ルドルフ再臨
ブレージアー城は騒がしかった。ヒルデガルトは自室で茫然としていたが、ふいに城内に地響きがしたので「な、なに」と立ち上がって、おそるおそる自室の扉を開けて廊下を覗いた。彼女の部屋は二階である。だれもいないが、目の前の欄干の下の内庭から剣戟の音や悲鳴やら聴こえてくる。
どうやら、曲者か間者らしき者が城内に闖入しているらしい。
彼女は大声を上げようかと思ったが、異様に城内の武士のすくないことに心細さを感じて扉を閉めた。
(そういえば、戦時中で近習の数が少ないんだわ。どうしましょう)。
迷っていると拷問されているような声が自室の目の前の廊下まで響き渡ってきた。なにより、その声が女性のものだったので、彼女は鳥肌がたった。この闖入者は男女関係ないらしい。
彼女は命の危険を感じて、部屋の周りをうろうろして活路をさがした。みずからの足で城外へと逃げ奔る勇気はすでにない。
結局、彼女は衣装箪笥のなかに隠れた。膝を抱えて、息を殺した。心臓の高鳴りが耳元まで血潮の塊がぶつかったみたいに聴こえた。
ふいに扉の奥からこつこつと歩いてくる靴音がした。足取りが悠々としているので、すぐに直感的に闖入者だと分かった。ヒルデガルトは拳を握って唇を噛んだ。恐れる心の反動で腹立たしさが先に眉間を熱くさせた。
(この役立たずの兵どもめ。くせ者一匹も満足に殺せんのか)と胸奥で城内の衛兵たちに毒を吐いていた。
とはいえ、そうしているうちにも足音はゆっくりと近づいてきている。
靴音は何かを探しているように時おり止まり、そのたびに彼女は怖気を覚えた。
(はやくどっか行け)と念じるように箪笥の中で手を合わせた。
不気味な沈黙に包まれた。ヒルデガルトはおそるおそる箪笥の扉の隙間から自室の様子を覗いた。
すると、勃然と部屋の扉が吹き飛んで黒い影があらわれた。粉砕された扉のうえでその影の首あたりが左右に動いたときにヒルデガルトはそれが人だと分かった。
真っ白い絹のような体が朱にまみれて、悪趣味な模様のようになっている。ふいに顔が彼女の隠れている箪笥の方を向いたとき、彼女はぎょっとして悲鳴を抑え込んだ。おそらく、すこし悲鳴の吐息のような声が漏れたらしい。それを聞いて侵入者は確信した様子で箪笥に向かって微笑を浮かべた。
「――ああ、そこにいたか。ご婦人」
男はそういって笑った。その顔は入れ墨だらけだった。ヒルデガルトはその男が植物園で出会った者だと気づいた。彼女が我慢できず悲鳴を上げる寸前、男は懐から青い花を取り出した。男の手のひらに載ったその青い花は彼女が城内で行ってきたことの悪逆性を示し、ここで冷酷に殺されることに何らの悲劇もないことを暗示しているかと思われた。ヒルデガルトの悲鳴がブレージアー城にこだました。けれど、それは寒風のように寂しげに血だらけになった城内に響き渡って、その声を聴く者はいなかった。
――ルドルフはヒルデガルトの頭を掴んで城内を引きずり回した。彼女の「お慈悲を、お慈悲を」と叫ぶ声が聴こえていない。柱廊を歩くルドルフは無言だった。
「金目のものは何でも持って行って構いませんから。どうか、命だけは」
ヒルデガルトはそう言った。ルドルフは苦笑した。
「持っていくも何も、この城にあるものはもともと、俺のものだ」
ルドルフは無理やり、ヒルデガルトを立ち上がらせ、その背中をつつきながら歩かせた。彼女はルドルフの言ったことの意味が分からなかった。
「ご婦人、なぜ、貴女がコンラートの阿呆の側室になれたか。よく思い出してみるがいい」
「はて、いったいなんの話か分かりません」ルドルフのまえを臆病に肩を縮ませてヒルデガルトは答えた。
「十年前、我れコンラートの側室を真っ二つにして、上半身だけを玉座に座らせた。その空室にまんまと居座ったのが貴女だ」
ヒルデガルトはそれを聞いたとたんに全身が震わせた。
「で、では、貴方が城内で乱心して廃嫡された兄君……ル、ルドルフ様なのですか」
「……」
彼はあえてそれには答えず、彼女を急かすように背中に圧力を送り続けた。ヒルデガルトはいま歩いている廊下の先に、例の血まみれの謁見の間があることに気づいて、ルドルフが過去の惨たらしい事件の再現をしようとしているのではないかと疑った。彼女は実際にその惨劇を経験したわけではないが、聞いた話によると謁見の間は四散した血肉に埋め尽くされて、筆舌に尽くしがたいものだったらしい。その光景を脳裏に思い描いて、彼女はそれ以上、進むことが出来なくなった。
「お、お慈悲を」
彼女はそれしか言えなくなった。悪辣に人を罵ってきた口が凍結して、歯の根がふるえ、短い言葉も満足に紡げなくなった。すると、ヒルデガルトは背筋に鋭い痛みを感じた。ルドルフがなかなか、進もうとしない背中を剣の先で軽く刺したのである。
「はや、歩け」
「は、はい」
奈落に落ちていくような気分だった。謁見の間の扉が見えた。手前の絨毯に人を引きずったような血の跡がついていて、それが扉の下を通り、奥へと続いていた。血の鉄くさい匂いが微風に運ばれてきた。
ヒルデガルトは扉の前に立ち尽くした。眉は吊り上がり額には脂汗が浮いている。発狂する寸前だった。
――彼女の想像通り、謁見の間は血の海だった。それは戦場の惨たらしさよりルドルフの狂気が如実に表れていた。なぜなら転がった死体はすべてどこか作為を感じさせ飾るように配置されているからである。
柱廊の並んでいる柱に衛兵やら女官が刃物で突き刺され、玉座の肘掛けに生首が置いてあった。ヒルデガルトは茫然とそれを見つめると、悲鳴をあげた。生首は下顎から真横に斬られていたので、彼女も気づくのが遅れたが、その首はコンラート王のものに他ならなかった。
十年の宿怨を晴らしたルドルフは満足げで静かである。微笑をもって、彼女の悲鳴が謁見の間に響くのを咎めることなく聞いていた。
「そう騒ぐでない」
「わ、わたしは、貴方の廃嫡のあとに後宮に入った者ですから、恨みはないでしょう」
「言われてみれば、まあたしかに」
「いのちを助けてくれるなら、もう二度と、この城には足を踏み入れませんから」
ヒルデガルトは懇願した。美貌で成り上がった彼女だから男のこころに入り込む方法を本能的に心得ているらしい。猫なで声で頬を濡らし地面にしなしなと座り込んで、ルドルフを見上げた。
「――もし、どうしても、私の命が欲しいなら。かわりに、私を夜の慰み物として連れて行ってください。ご奉仕いたします」ヒルデガルトはそういった。元来、愛欲の強い反面、愛情に欠ける彼女だった。夫のコンラートの死体のまえで、その兄であるルドルフに破廉恥なことを平然と言ってのける胆力がある。
「……」
ルドルフは無表情になった。入れ墨だらけの顔が座り込んだ彼女を睥睨する。怜悧な視線がヒルデガルトの美貌の演技を貫通していくかと思われた。ヒルデガルトは冷や汗をかいた。すこしでも彼の表情がにこやかになったら、袖にすがってやろうと思っていたのが、どうも反応が芳しくない。すると銅像のように固まった顔がすこしうごいた。
「ひぃっ!」ヒルデガルトは頭を抱えて怯えた。
ルドルフはくわっと顔を寄せて「貴様の息子はどこだ?」と聞いた。
「え」
「コンラートの嫡流はすべて根絶やしにせねばならん。死にたくなければ、息子を差し出せ」
ルドルフはヒルデガルトの髪を引っ張りまわして耳元に大声で問うた。
「知りません知りません。てっきり、息子はもう死んだものと」
「おい。正直に言わねば、この毒花を口に押し込むぞ」
ルドルフは例の青い毒花を彼女の目の前に突き付けた。ヒルデガルトは、ふいに仰いだ二階の露台から身を乗り出している人影を認めた。それは唇に指を押し当てている。(叫ぶな)といった具合にである。
息子かつ王子であるレオンだった。子供の身で目いっぱい長弓を引っ張っている。矢じりの白刃はルドルフの後頭部を狙っているらしい。ヒルデガルトは反射的に息子から目を切った。じっと見つめてルドルフがその視線に気づくかもしれないと思っての咄嗟の所作である。が、ルドルフはむしろ、彼女が目を伏せた瞬間、眉根を寄せて悪魔的な直感でふりかえった。
弓の弦の引き絞る音がかすかになった。びゅるんと矢が風を切って飛んだと同時にルドルフはふりかえり、その謁見の間の暗がりに飛翔物を認めた。
反射的にルドルフは手のひらをかざした。すると、矢は手のひらを貫通して彼の眉間に触れるか触れないかのところで止まった。絶望的な静謐が流れた。
「コンラートの倅にしては気骨がある」
ルドルフは刺さった矢を引き抜いた。王子レオンは舌打ちして、露台から下りてきた。
「叔父上、貴方のような獣を見ると、我が血筋を疑います」
王子レオンは開口一番そういった。ルドルフは初対面の甥にそう罵られて、怒るどころか白い歯を見せた。
(あの愚物からかような傑物が生まれるとは。血統とはよくわからん)とルドルフは王子の見目形を眺めて思った。
「おお。君が我が甥か、若くして英雄の気概があるな」
「……」
微笑を含んで言う言葉に子供ながらに王子は侮られていると分かった。王子は腹が立ったが、とはいえ、相手は狂人ルドルフである。ルドルフは、<王家の血>を開くこともなく城内を血の海にして、国政にかかわる重臣を殺しまわって柱廊に飾った。――種族史上に燦然と座すモンスターである。
顔見知りの重臣たちの無残な死体を眺めて、王子は震える歯根をかみしめた。
彼は、どうして<王家の血>を持っているはずの重臣たちがルドルフの毒牙にまんまとかかったのか、解せなかった。見たところ、ルドルフは返り血を浴びているがほとんど無傷に見える。王子は怖気をおぼえた。
剣公レオンが危惧して時おり、不安げに吐露していたことが図に当たったということなのである。
(現代の貴族はこんなにも弱いのか)と王子は思った。死んでしまったものを怒っても張り合いがないが、首だけになった父親コンラート王や串刺しになった重臣たちの死骸が憎たらしいような気がしてきた。勝手に国を弱らせて、いちはやく死んだことがズルいとすら思う。外を見れば、壁の外のハーフの賊軍に恐れをなして家財を運び出す町民のすがたが散見される。不安げな顔と顔が大通りに集まって、風紀が緩んだのか、喧嘩する者や火事場泥棒する者が現れだしている。
――もはや終わりゆく国の様相を呈していた。王子は拳をにぎった。謁見の間の玉座の肘掛けに飾られた父親の生首に向かって「この愚か者」と叫びたかった。
「甥よ。何を思うね。これがブレージアーのほんとの姿だ」ルドルフは問うて、刀剣を振って刀身に絡まった血肉を飛ばした。彼は手間が省けたと思った。場内を探し回って殺してから運ぶのは面倒だった。すでに頭の中でどのようにヒルデガルトと王子レオンの死骸を飾るか、考えていた。ヒルデガルトはその殺意の機微をルドルフから感じたらしく、とたんにあたふたしだした。
「お慈悲を。私は関係ありません」彼女はわなわな震えながら叫ぶように懇願した。
「関係ないと申すか」
「ええ。ええ」
「見苦しい」
ルドルフに冷徹にそう言い渡されて、ヒルデガルトは目を剥いた。その瞳には赫々とした生命が光っていた。生き延びる、ということに拘泥した野獣のような眼だった。
「あれ、あれが息子です。出来の悪い不敬な悪ガキですから、煮るなり焼くなり、お好きになさって」彼女は王子を指さして叫んだ。ここ最近、剣公レオンがらみのことで親子の情は冷え切っていたが、それにしても王子の耳には驚愕の裏切りだった。利発だが、彼もまだ子供である。母親を軽蔑しても、簡単には断てない親子の情理がある。
王子は一瞬、子供の顔を見せた。母親に見捨てられた寂しげな顔だった。けれど、王子は涙は見せなかった。むしろ、奮い立って「母上、あんたは悪い人だよ」といった。
ぶちんと額のあたりで脈打つものを感じた。王子は瞼を閉じた。自分の小さな体躯に無限の可能性を想った。かれは自分が何者か知っていた。王統に属し、古来の力を宿していた。
古くから、王統に<王家の血>を持つ者はすくない。歴史書に出てくる偉大な皇帝や王はたいてい、かの力を持っていた。王子は青年ながら、己の力を鑑みて、こう思った。
(不覚にも、俺は選ばれてしまった)。
賢いゆえに双肩にかかる重責を深く考え、驕慢に陥ることなく前途への不安を子どもながらに感じていた。――しかし、身にはブレージアーの存亡がかかっていると思っていたが、残念ながら生まれるのが遅かった。とはいえ、かんたんには死ねない身である。父親のコンラートが死んだ今、王統は途絶えようとしている。行く末は、どうなるか分からないが、おそらく、このことを知った他国はブレージアーの要害すら越えて闖入してくるのは想像にかたくない。
王子は腹を決めた。その頭脳に凡音のごとく、剣公レオンの声が聴こえていた。
(<王家の血>を持つ者同士、戦うときは決死の覚悟です。決死の覚悟ですよ、王子)。
――王子が覚悟を固めているとは知らず、ルドルフはヒルデガルトを「貴様、自分で腹を痛めて生んだ子だろう? 人の心は無いのか?」とあざ笑っていた。ヒルデガルトはもはや、正攻法の哀願がルドルフに通用しないと踏んで、「子供などいくらでも産めます」といった。自分の悪辣な部分をさらけ出して、いわば彼の性格に歩幅をあわせるように、気に入ってもらう算段だった。
ルドルフはぎょろりと目玉を動かして、ヒルデガルトを見つめた。こうして、ヒルデガルトの艶やかな肉体を眺めていると、殺してしまうには惜しいような気がした。とはいえ、実弟の妻と考えると、どうしても気持ち悪い。ルドルフは彼女の股を眺めて、血のつながった兄弟の陰茎が貫通したことを想像し顔をゆがめた。
「――弟と交わった女など、ぜったいにご免こうむる」
「な、な、なんですって」
ヒルデガルトは驚いて言葉に詰まった。彼女は自分の美貌が男の遍歴で薄まるとは思えなかった。もともと、遊女だったから、そういう潔癖が男にあることを知らなかった。信じられず、目を剥いた。――狂人のくせに、選り好みするんじゃねえ、と彼女は思った。一瞬、生殺与奪を握られていることを忘れて、ヒルデガルトは地金をあらわして、ルドルフを睨んでいた。
「何か文句でもあるか」
「いえ」
ヒルデガルトはルドルフの殺気に負けて、腰が引けた。ルドルフは目の色を変えて、腕を振りかぶった。殺す気である。ルドルフはあまり殺人に手心を加えない。それには氷のような冷静さと発作のような衝動がある。
「――ム?」
ルドルフは急にヒルデガルトを睨んでいた視線を別の方を向けた。なにか、嫌な気配を感じた。すると、王子レオンが五体を震わせているのに気づいた。その瞳は真っ赤な眼光を放って、まだ発展途上の体は内側から殴られているように蠕動していた。
(あいつも<王家の血>を使うのか?)と訝し気な瞳を向けていた。子供が、あの力を使うことはめったにない。というより、あり得ることではあるのだが、まずもって、大人が子供に例の体を蝕むような切り札を先んじて使わせることを許すわけがないのである。しかも、あの力を使うには死を覚悟する気迫が必要だった。
だから、そのような覚悟を子どもに持てるわけがないとルドルフは高をくくっていた。
(コンラートの血を受けたのなら心根は臆病に違いない。気が萎えるのを見てやろう)と顎をあげて、微笑を浮かべた。が、王子の気は一向に萎えない。<王家の血>の変身は人体の内部から生起して、体の外部に特異な姿として、にじみ出てくる。第一段階の体の内部が泡ぶくみたいに膨れる痛みはそこまでではないが、その内部の蠕動が終わって、変質が体の外に出ようとするときの痛みは想像を絶するものがある。<王家の血>を開こうとして、気を失ったり、失禁したりするものが枚挙にいとまがない。
その痛みに若干十歳程度の子供が耐えている。ルドルフは瞠目して、その体が打ち震えているのを見ていた。ヒルデガルトは、その忍苦を想像できない。いちおう、<王家の血>を使おうとしているのはわかった。同時に、彼女は直感的に王子が自分を殺そうとしているのではないかと解釈した。
――(殺される)とヒルデガルトは恐れをなして、逃げ出そうとした。その振り向きざまにルドルフは彼女の肩をつかんで、引き寄せた。
「きゃっ!」
と声を出した喉にルドルフは刀剣の切っ先を向けた。
「おい。小僧っ! その力を引っ込めろ。さもなくば、おのれの母親の首をねじ切るぞ」ルドルフは王子に向かって叫んだ。王子はそれに対して、「勝手にしろっ!」といった。筋肉の震えは顎のあたりまで伝導してくる。痛みに押し出された言葉は暴力的である。
「こ、この恩知らずめっ!」
とヒルデガルトは叫んだ。どの口が言う、と王子は言い返そうと思ったがやめた。油断していると激痛にすべてを持っていかれそうになる。途中で、彼はこころが折れかけた。顔の内側が沸騰したように熱くなった。額のあたりから火花が散った。
ルドルフは謁見の間に小さな炎の光をみて、目を見開いた。
「あいつ、<炎>かっ!」とルドルフは気づいたとき、腰が引けた。彼の脳裏にフォルカーの獄炎が浮かんだ。逃げようと体を反転させて、走り出そうとした。
(あれはまずい)とルドルフはいつもの微笑を打ち消して額に汗を浮かべた。なにより、<炎>の恐ろしさは眼を焼かれることである。理論上、ルドルフの<翼>の系統は体に装甲がないので<炎>にすこぶる弱い。じっさい、戦えば、子供とはいえ厄介である。いや、そもそも子供相手に自身の寿命を削ることさえ馬鹿らしい。
もともと、恥じるという感覚が希薄である。ルドルフは逃げ出した。あまりの痛快な逃走にヒルデガルトは言葉を失った。
すると、王子は地面に突っ伏した。顔から脂汗や涙が混ざったものが落ちた。やはり、<王家の血を開く痛みに耐えられなかった。王子は謁見の間の石床に手をつきながら(こんなものをためらわず、使う奴は頭がおかしい)と思った。同時に、犬死にした重臣たちや父親のコンラート王の気持ちがわかった。
――この力は恐ろしい。凡夫には過ぎたものだ。
ルドルフはふいにふりかえって、王子が地面に崩れているのを見て、汗をぬぐった。
「なんだ。やはり、無理だったか。よい、よい」
悠々、逃げ出したのもなかったことのように「さすがはコンラートの息子だな」といった。
王子は顔をあげて唇を八重歯で噛んだ。そのルドルフの悪辣な笑顔のうしろで、ドレスの裾を引っ張って大股に逃げるヒルデガルトの姿があった。彼女は息子の危急にふりかえることなく、謁見の間の両開き扉まで走ったが裾が絡んで派手に転んだ。
ルドルフは大笑いしながら、転んだ彼女に歩み寄った。転んだ彼女は足の震えで立ち上がることが出来ずに、芋虫のように地面を這っている。
「下賤な女め。それ以上、逃げようとすれば、一層苦しんで死ぬことになるぞ」ルドルフはぎょろりと彼女を見下ろして、床に向かって剣を突き刺した。刺さった剣は彼女の床の血を吸ったドレスを床に固定した。
「あ、あ、あ」
と声にならない嗚咽に似たものが彼女の喉から漏れた。その小動物みたいな鳴き声に反骨心がしぼんだのを見て取ってルドルフは満足げに頷いた。
ルドルフは今度は哀れな王子を睨んで「甥よ。安心したまえ。お前が先だ」といった。
処刑執行人のようにルドルフは剣を振りかぶった。薄暗い謁見の間に差し込む斜光が剣の白刃に光った。王子はうつむいて、運命を呪った。死ぬということを受け入れるには若かったうえに利発だった。
(まだ、死ねない)と思った。が、余力を振り絞った体は疲弊しきって動かず、反抗するように顔がわずかに前を向いただけだった。ルドルフは剣を振り下ろした。
――するん、と水を斬ったような心もとない感覚がルドルフの手元に返ってきた。
「む」
真横から腕が伸びてきた。その腕には手鏡程度の小盾が装着されていて、それが白刃の軌道を遮ったのである。ルドルフの斬撃は王子の首筋をはずれて、石床の表面を削った。
(なんだ、こいつは。気配もなく、近づいてきた)とルドルフは訝し気に眉を動かして、半歩、後ろに下がった。
ふいに斜光に当たって謎の男の輪郭が見えた。屋内なのに深く笠をかぶっている。目元に赤い光があり、下瞼に深い皺が見えた。
「お久しぶりですな。若君」
声色に電撃されたようにルドルフは硬直した。哀愁のある声音で「若君」と呼ばれて目の前の人物が誰なのか分かった。ルドルフは数奇な運命を感じて白い歯を見せた。
「……師範役」彼は嘯くように言った。彼がまだ幼少だったころ、すなわち、まだ第一王子だったころの家庭教師のひとりである。ルドルフは才覚が鋭かったからたいていの大人を小ばかにしていたが、ブルーノにだけはある一定の敬愛を抱いていた。けれど、ある日、わけもなく彼はブレージアー城を去った。別れの言葉もなかった。
なぜか、ルドルフはわかる気がした。
(見抜かれた)とルドルフは思って、それから大人を見下さなくなった。すくなくとも、それを表には出さないように心掛けるようにはなった。
同時にブルーノが王城を去ったあと、城下で貴族の子弟の家庭教師をしているらしいと知ってルドルフは最初、何とも思わなかったが、あとあと成人してくると彼の薫陶を受けたらしい者が時折、功をたてて、城下の噂になっているのが耳に入るようになった。
(あいつは、いずれ転がってくる俺の玉座を抑える気だったらしい)とルドルフは遅まきながら気づいた。そして、王城での凶行に及んで、その策動を止めたのが、レオンとフォルカー、どちらもブルーノの薫陶を受けた者たちだったから、ルドルフの直感は正しかったといえる。
――とはいえ、それはいまは昔のこと。始まりと終わりに顔を出してくる奇妙な男にルドルフは感慨深げに顎をあげ、その正体の実相を掴もうと睨んでいた。
すると、ブルーノは背後で茫然としている王子に向かって「王子よ。お下がりください」と促した。
「……」王子は見知らぬ者の乱入に二の足を踏んだ。
「王子よ。貴方が死んだら、この国の王統はどうなるのです」
ブルーノはふりかえらなかった。一瞬でも、ルドルフから目を切れなかった。王子は厳父のような声音に子供のように頷いて諾々と下がった。
ルドルフは爬虫類のような目つきで、その王子の後退していく姿を眺めた。ルドルフの眼は「逃げるなよ」と王子を威圧している。すると、その視線を遮ってブルーノは「若君、その入れ墨はなかなか似合っておりますな」と笑った。
「あんた、まだ、生きていたのか。一体何年振りか」
「十年は経ちましょう」
「いいや、もっとだ。……」
ルドルフは謁見の間の死屍累々の有様を見回して、両手をあげて、まるで立派なことをしたように「師範役、みよ。城中の癌を取り除いてやったぞ」といった。
「……若君、あんたも癌だ」ブルーノはそういって、剣を向けた。その柄を握る手はやわらかい。攻撃する構えというより、防御する構えである。
「だから、城から去ったのか?」
「まあ、そうですな。一番は、貴方の玉座は約束されていたから、それを阻止する後進を育てたかった」
ルドルフは鼻で笑った。後進を育てる、といいつつ、彼はひとりで止めに来た。(バカが。見立てが甘い。他人に謀略を託してどうする)。
彼はブルーノの教え子たちの大半が死んだと思っていたから、そうあざ笑った。
「フォルカーとレオン坊が、ここにいないのは残念だな。あんたを八つ裂きにするところをぜひ見てもらいたかった」
ルドルフはそう言って笑った。そのとき、ブルーノの表情になにか深い意図を思わせるほのかな笑みが浮かんだ。
(嘲られた)とルドルフは気づいた。もうここまで、何度も背後を狙われたのも相まって、ルドルフは即座にふりかえった。
「……」
ルドルフは慄然とした。が、彼の背後には何者もいない。けれど、ルドルフは全身にひりつくようなものを感じた。
(あの笑みは何だ? この期に及んで何か、策があるというのか?)。動物的な勘が危険を察知して、彼は視線を四方八方に飛ばした。ルドルフは直接、視界に捉えたわけではないが、直感で「新手がいる?」と口にした。
ブルーノはあいまいな表情でじっと見つめてくる。その姿勢は今すぐ攻勢に転じようという構えには見えない。
(時間を稼いでいるっ!)とルドルフは気づいた。どうやら、ブルーノが時間を稼いで、新手が来るまで、自分をこの場にひき付けておこうとしていると知ってルドルフは「その手には乗らん」と踵を返し、身を縮めて逃げ出そうとした。――その感性は素直である。恥がない。その新手が何者か、またはどれほどの人数がいるのかまで分かったわけではない。その彼我の差がどれほどか、わかる手前に逃げ出している。
彼は賭けはしない。
あげくに「また、会うことだろう。さらばっ」と捨て台詞を吐いた。
刹那に、ブルーノは異様な早口で「<爆>」と詠唱した。
背後でありふれた魔法の言葉が投げかけられたのを聞いて、ルドルフは逃げ奔りながらふり返った。
――その時、自分の背中が光を放った。ルドルフが顔をひきつらせて、「こ、この」と言おうとした口を塞ぐように、次の瞬間、彼の五体は真っ赤な火炎に包まれた。
火だるまになったルドルフは地面に四つん這いになりながら、グォオオと獣じみた声をあげてもだえ苦しんでいる。
「若君、はやく、<翼>をお出しなさい」
ブルーノはそう言った。――全身、燃え上がる痛みに包まれながらルドルフはみごとに謀られた自分の愚かさに身もだえした。とはいえ、このままいけば焼け死ぬのは確実である。ルドルフに残された道は、自身の<王家の血>を使うことだけである。
そうすれば、強靭な外皮が炎から身を守ってくれる。――ブルーノは最初から多分な勝算をもって、ルドルフに臨んでいたらしい。
「<王家の血>を使う根性がないなら、そのまま焼け死ぬがよい」ブルーノはそう言った。ルドルフはさっき、王子を嘲った言葉が自分に返ってきたのに気づいて、歯ぎしりした。
「ちきしょう。……ぐぬぬ」
――ルドルフは<王家の血>を開いた。彼は自身の体が変質し、膨張していく間、目玉が飛び出るぐらい大きく瞼を開いた。そうでもしないと、王家の血を使う苦しみに耐えられないのである。彼は自分の皮膚を焼く炎の痛みを一瞬、わすれた。<王家の血>を使う苦悶が火傷の痛みを塗りつぶしていくようであった。
火炎は風に吹かれた霧のように消え去って、振り払うように太古の力の両翼がルドルフの背中からぬるりと伸びた。
しばらく、石像のようにルドルフは動かなかった。その眼は斜め下の石床をじっと見つめている。
ブルーノはぞっとするものを感じた。重心を低く、保った態勢のまま、警戒は緩めない。――筋肉の一糸の緊張が雷鳴のように手から足へと伝わっていく。ブルーノは自分が(緊張している)と思った。
――ルドルフは動いた。虫が地面を這うような速度だった。一瞬、ブルーノは身を震わせた。が、ルドルフは脇目も振らずに、垂直に飛び上がって謁見の間の穹窿状の天井を打ち破った。その両翼がはためくとブレージアー城の屋根に溜まった苔や枯葉やらが風圧で吹き飛んだ。屋根に太い足を着けて、降り立つと、その眼は遠く、黒門の向こう側のポロ王の軍勢を捉えた。
侵攻の際は、「合図を送る」と示し合わせたが、そろそろポロ王がしびれを切らしそうなのは遠くからでもわかった。
ルドルフは眼下を見つめ、「あの老骨め。火砲が無傷だ。しかも茶色門も閉じたままではないか」と悪態をついた。予定では、マンフレートが最低でも火砲を半分ぐらい減らしておく手筈だった。が、火砲は茶色門の望楼のうえの整然と砲首を天に向け、その近くを砲兵が何百人も虫のようにうごめいている。
ルドルフは舌打ちして(なら、しょうがない。自分でぶっ壊してやる)と腹を決めた。
――そして、自分で開けた大穴を通って、城内へと戻っていった。両翼をはためかせて、ブルーノの前に再度、現れ出た。ブルーノは同じ場所で逃げることなく待っていた。ルドルフはその不気味な無表情に顎をあげてじっと見下ろした。
「いつだ? あの魔法の印を我の背中に刻んだのは……。たしか、我が城内で暴れまわった時はまだあんたは城下に居たはずだな? 捕まったときか? 獄吏の隙を盗んで――」
遮るようにブルーノはにやりと笑って首を振った。
「若君が子供のころに熱病に罹ったときがあったでしょう」
「七歳のころの話だぞ」
「ええ」
「なるほど。お前たちはそこまでするのか」
「必要悪といったところです。次期王位継承者の性根が腐っていれば、当然のこと。とはいえ、わたしは若君の心根が良くなる方に賭けていたんですがね」
「……」
ルドルフは舌を巻いた。さすがにこれは読めなかった。七歳のころからブルーノに首根っこを掴まれていたらしい。
「しかし、この状況はどうだ。あんたは、<王家の血>を開いた我の足元にもおよばない。あのまま、我が逃亡するのを傍観していればよかったものを。たしかに、我の寿命を削ったことはまちがいないが、結果的には……――死だ」
冷ややかに聞こえる脅しだが、実際、ルドルフは怒り心頭に発していた。幼年のころから、命を握られていたことが屈辱だった。――悔しい。こうなっては、ブルーノ一人の殺すのは難しくないが、いくら簡単に彼を殺したとしても結局は敗北に変わりはない。生身の命が<王家の血>を空費させたのである。――この時点で敗北といえる。
「いいえ。私の命数はまだあとすこし……少なくとも、貴方よりは長い」
そう言われてルドルフは眉をひそめた。彼は猜疑心の塊である。含みのある言葉に嫌な気配を読み取った。彼は直感的に(これはハッタリではない)と感じた。とはいえ、<王家の血>を開いた彼に悠長に構えている時間はない。長く、今の状態でいればいるほど肉体への損耗は大きくなる。しかも、彼はいま単騎である。<王家の血>を解除した後、数日はまともに動けず、赤子のように無防備である。つまり、ここでブルーノを仕留めたのち、適切な退路を選び、追っ手を撒いたうえで安全な場所に潜伏する必要がある。
――ルドルフは冷静になった。自分が先ほどまで頭に血がのぼって、まともではなかったことを自省して、自虐的な笑みをうかべた。
「……」
無言のうちに漏出する殺意がある。
「ひいっ!」
いち早く空気が凍り付くのを察知したのはヒルデガルトだった。突き刺さった剣がドレスの裾を貫いて地面に刺さっているので動けない。布が千切れて、下着を晒すことも考慮に入れず、彼女は半狂乱になって、裾を引っ張っている。
ブルーノの後ろに退いたレオン王子も空気が変わったのを察知した。王子はブルーノの背中をじっと見ていた。てっきり、王子は彼も<王家の血>を持っている者だと思っていた。が、ブルーノは一向に変身しないので(この人は普通の吸血鬼だ)と気づいた。
同時に、ここはやはり、ルドルフに立ち向かうべきは<王家の血>を持つ自分の役割ではないかと王子は思い始めた。むしろ、目の前のブルーノも、そのための時間を稼いでいるのではないかと推測された。
とはいえ、いちど、あの痛みに屈した。目の前の一体に四散した重臣たちの死骸を見ても分かる。今際の際に至ってなお、その力の代償は耐えがたいのである。
(俺に出来るのか……)と王子は不安になった。
「――王子よ。臣下を差し置いて、その力を使ってはなりません」とその不安を看破したようにブルーノはささやくように言った。
「え」
「臣下にしてみれば、生きながらにして王族の変身を見ることは屈辱以外の何物でもありません」
ブルーノは冷ややかにルドルフの方を見ながら、そういった。
「ですが、この期に及んでは、王も臣もありません」王子は光の灯っていない目つきでそう反論した。それは謁見の間に転がっているルドルフにいいようにしてやられた父王とその臣下の死骸に言っているようでもあった。それを聞いたルドルフは嘲笑するように
「ははは。その通り。賢い我が甥よ。これが、この国の本質、真の姿である。かつての屈強な廷臣たちなら、こうはならなかったものを……。まったく、世間とはもろくうつろいやすいものだ。こんなに儚いものならば、再建しても意味はない。いっそのこと、灰塵に帰すまで破壊するのがいい。我はそう思う。なあ、ちがうか。我が甥よ」
ルドルフの言葉に王子は気圧された。衒いや威圧の類ではない。一見、言葉づかいが劇的すぎるが、それを相応に見せる表情の狂気であった。
ブルーノはルドルフの王子へ注がれる禍々しい視線を遮るように「かわいそうな御人だ。ちがう結末はいくらでもあり得たのに」
――それは彼の本心だった。ルドルフは奇跡のような王位継承者だった。<王家の血>を持って産声を上げ、鋭敏かつ健康。そして、長男である。――天質があっても長男でなければ、意味がない。むしろ、優秀な子が次男だったりすれば争いの種になる。だから、ルドルフは、すべてにおいて天運に恵まれた子供だった。その子供が性格に難あり、と分かった時のルドルフの落胆は大きかった。
「さあ、最後だ。遺言は聞かぬ。全員、床の染みにしてやる」
ルドルフの翼が鞭のようにしなった。思わず、ブルーノの背後にいた王子は身を震わせた。伝染するように、ヒルデガルトも恐れをなして、いっそう、強くドレスの裾を引っ張った。
びりびりと音を立てて、裾はちぎれた。
「――はっはっは」
肌の露出も気にせず、狂ったように走った。――が、ヒルデガルトの走りは遅い。上半身の動きに遅鈍な下半身がついていけないようで、その不細工な走りは陸上でおぼれているようである。
吸血鬼特有の女物の靴が走るのに向いていないのである。
「ふふっ……」ルドルフはそれを見て笑った。
瞬きのようにルドルフの両翼がはためくと、ルドルフは彼女の退路を塞ぐように扉を遮った。
「ひいっ!」
彼女は眼前に勃然とあらわれた巨躯に腰をぬかした。<王家の血>を使った者の顔は、近くで見れば見るほど人外の顔である。時おり、力が制御できないかのように体の節々が心臓のように震えている。しかも、この巨体で不気味なほど俊敏だった。
ヒルデガルトはルドルフを蜘蛛のように錯覚した。その挙動に躍動感がないのである。助走もなく、無音で、気づいたら近くにいる。
「おのれから死ぬか」
ルドルフは足を振り上げた。ブルーノは目を丸くした。――いくら悪人だからと言って、躊躇なく女を踏みつぶすのは想像の範疇ではない。無意味な蛮行である。
が、ブルーノは動けなかった。そもそも、彼女は善人ではない。レオンの失脚も彼女の虚言に端を発している。
(救う価値無し)と彼は思った。また、助けに入るのも至難の業である。
ルドルフは一瞬、足を振り上げたまま停止して、首を曲げてブルーノを見た。微笑の奥に、「この女を救うか?」という問いが窺えた。が、ブルーノは動かなかった。寒々とした視線をルドルフに送り続けているだけだった。
すると、ぎりぎりと八重歯のこすれる音がした。背後の王子が歯ぎしりをしていた。彼が母親を軽蔑しているのは間違いないが、結局は親子の情は簡単にはちぎれないらしい。一瞬、ブルーノは王子が母親を助けに動くのを恐れた。
が、王子は動かない。母親への情と軽蔑とが幼いこころのなかで燃えている。すると、ヒルデガルトは王子を見つめた。その母親の潤んだ瞳を見て、一瞬、王子は茫然とした。今際の際に彼女が口を開きかけた。王子は一瞬、彼女が謝罪しようとしているように見えた。
――すると、その期待はむなしくヒルデガルトは怒りに顔をゆがめて「レオンっ! 母上を助けなさいっ!」と叫んだ。その時、王子はこころが冷え切って、反射的に顔をそらした。この期に及んでも、まだ自分の命に拘泥している。
しかも、息子に逃げろとも言わず、「助けろ」である。
(――なんて人だ)。王子は心底、ぞっとした。
「ははは。この悪魔め。いい加減、観念しろ」ルドルフは上機嫌にわらった。哄笑が城内の響き渡った。振り上げた足の裏が彼女の顔に近づいた。
――すると、その凶行の一歩手前で、ルドルフの真横の謁見の間の扉が勢いよく開いた。あまりの勢いに蝶番が吹き飛んで、扉が壊れた。ルドルフは思わず、ふりかえった。すると、黒い人影が見えて、瞬間、螺旋を描いて鉄の塊のようなものが回転しながら飛んできた。
ルドルフは地面に手を付いて、腰砕けになりながら、それを避けた。鉄の塊はくるくると回転しながら、ちょうど謁見の間の玉座に突き刺さった。
――剣だった。見たこともないほどの太い剣だった。
ルドルフは目を丸くした。ハッとして即座に壊れた扉の方を見やると、痩身の男が立っていた。両脚は肩幅ぐらいに開いて、握った鉄球みたいな両拳がだらりと伸びている。胸を張りすぎず、かといって、猫背にもならず、ただ自然な形で立っている。それは自然の産物のように、霊的なものを感じさせる。
――立ち姿がうつくしい。顔を見るまでもなく、ルドルフは記憶の中の鋳型を一瞬で、直感して「……亡霊か。レオン坊」といった。
「お久しぶりです。ルドルフ様」
「死んだと聞いていたが」
「貴方を殺すために冥府より参りました」
「……」
ルドルフはじっとレオンの相貌を睨んだ。九年前のあの時もまさにこの場所で決着がついた。運命はなぞの引力を持っている。
(ここで、また、こいつに邪魔されてなるものか)。
この時、レオンはまだ<王家の血>を使っていない生身の状態である。こういう場合、先に変身している方が圧倒的に有利になる。なぜなら、変身には一定の時間を要するからである。
ルドルフは気を持ち直した。死んだと思っていたレオンが生きていたことは驚いたが、そのなかでも狡猾さは鈍らなかった。
ルドルフはにやりと笑って「生身で現れたのは致命的だったな」といった。
レオンは無言だったが、内心、(まずいな)と思った。変身して背丈が伸びたルドルフを見上げて「もし、名誉の戦いを望むなら、俺の変身を待たれよ」とレオンは言った。
正直な申し出にルドルフは長く伸びた背筋を曲げて、腹を抱えて笑い出した。
「バカな奴だ。我がどういう人間か忘れたか。――おとなしく、そのまま死ね」
ルドルフは巨体を震わせて、こぶしを振りかぶった。
「こ、この。恥知らずめっ」
レオンは身構えた。が、その無意味を知っている。生身の体が変身したルドルフの歯牙にもかからないのは身をもって体験している。
それでも、ここでは死ねないのである。後方の門楼にはハーフの軍勢が迫っている。国の重臣たちは死んだ。無辜の民はいまだ、ブレージアー城下にいる。
(ここでは死ねない)
すると、疾風のようにブルーノは二人の間に割って入った。するりと、ルドルフの拳は彼の小盾のうえを滑るように受け流された。ルドルフは大きく振り抜いた分、上体が流れた。こういう時、体は反射的に反撃を予測してこわばる。
が、ブルーノは何もしなかった。隙を見せるルドルフが体勢を戻すのを冷ややかに見つめている。
ふいにバカにされているような気がしてルドルフは再度、殴りかかった。が、同じように空を切る。一瞬のなかで二度三度、同じことを繰り返した。
(どういう詐術を使っていやがる)。
原理は分からないが、意図はわかった。――時間を稼いでいるのだ。レオンもその意図を感じたらしく、即座に<変身>しようとしている。時間にして数十秒程度をあらそっている。
「どけっ! 死にぞこないっ!」
ルドルフはブルーノの背後で変身しようとしているレオンを見て、目の色を変えて焦った。逸る気持ちが殴打を野性的に動物的にしていく。それはブルーノは容易く受け流す。とはいえ、容易く見えるが、ブルーノは精神をすり減らしていた。――掠っても死ぬ。通り抜ける拳の風圧がその威力を物語っていた。
――刹那に、ブルーノの小盾が嫌な金属音をたてた。<王家の血>の膂力で、ひびが入った。
「死ねええっ!」
死ぬ、とブルーノは分かった。ルドルフの拳が巨岩のように錯覚された。柔軟だった彼の体は水を浴びせられたみたいに硬直した。止まったように流れる時間のなかで、ルドルフの拳が徐々に近づいて大きく見える。
その拳がブルーノの顔を捉える手前で、彼は肩を掴まれて、後ろに引き倒された。
「あぶなかった。先生、よくぞ、時間を稼いでくれた。……あとは俺がやります。王子と王妃様をお任せします」
レオンが巨像のようにしりもちをついた彼の前に立って、ルドルフの拳を体で受け止めている。<鉄>の鎧がむしろ、ルドルフの拳の方に痛みを与えた。ブルーノは深呼吸して「ああ、頼んだぞ。倅殿」といって立ち上がり、服の埃を払った。
ヒルデガルトはレオンのすがたを見て、ぼう然としていた。
「わ、わたくしをお恨みにならないの?」
レオンの背に向かって彼女は問うた。その頑健な背中は戦死の霊威を帯びて、一層近寄りがたい。レオンは一瞬だけ振り返った。鎧に覆われた顔のなかで眼だけが光って見える。
「……」
彼は言葉に窮した。――ヒルデガルトのせいで、城下を負われることになったことをすっかり忘れていた。彼はここに決死の覚悟でやってきた。その意思はもはや、男一匹の毀誉褒貶をかなぐり捨てて、無死の境地にあった。
だが、いま、一瞬、レオンは思い出した。目の前の艶やかで狡猾な女に対する恨みを。レオンは彼女を直視していると怒りがこみ上げてくるような気がして、すぐにルドルフに視線を戻した。
すると、「先生っ!」と嬉々とした声に呼ばれた。王子の声だった。レオンはその声に頷いて見せた。鎧に隠れた表情は満開の笑顔だった。王統が生き残れば、再建の道はある。レオンは胸をなでおろした。もう少し、遅かったら、この闘いが無意味な弔い合戦となるところだった。(臣下の道とは一体何か、王子に示す時だ)と彼は意気込んだ。ルドルフはそのレオンの澄んだ瞳の奥に明朗な殺意を読み取った。
「――ぐぬぬ。このやろう」
ルドルフは狼狽えて、すぐさま、後方へ下がっていった。
「なんで、お前は我れの邪魔ばかりする」と彼は恨むように言った。
「……私は一度たりとも、貴方と望んで戦ったことはありません。廃嫡されたとはいえ、貴方は生来、王統に属する人だ。いま、こうして向かい合っているだけでも、父祖たちに顔向けできない気がする。――だが、貴方は病気だ。無意味に人を殺し過ぎた。だから、これ以上、生きているべきじゃない」
「ああ、そうか。そう言いつつ、我に感謝しているはずだ。この無能どもに苦労したはずだろうからな。マンフレートに聞いたぞ。そこの女の流言で殺されかけたらしいな」
ルドルフは床に転がった死体を見回して、誇らしげにそういった。殺されたときの叫びが鮮明に聞こえてこようかという惨状だった。レオンは玉座に置かれたコンラートの首を一瞥した。なぜか、幼少の記憶がよみがえった。優し気で病弱だったコンラートの幼顔が克明に映る。殺されたのは、皆、知り合いだった。慣れ親しんだ城内は空漠な静謐に包まれている。
――怒りをもって、戦わないと心に決めていたが、この惨状を見ると腹が立った。世に稀に見る蛮行だった。
「あのとき、貴方を無理やりにでも殺すべきだった。……貴方には鎖につながれる価値もない」
ルドルフはそう言われて、じっとレオンを睨んだ。――彼は考える。前回、敗北したことを考慮すれば<王家の血>の変身能力の強さではレオンの<鉄>が上である。けれど、それはレオンが大刀を持っていた場合だった。基本的に魔族の変身能力で硬質化した皮膚を破壊できる武器はない。肉質が一番柔らかい<翼>の皮膚ですら普通の剣で斬りかかったら逆に刃こぼれする。
変身した魔族には変身した魔族の拳しか抗しえない。これが基本原理である。だから、<王家の血>で変身した吸血鬼は武器を持たず素手で戦う。が、例外がレオンの<鉄>の系統だった。レオンの持つ大刀は<鉄>の皮膜を取り込んで、変質する。その刀身は<鎧>すら貫通すると言われている。ゆえに、彼は<王家の血>に対し、大剣をもって戦うことができる。
――つまり、レオンはこの謁見の間に乱入してきた時点で有利を手放したことになる。ルドルフは背後の玉座に刺さった大剣を確認した。
(あれは……やつの父上、ラインハルトの形見だな)。――素手と素手なら五分と五分。そして、ルドルフには秘策があった。
彼は顎をあげて、大きく息を吸った。胸郭が膨張し、上半身がのけ反った。
レオンは眉をひそめた。古来より、戦場において雑兵は<王家の血>を持つ者たちの邪魔をしてはならないというのが習わしだった。けれど、そう気を付けていても<王家の血>の力に巻き込まれる味方が後を絶たなかった。
――それで戦場には大声が響くようになった。変身した魔族は喉から生理学上の限界を越えた声を発する。それは<龍の咆哮>とよばれた。兵士は、その咆哮を聞いたら、そこからできる限り離れるという慣習が出来た。
そして、この時、ルドルフがあげた咆哮はブレージアー城下の天空を切り裂き、壁の外に陣を敷いているポロの元まで届いた。
「いま、この咆哮を合図としてハーフの賊軍は城下になだれ込む」ルドルフはあくどい微笑みをもってそういった。
レオンは表情を崩さず「つまらない嘘をつく。貴方は老将軍を籠絡して、城下の門楼を破壊する手はずだったでしょうが、その試みは失敗に終わっている。兵器をもたないハーフの賊徒がどうやって第一の要衝、黒門を破壊できるというのです」
「信じるかどうかは任せるが、ハーフを率いている男は<変身>能力を有している。あんな古びた門楼は存在しないにひとしい」
「そんなばかな」
レオンはまだ冷静だった。ルドルフの性格を考えれば、なにかハッタリを仕掛けてくると十分に想定していた。が、楔を打たれたように彼の脳裏に嫌な疑念が芽生えた。
(どうして、俺でもわかるウソをつくのだろう?)。
「なるほど。レオン坊、貴様はハーフが吸血鬼に劣ると思っているのか。ゆえに、彼らは<変身>しないと」
「ハーフが変身するとは古今、聞いたことのない話だ」
「お前は気づいていないかもしれない。……レオン坊、お前はハーフをだいぶ下に見ている。彼らを見くびっている。忘れたのか? 彼らは同胞をなぶり殺しにされた。その恨みの深さがわかるか。彼らは進化したんだよ。我ら吸血鬼が吸血能力を失い、朗らかに過ごしている間に彼らは牙を研いでいた。虐殺が彼らを目覚めさせたのだ。見よ、今から主従がひっくり返る」
ルドルフの覇気は尋常ではなかった。レオンは不安に駆られた。演技と思えない狂気の力を感じた。
「……」
すると、彼方から湧き上がるような咆哮が聴こえた。レオンはぎょっとした。目の前にルドルフという不倶戴天の敵がいるのも忘れて、思わずその声がした方を見た。気のせいでなければ、ちょうどブレージアー城下の壁、黒門の向こう側から聴こえた気がする。
(嘘だろ。いま、ルドルフの声に返事をするような感じだった)。
レオンは視線を戻して、ルドルフを探るように睨んだ。
「さあ。レオン坊、どうする? 黒門はすぐに破壊され、怒りに駆られた賊徒がなだれ込む。城下は血の海になるだろう。――貧民どもを救いたいなら、なるべく急いだほうがいい」
ルドルフはレオンを焦らせる気だった。焦った者の攻撃は躱しやすい。案の定、レオンは目に見えて焦った。今にも、飛び掛かってきそうな剣幕である。しかも、その機微を態度に隠せていない。ルドルフは続ける。
「とはいえ、果たして、ハーフの軍勢は賊なのかというと怪しい。中立の立場から見れば、ハーフがやっているのは雪辱戦。――大義名分は彼らにある。そうは思わないか?」
「……」
レオンは反論が出来なかった。龍のアギトの惨状を思い出すと、今でも同族の犯した過ちに身震いする。自分が逆の立場だったらと考えると、ハーフの賊軍のことを悪と断罪できない気がした。どんな戦士も名分がなければ闘争心が萎える。
気づかぬうちにレオンはルドルフによって見えない毒を心に打ち込まれていた。すでにその視線は考え事をしているのか、ルドルフに集中していない。
(ふふ。迷ったヤツは弱そうに見える)とルドルフはほくそ笑んだ。
すると、その暗澹とした敗色を切り裂くように「否、否。義は我らにあり」とレオンの背後にいたブルーノがいった。
「我らは、ハーフ、吸血鬼などという種族に拘泥しない。無垢なる人民の味方である。そして、倅殿は自らを見捨てた同族を恨みとせず、この戦場にやってきた。若君、一方的に同族を恨み続ける貴方とは人品の格が違う。倅殿、安心なさい。貴方は正しい道のうえにいる。――恐れるものは何もない」
ルドルフは「純血の吸血鬼がさようなことを言っても何の説得力もない。詭弁だぜ、そんなものはよ」と嘲笑した。その時、それを聞いたレオンは「ふっ」と笑い声のようなものを漏らした。鎧のせいで表情が読めないが、(いま、笑いやがった)とルドルフは思った。
「若君は知らないかもしれないが、私はハーフです」
ブルーノは被り物を取った。小ぶりなオーガの角が生えていた。
――ルドルフは目を剥いた。ブルーノはさらに続けた。
「倅殿、ハーフの賊軍の方を心配する必要はありません。あちらは、ほかの味方が対処します」
レオンはふっと微笑して「先生、俺たちに味方なんていたっけ?」と聞いた。
「ええ、います。だから、他の戦場は気にしてはなりません。ここが貴方の戦場です」
「ああ、わかった」
ルドルフは気を持ち直したレオンの様子を見て、(ちくしょう)と心の中で悪態をついた。また勝負は五分に戻ってしまった。とはいえ、まだ勝敗は決していない。
「なんだ。もう勝ったつもりか。レオン坊」
「いいえ。勝つにしろ、敗けるにしろ。あんたはここで死ぬ」
ルドルフは一気に怒色をあらわして、レオンに向かっていこうとしたが、一瞬、背後に映るブルーノが玉座に刺さったままのレオンの大剣を見つめているのに気づいた。
(あれを取られたら、確実に敗ける)とルドルフはレオンに背を向けて、一目散に玉座に走っていった。
「わかったわかった。くだらん小細工はもう終わりにしよう」
そういって、ルドルフは大剣を引き抜くと、ありったけの力でそれをぶん投げた。大剣は風切り音をたてて、謁見の間の小窓を突き破り、見えなくなった。
「さあ、やろうか。レオン坊」
すると、レオンの背後にいた王子が居てもたってもいられず、走り出した。
「あっ。王子、お待ちを」
ブルーノが王子を追いかけようとしたが、厄介にもその間、黙っていたヒルデガルトは艶々と頬を染めて、むき出しの体を火照らせながら「ああ、剣公様。わたくしは……」とレオンの背中に歩み寄ろうとしていた。
いまから、生死をかけて戦おうとする男の背に抱き着くつもりらしい。元をたどれば、レオンがその大剣を失ったのは彼女の命を救うためだった。
「おんなあああっ。よせやっ!」
ブルーノは怒りが爆発した。すぐにヒルデガルトの腰を引っ掴んで、「ああっ。なにをっ!」と喚く彼女を小脇に抱えた。つぎの瞬間、レオンはルドルフの突進に吹き飛ばされて、謁見の間の壁を突き破り外へ放り出された。
ルドルフとレオンはもみくちゃになって奔流のごとく天に向かって飛び上がった。
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