因縁の城
ブレージアー城の露台の欄干に手を置いてヒルデガルトは冷酷な無表情だった。その美貌は眼下の貴族の邸の女たちを見下しているようである。艶っぽい口唇は不機嫌そうに閉じられ、皺のない目元は薄幸そうな花の美を湛えている。この頃、三十路に差し掛かって衰えていくはずの彼女の顔は妖怪のように生命を取り戻し始めている。
それも、レオンに情事を断られ挙句暴力を振るわれたあとから、その屈辱が肥やしとなって、いままた花びらが開いてきたという観がある。
「――あの男の霊魂に嫉妬させてやるっ!」とレオンの存在しない霊像を青空に想像して唇を噛み締めていた。一方でヒルデガルトはレオンを恨む反面、その逃げ去っていった背中がいまだ忘れられなかった。思えば、自分が色目を使っても微動だにしない男がこのブレージアーに幾人いるのであろうか。
(ああ、死ぬには惜しかった御仁)と思って、瞳に光るものがある。
――とはいえ、レオンを危急に追い込んだのは、彼女の讒言によるところが大きい。そのことを忘れて、じぶんを脳内で悲劇のヒロインのように仕立て上げてしまうところが彼女の悪性だった。レオンの邸が業火で吹き飛ばされてから、息子との関係もヒビが入っていた。今更になって、息子にレオンと名付けた因縁が結実してきたように思われた。王子レオンと城内の柱廊で会うたびに、母親にするにしてはあまりに慇懃な挨拶をされる。そして、去り際、息子の目に蔑むような光が明滅するのである。
明らかに息子に憎まれている、とヒルデガルトもわかった。同時に、現王のコンラートが崩御した後には、玉座についた息子に八つ裂きにされるのではという危惧も抱いて戦々恐々としているこの頃だった。
悶々としているとヒルデガルトは外を歩きたくなった。召使いを呼び寄せて、「散歩よ」と言った。問答無用で、その散歩についてこいと言うのである。
召使いは困った顔をして「奥様、いまは戦時中では?」と恐る恐るその顔色を窺った。
「だから?」
「いえ、その」
「矢がこんなところまで飛んで来るわけないでしょう」
召使いは美貌の人に特有の鋭い眼差しに肩を縮めた。
――召使いは城下の喧騒を見て、今度の戦争は生半可なものではないという世間並みの感覚があるが、ヒルデガルトは壁に遮られてポロの軍勢を目の当たりにしていないので、その脅威を認識していなかった。
――また平民どもが騒いでいるわ、ぐらいの認識だった。彼女は矢が壁を飛び越えてここまでくると思っていないらしいが、それどころの話ではなく、いまや、ハーフの賊軍は黒門を打ち破って城下町に入ってこようかという瀬戸際なのである。あまりにずれた認識に召使いはむしろ咎める言葉を失い諾々と従うしかなかった。
ヒルデガルトは臀部を振って、蠱惑的な香りを撒き散らして庭を散歩した。ブレージアー城のそばには植物園がある。そこには魔界の諸方から取り寄せた草花が繁茂していた。時折り、ヒルデガルトはここにやってきて、日々の倦怠をわすれようとするのだった。
天蓋に蔓が伸びて屋根のようになっている。園内は草花の香料がふんぷんと漂い、繁茂した植物の色彩が視界の方々に散って、色と匂いが同質のもののように混ざり合っている。
ベンチに巨きな尻を敷いて、傍の鉢から伸びている青い花を撫でていた。愛でる花はいつも、その青い花だった。花弁に揺れている朝露の一滴が鉱物のように輝いている。
ふと、遠くに炊煙が見えた。それは、攻防戦を前にして精鋭軍が赤門の手前の陣中の兵士たちが起こしたものだった。――戦いが近づいている。
召使いはつづら状の坂道の下、城下町の道々に見えている兵卒たちの物々しい鎧の音にそわそわしていた。
主従二人が、その戦争の予兆を感じていると植物園の土の上を歩く音が聞こえた。
この園に入る者は庭師以外にはあり得ない。
(あら、誰かしら)と目を向けると、薮のようになっている植物の蔦の陰からぬうっと細い人影が現れた。
ヒルデガルトは色を失った。悲鳴を上げることさえできず、口から「はっ!」という声が漏れた。
顔面に亀甲線を描く入れ墨した男が立っていて不気味な微笑を送っている。遅れて、召使いが、その男に気づいて悲鳴をあげた。反射的な恐怖から出た声はどこまでも届くかと思われた。戦時中な上、城のすぐそばである。悲鳴が聞こえたら、兵卒が様子を見に来るだろう。――けれど、男は侵入者のくせにそのようなことは勘案していない様子で余裕の微笑みを浮かべるばかりだった。一瞬の沈黙の後に「やあ。ご婦人」と溌剌と言った。
「――誰ですか、あなた」ヒルデガルトは言い返すように尋ねた。何者か分からないのに、そう尋ねる彼女の勇気も相当なものである。
「我か? 我は……ん?」と急に男はじろりとヒルデガルトの傍らの青い花を睨んだ。それを認識した時から、微笑は消えて、高い鼻梁を鼻の花弁に近づけると「すんすん」と匂いを嗅いでいた。ヒルデガルトは思わず、立ちあがった。その時から侵入者への恐怖から、また別個の怖気が背筋を走った。
男はふっと苦笑した。横目に何気なく、ヒルデガルトを見つめた。
「これは……毒花だな」と男はいった。
ヒルデガルトは園内に毒花をつねに懐刀として備えていた。その白刃は宮中で政敵が現れると発動する。いままで一度だけ、その毒は使われた。それはコンラートの第一王妃を毒殺し、その後釜として彼女は第一王妃に昇った。
その青い毒花は一見すると、染料に使われる一般的な花にしか見えない。が、実は、その花は遠く獣人族の根拠地であるパロスの山川にごくたまに咲く花だった。
にわかにヒルデガルトは恐ろしくなって、召使いを突き飛ばして逃げ出した。尻餅をついた召使いも男の獣のような眼光に後を追うように走っていった。
(どうして。気づかれた。あいつは一体何者だ)と髪を振り回し、城内の人目も憚らずに走った。
気づけば、自室で呆然としていた。寝具に腰を下ろすと額に脂汗が浮いてきた。もし、植物園の中で毒薬を育てていると宮中の噂になったら、自分に疑いの目がいくのは間違いない。
そもそも宮中では、前王妃の死は不審な点が多く見られて、暗殺だったのではないかと疑うものも多く、その死の後に彼女が側室から王妃になった事で前王妃の不審死とヒルデガルトを結びつける世論もなくはない。
彼女は恐ろしくなった。その淫らな頭脳は遠くの賊軍の雑踏も、ブレージアーに降りかかる災禍もまったく勘案していなかった。彼女は小さな宮殿世界に座ったまま、火の粉が目の前に来ているのを未だ知らない様子で自分へ向けられる毀誉褒貶を怖がっていた。城外ではすでに街路を鎧を着た武士たちの雑踏が聞こえ始めている。
マンフレートの突進は止まらなかった。道々、往来する馬車を吹き飛ばして進み、城下の町民の悲鳴やら「や、あれは老将軍殿か」といった風聞が飛び交っていた。すでに城下の三層のうちの中段にあって、市井の姿に貴族らしさは見られない。
視界に門が見えた。それは茶色門とは呼ばれているが、所々塗装が経年で剥げて、普通の門楼にしか見えない。(あれを破壊すれば、あとは黒門一つ残すのみ)と計算した。と言うのも、老体が<王家の血>の燃え上がるような痛みに足元が覚束なくなってきていたので、自分の気力と膂力の残りを勘定に入れなければならない。
今更ながら、最後の黒門まで命が続くか、紙一重に思われた。
もはや、正常な判断も怪しい。ただ、ブレージアーの城下の大通りは一本道である。門から門へと、つながっている。なので、微酔を脳裏に残していたとしても、ただ一心不乱にまっすぐ進めばいい。ただ一点真っ直ぐ見て、進むうちに彼は自分の手が何を為そうとしているのかよく分からなくなってきた。復讐という帳に隠れて、それは靄がかかったみたいに判然としない。
――だが、冷静になれば、いま刹那的に移り変わっていく故郷の町の姿は黒門を破壊した時点で阿鼻叫喚の渦になるだろう。そのことになぜか思い至らない。
老将は、この国がかつてどういう姿をしていたか思い出せなかった。皺に囲まれた目元に光はなく、どこか遠くを見ている風だった。
(この国はいつから、こんなだったか)と思った。彼は一瞬立ち止まった。
「なぜ、だれも止めに来ない?」そう嘯いた。
彼が子供の頃の大人たちというのは、とてつもなく恐ろしかった。かつての貴族は我先にと死に急いで<王家の血>をすぐに使うものだから、平時ではその力を使うことは禁忌にされた。国家のために<王家の血>を開いて死ぬことは最上の名誉とされた。いまも、その道徳はあるが実際、その剛気を持った者がいるかといえば怪しい。
なぜなら、この時も国家に反逆している自分を誰一人、止めに来ないのである。この時、彼は半ば、同胞に殺されることも厭わなかった。むしろ、さっさと殺しに来いぐらいの気概を持っていた。
その時に、老人の中で崩れるものがあった。
(なら、滅ぶのも道理)と思って、茶色門へと向かおうとした。すると「待たれよ。老将軍」と市井の雑踏の中からそう呼ぶ声がした。
偉丈夫が狭い横丁から影を纏って幽霊のように現れた。切長の眉に真っ赤な瞳が映える。高い鼻梁のしたにむずかしそうに結ばれた口唇がある。
「おや、あなたは」と思わず老将は親しげな口調で言った。その男は身の丈ほどもある大刀を肩に抱えていた。
「レオン坊? 生きておったか」てっきり死んだものと思っていた者が現れてすぐには呑み込めず、マンフレートは幽霊に話しかけるようだった。
レオンは横丁の暗がりから一歩踏み出して陽の下に歩み出るとマンフレートに一礼した。
「老先生、これは一体何事ですか」
マンフレートはそう問われて、鬱憤の行き場がなかったのが一挙に漏出するようにふんと鼻を鳴らした。
「どうもこうもない。我が祖廟は荒らされ、家中は血の海。すべては愚かな君主のせいである。たいして吟味することなく我れに二心ありと断じて、敵の奇策にかかりおった」
「なるほど。さようなことがあったとは。お気の毒に」
レオンはそう言ってうつむいた。予想していたことだったが、コンラート一人では宮中を御すのは無理があったようである。レオンは<王家の血>を開いて、散り行く落ち葉のようなマンフレートにかける言葉を知らなかった。街路の人々は二人の物々しさに道を開け、横丁に隠れ、住戸に消えていく。
「どうやって、あの爆発を逃れた」
「前もって暗殺に勘付いたゆえ、いち早く逃げ出しました」
「そうか。よかったな。お前があの女狐のような女と姦通したとは笑える冗談だったよ。嘘だろ、あれは?」
「ええ」
「……我らも貧乏くじを引いた。どうだな、お前もルドルフ様の帷幕に入る気はないか」
話の筋に理がない義がない。レオンはかつて自分の父親と肩を並べた猛将のなれの果てを悲しく思った。
「わかっておる。お前もルドルフ様とは一悶着あった。だが、コンラートの愚か者に仕えるよりは遥かに張り合いがありそうだぞ。我れに帝王学はわからぬが、君主は賢いことが第一であるらしい」
聞くに堪えないとばかりにレオンは目を吊り上げ彼のまえに挑み出た。その浮き上がるような僧帽筋の背後に茶色門がある。それを守るように彼はマンフレートの前に立った。ここを破壊されたら、ハーフの賊軍は黒門を城塞の外から破壊したうえで障害なく一挙にブレージアー城まで押し通れてしまう。
はるか後方にはハーフの賊軍がひしめき合っている。前方には同胞の乱心、恐懼が統御されずに飛び交っている。
(俺以外にだれも止めに来ないか……)。
たった、ひとりである。怖いと思わないが、さて、後方と前方、独力で対処するのは無理がある。とはいえ、迷えばすぐに敗れる戦場である。レオンはその無理を知ったうえでマンフレートに向かって言った。
「どうしても、茶色門を破壊したいとお考えならば、実力不足ながら、私がお相手致す」レオンは<王家の血>を開こうとした。その時、「やめたまえ」としゃがれた声でマンフレートが言った。
「なにゆえ」しぼんだ気力を保ったままレオンは問うた。マンフレートは左右に伸びた両翼を力なく、ばたつかせた。その猪首をこくりとさせて頷いた。
「よく、申された。まだ、この国には戦士がいたらしい。――レオン坊、ルドルフはブレージアー城に向かった。復讐を果たす気だ。ああ、死ぬなら死ぬで最後によいものを見れた。お前はほんとうにラインハルトによく似ている」
ぶつりと糸が切れたらしい。マンフレートは立ったまま、レオンの斜め上を眺めるようにして後ろにたおれた。
レオンは胸に炎のような感情が広がるのを感じた。
(最初から、老人に国を破壊する手助けをする気はなかったらしい。ただ、この国の礎たる魂を探して迷っていただけだ)。
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