼びかけるような意気があった。

「なんだ。いまのは? 人の声じゃないのか? 吸血鬼の城の方から聴こえたぜ」

「いよいよって感じだね」

「どういう意味だ」

 すると、それに呼応するように今度は城塞の向こう側、ちょうどハーフの賊軍が参集している方角から似たような轟音がなった。あたりの吸血鬼たちの動きがいまの音につつかれたように忙しなくなっていく。にわかに騒がしくなった。

 ホウロウは何かを感じたらしい。その声の奥底に懐かしい記憶が沈んでいる。

「――ポロの声だ……」

 ホウロウは幽遠な力が自分の腕を引っ張っているような気がした。運命が自分の意思を超越して、行動が強制されているような感覚だった。ホウロウは逃げるか戦うか、逡巡していた。そうこうしているうちに吸血鬼の貧民たちの戦慄がみるみるうちに伝染した。

 たむろした人の群れは奔流のように暴れ始めた。

 道々に恐怖に揺れる人もいれば、また恐れに絆されて、火事場泥棒を始める輩までいる。

 女が強盗にあったと思えば、子供が雑踏のなかで足を取られて転んで親を呼び、行列の押し合いへし合いが流血に発展している。壁の向こうの見えない怪物にみんな、踊らされていた。

 ――たいていが無力な人々だった。

 ホウロウは無敵だと思っていた種族の弱者としての側面を見た。

(壁の向こうの連中は見ているか。この有様を)とホウロウは思った。

 この世は複雑らしい。簡単な対立では解釈できないようである。

 もはや、誰がドマとお腹の子の命を奪ったのか分からない。討つべき確固たる敵が存しないのである。ただ、この弱者の虐殺を止めたいという儚い正義があるだけである。その正義も頼りない砂地のうえに立っている。そもそも、はじめに仕掛けたのは吸血鬼側だった。ハーフの賊軍は当然の報いと思って攻め込んできている。

(戦うべき敵はいない。それでも……)。

「――龍の声……」ヴィーは空を仰いでひとりごちた。彼女は<変身>した者は尋常ではない大声を発することが出来ると知ってはいたが、実際に聞いたのは初めてだった。

「来たよ。心の準備はいい?」ヴィーがそういってもホウロウは座ったまま動かなかった。

「……」無言だった。その無言は肯定も否定もしていないように見える。やがて、彼は立ちあがった。その横顔を眺めて、ヴィーは一言も言えなかった。ホウロウはヴィーを睨んだ。瞳に刺すような野性的な棘がある。ヴィーは思わず背筋をのばした。

「勝てずとも、かならずポロは瀕死にする。とどめはお前がやってくれ」

「……」

 ヴィーはホウロウの覚悟に潜む亀裂を見抜いた。

(まだ……あまっちょろい)。

 ポロはその程度の覚悟で戦える相手ではない。ポロの<変身>にはルドルフや剣公レオンのような<王家の血>を凌駕する天質がある。彼もまた、ホウロウに匹敵する怪物なのである。決死の覚悟であたらなければ、倒せる相手ではない。

 ヴィーはなにを言うべきか迷った。この場においてはどんな言葉も踏み込み過ぎなきらいがある。――彼女は唇を噛んだ。ふたりには隔たりがまだ大きかった。意見の溝を埋めるには積み重ねた言葉と時間が足りない。

 ――けれど危難は人の迷いを待たない。

 枯れ木を潰すように黒門は粉微塵に吹き飛んだ。あたりに砂塵が舞ったのがホウロウの方からも見えた。

 その砂塵を肩で切りさいて歩いてくるのは漆黒の人影だった。ポロだった。すでに<変身>を終え、ついにブレージアー城下に侵入した。その姿は復讐の神のようだった。刺々しく光沢ある漆黒の鎧は何も知らない無辜の貧民を恐懼させて余りあった。

「……全員、殺してやる」

 黒門付近の兵卒は望楼の上からその人影に矢を放っている。カチンと矢じりが鎧に軽く弾かれている。兵卒たちが、その無意味を知るのに時間はかからなかった。ポロは何か雨のようなものが上から降ってきたと思って顔をあげた。

 そして、雨だと思っていたのが弓に射られていたと気づいて、彼は鼻で笑った。

歩くだけで足が砂地にめり込んだ。重厚な図体に比べても、実際の体重は狂ったみたいに重くなっている。そして、その体躯が虫のような初速で動く。地面を走るのは早いが跳ぶのは遅い。――ポロは跳んだ。その跳躍は望楼に届いた。

 兵卒たちの眼には、その走る速度に釣り合わない遅鈍な浮遊が悪魔の飛翔のように見えた。

 たちまち、楼台には死体があふれて、血肉が城塞の壁に滝のように流れた。

 ポロは最後に残った吸血鬼の兵卒を真っ二つに引き裂いた。肉漿が鎧に暗黒の光沢を与えている。ポロは彼方のブレージアー城を眺めた。

 彼はすでに先を見ている。その横に幽霊のように真っ白い肌色をしたタンが青い目を輝かせて控えていた。半開きになっている口の端に涎がたまって、鼻血が噴き出している。明らかに死相が顔に出ているが、背筋は張って足もしっかり地面を掴んでいる。まるで、彼女の肉体の外に燃料があるかのようである。

 

 ポロは彼女に目もくれず、ブレージアー城に釘付けになっている。真下の貧民街には人の気配はない。すでに黒門を破壊されたことに慄いて住民の大半は茶色門のほうへ逃れている。が、その門は固く閉じられたままだった。――いずれにしろ貧民に逃げ場はない。

 ポロは鼻を鳴らし、微笑を見せた。吸血鬼の醜い姿を拝んで、気分がよかった。

「……」

 気づかなかったのか、そういうフリをしているのか定かではないがポロは望楼の下に立っている壁のような巨漢に目もくれなかった。ホウロウは望楼に立っているポロを見上げて、無言だった。もはや、無言は無言ではなかった。

 言葉以上の意図が静謐のなかで火花を散らしている。

 傍から見て、ヴィーは身震いした。

「そこから下りてこい」

 ホウロウが口火を切った。ポロはそう言われて初めて、視線を落とした。

「いやだね」

「じゃあ、そこでいい。――で、ポロ、おまえの望みは何だ?」

「吸血鬼をこの世から消す。兄者、邪魔はしねえよな? だから、変身もせずに来たんだろう?」

「おまえ本気か」

「本気だとも」

「逃げていった吸血鬼の風体を見たか? ただの貧乏人だぜ。ぼろを着た俺たちと何も変わらない」

「しらんな。そんなことは」

「お前が殺した吸血鬼の子どもを助けた。それでわかったんだ。あいつらは普通だ。俺たちとおなじだ。多少見た目がちがうだけだ」

「……あにじゃ、目を覚ませ。その多少の違いがすべてなんだよ。それだけが、俺たちと吸血鬼の生死を分けた。龍のアギトの有様をわすれたのか」

 ポロの目つきが取りつかれたように冷酷な光を帯びた。その発言にも自分に言い聞かせているような狂気がある。望楼のうえに死神が降臨したようだった。

「あにじゃ、俺は分かったぜ。生物として、吸血鬼より俺たちの方が優れている。しょせん、奴らはヒューマンに戦争で大敗した劣等種にすぎない。――俺はハーフの国を創るぞ。ヒューマンが攻めて来るなら攻めてくりゃいい。奴らも根こそぎ、なぎ倒す。ギルバートなんぞ、恐れるに値しない。なんなら、ヒューマンと魔族も混ぜ合わせてしまえばいい。種族などこの世には必要ない。ちがうか、あにじゃ」

 ホウロウは茫然とした。話が支離滅裂だった。なぜ、ここで関係のないヒューマン族が出てくるのか。意味不明だが、ホウロウはそこに明朗なる攻撃性を感じた。それは吸血鬼にたいする排斥思想というより、強者が弱者をいたぶる嗜虐的発想に思われた。そして、その思考はいまも論理で完結せず、別種の化け物じみた狂気に動かされている。

 ホウロウはポロがいまの<変身>した姿そのままの怪物に見えた。

 ――破壊神。

 ホウロウの直感は閉じられた。ポロの考えが読めない。ヴィーも同じだった。

(……別人だ)と彼女は目を剥いた。それにいまこの瞬間も彼女の視線をひきつけるのは、そのポロの背後に侍している死に体の少女である。ヴィーは目を凝らして、その不気味に青い瞳をにらんだ。

 リュウガン、という語がヴィーの脳裏に去来した。それは人を兵器に変える麻薬である。使ったものは闘争を求める野獣と化す。そして、その瞳は青く象徴的に光る。龍の眼は蒼いと言われる。ゆえに、その瞳を青くする麻薬は龍眼と呼ばれた。

「――やったな。この化け物っ!」

 ヴィーはポロに向かって叫んだ。何を非難されているか分かってポロは頭を掻いた。鎧に隠れた表情は冷笑的に弛緩していた。

(気づいたか。このチビ女)とポロは見直す様にヴィーを睨んだ。

 すると、間髪入れずにポロは「あにじゃ、そこの女。いったいなんだ? ドマが死んで寂しくなったか?」といった。ホウロウはやすい挑発には乗らなかった。無言のまま、ポロから視線を動かさなかった。

 ホウロウは耳打ちするようにそばのヴィーに「なにを怒ってる? ポロはなにをした?」と聞いた。

「まちがいなくあんたの弟は人道をはずれた」ヴィーはそういって顔を伏せ説明するのを嫌がった。

 ホウロウは彼女の赫怒を感じた。

(おまえ、いったいなにをしでかした?)と言いたげなホウロウの瞳が虚ろに光った。

「お前の方こそ後ろのガキはなんだ?」とホウロウが聞くとポロはかかと笑った。

「あにじゃ。あんたのその態度、おれはきらいだ。いつもそうさ。俺のことを見透かすような目つき。――鬱陶しい。おれは鬱陶しかったんだ、それ」

「いいや。おまえのことはおれにしかわからない。――まだ、間に合うぞっ! おまえの後悔が聴こえる。聴こえるんだよっ!」

「まだ、間に合うって? なにが?」

 ポロはせせら笑う。同時に地面にどよめきが起こった。爆発したみたいな喊声が地面を蹴る音と混ざり合って近づいてくる。音が大きくなるほど雄たけびを上げているような狂気と熱情が克明に感じられた。

「はっはっは。ここは無法だ。無法だぜっ! おまえらっ!」

 ポロは楼台の上で両手を広げた。その真下を賊の集団がとめどなくあふれ出すように侵入してくる。ハーフのヴィーとホウロウには目もくれず、賊徒たちはブレージアーの一直線の大通りを進んでいく。

 止めるにも、あまりに絶望的な人数の力だった。

 ホウロウは茫然と見送った。――事後的に、ふりかえり、あの賊徒たちが、茶色門のまえで身動きが取れなくなっている貧民とぶつかったら何が起こるのか真っ赤な想像が働いた。

 ――未曽有の流血である。龍のアギトの死体の山がホウロウの脳裏によみがえった。

 彼は直感的に考えた。いま、この瞬間、<変身>して止められる人の物量か? また、何千という同胞を自分の手で殺すのか? 

 ホウロウは歯噛みした。無言でその巨躯は崩れ落ちた。もう力もないみたいにホウロウはうつむいて動かなかった。

「ちょっとっ! あきらめるのっ!」ヴィーが声を励まして叫び、ホウロウの肩を掴んで揺らした。

「もう遅い。おれがのろまだった」

「いいや。まだだね。――王が死ねば、散り散りになる」

 ヴィーはポロの方を指さして、そういった。

「……」

 ホウロウの表情に厭世的な諦めが映った。同胞と弟を殺したくないという憐憫が招いた心の閉塞だった。いま、彼の儚い希望は消え去った。この状況からは山のように人を殺めなければ戦争は止まらない。戦っても流血、戦わなくても流血である。

 彼はするどい。するどいゆえに先が見えた。――血の海に向かって歩くしかないと理性では分かっているが、もはや、自分は何もしない方が運命に適っているような気がした。

「ここで逃げたら絶対後悔するよ」

 ヴィーはそういった。ホウロウはぞくりと背筋に悪寒を感じた。

「……なんで」

「貴方に背中を預けてる味方がいるから」

「俺に味方はいないぞ」

「いまは分からなくてもいい。ただ、貴方ならその人の情念を感じられるはず」

「わからねえよ」

「でも、ずっと吸血鬼を信じてるでしょ。彼らがまともだって」

「信じてるんじゃねえ。<見た>んだよ」

 ホウロウはそう反論した。そして、その言葉を裏付けるように彼の脳裏にエーデルガルトの愛嬌のある童顔が思い出された。ホウロウは、あの無垢に吸血鬼のすべてを見た。それはある意味、誤謬にちがいなかったが希望を見出す誤謬だった。

 ホウロウはがばりと立ち上がった。

「ポロ、最後だ。終わりにしよう。――お前が敗けたら、あの賊どもを連れて消えろ」

 ホウロウは望楼のうえのポロを見上げて、そういった。するとポロは鼻で笑った。

「なにを言ってる。もはや、あいつらには誰の言葉も通じない。おそらく、俺を殺しても無意味だぜ。眼がくらんでるんだよ。腹が減ってるからな、食い物を見たら止まらない。それに……女だ。吸血鬼は美形だからな」

「おまえ……」ホウロウは二の句がつげなかった。

「気づいたのさ。種族を無くすには、この方法が一番いい。奴らのせいでハーフの女は目減りしたからな。胤は足りているが、容器がないわけだ」

「……ああ、今わかったよ。おまえは人外だ。やる。お前を殺す」

「そう言いつつ、あんたはいつまで経っても<変身>しないじゃないか。しょせん、あにじゃは甘っちょろい」

「やると言ったらやるぞっ! おれはっ!」

 ホウロウはかがみ込んだ。正真正銘、<変身>する気だった。気力は十分である。ヴィーはその昂ぶりを察して、彼を守るように前に躍り出た。<変身>は一定の時間を要する。その間はホウロウといえども、蛹のように無防備である。しかも、いまの精神状態のポロが悠長にその間隙を見逃すとは思えない。賭けだった。

 だから、ヴィーの咄嗟の行動はホウロウに驚きと勇気をあたえた。

(こいつ、なぜわかる。俺が変身の最中、無防備になることを知ってるのか?)。ホウロウは当惑した。

 そして、彼女の小盾を見て直感した。

 トルンでも見せた、あの異様な戦闘方法。攻撃を捨てた受け流し。ホウロウの中でヴィーのくぐもっていた人物像の一片が垣間見えた。

(まるで、俺の無防備になる瞬間を守るためにあるような……)。不思議な縁を感じて、ホウロウはヴィーを見た。

 すると、彼女はふりかえって「わたしが死んでも、それやめないで」といった。

 ホウロウはハッとしたが<変身>を止めなかった。が、気が逸った。焦るほど、太古の力からは遠ざかる。ただでさえ意識的に使うときはいつも手間取る。逆に突発的に発動するときが一番早い。

 ようは怒った時が一番、早いのである。

 けれど、だれでも意識して怒るのはむずかしい。しかも、もたついて肉体の変質が長くなればなるほど、痛みに混迷する時間もおのずと伸びる。しかも、痛みを乗り越え<変身>したとしても、勝利が約束されたわけではない。いや、仮に勝利したとしても<変身>の負荷で死ぬことも十分、考えられる。

 ふつうは迷う。迷って当然である。

 ――が、彼は迷わない。自分の死の不安だけには縁がない。ある意味、ホウロウは狂っている。――彼は己の保身に拘泥したことがない。そういう星のもとに生まれた巨人だった。

 ゆっくりと呻きをあげるようにホウロウの体に微動が起こった。肉体の深部で種火が育ってきている。筋肉が泡のように膨れ上がった。まるで、沸騰する鼎のなかにいるような熱が皮膚の表面を覆った。

 ――ホウロウにとっては永遠と見紛うような長い時が流れた。

 そして、それはやはり遅い。遅鈍極まりなかった。ヴィーは(……ギリギリか。紙一重。)と直感した。

 ポロはその様子を睥睨して鼻をならした。

「なあにを勘違いしてんだ、あにじゃ。あんたの相手は俺じゃない。――ほら、いけよ。タン。あいつが例の男だぜ」

 そういってポロは幽霊のように茫然と立っている少女の背を押した。ぐらりと頭を揺らして、危うい足取りで彼女は望楼の縁に立った。青い目玉が真下のホウロウを見るでもなく、どこか山川の向こうを見ている。

 ヴィーはてっきりポロが襲い掛かってくると思いきや、後ろの少女が歩み出てきて驚いた。この時、ヴィーはポロの恐れを感じた。

(ポロは恐れている……。……ああ、いま完全にわかった。彼も兄弟を殺すのをためらってるんだ。――あきれた……。そろいもそろって、この軟弱者どもめっ!)。

 そして、この時、ヴィーが最も恐れたことはホウロウの気が萎えることだった。麻薬に侵された少女の変身を見て、彼が何を思うか、ヴィーはおおよそ想像がついた。虫も殺せないような優男である。少女の苦悶に気を持っていかれる。

 下手をすれば、変身すらさせてもらえず生身のままホウロウは殺される。ヴィーは焦った。しかも、そのことをホウロウにくどくど説明している時間もない。

 ――この一世一代の大勝負に挑むには、ヴィーとホウロウの過ごした時間が短かった。その意思疎通の薄弱がこの時、致命的に働いた。

 ポロは言う。

「タン。あいつを殺せば、ご褒美をやるぞ。ほしいだろ。これが」

「うう、ううん。ほ、ほじいい」

「なら、やれ。あいつを」

 タンは返事をするように「はっ」と息を吐いた。その瞬間、彼女の眼は壊れたみたいに焦点を失って左右逆を見た。

「わがった」

 タンは無痛の世界にいた。もはや、焼け付くような痛みすら心地よい。情緒は大半が消え失せている。最高の欣喜と最高の怒色とがごちゃ混ぜになって、それが仮面をとっかえひっかえするように変わっていく。

――そのカオスのなかで、ある一つの明朗な欲求が心を支配していた。リュウガン。その一語、一音が脳髄を叩いている。

 リュウガン、リュウガン、リュウガン。しまいには、タンの眼にはホウロウが巨大なリュウガンに見えた。

 ――風を切るような音だった。ホウロウは認識すらしていなかった。彼は自分の苦悶に集中していた。あとすこしだという感覚が彼にあった。目の前の戦場の変化に気づくはずがない。

 タンは変身と攻撃を同時におこなった。それがヴィーの想像の範疇、技術で抑えきれる範囲を紙一重、超えた。

 タンはヴィーを小盾を突き飛ばし、ホウロウに噛みついた。フラーガの形質を受け継いだ彼女のアリのような顎が彼の肩に突き立っていた。

 めりめりと肉が切りさかれる音が鳴った。

「――っ!」

 ホウロウは茫然とした。痛いと思うより先に困惑した。

「なんだ。てめえ」

 ホウロウは腕を振り回した。軽々、タンの体は振り回された。が、その顎は彼の肩を掴んだままだった。彼女の顎はより深く、ホウロウの肩を削るように噛み続ける。

「むぐ。むぐぐぐ」

 ――決して離すまいという彼女の気迫が漏れ聞こえた。まだ、ホウロウはタンが年端のいかぬ少女だと気づいていなかった。狸ぐらいの虫が襲い掛かってきたものと錯覚している。だから、躊躇なくその頭を掴んで引きはがした。

「こ、こども……」

 ホウロウは気づいた。その瞬間、掴まれたタンは宙ぶらりんのままホウロウの腹を蹴った。子供とはいえ、<変身>した魔族の一撃である。しかも、ホウロウは生身のままだったので、彼はくの字に折れた。地面に膝をつくと吐きそうになったのを根性で押し戻した。

 すると、その隙を見逃さず、タンは膝をついて同じ高さになったホウロウの頭にめがけて殴りかかった。

 勘か、偶然か、ホウロウはそれを躱した。

攻撃が当たっていないのにかかわらず、ホウロウは困惑に顔をゆがめた。

(このガキ。ひとの殴り方をしらん)。タンは拳を握らず、平手で攻撃したのである。彼女は拳で人を殴った経験がない。自分の凶器の使い方をしらないのである。

 そして、その無垢はホウロウに言葉で言うより容易く伝わった。

 ――爪がホウロウの頬に引っ搔き傷をつけていた。赤い線が描かれて、そこから血が滴った。

 なにが目の前の少女を慣れない闘争に駆り立てるのか。彼はちいさな敵を前にして迷った。

 (いったい、なにをしやがった)とホウロウは望楼のうえで高みの見物をしているポロを睨んだ。何かを知っているのかほのめかすようにポロはホウロウの視線に屈さなかった。ふいに、もう次に意識を向けるようにポロはブレージアー城に視線を移した。

 その瞬間、タンはホウロウに再度、覆いかぶさるように近づいた。彼女は口を目いっぱい開けた。燃えるように赤い喉がみえた。――噛みつく気だとホウロウも分かった。押しのけようとして、ホウロウは自分の右腕に違和感がした。思いのほか、噛みつかれた肩の傷は深かったらしい。腕が垂れさがったまま上がらない。

 いまになって(痛い)と意識のうえにのぼってきた。さすがにホウロウでも生身のまま、首から上に噛みつかれたら死ぬ。けれど、そう直感しても、ホウロウは動けなかった。というより、想像よりタンの動きが速かった。

 <変身>した魔族を前にすれば、ホウロウも死を待つ凡人にすぎないのである。

 ――刹那にヴィーが割って入った。タンに吹き飛ばされたときにぶつけたのか、彼女は頭から血を流していた。ヴィーの瞳は額から流れる血を浴びて、いっそう血気を宿した。

 鬼神のごとく躊躇なく、ヴィーはタンの攻撃を受け流し、唯一、<変身>した魔族の弱点をついた。その一か所だけはどんなに高級な変身能力だろうと守られない。

 ――目である。その一点を攻撃するには、極論、刃物さえ要らない。ヴィーは指でタンの目をついた。

「うがあああっ!」

 タンは獣のような呻きをあげた。右手で右目を押さえるがとめどなく血があふれている。ヴィーは容赦ない。一瞬、このタンの劣勢をうけてポロがどう反応するか彼女は観察した。

 同時にポロは望楼から飛び降りた。

 (やっぱり、うごいた)とヴィーは間髪入れずに、タンの残った左眼を狙って間合いを詰めた。瞬間、タンは危険を察して残った左眼を見開いて、ヴィーにつかみかかった。

 子供と思って侮ったか、目算を誤った。ヴィーはタンが嚙みついてきたのを紙一重で小盾で防いだ。が、その小盾をかみ砕かれた。一歩、ヴィーは後手を踏んだ。すると、その一歩を追ってタンは平手で彼女の脇をたたいた。

 鈍い音がホウロウの方にも聴こえた。

 児戯のような所作で悪魔のような威力である。肋骨が折れた。しかも、尋常な折れ方ではない。ヴィーが苦悶に顔をゆがめたのを見て、タンは再度、腕を振り上げた。偶然、ただの偶然、ヴィーはそれを避けた。避けたと同時にしりもちをついた。

 閃光のような死の直感がヴィーの脳裏をかすめた。一瞬の世界で生きてきた経験が死を克明に先取りして描いている。

(死……)。

「よせっ!」

 ホウロウが今度は間に入った。間にあわないと踏んで、ヴィーの肩口から腕をだして、タンの平手を掴んだ。フラーガの爪はするどい。タンの指先の爪がホウロウの手のひらに突き刺さったが、ホウロウはその痛みごと、無理やり握りこんだ。

 その瞬間、にらみ合うタンとホウロウの間でヴィーは気を失いかけて、ぐたりと地面に膝をついた。

 ホウロウは片手でタンの狂気的な前進を抑え込んだが、ふいにタンは足を振り上げてヴィーを蹴った。ヴィーはそのまま弧を描いてあばら家の戸を貫いて見えなくなった。

 一瞬、彼女を心配してホウロウはタンから目を切った。そのとき、ホウロウを押し切らんとする力が強まった。じりじりと砂地の上を押され始める。ホウロウは「おい。こ、こどもが戦うなんて、ありえないっ! やめろ、いますぐだ」といった。

「う、うるざいっ! 死ねっ! 死ねっ!」

 彼女の悲鳴に似た叫びがホウロウの耳をつんざいた。割り込む余地のない闘争本能である。

 (……天は残酷だ)。

 ホウロウはうそぶいた。目の前で、少女が自分を殺す一心で命を削っている。背後からは略奪と姦通の阿鼻叫喚が聴こえてくる。その恐怖や苦悶は沸き立って、空を歪めていた。皆、自分の命数を数えるのに必死である。他人の声は聞こえない。けれど、ホウロウはその声を感じた。たいていの人々が聞き逃す細部までをも吸収した。

 彼の瞳が涙で曇った。

「いったい、なんだよ。なんの涙だ」

 ホウロウは自分に困惑した。すべてがくぐもって聞こえ、自分だけの時間が流れているような混迷のなかにいた。今さら、人の生死に流す涙があるものかと涙を着るように目を瞑った。鮮明になった視界のさきにポロがいた。皆、命を燃やしているのに、彼だけは悠々としている。鎧の奥で光る瞳が冷ややかだった。

(なんで、平然としていられる。みんな死んでいく。死んでいくんだぞ)。彼は敵を目の前にして憤りにかき乱された。

 タンは爪でホウロウの首筋をひっかいた。真っ赤な溝のような傷が首に刻まれた。とっさにホウロウは首元を押さえたが手指のあいだをぬるぬると生温かい血が通り抜けていく。視界に亡霊のような黒い影が降りてきて、尾てい骨のあたりから氷が這い上ってくるような寒気を感じた。

 ――死。ホウロウは観念した。自虐的な微笑を含んで、タンを見返した。

「そんなに俺に死んでほしいか」

 タンはうぅと唸った。ホウロウはうなずいて、ポロを見上げた。

 「俺は……」

 言葉が詰まった。弟に最後に言うべき怨嗟の言葉が思いつかなかった。この期に及んで、いまだに弟に甘い彼だった。

 ポロの鎧はこころまでをも遠くしているようだった。かれはうんともすんとも言わない。けれど、ホウロウは鼻で笑った。すべてをあきらめたような退廃した微笑を浮かべて、ホウロウは出血する首の傷を押さえたまま後ろにしりもちをついた。後悔が頭をもたげて、それが徐々に失血で暗くなる意識に塗りつぶされた。背後から無辜の者たちの塗炭の苦しみが聴こえてくる。ハーフの賊徒たちは弔い合戦に名分を借りて好き放題やっているらしい。正義を盾に行うことは苛烈を極めている。溝渠の泥水は血で洗われた。ホウロウは自分の過ちを想った。

(あの時だ。あの時にポロを殺すべきだった)。彼はポロの変調が起きた、あの夜のことを悔いた。引っ越しの道中の吸血鬼たちを惨殺したときのことである。

 あの時に、本気で戦うべきだったと彼は思った。もっとできることがあったはずだった。

 とはいえ、もはや、それをとり戻す気力はない。ホウロウは気を失う寸前だった。死を覚悟して身構えているのだが、一向にその時は訪れない。タンが瀕死のホウロウを前にして動かないのである。焦点のあっていない瞳はやや斜め下を見ている。

 ホウロウは亡霊のような黒い帳の降りている視界のさきを探るように目を動かして「なんだ。なにをためらってる?」とうわごとのように言った。

 タンは答えない。口の端に溜まった涎が顎を伝っている。半開きの口がもごもごと動いているのが見えた。

「早くやれっ! そいつを殺せっ!」

 ポロの声が聴こえた。その声でタンが強張ったのが分かった。曖昧な視覚のなかで、ホウロウは彼女の恐怖を明晰に感じた。

 彼は手をこまねいて「もう俺は反撃しない。こわくないよ。自分の手を見ろ、立派な爪があるだろ? それをな……おれの首に向かってガリっとするだけさ」といった。タンは茫然とホウロウの顔を睨んだ。

 もはや、その憐憫を感じる隙間さえタンにはなかった。その心は空洞で、なかは痛みと苦しみが蔓延していた。負の感情だけが急激に膨れ上がっていくのがわかった。

 ホウロウは眼を見開いた。

 つぎの瞬間、タンは目と鼻と口から血を吐いた。一瞬、泥かと見間違うほど黒い血だった。

「おい。待てよ」

 ホウロウはおどろいて手を伸ばした。が、タンはふらふらと千鳥足でその手から離れるように歩いた。彼女の苦悶が背中から破裂したみたいにひびいてくる。それは死ぬことの恐怖だった。急激にホウロウは気力をとり戻して、その声を聴いた。普段のホウロウも、ここまで明瞭に他人を感じることはない。彼女の心の暴走が彼を感化しているのである。

 今際の際に、タンは幻影を見た。がれきの下に埋まった家族の幻影だった。彼女はその幻を追いかけて、血を吐いて歩いている。

「ちがうぞ。家族はそっちじゃないっ!」

 ホウロウは思わず叫んだ。そう言われて、タンは初めてふりかえった。目が合った。彼女の目からは泣いているみたいに血が流れている。しきりに頭が風に靡いているようにぐらついていた。

「そうだ。こっちにこい。お前のことはわかる。おれ、わかるんだよ」

 ホウロウはそういって笑った。それに対してタンが微かに笑い返した。

 すると、ここまで沈黙を守っていたポロが望楼から飛び降りた。地面に巨大な鼎を落としたような地響きが起きた。その振動の前には、どんな建造物も矮小な物のように頼りなく揺れる。

 ――ポロは「時間切れだ」とうそぶいて早歩きでタンに近づいた。その重量を感じさせない機敏な所作である。ポロはタンを見下ろした。

 彼女のちいさな靴が地面を離れて、ふらふらと洗濯物みたいに揺れるのが見える。ぐきりと音がした。一連の光景がすべて遅くも見え、また、神速のようにも見えた。ただ、ホウロウは何もできなかった。かわいそうだとか、哀れだとか思う間もなかった。

 タンは首の骨を折られて殺された。ほかでもない弟のポロの手によって。ポロはぼろ布みたいにタンの死体を路傍に投げ捨てた。死体は顔面から地面の汚泥をすすっている。

 ホウロウはタンの残響を聞いた。彼女の死の恐怖は消え失せた。けれど、あとには何も残らない。暗い沈黙だった。

 ――その時、彼の血は血管と血流に強烈な摩擦が掛かったみたいに熱くなった。

「やったな……」

 ホウロウは自分の体が波打つのを感じた。憤懣は<変身>を筋肉の瞬発のように迅速にする。――彼は悠遠な先祖の声を聴いた。その声はホウロウに目覚めよ、と命令している。タンの死体が見えた。背後からは凌辱の悲哀が聴こえてくる。地獄だった。誰のせいかは分かった。ポロのせいで、その彼を野放しにしたホウロウのせいでもあった。

 おそらく、兄と弟のふたりは殺し合う運命だったのかもしれない。

 (ああ、いいとも。お前は敵だ)。ホウロウは受け入れた。運命と自分の渾身の怒りとを。

 ポロはホウロウの変化に気づかず、「あにじゃ。すまない。さようなら」といって無防備に近づいた。ホウロウは膝をついて地面に視線を落としたまま動かない。一見、死に体に見えるが、さすがにポロもホウロウのうなじを目の前で見下ろしたら、異様な気配に気づいて止まった。

(あにじゃは……まだ生きている)とポロが身構えようとした瞬間、彼の首は跳ね上がった。ガラスみたいに顔を覆っていた鎧が剥げて、その破片が飛んだ。ポロは貧民街の埃をかぶった母屋を何棟も破壊して飛んでいった。

 ――龍の声が響き渡った。ハーフも吸血鬼もみんな、耳をふさいで震えた。地獄が一瞬止まった。

 ここで、ブレージアー城内の菜園で取っ組み合っていたルドルフとレオンも、その時だけは空を一瞥した。

 ルドルフは狂喜して「ははは。聞いたか、レオン坊。我の友人、ポロ王の声だ。よいか、あいつはこの世の誰よりも強くなる。あいつの前では、おまえなどは塵芥にすぎない。ギルバートも帝都の連中もいずれ知ることになる」

 レオンはルドルフに頭突きをして「若君、どこを見ておられる。貴様の相手は俺だぞ」といった。レオンは動揺しなかった。彼には彼の戦いがある。レオンはルドルフの入れ墨だらけの顔を殴った。ルドルフは地面をころがって菜園の柵を破壊しながら城下の方へ石段を落ちていった。

 ルドルフは膝をついて前を見た。気付けば、城下の目の前まで来ていた。わけを知らない貴族たちの視線がルドルフに注がれている。当然、敵を前にして<王家の血>を開いた兵を味方と思い込んでいる彼らだから、その目つきは爛々と英雄を見るような光があった。

 殴り飛ばされて激昂したルドルフは追ってきたレオンを睨んで諸手を広げ「さあ、つづきはここでやろう。何人、巻き添えになるか知らないが」と笑った。

 レオンはおどろいてあたりを見まわした。衆目と目が合った。

(ここで戦えば、無実の人々が死ぬ)とレオンは直感した。<変身>した魔族の身体能力は異次元である。もし、ふつうの魔族がレオンとルドルフの衝突にすこしでも触れたら無事ではすまないだろう。

 事故を起こさないように戦うことは、ただルドルフに勝つことよりむずかしい。ネズミを間に置いて潰さないように取っ組み合いをするようなものである。

 老婆がハッと口を抑えて、「ラインハルト様」と言った。老婆はかつてギルバート侵攻を防いだレオンの父親ラインハルトの幻影を見たらしい。

「いや、あれは……剣公レオン様だ。生きておられたのか。ああ、あの御姿。よく似ておられる」と貴族風の男がいった。

 ルドルフはそれを聞いて哄笑した。

「大衆は我れの顔をもうとっくに忘れたのに、あの頑固ジジイのことは憶えているのか。結構結構」

 ルドルフは腹いせに、貴族風の男を一瞬で絞め殺した。凶悪な微笑を浮かべて、死体を住戸の屋根まで放り投げた。

 それを見てレオンは大声で「皆、逃げよっっ!」と叫んだ。皆、蜘蛛の子散らすように四つ辻から四方へ逃げていった。が、老婆が足を絡ませて転んだ。

  ルドルフは爬虫類のような目つきで老婆を睥睨した。

  レオンは老婆が危ういと悟って間に入るように突っかかった。が、ルドルフは最初から老婆など眼中になかった。巣を張った蜘蛛みたいに彼は待った。レオンが「下郎っ!」と助けに入った瞬間、ルドルフはぐるりと振り向いて、その勢いで彼の面を思い切り殴った。

(骨が砕ける手ごたえだ。ああ、お前はなんて御しやすい奴なのだ)とルドルフは舌を出した。

 レオンは石畳のうえをころがった。顔を覆っていた皮膜の一部が窪んで裂けていた。そこから真っ赤な果肉のような血が露出している。片目が開かない。視界の半分が黒い。

「眼をやられたか」

 レオンは何気なく嘯いた。

(たしか、エルの眼も……)と彼は皮肉めいた感傷を抱いて立ち上がった。ルドルフは眉を寄せた。龍の飛翔のような威風を感じた。

「来いよ。――ルドルフ。……まさか、怖いのか」レオンは煽った。露出した真っ赤な顔半分は再生していく皮膜の中に隠れていった。

「利器の無い鉄くずなど恐れはせんわ」ルドルフはそういったが、内心、恐れを抱いた。

 正義とは狂気である。その狂気は恐怖や痛みを弱らせて、人を死に物狂いにする。逆に悪は理性的である。けれど、その理によって相手を御するまではいいが、痛みや恐怖は厳然と感じる。感受性を鈍麻にする狂気がないのである。

 ルドルフは悪性によってレオンを上回り、レオンは正義によってルドルフに再度、追いついた。

 お互い人生を完全に投下して殺し合っている。それはまるで延々続く討論のように見える。

 ――悪とは何か? 正義とは何か? 

「――おお。おお、なんたる御姿」

 腰を抜かした老婆は一時、恐れることをわすれた。逃げながら、老婆は何度もレオンの方を振り返った。燦燦と正義を祝福するような陽光がその銀色の鎧に反射して眩しい。ギルバートに立ち向かったラインハルトの幻影にあまりに似すぎていた。

 けれど、その幻影も暴力的な打撃音と、それに呼応して舞い上がる瓦礫や粉塵のなかに消えた。つかみ合いになって顔を突き合わせるとレオンは「さては、もう逃げることを考えているなァ、若君」と言った。言葉の余白を埋めるように二人は殴り合っている。

「ハッ。あいにく、お前のような古い時代人じゃないんでな。悪人でけっこう。だが、さいごに勝つのは我らだ」ルドルフはそういって血の混じった唾を地面に吐き捨てた。

「なら、まず俺に勝ってから言え」

 レオンは頭突きをして、ルドルフを投げ飛ばした。石塀を突き破り、ルドルフは跳んでいった。地面を跳ね返るように転がって、他人の庭の蓮池に突っ込んだ。水玉が飛び、ルドルフが起き上がると、膝まで水に浸かりながら、二人は向かい合った。険しくなった顔と顔の口角のあたりから白い歯が覗いている。

 討論は続いた。お互い妥協点はしらない。


 

 





 

 

 

 

 

 

 


 





 



 

 


 

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