ルドルフ、策を練る
――その日の夜、ポロはタンを見舞った。例の薬物を投与して、タンのようすはみるみるうちにおかしくなった。まず、めったにしゃべらなくなり、わずかに発する言葉もどこか酩酊しているように支離滅裂だった。また、とつぜん、凶暴になったと思うと、今度は、まったく無気力な様子でうなだれていたりと、とにかく掴みどころが無い。その双眸もどこを見ているのか曖昧に視点を遊ばせている。幸い、まだ、<変身>のときの傷が快復していないらしく、眼を離した隙にどこかへ消えることはなさそうだった。
彼女は娼婦のようにポロにくっついていた。無理やり、引きはがそうとすると、腕を思い切り噛まれた。麻痺した方の腕だった。血が噴き出しているのを見ると痛んでくるような気がする。
(オオカミか)とポロは思った。
「あれをちょうだい」とタンはいった。口の端に血がたまっている。あれ、とは例の<同胞殺し>という名前の豆のことを言っているのである。時おり、彼女の発する言葉といえば、たいてい、そのことだった。
「我慢できないか」
ポロがそういうと、タンはかぶりを振った。ポロは懐に手を入れると、タンはつま先立ちで身を乗り出すように迫った。
「一個だ。一個で我慢しろ」
ポロは指先で豆をつかんで、タンの口元に近づけた。ばくりと、搔っ攫われた。あやうく、ポロは指を噛まれるところだった。彼女は一息で飲み込むと、部屋の隅に膝を抱えて座った。じろりと、天井を穴が開くほど睨んでいる。最近、軍に抱えた闇医者の話によると、タンの内臓はところどころが痛んで、鎮痛薬なしに歩き回っていることがすでに異様らしい。かさねて、その医者は、ポロが「こいつはあとどれぐらい生きられる」と聞くと、「わかりかねますな。いつ死んでもおかしくないというのが私の所感です」とも言った。ポロは天幕の外に出た。タンが袖をつかんで、ついていった。
夜陰の彼方から猛虎の声が聞こえる。訥々と、整列した天幕が不気味な沈黙を守っている。総勢、万を超える吸血鬼を恨むハーフの渦である。粗忽な者たちが数千単位で密集すれば、喧嘩ぐらいはありそうなものだが、どうしたものか、朴訥な生活が続いている。この天幕の群を覆っているのは、一種の宗教熱だった。もはや、ポロはハーフの戦神といっても過言ではない。
その彼の装いは、麻をまとって、つぎはぎだらけで、一見すると歩兵としても貧相である。戦の神がぼろを着ているのだから、だれも贅沢できないし、貧乏に対する文句も出ない。
図らずも、ポロは賊徒に規律をあたえていた。
「見事なものだな。ハーフの王よ」と夜陰に紛れて、赤い眼玉が浮遊している。ルドルフだった。彼が統括している吸血鬼の囚人の陣屋はすぐ近くだった。あえて、そうしたのだが、さすがに近すぎたのか、ルドルフは探りを入れに来たらしい。
「なにがだ」ポロは動揺のいろを表に出さなかった。水面下の権威争いがすでに始まっている。
「我も多くの陣を見てきたが、これほど、陣中が静かなのは初めてだ」
「みんな、疲れているだけだ」
「いいや、ちがうな。吸血鬼を殺そうと期している。そういう沈黙に感じる。――して、ポロ王、その女童はなんだ? 愛妾か」ルドルフはいぶかし気に、タンのことを見つめた。
ポロは「俺の懐刀だ」といった。
意味がわからず、ルドルフは困惑した。が、じっと見ているうちに、タンの眼の色にいような影を感じて「あっ! これは……」と彼は言葉に詰まった。
「は、は、は」とルドルフは笑い出した。
ポロは瞬時に意をくまれて、いい気はしなかった。(こいつは、気が触れているが、物はよく知っている)とポロは思った。
「その麻薬は我れも使おうと思っていた。だが、ブレージアーの高官たちに阻止された。倫理的に問題があると言われてな。ま、しかし。その我れでも、女子供に使う気は毛頭なかったが」
「あの豆はなんという名前だ」
「名前も知らずに使ったのか。……すばらしい。その麻薬の名は<竜眼>という。服用すると、多少の痛みでは動じなくなり、目の奥が青い水晶のようにかがやくようになる。この童にもすでに、その兆候がみられる」ルドルフはタンの瞳をのぞきこんだ。彼女はルドルフを恐れて、ポロの袖にすがった。
「こいつは、俺と同じ<変身>できるが、もう二度、三度、変身して気が萎えちまった。使い物にならないと思ったが、そのリュウガンとかいうクスリを飲ませたら、もう平然と歩き回っている。あと、いちどは変身してくれるはずだ」
「ふふ、この童には、フラーガ族の形質があるな。どんな風に変わるのか、楽しみだ」
「で、あんたは何の用だ」
ポロに言われて、ルドルフは顔の入れ墨をいじりながら「ううむ。気のせいかもしれないが、夜闇にふしんな気を感じる。おそらく、ブレージアーから送られた隠密にちがいない。一応、知らせておいて、損はないと思ったわけだ」といった。ポロは意外な感にうたれて、真っ黒い海のような暗黒の疎林を見回した。
「じつは、俺も同じ気配を感じて、外に出てきた」
「ふ、吸血鬼の感覚より、獣人の形質がある其方の感覚の方が鋭い。いよいよ、我れ一人の勘違いではないらしい」
「では、人をやって捕まえよう」
ポロがそういうと、ルドルフは手で制して「いや。それには及ばない。忍びの者を捕まえるには、注意深くなければならぬ。――我れが出向こう」といって、夜陰の陰に紛れていった。
――暗黒の海に平伏されたブレージアーの間諜らは、どこまでも広がる天幕と陣中の静謐に身震いしていた。現在のブレージアー軍の主将であるラルフの命を受けて、偵察に来たのだが、間諜とはいえ、一個の人格である。ハーフの賊軍の多勢を知って、肝をつぶした。しかも、また、その賊軍は吸血鬼の重犯罪者を取り込んでいるらしい。さらに内実を知ろうと数名が吸血鬼の犯罪者たちの天幕に紛れ込んだが、ハーフとの間には境界があって、それ以上先には闖入できなかった。
間諜たちは、いちど、示し合わせた時刻に、藪のなかに戻った。おのおの、見聞きした情報を整理しようと頭を寄せ合った。
「あれ以上は紛れ込めぬ。人相でバレるにちがいない」
「ううむ。なにか、いい手立てはないか」
「無理を申すな。ハーフの賊徒のなかに吸血鬼が紛れ込めるはずがない。ここらが潮時だ」と、各々、陣中で限界を悟ってきたらしい。が、賊徒の首魁の名もわからないままである。引き際には、得た情報の少なさが心残りだった。
「ああ、そうだ。陣中に流言が飛び交っていた。なんでも、コンラート王の実兄にあたるルドルフ様が指揮をとられておるとか」
「なに。それは、俺も聞いたぞ。妄言かと聞き流したが」
「もしや、流言飛語ではなく、まことのことか」
間諜たちは青ざめたお互いの顔色を見合った。十年も前の出来事ながら、いまだに、ルドルフという名には、それほどの威力があった。
「こうなっては、その噂の真偽ぐらいは明らかにしないと、さすがに帰れない」
「むう。たしかに」
暗澹たる思いだった。ただでさえ、この軍勢には不気味な瘴気がある。そもそも、間諜たちは、ハーフの虐殺を知らない。静かな天幕の群れから、湧き上がってくるような闘気を復讐心によるものだとは想像できない。彼らは、この賊徒の陣中に潜むとき、心臓をつかまれているような得体のしれない緊張に苛まれるのだった。鬱々と皆の合意を見て、陣中へと戻ろうとしたおり、寒風に闇の中の疎林がざわめいた。
「ちと、頭数が多いな」と暗闇から声がして間諜たちは帯剣に手をかけた。
「なにやつ。――出てこい」
夜陰から亡霊のように近づいてくる。見れば、影の輪郭は、頭が高い位置にあり、一挙手一投足に油断ならぬ、運びを感じさせる。
「ブレージアーのくせ者たちよ。いい機会であるぞ。噂の真偽を確かめてみたくないか」ぼうと、松明の火があがり、影の輪郭が暗闇に克明に浮かび上がった。間諜たちは帯剣を抜くことをわすれて、慄いた。
顔中に入れ墨があるが、その顔貌には、ブレージアーで恐れられた悪党ルドルフの面影がある。しかも、ルドルフの声色は太く、ゆったりとして、特徴があった。ブレージアー城下はそう広くない。住民は、そこを練り歩き悪評を博す王族の人となりを簡単には忘れない。
間諜たちは、一目見て、(ルドルフだっ!)と確信した。悪人だが、才知に優れ、また、<王家の血>を持つ稀代の巨魁である。即座に、間諜たちは互いに目顔で「逃げよう」と示し合わせた。
それを遮るように「待たれよ。すでに、四方八方、囲んでいる。逃げるのはむりだ」といった。それを聞いて、間諜たちは、漆黒の森に豺狼の眼がいくつも光っているような錯覚を覚えた。
「まあ、そう肩肘を張るでない。殺しはしない。ただ、条件はひとつ。――我れに降れ」沈黙だった。ルドルフは考える暇を与え、その間、虎狼のように鋭い視線で間諜たちをにらんだ。
反応は意外に早かった。間諜のひとりが膝をついた。
「わたしは降ります」といった瞬間、その男の首が飛んだ。ルドルフは朱にまみれたまま、歩を進め「我れは嘘が嫌いだ。貴様ら、この目を見よ。この目は人の虚実を見る心眼だ」といって、転がった首を蹴った。ならば、なんといえば、いいのだ、と彼らは困惑した。降ると言えば、殺され、降らぬと言っても当然、殺される。
つぎに、逃げだすものが現れた。ルドルフは獣じみた速度で走って、逃亡者の背に追いついた。今度は刀剣を使うに及ばず、首を両腕でつかむと強引に膂力でねじ切った。
地面に二つ目の首がころがった。
「なぜ、心から我れに服さぬ。いたずらに人を殺めるのは本意ではないぞ」
ルドルフはそういった。
「ルドルフ様、私はこころから、貴方に降ります。古来より、後継ぎは長男と定められており、かねてから、ルドルフ様の宮中での叛乱は正当なものと、ええ、わたしは……」
児戯のように、首は飛ぶ。ルドルフは音楽でも奏でるかのようである。まだ、言葉の途中だった男の首は、もの言いたげに口を半分開いたまま、血を吐いている。
「俺は世辞が嫌いだ。コンラートの薄バカと一緒にするなよ。奴に阿るなら、それで事足りるが、我には通じない。さあ、真実の言葉はないのか。ここに忠臣はおらぬか」
残る間諜は二人のみとなった。片方は腰を抜かし、失禁していた。ルドルフは、その震える相貌を見下ろして、「我れが恐ろしいか」と聞いた。
「は、はい。おそろしゅうてなりません」
「わっはっは。いいぞ、我れは、久しぶりに真実を聞いた」
と言って、ルドルフは残った二人のうち、一人を殴り殺した。ルドルフは何を考えているのか。
彼が生かしたのは、臆病風に吹かれ、失禁までした間諜だった。
「そなた、名を何と言う」ルドルフは彼の手を取り立ち上がらせた。
「マ、マルコと申します」
「生まれは?」
「城下の南方で」
「官位は」
「一兵卒にすぎません」
「家族はほかにおるか」
「先のヒューマンとの戦争で親類は皆、死にました」
「それはよい」
そういって、ルドルフはマルコという間者を引きずっていった。
――ポロは天幕のなかで、テムの訪問を受けていた。
「ルドルフを自由にしすぎると、主客が逆転するかもしれねえぞ」とテムが警告するのを、ポロは鼻で笑った。
「そんなことはどうでもいい。大事なのは、奴が吸血鬼を本気で恨んでいるってことだ。それだけで、仲間にするには十分」
ふいに、帷幕がひるがえって、ルドルフが入ってきた。
「――ポロ王よ。捕まえたぞ」彼はマルコをポロの面前へ放り投げた。
ポロはルドルフが宣言通り、間者を捕まえてきたのにおどろいた。(まるで、ウサギでも捕まえてきたようだ)と舌を巻いた。
「なぜ、生かしたままにする」とポロが言うと、ルドルフはかぶりを振った。
「ふふ。殺すのはもったいない。現在のブレージアーには、<王家の血>を持つ軍人が三十余名。さすがに、この数は我らにはどうしようもない。が、奴らは決して一枚岩ではない。虚々実々の出世争いで、宮中は煮られている。――だから、こいつを使って揺さぶってやろう。元来、吸血鬼などというのは猜疑心の強い奴らだ」
「ほう。どう使う?」
「我れのもともとの直臣に、マンフレートという<王家の血>を持つ者がいる。そやつに、離間し、我らに降れと密書を送ってもらう」
「そう、うまくいくものか」
テムが訝しげに問うと、ルドルフは薄笑いを浮かべた。
「いいや。問題はそこではない。――じつは、マンフレートという名前の<王家の血>を持つ者がもう一人いる。そっちのマンフレートは、俺と折り合いが悪かったやつだ。さあて、ここからが肝要だ。なんらかの手違いで、この間諜は、マンフレートという名前を勘違いして、俺と仲が悪かった方に、密書を届けてしまう。すると、どうなる?」
ルドルフの策略にテムは身震いした。ポロはまだ理解が追い付かないらしく、困惑している。
「おかしいなあ。仲が悪かったはずのルドルフが自分に密書を送ってきた。あ、そうだっ! 名前を間違えたんだ。――そう考える。そうしたら、コンラートに訴え出るに違いない。城下にルドルフと通じている奸賊がいるとな」
「だが、それでは、一人、敵を減らすだけだ。三十人近くいるんだろ。効果は薄くないか」テムの指摘にルドルフは微笑した。
「密書には、ほかにも、我れに降り、内応する者がいると示唆する。だいじなのは、コンラートと<王家の血>を持つ重臣たちの間に楔を打ち込むことだ」
「むう」
テムは(ルドルフ……見事だ。恐ろしいヤツ)とルドルフに感心と恐怖とを同時に抱いた。ルドルフはくわっとマルコを睥睨した。
「さあ。貴様の全頭脳をもって、考えよ。マルコ……貴様の眼から見て、我らと吸血鬼はどちらが勝ちそうだ。古来より、勝ちそうな側につくのが、処世術の基本だぜ。さいわい、貴様には親類が城下にいないのであろう。裏切っても、家族を処刑される心配はないぜ。さあ、どうする」
「は、は、は」
マルコは腰を抜かして、後ずさった。ささっと佇まいを正して、平伏し「私はこころより、貴方に降ります」といった。
ルドルフは「わははは」と笑った。――時は待たない。ルドルフの策略は、すぐに、開始された。後々、効いてくる毒のようにブレージアーの体内へとするりと紛れ込んだ。この毒を治せる典医は、ブレージアーの宮中にはもういない。すでに、災禍の足音はブレージアーを揺らしている。
――夜分に灯篭のひかりが点々としている。ブレージアーは眠らない。とくに、庶民の住む南方は灯篭の光がかがやいて、人々の喧噪は収まらない。それに比べると、貴族の住む北方は静かなものだった。
マルコという間諜は「帰ってきた。間諜のマルコだ」と望楼に向かって叫んだ。
「なに。間諜か。なぜ、一人だ」
「仲間はやられた。急ぎの報告があるゆえ、はや、通せ」
「ご苦労」
赤門が重い音を立てて、左右に開いた。マルコは走った。彼は言いつけ通り、ルドルフの政敵だったマンフレートの邸に向かった。玄関に立っている門番にひそひそと耳打ちをした。
「夜分に失礼します。書簡を届けに参りました」
「書簡だと。旦那様は御就寝だ。日を改めよ」
「では、これを取り次いでください」
「……それほど急ぎの用件なのか」と門番は差し出した書簡をいぶかし気に見つめた。
「ええ、では、たしかに渡しました」
といって、マルコは逃げるように去った。もう自由の身のはずだったが、彼はルドルフのもとに戻ることを自由意思でえらんだ。一間諜の身で、時局には鋭敏である。彼はブレージアーがハーフの賊軍に敗北すると直感した。
(だが、逆に、これは……ルドルフ様についていけば、官位を得られるやも)とマルコはちいさな希望を胸に描いていた。
朝、マンフレートは門番から「夜半に怪しい者が旦那様に書簡を届けてきました。どうか、ご確認ください」と書簡を渡されて、目を通すと、その内容の奇怪で突飛なことに椅子から転げ落ちた。
彼は急いで、ブレージアー城に走った。評議の場でコンラートは報告を受けると、彼は凍り付いたように固まった。
「兄上が……戻ってくる」と彼は十年間、地下の牢獄に縛した兄ルドルフの復讐をおそれた。傍に侍していた女官や護衛の者たちも「ルドルフ」と耳にして、目を見張り身震いした。
イグナーツも召し出されて、そばにいた。彼はマンフレートを離間させる書簡に不審な気配を感じた。
「王よ。ルドルフ様は、なぜ、マンフレート殿に書簡を送ってきたのでしょう。失礼ながら、マンフレート殿、貴方はルドルフ様とは?」
「別に仲が良かったわけではありません。いや、それどころか……仲が悪かったのですが」
イグナーツはそれを聞いて、眉を動かして、コンラートと顔を見合わせた。
「しかし、文面を見るに、昵懇だったように見えるのですが」とイグナーツは疑問に唸った。
「あっ!」とマンフレートが何かひらめいた様子で叫んだ。
「なにごとか」
「わ、わかりました……。名前を間違えたのです。おそらく、剛毅なことで知られる老将軍マンフレート殿に送る書簡が手違いで、同じ名前の私のもとへ」
「なるほど。王よ。老将軍マンフレート殿はルドルフ様と昵懇でした。辻褄が合います」
「では、だれか、あの老人を打ち首にしろっ!」
それはほとんど発作的な反応だった。恐怖から来るものにしても、あまりに思慮がない。
イグナーツは焦って「いや、ご主君。老将軍は軍中の信望を集め、古き功多く、ただ書簡が届いただけで殺すのはあまりに性急かと」
「ならば、どうする。書簡の内容では、だいぶ前から通じていたことが窺えるが」
「されど、書簡には、まだ完全に老将軍がルドルフ様に降ったと断言できる文面はございません。ここは何卒、ご明察を」
コンラートはルドルフの諫言に沈思した。彼は兄のルドルフがどのような人物かよく知っている。
(悪魔が帰ってくる。ああ、なんてことだ。こうなるんだったら、処刑しておくんだった)と後悔ばかりが頭をもたげた。
「王よ。書簡には他に二心を抱いている重臣が何人もいると」とマンフレートが言った。
「そこだ。私の一番の心配事は。敵が目前に迫っているのに、奸賊が城内に潜んでいる。もし、内応され、城門を開かれたら、この国は終わりだ」
「では、老将軍を捕え、仲間を聞き出すのはいかがでしょう?」
コンラートはハッとして「それはよい。そうだ、そうしよう」と窮地に活路を見出した様子で前のめりになった。
「いけません。相手は<王家の血>を持つのですよ。そんなことをしたら、城下内で<変身>してしまいますぞ」とイグナーツが言った。
「なら、<王家の血>を持つ重臣を集めて、その者らに奴の邸の外を守らせろ」
イグナーツの制止をコンラートは聞かなかった。――かくして、老将軍マンフレートは半ば、強制的に軍権を奪われた。<王家の血>を持つ重臣たちは何十名もの近侍を引き連れて、その邸を襲撃した。邸の部屋の隅々までくまなく、調べられた。召使いは暴行を受けて、死んだ者さえいた。
――聴聞場には、老人の声がこだまする。「我は、潔白なり。潔白なり。王よ。なにゆえ、儂を疑うのか」と無実なる老兵の訴えである。聴聞場には、コンラート王とイグナーツ以下、文官もおり、<王家の血>を持つ重臣たちが居並んでいた。あえて、老将軍マンフレートは縛されずに連れてこられた。
「とはいうが、この書簡はいったいなんだ」とコンラートは例の書簡をマンフレートの足元になげた。老兵はそれを読むなり、わなわなと震えだした。
「こ、これは奸計です。ご主君、ルドルフがいかなる者だったか、お忘れですかっ!?」
「わが愚兄のことはいまはどうでもよい。――問題は……その書簡を見るに、ほかにも二心を抱く者がいることだ」コンラートはすでに老人の罪を決定しているような口ぶりであった。
「儂は無実です。その書簡にある、ほかにも降る者がいるという話も、ご主君に疑いを持たせるためです。いわば、ルドルフは、王と臣との間に楔を打とうとしているのです。ご賢察を。ご主君」人の顔色は繕えない。無実を訴える者の偽りがたい憤懣で、老人の顔は鬼のようになった。居並んだ文部諸官には、(いやいや。あの御仁にかぎって)と老将軍に罪のないことを理解する者もいたが、なにぶん、裁量はコンラートの手に握られているので、傍観するしかない。
「ううむ。こうなった以上は死罪が妥当だが、そなたの功に免じて、命だけは助けてやろう。だが、条件がある。一味の名前を吐け」コンラートは老人の話をまったく聞かなかった。
「ぐぬぬ。この国は、早晩大火に見舞われる。忠臣と賊の区別もつかない暗愚な君主めっ!」
ついに堪忍袋の緒が切れたらしい。マンフレートはコンラートを汚く罵り始めた。イグナーツは傍で見ていて、コンラートが怒りに打ち震えるのを危うそうに見ていた。
(ま、まずい。王が怒りに任せて、将軍を打ち首にしようとすれば、いよいよ……)と思ったのもつかの間、
「それ見たことか。謀反だ。だれか、こいつを斬れっ!」とコンラートは席をたって、怒り狂った。
イグナーツは「王よ。それはなりませんっ!」と諫めたが、コンラートには聞こえていないらしい。マンフレートは拘束されていない。それは、ある意味、穏便に<王家の血>を使わずに、罪状を問う、という暗黙の了解があったわけだが、その了解もコンラートの激高で破られた。番兵がぞろぞろと聴聞場に入ってきて、マンフレートを拘束しようとした。
マンフレートは聴聞場を見回して「皆の者。これは剣公レオン殿の言葉である。しかと、耳に刻め。<王家の血>を持つ者には、臆病者しかおらんっ!」と叫んで、<王家の血>を開いた。
――聴聞場は、戦場の喧噪に包まれた。文部諸官や<王家の血>を持つ重臣は浮足立った。イグナーツの恐れるところが、あまりに想像通りに顕現して、彼はコンラートの暗愚を恨んだ。
(なんて、愚かな君主だ。あんな風に退路を断ったら、どんな忠臣でも<変身>するに決まっている)。マンフレートの両翼が聴聞場に翻った。彼の<王家の血>には<翼>の形質が色濃い。
百雷のごとき激しい音が聴聞場に響いた。マンフレートは一瞬のうちに、重臣の居並んだ人の列に突っ込んでいった。瞬きする間に、<王家の血>を持つ重臣を十名近く、殴り殺して、彼は、コンラート王の御前に迫った。
コンラートは腰を抜かした。
「だ、だれか。はよう、<変身>せい。私を助けよっ!」
答える忠臣の声がない。彼の助けを呼ぶ声は聴聞場から逃げ出す者の雑踏でかき消された。イグナーツは人ごみに隠れて、周りを見て、(はやく誰か、<王家の血>を使えよ)と念じている始末である。ほかの<王家の血>を持つ者たちも、何もできなかった。安閑と過ごしてきた彼らは<戦う>ということの無上の恐怖を思い出した。
マンフレートはコンラートを見下ろして、「殺すにも値せん」と長嘆して、さも罪を免れたかのように鷹揚と聴聞場から去っていった。
老人の憂鬱は年月を経て、より一層深く心を穿っている。
(ああ、いやな時代に生まれたものだ)と彼は城下をあるいた。騒ぎを聞きつけて、様子を見に来た人々も、マンフレートの<王家の血>を開いたすがたを見て、逃げ惑った。
――彼は孤独に散歩した。
「どこかへ落ちのびて、新たな主君を探すしかないのか」
彼は中つ国の帝国領へ行くことを考えた。が、直感的に気づいた。
「ルドルフに与していると疑われたのなら、実際に裏切ってやるのも悪くない。あの御仁は、人格に難があるが、才知がある。無能よりは、いくぶん、マシか。もともと、あの人の方が長兄だし、天命がもとにあるべき場所に戻っただけだ」
マンフレートは善は急げと、翼を使って、飛んだ。巨大な猛禽のような影が空に映った。その影は城下の壁を越えて、山林に消えていった。
ブレージアーは北から南まで大騒ぎになった。噂ははやい。しかも、市井の耳はここ最近の不穏な気配を感じて、敏感になっている。さすがに、民衆の口をいつまでもふさいでおけない。ハーフの虐殺も人口に膾炙されてきている。
「老将軍マンフレート殿が乱心し、政庁の重職にある者たちを殺しまくったらしい」
「いったい、なにが起きているのやら」
「空に龍が見える気がするよ。いやな時代だなあ」
道に路傍に横丁に口々に、社会不安が漏出する。――けれど。赤門を越えた北側の騒ぎはもっと激しかった。貴族の耳には正確な情報が入ってくる。それゆえに、それは明確な恐れとなって、人心を容赦なく揺らす。
――コンラートは床に伏した。彼は聴聞場での出来事で、(俺には忠臣がない。俺のためにいのちを捨てて戦う臣がいない)と実感したらしい。目の前にハーフの賊軍が迫ってきているのに、彼は気が萎えてしまった。
「あ、兄上が来る……」コンラートは頭がおかしくなりそうだった。あの怪物が地下に閉じ込められて、腹の底で憎悪をどこまで育てていたか、彼は想像するだけで身がすくんだ。イグナーツは、王の顔色を窺って、彼の書斎の前の廊下をうろうろしていた。
女官に聞くところ、「体がすぐれないので、政務は出来ないらしいです」と言われた。が、ハーフの賊軍は目の前に駐屯して、剣を研いでいるのである。悠長なことを言っている場合ではない。イグナーツも命がかかっているので焦った。悶々と悩んでいると、ふと、「イグナーツ様、どうなされた」と声をかけられた。
見れば、コンラートの息子のレオン王子のすがたがあった。若いが身分の差には厳格である。阿るような気配もなく、王統の風格がある。おもわず、イグナーツは緊張して「あっ。若君」と深く頭をさげた。
「父上に気を遣っているのですね。されど、いまは国難の時ですから、その必要はありません。私が取り次ぎますから、なんなりと」
「ああ、助かります。若君」
床に伏したコンラートは王子の謹慎を解いて、自分の身の回りの世話を命じたらしい。こういった国難の事態こそ、矢面に立って、人心を鼓舞するのが王のしごとだが、コンラートは弱ってしまった。王子のレオンの眼にも、(時を得なかった)という悟ったような諦念めいた感傷がある。
「父上、イグナーツ様が見えられましたよ」とレオンが言うと、コンラートは不機嫌そうに眉を動かして、体を起こした。
「なんだ」
「ラルフ殿が、全軍の主将を命じてほしいと。その……先のマンフレート殿の乱心のせいで、数が足りないようで……」とイグナーツがいった。
「むう。宰相殿はまだ戻らんのか」
「いまのところは」
「ならば……。ああ、くそ」
コンラートは頭をかかえた。宰相フォルカーが消息不明である――ならばと、不覚にも「レオン」の名を口走りそうになった。むろん、自分が処刑したことを思い出して、その剛毅なる人柄が、この危急の事態にコンラートは恋しくなった。
「――では、イグナーツ。お前がやれ」
「わたしですか」
イグナーツは嫌そうな顔をしそうなのを必死で抑えた。この人材不足のときに、白羽の矢が立つことは想像できたが、彼は陣頭に立つのが嫌で仕方がなかった。
「嫌だと申すか」
「いえ……拝命いたします」
「ならば、よい。軍務はよきにはからえ」
――それだけであった。このブレージアーに戦火が広がるというときに、コンラートが言ったのはそれだけであった。
イグナーツはコンラートの部屋を辞去してぼう然と(ああ、この国の終わりだ)と悟った。
ルドルフの策略はまんまとブレージアーに毒を注射した。彼は自分の天幕にて、テムと向かい合って酒を呑んだ。
「ポロ王は、いま、いくつだね」とルドルフが聞いた。彼はポロのことを根掘り葉掘りテムに聞いている。テムは最初いぶかったが、彼の熱心なようすを見るに、ほんとうにポロのことが気になるらしい。
(てっきり、王様気質な奴かと思ったら、案外……)。
「たぶん、二十三ぐらいだな」
「若いな。かれに家族はいるのか。――吸血鬼のせいで、死んだか?」
「……」
テムは言いよどんだ。ホウロウのことを言うべきか迷った。迷っているうちに、ルドルフは「ム……ふふ、来たな」と席を立った。
「なんだ?」テムが眉をひそめると「コンラートの薄バカから贈り物が届いたのさ」
ルドルフはそう笑って、帷幕をはらって外に飛び出した。テムが不気味に思って、ついていくと、宙に猛禽のつばさが広がっているのが見えた。影がちょうど、テムとルドルフを覆っていた。
「やあ、マンフレート。久しぶりではないか」ルドルフは蒼天の猛禽の陰に向かって話しかけた。テムが茫然としていると、その影はゆっくりと降りてきた。見れば、その翼は人から生えていた。
テムもさすがに何度も見たので、すぐに分かった。
(<王家の血>を開いた吸血鬼だっ!)。
マンフレートは地面に着地すると、平身低頭して「こたびは宮中で二心ありと疑われ、身の危険を感じたゆえ、やむなく投降した次第です。どうか、かつての誼みを思い出して、用いてくださるなら、このマンフレートは犬馬の労をも厭いません」
その言葉は明瞭で簡潔である。ルドルフは「よせ。立つのだ」と老人の手を取った。
「暗君に使えるのは、大変だな」ルドルフはマンフレートの服についた汚れを手で払ってやった。
「……ルドルフ様。そのお顔の入れ墨は?」
「ああ、そうだ。奴らは、わたしを吸血鬼の実社会に戻れなくしたのだ」
「おいたわしくてなりません」
マンフレートは顔を歪ませて言った。ルドルフは快活に笑った。
「いいや。いまとなっては、おかげで憑き物が落ちた気がする。哀れみなどいらぬ。さあ、老先生。もとのすがたに戻られよ」
「いえ、しかし」マンフレートは周りを見て、躊躇した。騒ぎを聞きつけ集まってきたハーフを気にしているらしい。
「安心せい。ハーフは我らの敵ではない。敵はブレージアーにいる。私がお前の素性は説明してやる。なにより、もう体が持たぬだろう」
「そうですか。しからば」
マンフレートの体は若干縮んだ、かと思うと、翼は折りたたまれて、背中に消えた。彼は血を吐いて、地面に大の字に倒れかけたのをルドルフは抱き止めた。
彼はテムの方を振り返って「医者はいるか」と聞いた。
「いるにはいるが」
「ならば、この老人の面倒をたのむ」
「しかし」
テムはポロがどう思うか気にして躊躇った。すると、「我れがポロ王に説明してくる」とルドルフは自信ありげに言うので、テムは仕方なく従った。
――ルドルフは飄々とポロの帷幕をくぐった。ちょうど、その時、ポロの天幕のなかではタンが禁断症状をあらわして、暴れていた。
「ぎゃああっ!」彼女は獣のようにポロの背に飛び掛かって、肩を噛んだ。
「うおっと」ルドルフはその光景に後ずさった。ポロは慣れたのか、タンに噛まれても平然としていた。懐の巾着から<リュウガン>というきのこを取り出すと、背後に無言で放り投げた。
「はっ!」タンは目の色を変えて、それを追いかけて天幕は揺れた。
ルドルフは薄笑いを浮かべて「もう、その子は限界だな。そろそろ、死ぬぞ」といった。
(なんだよ、居たのか)と言いたげな表情でポロはルドルフを一瞥した。
「なんの用だ」
「戦機が来た」
「急にどうした」
「コンラートは、我れの策謀に引っ掛かったぞ」
「なぜ、わかる?」
「離間の計で裏切りを疑われた吸血鬼の重臣が降伏してきた。我れのために働きたいと」
ポロは攻撃的に眉間にしわを刻んだ。きつと立ち上がって「そいつはどこにいる」といった。いまにも殺しに行きそうな剣幕である。
「まあまあ」ルドルフはポロをなだめた。
「降ってきたならさっさと殺せ」
「ならんならん」
「なぜだ」
「降ってきた男は<王家の血>を持っている」
「なら、なおのこと殺してしまった方が良い」
「いやいや。それより、戦って死んでもらおう。できる限り、吸血鬼の輩を道連れにして……。降ってきたバカは老人だ。<王家の血>をそう何回も使える身体ではないから、君の脅威になりはしないよ」ルドルフは悪辣な笑窪をつくって、ポロを覗き込んだ。ポロは沈思して、その理をかみ砕いた。
――が、返答は「ふん」と一言であった。
「ひとつ聞きたい」ポロは鋭いまなざしをルドルフに向けた。
「なんだ」
「この軍のリーダーは俺か、お前か」
ポロが問うと、ルドルフは哄笑した。
「むろん、君だ」
「では、ブレージアーを陥落させたら、その玉座には誰が座る?」
「それも君だ」ルドルフはそう言った。ポロはいぶかし気に眉をうごかした。ルドルフはため息して「そういっても君は信じないんだろうがな」と天幕の外へ出ていった。
――ルドルフにも彼なりの反省があった。
(矢面に立ち過ぎた。悪人は陰にいるのがよい)というのが、彼が暗闇の牢獄で瞑想しながら行き着いた結論だった。つまり、だれかを推戴し、その下で好き放題したいと思っているのである。もともと、しがらみの多い宮中の生活がきらいな性分だった。
かれはリーダーをさがしている。その理想像をポロの背中に見ているのである。
だから、真実、ポロを裏切る気はなかった。
(このハーフの男をブレージアーの玉座に座らせる……最高の雪辱だぜ)。が、くせ者のことばは嘘っぽくて、ポロには刺さらない。
「どうしたもんかなあ……」
ルドルフは怪しげな微笑を浮かべて、晴天を仰ぎ見ながら悩んだ。
彼は降ってきたマンフレートを見舞った。すると、マンフレートはブレージアー城下内の政変を事細かに教えてくれた。レオンはコンラートの妃と姦淫して処刑され、フォルカーは行方不明。そう聞いて、ルドルフはからからと笑った。
(楽勝だな)と彼は思って、尚早に事後の策を考え始めていた。
(まずは、帝に、ポロをブレージアー王位につかせるように上奏しようか。……いやあ、面白くなってきたぜ)。
――ホウロウとヴィーはブレージアー城を遠くに拝める丘陵まで来た。森の林冠が海のように続いて、その所々から煙が上がっている。
「なんだ。あのけむりは」
「……」
ヴィーはそれには答えない。おそらく、ポロ王の率いるハーフの賊軍は近くに駐屯している。ならば、賊軍が暇を持て余しているはずはない。現地調達をかねた非人道的な略奪行為が行われたことは推して知るべし、である。
「今夜の寝床をさがそうよ」ヴィーはそう言って前をあるいた。疲労した足取りは霏霏としたつゆを吸った土に引き込まれそうだった。
「待てよ。ポロがどこにいるのか分かったのか」
「焦っちゃダメだよ。賊軍に正面からぶつかってどうするの。それに、最後に寝たのはいつ?」
ホウロウはヴィーに言われて、逸る気持ちをおさえた。ホウロウの眼は寝不足で真っ赤に充血していた。
(俺には我慢が足りないらしい)と諾々、彼女の言に従った。
寝床をさがすと言っても、どこも廃墟のようなものだった。選ばなければ、屋根ぐらいはすぐに見つかった。
「納屋で寝よう」ヴィーがいった。
「なぜ、納屋だ」
「だって、どこも血の匂いがするもの。それとも、死体の隣で寝る?」
ホウロウはげんなりして、ため息した。高床の穀物倉は賊徒に荒らされたあとらしく空だった。ヴィーがどんと体を投げ出すと、ネズミが這い出てきて、真下に落っこちていった。埃で息が詰まった。暗闇で話す言葉もない。
お互い疲れていた。ヴィーもホウロウも体を休めて、横になった途端、ほとんど同時に泥のように眠った。
――先に目覚めたのはホウロウだった。しぜんに目が覚めたらしい。夜風が吹きすさんで、納屋のとびらが音を立てている。いまは、夜半なのか、それとも外の闇は暁闇なのか定かではない。ホウロウは引き寄せられるように外に出た。道の辻の石塊に腰かけて、そのときになって、彼は久しぶりにこころに平穏をとりもどした。
ハーフの虐殺から今日この瞬間に至るまで、頭で処理できなかった様々な事柄がだんだんと記憶に落とし込まれていくようだった。風雲の導かれるままに真っ当な感情をかなぐり捨てて、戦い戦い、消耗した。
人のいのちをいくつも奪った。やむを得なかったのは頭でわかっている。が、殺人という行為には、名状しがたい呪いがへばりついているらしい。良識に巣くう魔物である。けれど、このこぶしに救える命がある。暴力でしか守れないものがある。
(ポロ、おまえは道連れだ。勝敗はしらんが、必ず、ともに死んでもらうぜ)。
すると、夜風の林のざわめきに馬の足音が聞こえた。馬蹄がせわしなく道を叩いている。四つ辻の前に座っているので、目の前を通っていくのは明白だった。賊徒か、または吸血鬼の村民か。どちらにしても、見つかると厄介なことになる。といっても、もう馬蹄の音は目の前である。ホウロウは迷ったあげく、(ならばいっそ、平然と座っているのが怪しくない)と頑として動かないことに腹を決めた。
凪のようなこころで、しぜんに擬態していた。話しかけられなければ、それが一番いい。が、「そこもとは、混血の徒と見受けられるが、賊徒の一味か否か」と馬上から誰何された。見れば、馬上にいるのは吸血鬼の男らしかった。
馬上からとはいえ、痩躯長身、強い膂力をうかがわせる偉丈夫である。ホウロウは目を見張った。男は背中に見たこともない大剣を引っ提げていた。
「いいや。俺は賊じゃない」とホウロウは言ったが、内心、(まあ、信じてもらえないよな)とあきらめて、逃げる準備をしていた。
「そうか。賊ではないか」
男は真紅の瞳でホウロウのことを洞察した。表情が一切崩れない。
「信じよう。しかし、この時局である。浮浪者に明日はないぞ。食べ物はあるのか」
ホウロウは吸血鬼が意外にすぐ、彼の言葉を信じたのに驚いた。
「まあ、あるには」
「そうか、それはよかった。あまり、多くはないが、これをあげよう」
男は巾着を投げてよこした。
「その豆はすぐに食ってはならんぞ。山林のどこかへ植えれば、わりとすぐに芽を出す。――ハーフには辛い時代だ。どうか、良識を捨てずに居てくれたら、幸いである。では、さらば」男は言葉少なに立ち去ろうとした。感謝など言われたくないような忙しなさだった。
ホウロウはたまらず、「まて。なぜ、ハーフにここまでするのか」と思わず聞いた。男は首だけふりかえって「……わが種族の罪を赦してほしい」といった。真実、苦悩のある言葉と表情であった。
「あんた、名前は」ホウロウは聞いた。
「名乗るほどの者ではないが」
「いいや、ぜひ聞いておきたいね」ホウロウがいうと、男はいんぎんに馬首を返し、馬を降りると「……ブレージアー城下北門の生まれ、将軍ラインハルトの息子にして、王室護衛官レオンと申す者である」といった。
ホウロウは吸血鬼の礼に気圧された。安易に名前をただした責任を感じた。
「では。さらば」とレオンは急いでいるらしく、後を濁さず去っていった。その態度の凛として、涼やかな印象をホウロウは忘れえなかった。(吸血鬼とは……いったい、なんなんだ)とホウロウは尽くされた礼に心をすっかり奪われた。礼儀正しさだけでは、繕えない人品と剛毅を感じた。(あれは、普通の男じゃないなあ)とホウロウはしばらく、石塊にすわったまま、夜闇にレオンのことばかり考えていた。気づけば、いったい、どれほどの時間、そうしていたのか、暁闇に青白い光が差した。(そうだ。ヴィーなら、なにか知ってるかも)と思って、彼はいてもたってもいられず、納屋に帰った。
ホウロウもここ数日、気分が沈んでいたので、日照りに雨を得たのか、無邪気にヴィーにレオンのことを話したくなって、その勢いのまま、寝ている彼女の背に近づいた。
「うりゃああっ!」
その足音を聞くや否や、ヴィーは起き抜けにホウロウに襲いかかった。 凶刃がホウロウの目元で止まり、彼は腰を抜かした。むしろ、腰を抜かしたことで、刃は眼球に届かずに済んだ。
「おい。バカ。なにすんだ、俺だよ」
すると、彼女は肩で息をしながら「なんだ。びっくりした」といって、懐刀をしまった。
(びっくりしたのは俺だ)とホウロウは思って、言わんとしたことをすっかりわすれた。
「だって、足音をどたどた立てて来るから」
彼女は眠ることを恐れた。他人の寝首を掻く者は、逆に寝込みを襲われることを恐れる。ホウロウは彼女の性分を理解してきた。(人殺しの考え方だな)と彼は思ったが、それをとがめる気は起きなかった。ヴィーは肩で息をして、額に脂汗が浮いている。彼女の焦り方の尋常ではないことにホウロウは申し訳ないような気がしてきた。
「で、どうしたの?」
「……」
そこまで有意なことが起きたわけでもない。言うべきか否か(どうしよう)と彼は迷って黙りこくった。
「なんなの。黙ったまんまで」彼女は目を細めた。
「……なんでもない」
そういって、ホウロウはふいと背を向けるとヴィーは眉根を寄せて、「はっ? なにそれ」とすこし怒った。
「ねえ。なんでもないわけないよね。ちょっと」
「なんでもない」
ヴィーは口をへの字に曲げた。
「つまり、何でもないようなことがあったんでしょ」
諭すような口調である。それに、口舌に妙がある。ホウロウは思わず「まあ」と言ったので、彼女は言質を取ったとばかりに「そらやっぱり。いいから、話しなよ」と詰め寄った。
「ぐぐ。そこまで言うなら」
――ホウロウはレオンのことをヴィーに話した。ホウロウが話し終わると、彼女はふっと笑みをこぼして「あぶね。寝といてよかったあ。――ホウロウ、覚悟はいい? すぐに驚天動地の大戦がはじまるよ」といった。
――レオンは駒を降りて、丘陵の灌木の間からブレージアー城を見ていた。北門の城楼に火砲が数百、龍のように首を並べている。朝日が差し込んで、大河の水面が光っている。ブレージアーの大河は大戦のたびに真っ赤に染まった歴史をもつ。ギルバート侵攻の際の流血を、ここ十年の歳月を経て、やっと流し終えたのに、また災禍の足音が迫っている。
目の前に迫るハーフの賊軍との戦も、大河に無辜の血を流すだろう。そう思うと、彼は自身の一個の肉体の責任を感じて、血潮が燃えた。
レオンの駒が走ってきた方とは反対から馬蹄の音が聴こえた。ブルーノが駒に乗って、丘陵に現れて、「倅殿、やはり、想像どおりだった。恐ろしいことにルドルフは監獄を抜け出して、ハーフの賊軍に手を貸しているらしい」と報告した。
「ああ、また、かの御仁と殺し合いか。……俺を相当に恨んでいるだろうなあ」
レオンはため息をついた。
「いいや。それはないな」とブルーノはいった。
「どうして」
「なぜなら、あんたは死んだことになっているだろう?」
「ああ、確かに。そういえばそうだ」レオンは笑った。まだ、心は国士そのものだったので、暗殺されかけたのをとんと忘れていた。
「これはある意味、僥倖と言える。もし、ルドルフが宮中に倅殿がいないものと高をくくっているとしたら、利はこちらにある」
「しかし、ルドルフが相手となると……。今度こそ、俺は死ぬのかな」レオンはそういった。<王家の血>の代償は大きい。とくに彼の<鉄>の形質は肉体に与える損耗が激しい。彼自身、それを身をもって知っている。レオンのおもてには(死すべき時か)と胸奥で準備された覚悟がある。
「先生。フォルカーと戦った折に<王家の血>を開いてから、右腕が動かん。俺は半身が動かなくなって隠居するのは嫌だぜ。娘にそんな姿を見せたくない。親父がギルバートと戦って灰となって、帰ってきたように、俺も灰になって娘のもとに帰る。……先生。安心してくれ。ルドルフはかならず、殺す。奴を打ち負かすことが出来ぬとも、必ず、道連れにしてやろうぞ」
くしくも、ホウロウとレオン、胸に期すものはまったく同じであった。
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