ホウロウ、飢える
ホウロウは飢えていた。ここ数日、何も食べていない。人里の気配もない。むろん、あったとしても、吸血鬼の村落が、彼を歓迎したりはしない。しかも、得意の狩りをしようにも、このあたりには、どうしてか、動物の気配がなかった。それも、そのはずで、ポロの行軍が通ったあとで、動物の類は、蜘蛛の子散らすように離れてしまっているのである。 彼は(くそ。あの時、食いモンでも、せびっておくんだった)と後悔した。が、へんな見栄を張って、歓待から逃げてきた過去は変わらない。 とうとう、歩くのも、おぼつかなくなって、巨木の根っこにもたれた。視界に霧がかかっている。
「ああ、だせえ。見栄張って、死ぬのか。おれは」
ホウロウの視界に、安楽椅子に座っている妊婦が見えた。ドマの姿が煙の中に、判然としない輪郭をもって、見えた。ホウロウは、その影に手を伸ばした。いまは、亡き、龍のアギトに落ちて死んだ哀れな伴侶の姿を追い求めていた。 次いで、子供のすがたが、見えた。 (ああ、俺の子か? 生まれるはずだった? いいや、ちがうか)とホウロウは幻覚にほだされて、訳が分からなくなった。それは、路地裏の悪たれだった頃のポロの姿だった。ホウロウは笑った。ポロはいまの頑健な体とは似つかないほど、痩せていた。頭髪が伸び放題で、垢だらけの顔だったが、眼だけは、吸血鬼の赤い虹彩をぎらつかせて、常人にはない活力をみなぎらせていた。
「盗みばっかりして、手癖の悪い奴だったが、俺の持ち物だけは盗まなかったなあ。かならず、くれ、と言ってから持っていく礼儀だけは覚えてやがった。はっはっは」と上機嫌に笑っていると、ふと、日の光を背景になぞの虹のようなものが視界の方々に散った。
光の渦は、ばしゃばしゃと音を立てた。眼が痛くなった。その時、ホウロウは真上から水を浴びせられたのだと気づいた。
「寝てる場合じゃないんだって。ほらほら」
「くそ。また、お前か」
ホウロウはかぶりをふって、顔に流れる水を吹き飛ばした。さっきまでの幻想は雲散霧消して、現に戻ってきた。戻ってきた分、飢餓感も思い出す。巨木の根っこに抱かれて、天を仰げば、赤い髪の毛を風になびかせて、ヴィーが、枝に猛禽のように止まって、彼のほうを覗き込んでいた。
「ねえ。ばかなの。こんなとこで、飢え死にするって」とまた、人を食ったような嘲る声につつかれてホウロウは幾分、怒りに似た元気を取り戻した。
「うるせえ。なんか、持ってるんなら、もったいぶらずによこせよ」
「態度わるいなあ。こんどは、水筒の水じゃなくて、小便かけるよ」
「ははは。ははは。お前、おもしろいな」酩酊したような笑いがもれた。
すると、猿のように、器用に彼女は木の幹を伝って、地面まで降りてきた。
「ほら、食いなよ」 ヴィーはホウロウの傍らにぽつんと座り込んで、手を差し出した。掌のうえに、謎の穀物とおぼしき物体があった。いぶかし気な目つきで、ホウロウはそれをじっと見た。
「なんだ。これ」
「毒じゃないって」
「豆じゃねえよな、これ。肉でもない」
魔界の穀物は第一に、豆と決まっている。何につけても、まず、豆というのが、魔界の食卓の基本である。小麦とか、コメとか、そういった穀物は魔界のなかでも、局所的な地勢にしか見られない。だから、いま、ホウロウのまえに差し出された食べ物は、彼の目には、得体のしれない毒物にしか見えない。
「――これ、芋だよ。芋」
「なに、イモ」
それを聞くと、ホウロウは彼女の手にかぶりつく勢いで、むしゃくしゃと、口に放り込んだ。
「イヌみたい」
ホウロウにののしる声は聞こえなかった。一息でこぶし大の芋を食ってしまった。すると、彼の食欲は減退するどころか、増大した。火口をふさいでいたものが吹き飛んだように、飢餓感が爆発した。
「もっと、くれ」
「いやだ。あとは、わたしのだもの」
「むうう」
ホウロウは歯ぎしりした。ヴィーは値踏みするような目つきで、彼の打ち震える姿を楽しそうにみていた。ホウロウの目の光が、原初的な動物のような野生の光をおびた。自然界に、盗むという行為は存在しない。彼の血には、獣人の血が色濃い。自然の摂理が、流水のような力学で、その智慧に流れている。 なので、一瞬、(ぶん殴ってでも……奪う)といった考えが、とうぜん、よぎった。――しかし、ここで。
「――ねえ。どうして」とまた、ヴィーはホウロウの神経を逆なでするようなつっけんどんな質問をした。
「なにが」ホウロウは我慢した。語尾に棘がある。
「だってさ。あんたが、そこまで飢えるまでに、いくつも、吸血鬼の村落を横切ってきたじゃん。豆畑ばっかりの田舎をさ。でも、あんたは、豆一粒たりとも盗まなかった。……それは、なんで?」
「……俺がイイ奴だから」とホウロウは言った。昔から、テムにも似たようなことを聞かれたが、いつも、そう答えてきた。
「ふうん。でもさ、ここまで歩いてきたのは、ハーフの賊軍を止めるためじゃないの」
「うう、まあ、たしかに」
「なら、飢え死にしかけるなんて、言語道断。くず。ただのばか。デクノボウ」
「……」
「その力は、天地に与えられたもの。勝手に死んで、空費するのは、魔界人への反逆行為。世間知らず。許されない無知。なんなら、この天地を代表して、私が殴ってやりたいところだけど。――まあ、しょうがないね。飢えて、足手まといになられても困るから、ほら、食べて」
ホウロウはごんごんと頭を殴られたような圧を感じた。言い返すスキがない。それに、なにか、ヴィーの言い分には、骨子のように論理が通っていた。だが、そう簡単に年下の女に言いくるめられて、我慢できる彼ではない。差し出された芋をおいそれと受け取れなかった。
「いやっ! 正しいのは、俺。ぜったいに、俺だ」ホウロウは子供のように反駁した。賢しらな言葉を持ち合わせていなかった。彼の放つ言葉には、まさに、思ったこと、そのままな純粋さがある。
「かもね。けど、わたしが、現れなかったら、あんたは餓死してた。そして、このブレージアーは、吸血鬼の死体の山、血の海になっていた。――これが、現実、真実。いくら、行いが、正しかったって、そうなる。たぶん」
「じゃあ、盗めばよかったのかよ。俺は」
「そう。まさに、その通り。盗んででも、生き延びなければならなかった」
「むう」
「なんなら、土民の一人二人、殺してでも、食料を確保すべきだった。――わかる? さすがに、もう理解しなよ。その体は、その腕は、その肩は、どれだけの命を背負っていると思ってんの」
「そんなこと言われても、俺には関係ねえ。勝手な話だ」ホウロウは目をそらした。ヴィーの言葉の鋭さに、すっかり気圧されていた。
「そうはいかないよ。だってさ。ぜったい、思ったでしょ。山と積まれた同胞の骸を見て、自分にできたことはなかったかって」
「……」図星だった。あの竜のアギトでの絶望の渦中、吸血鬼を憎むより先に、なによりも自分を責めた。青臭いと分かっていながら、慚愧の念が身を焼くようだった。
「そうそう。思うんだよ。強いやつは思っちゃう。だから、頭を使いなさいよ。あんたには、計算や打算が、たりない」
まるで、親に諭される子供である。ホウロウは膝をついたまま、顔をふせた。ふと、自分の醜態に気づいて、冷静になると、目の前の年下の女に、言いくるめられているのが馬鹿らしくなって「……お前が、俺の何を知っていると言うんだ」と思わず、反駁した。が、その声色はすこし、小さかった。恐る恐る反撃を試みる、子供のような心もとなさだった。
すると、途端に、ヴィーの顔色に、明朗に怒りが刻まれていった。さも、いままで、我慢していた分が勢いよく噴火するように、彼女は唇をむすんで、炎のような双眸で、ホウロウをにらんだ。ヴィーの顔貌には、吸血鬼の形質が色濃い。ハーフにしては、めずらしく美しい。ゆえに、怒っても、その顔貌の整合性は崩れない。陶器のように繊細なる怒り顔である。反射的に、怖い、とホウロウは思った。
「初めて会ったのは、鉱山だったよね。あのとき、吸血鬼が残ったハーフを探して、鉱山までやってきて、坑道に閉じ込められていた私たちを見つけた。で、そんなやばいときに、あんたは、すぐに吸血鬼と戦うのをためらった。そうなってから、あんたは<本気>、つまり、<あの力>を使った」
「ぜんぶ、見てたのか」
「まあ、そうだね」
「なら、助けてくれてもよかったじゃねえか」
「それは無理。だって、王家のアミュレットを持っている奴がいたから。わたしの手に負えないもの」
「じゃあ、あの鉱夫のガキどもが死んだのは、俺のせいか」
「さあ、それは知らないけど。これだけは言える。最初から、<あの力>を使って、吸血鬼を殺していれば、死人は少なかった」
「……詭弁、詭弁だ、そんなもの」
「しかも、そのあと、あのバルナバスの命乞いを受けいれてしまう始末」
「うるせえ」
「わたしさ。あんたが、竜のアギトの関所を襲ったときも、隠れて見てたんだ。それでさ、あんた、慰み者になっていた吸血鬼の女二人を助けたじゃない? それで……そのふたり、いま、どうなったと思う?」
「さあ、しらん。親戚の家に行くとかなんとか」
「しんだよ。ころされた」
「なにっ! こんどは嘘かっ!?」
「嘘じゃないよ。だって、吸血鬼の関所を落としたのに、それがすぐにブレージアーに広まったら、やばいでしょ。あんたらみんな、疲労でへろへろだったから、一日二日休まなくちゃいけなかったしね。根回ししたのは、テムだよ。あいつも、ひどい奴だからね。あの吸血鬼の女は、ふたりとも路傍で骸になってた」
ホウロウは崩れるように、地面にひれ伏した。
(バ、バカな。くそ、テムのヤツ……ゆるさん)と地面の土をさらって、握りこんだ。しかし、はじめ、テムに対する怒りだったものが、自分の盲目に対する嫌気に変わっていった。たしかに、よく洞察すれば、テムの変心は、わからないことではない。
テムじゃなくても、みんな、同じことをする。吸血鬼にたいする恨みは、あのとき、焚火をかこんだ匪賊たちの目に煌々と燃えていた。
(――バカだ。おれ)と嗚咽に似た「むぐう」という声がもれた。
「――なによりも、いちばん、最低だったのは、弟分のポロが乱心して、吸血鬼の旅団を殺戮した時、<あの力>を使わなかったこと。わたしは、見てたよ。あんたは、一度、たしかに、使おうとした。だけど、途中で、それを引っ込めた。ほんとうなら、あのとき、ポロが一片の情けを見せなかったなら、あんたは死んでた。それに、あのとき、ポロを止めていたら、トルンの惨劇もなかった」
ホウロウは愕然とした。その通りだった。あまり、考えないようにしていたが、ホウロウにも、そのことが楔のように撃ち込まれていた。けれど、ほんらい、トルンの虐殺の咎はすべて、ポロが背負うべき罪である。ホウロウが責任を感じる必要はない。が、ヴィーは、そうは考えない。まったくもって、違う論理をホウロウに適応する。
――もしあの時、ホウロウが、ふつうのハーフだったら、ポロの凶行を止めようとしても、力でねじ伏せられていただろう。そして、そこには、言い訳がある。
「しょうがない」と一言、心のうちで唱えれば、罪悪感にとらわれることもない。 が、ホウロウには、その凶行を止めるだけの力があった。
「あんたは、止められた。――いや、あんたしか、止められなかった」
とどのつまり、突出した力をもつがゆえに、その双肩には、断りもなく勝手に命がのしかかってくる。これも、天が、気まぐれに、俗人に神域の力を与える世界の道理である。みんなが、平凡な膂力だったら、こうはならない。が、この世界には、倒そうと思えば、百人、千人を屠れる怪人が、あまた、天の偶然によって、配置されているのである。 世の趨勢は、この怪人物たちの行動に敏感に左右される。そして、かれらは孤独である。突き立った鋭鋒の頂に一人座っているような孤独である。 しかも、その頂からは、ほかにも突兀と天を衝く頂の孤独が、いくつも見える。――ポロの怒り、レオンの義務感、タンの寂寥、フォルカーの狂気。彼らの気持ちひとつで、俗人の世界が傾く。
「――あんたは、渦なんだよ。好む好まざるとにかかわらず、闘争が吸い寄せられてくる。だから、あんた個人の理のない善意や道徳は、その辺の平平凡凡の人生を破壊しちゃう。あんたは知らず知らずのうちに、死体の山を築いてるんだよ」
「なら、俺はどうすりゃあいい」ホウロウは問うた。自分の世間知らずを知っていた。歯噛みして、目の前の薄情な女に問うた。なぜなら、彼女のほうが、自分より、この世の道理を把持しているような気がしたからである。ヴィーはすぐには、答えなかった。面に、浮かんでいた怒りはどこへやら、「うふふ」と微笑をふくんで、ホウロウの前に歩み寄った。
「ごめんね」
「なに」ホウロウは当惑して、彼女の顔を見上げた。ヴィーは、慈母のような、柔和な顔をしていた。
(なんだ、こいつは。やっぱり、俺、こいつのこと、わからん。いったい、なんなんだ。なぜ、あやまる)とホウロウの頭はめちゃくちゃになった。
「ほんとはね。こんなこと言いたくなかったんだよ。あんたは、とても、いいひとだったから。わたし、ずっと、見てたもの。あなたの心根は私が今まで会った誰よりも美しい。だって、この期に及んで吸血鬼の少女なんか、助けないよ、ふつうは。しかも、自分を殺そうとしてきたわけだし」
ホウロウは目をぱちくりさせて、困惑した。ヴィーは、エーデルガルトのことを言っているらしい。
「……」
「それに、あの子にあんたの眼を移植するって言ったら、真に受けちゃうしさ」
ホウロウは嫌なことを思い出した。口がへの字に曲がった。
「ふしぎだね。どうして、あなたは、そんな風なの?」
「しらん」
「だれかに教わったの?」
「いいや」
「へえ。そうなの。――本物なんだね。天然の善人なんだ。おもしろいね。ふつうは、どんな善人にも、瑕瑾や歪みや濁りがあるけど、あんたは、まっすぐ。ただただ、善いこころだけ。すこし、感動したよ」とヴィーは笑った。人をもてあそぶような悪意が消えて、彼女は本心から微笑した。その謎めいた心は、感動にふるえていた。ホウロウは、恥ずかしくなった。
「感動したって?」
「そう」
「そうかい」
「照れてんの?」
「いいや」
ホウロウはかぶりを振った。じっさい、照れていた。
(でかいだの強いだのとほめられたことは散々あったが、そんなふうに褒められたことはなかったなあ)と彼は思った。と、照れているのもつかの間、彼女は「が、しかし」とさらに前のめりになった。
「だからこそ、この腕は……」と彼女はホウロウの腕をつかんだ。びくっと反射的に手を引いたホウロウを逃がさず、じっと見つめる。
「考えて使わなければならない。守るべきものを守り、除くべきものを除くために。……なので、ここで、ひとつ、ご相談」
彼女はいった。ホウロウはふいに腕を引いて、横目に「なんだ」と聞いた。
「わたしの<剣>になれ」
「え」
「文字通り、武器。思想をもたない得物。わたしが、戦えと言ったら、戦う。死ねと言ったら死ぬ。……どうかな?」
ホウロウは彼女の顔をじっと睨んだ。(とんでもないことを、そんなニタニタしながら、よく言うな、こいつ)と思った。彼女は膝を進める。より前のめりになって、彼に迫った。
「……」ホウロウは考えた。沈思黙考する。ホウロウは彼女の後ろ暗い部分をもっとも懸念した。
(ほんとに、こいつは何者なんだ)という疑念がホウロウの頭をもたげている。が、トルンでの共闘を思い返すと、ひそかに、彼女の蠱惑的な丸顔を二度見して(わるい奴じゃないのかなあ)と思ってしまう彼の人のよさだった。
「ねえ、だめ?」と彼女はつつく様に催促した。
「ひとつ聞きたいんだが」
「うんうん」
「で、結局、お前は何者なんだ?」
ホウロウが聞くと、彼女はひどくめんどくさそうに「えー。どうでもいいんじゃない。そこは」といった。ホウロウは愕然とした。
「いや、大事なのは、まさにそこだろ。いい加減にしてくれよ。人をさんざん、つけまわっておいて。まだ、ごまかす気かよ」
「だって、いま、説明しても、どうせわかんないし。めんどくさいから」
「このやろう。ふざけんな」
「わかってるって。悪人の片棒を担ぐのが嫌なんでしょ。でも、わたしが悪人か善人かの証明は、トルンで、十分したはずだけどなあ」彼女は何食わぬ顔で言った。
「たしかに、そうだが。ううむ」
「で、どうすんの?」ヴィーはしつこく聞いた。間髪入れない。
「……」
腕を組んで、目を瞑り、ホウロウはうなった。ヴィーはほくそ笑んでいた。あきらかに、ホウロウは陥落寸前である。わかりやすく、悩んでいる。
「――もし、お前に従ったら、死人は少なくなるのか」ホウロウは聞いた。
「少なくなる。いや、少なくする。全身全霊」
「お前はだれのために戦う。ハーフのためか、吸血鬼のためか」
「いいえ。この世のすべての万民のため」
「誓って本当か」
「ほんとう」
「ううむ」
ホウロウは腕を組んだまま、動かず、岩のように固まった。ほんらい、こんなにも悩む必要はない。なぜなら、誓約しても反故にすればいい。彼女から有用な情報だけを得て、あとは勝手に行動する。融通を聞かせれば、そういった抜け道がある。が、ホウロウは、その考えに至らない。むろん、すこし頭を働かせれば、とうぜん、気づくことである。けれど、彼の頭脳は、初めからそういった悪しき発想が閉じられている。
(もしかして、こいつには、オーガの血が濃いのかな。バカじゃん。クソバカじゃん)とヴィーはあきれていた。けれど、この場合、そういった拘束力なしに唯々諾々と従う真性の<バカ>から得た誓約は、何よりも価値がある。ヴィーはホウロウの答えを待った。
「……わかったよ。俺の命、お前にくれてやる」
「ほんとうに、いいの」
「いい」
「やった。じゃあ、ほら」 彼女は喜色満面で、また、イモを差し出した。 ホウロウはむっとして「餌付けか。おれは畜生じゃねえ」といった。 すると、彼女は「そう、いらないんだ。じゃあ、ぽい」といって、彼女は無造作にイモをほうり投げた。ホウロウは反射的に、大仰に飛び込んで、それをつかんだ。彼は飢えていた。その飢えが、動物的な本能で彼をうごかした。
「あはは。あはは」とヴィーは大笑いしている。ホウロウは、遅まきながら気づいた。その武器となった以上、この不愉快な女と一緒にいなければならないのである。
「ほらほら、やっぱ腹減ってんでしょ。食いなよ」
「うるせえ」 と言いながら、ホウロウは芋を頬張った。我慢していた。その分、イモを噛む咀嚼に無意味に力が入った。
「じゃあ、はじめようか」と彼女が言った。
「なにを」
「なにをって、作戦会議だよ。半端な認識でいられると困るし、あんたが納得した状態じゃないと、勝手に行動されるかもしれないから」
「好きにしてくれ」
ホウロウはどこ吹く風だった。ヴィーはその様子に眉をひそめた。
(バカ。認識、甘すぎ。いま、やばいんだって。この国、この天地が)。
「まず、あんたの弟分、ポロ王の進軍はどこに向かっているかだけど……」とヴィーは口火を切った。
「王って、大げさな」ホウロウは鼻でわらった。
「まあ、たしかに。あんたが、最後に見た、あの賊徒の集まりは小さかったから、王を名乗るには薄弱すぎる。――けど、いまは、ちがう。名乗るに足る人数が集まってきてる」
「なんだと」
「いまのポロ王の軍勢は、戦闘員だけで、たぶん、五千」
ホウロウは飛びあがった。
「うそだ」
「嘘じゃないって。低く見積もって、五千。しかも、まだ、膨らむ」
「ばかな。ありえん。ハーフの生き残りは、もうそう多くはないはずだぜ」
「そうだね。だけど、このブレージアーには、たぶん、百万はいたはず。そのほとんどは、もうすでに殺されたけど、全員じゃない。あんたみたいに、生き残ったやつもいる。そして、たいてい、あのフォルカーの魔手を生き残ったハーフは若い。しかも、頑健、血気盛ん。しかも、吸血鬼を恨んでいる。コレ、兵隊にするには、最高じゃない?」
「……たしかに」
「それにあんたが住んでいたような番号で呼ばれる街以外にも、吸血鬼の地図上に認知されていないハーフの住処は、いくつもある。そこの生き残りは、このブレージアーの虐殺行為を知ったら、どうする? 逃げるにも、逃げれない。このブレージアーは四方八方、山川の要害に囲まれてる。そんな八方塞がりなときに、同胞のハーフであるポロ王が、反乱の旗をあげた。どうする、あんただったら、これ」
「加わるしかない。反乱に」
「そのとおり」
ホウロウは背筋に寒気を感じた。彼女の話を聞くまでは、彼は、ポロとの決戦が、小さな兄弟げんかの延長にあるという認識だった。が、そのポロの背後には五千のハーフがいるらしい。もはや、勝負は単純ではない。世界の趨勢が、自分の一挙手一投足に左右されていく。その感覚が、とつぜん、五体に襲いかかってきた。
「――けれど」とホウロウは嘯くように言った。その表情は鬼気迫っていた。ヴィーは、その顔を見て、(そう。その面構えが欲しかった)と思った。
「ポロの軍団がいくら、でかくなったところで、敗ける。この国の吸血鬼をひっくり返せるほどじゃない」ホウロウはいった。おや、とヴィーは目を見開いた。意外に、鋭いじゃないかとホウロウのことを見直した。
「やつら、岩のバケモンみたいな、魔術を使ってくる。それにいざとなったら、<変身>すりゃあいい。俺みたいに」
「……意外に賢いじゃん。そのとおりだよ。たしかに、ポロ王の勃興勢力は、ブレージアーの国力から見たら、塵芥にすぎない。が、しかし、それは、表面上のはなし。実態はもっと複雑。まあ、あんたはハーフだから、吸血鬼の実情を知らないのは当然だけどさ。簡単に言うと、弱っちいんだよ。いまのブレージアーって」
「は?」
「まず、このブレージアーの国王が薄バカのコンラートだし。ヒューマンとの戦争を生き抜いた歴戦の勇者たちは、もう骨壺の中だもん。いま、ブレージアーは、ほんとうに最悪の世代。無能の集まり。ごみの掃きだめ。安全に浸かった、ウスノロばっかりだよ。――笑っちゃうよね」
「無能の集まりだと……」
ホウロウは今までの生活を思い返した。ホウロウに限らず、ハーフは、つねに、その生活の頭上に吸血鬼という巨人を思い描いていた。だから、ヴィーの言葉は衝撃だった。
「だから、拮抗してる。ポロ王の軍とブレージアーの軍は、互角。ほとんど互角。だから、この戦争の勝敗は予想しがたいけど、もし、ポロ王の軍勢がブレージアー城下の門を破って、京師に侵入したら……」
ホウロウは「まずい、それはまずい」と言った。
「やつら、女子供にも、仮借ない。全員、なぶり殺しだ」
「そうなるだろうね」
「……あいつはどこだ。どこにいる」ホウロウは聞いた。
「でもさ。やれるの? 彼を殺せるの?」
「殺す」
ヴィーは、ホウロウに気圧された。それほど、明朗な殺意が見て取れた。
「でも、いいの? 吸血鬼のために、同胞とたたかうってことだよ」
ホウロウは、吸血鬼によって、殺された妻のドマのことを思い出した。安楽椅子で悪態をついていた彼女は、もういない。腹の中にいた子供も、生まれてこない。歯噛みした。こころは復讐に靡く。
(どうして、こうなる。なんで、すべてを奪われた上に、兄弟と殺し合いをしなくちゃならない。しかも、吸血鬼などを守るために……)。胸が焼ける思いだった。体が打ち震える。ドマは怒るに違いない。
なんで、吸血鬼にさっさと復讐しないんだと。ホウロウは目の前で口角泡を飛ばす勢いで怒っている彼女の霊魂をありありと想像できた。それに、ハーフの怒りは正当だと思う。――が、しかし。
「やられたら、やり返すじゃ、終わらない。こんなこと、俺でもわかる……。だから、吸血鬼のためだとしても、いい。いいんだ。俺」
迷いは、決めてからも、簡単には消えない。むしろ、口に出して、決意を表明した瞬間から、これでいいのかと疑問は噴出する。が、全能ではない以上、決めなければならない人の宿命である。彼は腹を据えた。(おれは鬼になる)と、その覚悟は急速に凝固していった。決死の表情だった。塑像のような峻厳な顔つきである。
「いいんだね。わかった。じゃあ、行こうか。道案内は私がする」と彼女は先を歩こうとしたが、その背に向かって、ホウロウは「いや。まて」と言って引き留めた。
「なに」
「お前の名前、わすれた」ホウロウは言った。情義の上で言ったのではない。戦場で、その背を預ける人間の名前を知らないと、厄介なことになるからである。
「ヴィー」事務的な声色で彼女はいった。ホウロウは微笑を含んで「ヴィー。いい名前だ。大声で呼びやすい」 といった。
「俺はホウロウ」
「知ってる」
「知ってるか。そうだろうな。ははは。で、俺はどこへ行く。なにをすればいい」
(やっぱ、こいつ、すこし変)と彼女は思った。
「――じゃあ、ついてきて」と彼女は彼の前を歩いた。その先は死地である。が、ホウロウのおもてには、それを微塵も感じさせない光がある。彼は死ぬかもしれないとは考えていない。必ず、死んで来ようと考えているのである。明確に設定された死が、その生をいきいきと照らしているようだった。
――ポロの進軍は、はやい。気ちがいじみた速度である。なにしろ、ポロはホウロウの追跡をなによりも恐れていた。だから、逃げるように、計画を遂行していった。ここで、レオンをともなうカラスと、ホウロウをともなうヴィーの二人に誤算が生じていた。
ポロ王の<変身>はヴィーの観察によれば、<鎧>のようで、剣公レオンの<鉄>によく似ていた。このことから、通常の<王家の血>に類する<変身>より肉体の負荷が激しいと推測された。 ポロはソベニ谷で、一度、<変身>した結果、右腕にわかりやすい壊疽のような症状がみられた。ヴィーは、その目でしかとそれを確認した。 彼女は、ソベニ谷から出ると、こう考えた。 (ポロ王は、いちど、体を休めるしかない。そして、<変身>できるのは、多くて、あと二回)というのが、彼女のおおよその目算だった。 だから、ホウロウの前にもう一度、現れた彼女はこの時、ポロ王の軍勢が、まだ、ソベニ谷に駐留していると思っていた。 が、その思惑ははずれている。ポロはすでにムルゥーンを陥落させていた。ヴィーも、おおよそ、つぎの目的地は、ムルゥーンだろうと、予想していたが、ポロの進撃は雷撃のような早さで、彼女の予想を先んじている。
もっといえば、ポロはムルゥーンですら、休む気はなかった。テムが、部隊を細分化し、それぞれに役割を与え、組織として、整理しているのも、つかのま、彼は陣頭に立って、軍をうごかした。
ヴィーも、ポロとテムがムルゥーンのあとに、どこへ向かうか、掴みかねていた。さすがに、ブレージアーの京師に、すぐには、当たれない。兵数も、その練度も、こころもとない。ブレージアー城下の壁を打ち破るには、もう一工夫必要である。
ヴィーは考える。歩きながら考える。彼女はちらと後ろのホウロウを一瞥した。
「なんだ」その視線に気づいて、ホウロウは言った。
(こいつに相談してもなあ)と、彼女は思って悶々としていた。
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