灰が散る
馬車のなかだった。レオンは車体の揺れで目を覚ました。いったい、幾日寝ていたのか分からない。体がさび付いたようにだるかった。
「倅殿、ようやく起きたか」
「何日、寝ていた?」
「丸二日は寝ていたぞ」
「ここは、どこだ」
「トルンの手前だ。窓を開けてみろ」
レオンは窓を空けて、外の空気を入れた。透明な流水に陽光が差し込んで、白く光っているのが見えた。遠くの連山の雪化粧が目の前にあるかのように精彩に映って、寒気に晒されて、あまり繁茂しない雑草が絨毯のように広がっている。
レオンは、この地方の生まれではないが、妙に懐かしいような感じをおぼえた。
「傷はどうだ」とブルーノは聞いた。馭者となって、ふりかえった顔には若干の疲れが見える。丸二日、病床の自分の世話をさせた申し訳なさをレオンは感じた。
「傷は治った」
「そうか」
「けれど」とレオンは体を起こして、自分の顔の前で拳を握った。違和があった。まるで、力が入らない。
「なるほど。これが<鉄>の代償らしい」と彼は冷静に言った。レオンは晩年の父親の姿を思い浮かべた。右腕と左足がまったく使い物にならなくなって、常に不機嫌そうにしていたラインハルトの皺だらけの顔が亡霊のように蘇った。戦い続ければ、行く末、遠からず、そういう宿命である。ブルーノは、レオンの面に映る鬱積した感情を見て、居た堪れなくなった。自分が<王家の血>を持たないがために、若いレオンに、その重荷を背負わせてしまったからである。
沈黙をのせて、馬車は安穏と進んでいった。レオンはふと、どうしてか、娘のエーデルガルトに会いたくなった。妻のエラには、どう説明したものか難しい。けれど、無垢な娘だけは、ただ自分の帰りを喜んでくれる確証があった。
「先生、あとどれくらいかな。トルンまでは」
「今日中に着くさ」
「そうか」
レオンはまだ寝転んだ。涼やかな空気を吸って、安眠した。――レオンのいびきを聞きながら、ブルーノはあくびをかみ殺した。ふと、猛禽が飛び立っていくのが見えた。
急に、馬が進むのを拒否するように、止まった。進めようとすると、暴れるので、ブルーノは、いやな予感がした。目のまえには、トルンを遮っている丘陵があって、ここをこえていかなければ、トルンにはたどり着かない。
(この異様な空気感。まさか……)と思って、馭者用の台のうえに立って、あたりを見回した。ブルーノはむりやり馬を御して、先を急いだ。うねる道を行き、丘陵の手前まで来ると、焚火のあとに出くわした。その奥に、放棄された荷馬車があった。
「……」ブルーノは言葉を失った。どこもかしこも真っ黒くなった血だまりだらけだった。馬は地団太を踏んだ。ブルーノは馬車をおりて、焚火の後に近づいた。焚火は冷たい。三日前か四日前ぐらいのものと推測された。
黒くなった血痕と肉片を見るに、おそらく、放置された死体を屍鬼の類が食い荒らしていったらしい。
(フォルカーの魔の手を逃れたハーフか)とブルーノは初め、思ったが、酒宴のあとの転がった酒器は上等な吸血鬼の物だった。この符合をうけて、ブルーノは熟考した。背筋に悪寒が走った。ブルーノは、焦って、目を凝らして、隈なく、この惨状を調べまわった。彼は、自身の推測を否定でき得る材料を探していた。血みどろになった荷馬車の奥に、割れた破片と散乱した白い粉を見つけた。
彼は破片の一つを拾い上げて、そこに貼られていた経年で黄色くなった古紙を見て、絶句した。
「ラインハルト、兄貴」ブルーノは膝に手を付き、顔を歪ませた。認めがたい、と彼は思って、ぶるぶるとふるえた。つまり、この割れた骨壺は兄のラインハルトの物で、しかも、それを運んでいたということは、ここで、焚火をしていたのは、レオンの妻子と家中の者たちに他ならなかった。
なんと、伝えればよいのか、ブルーノは、その答えを探すのに、悶絶した。
そして、おそらく、この惨状はフォルカーの手によるものではない。なぜなら、彼は、ラインハルトを尊敬していたからである。その親類を殺すことは絶対にできない。ならば、おのずと、これほどのことをやる動機があるのは、吸血鬼によってすべてを奪われたハーフの根無し草だけである。
なんという、悪夢のような不運かとブルーノは思った。レオンは、ハーフのために妻子を捨てて、起ったのである。その大義の見返りが、この有り様である。世界は冷酷だった。
(せめて、他の者でよかったのだ。なぜ、よりによって)とブルーノは乱世の導きを呪った。
――レオンは夢を見ていた。内容はおぼつかない。娘と妻が出てきた。そのおぼろな記憶を抱いて、目を覚ました。
「……」寝ぼけて、視界に靄がかかっている。馬車の中の揺れが止まっている。ふと、目のまえの車内の暗がりに、お面のようなものが浮いていて、その眼窩の部分に青い光が見えた。
レオンは眼を擦った。すると、目のまえに、エラの白い顔があった。夢か現か、半信半疑で、彼は、その亡霊のような無表情に「なんだ。君か」と笑いかけた。忘我の境地で、微笑んでいると、その隙をついて、エラの白い手がレオンの首筋に伸びてきた。
レオンはエラの瞳が不気味に蒼く発光した瞬間、(なんだ。この青い光は)と、若干眼を醒ました。
その時、エラはレオンに馬乗りになって、首を絞めた。とんでもない力だった。レオンは<王家の血>を使ったことで、弱っていたので、跳ね返す力に欠けた。いったい、なにが起こっているのか、彼は混乱した。肉体の苦悶、精神の恐怖は生彩だった。
(これは現実か)とレオンはやっと気づいた。
エラの手は冷たかった。蒼い目玉に映る血走った殺気は本物だった。
(怒っているのか。離縁したのを)とレオンは思った。エラの首を絞める力がどんどん強くなった。レオンは呻いた。なんとか払いのけようとした拍子に、爪が引っ掛かったのか、エラの腕の皮膚が剥げた。しかも、表皮の下の肉が露わになっても、血が出てこない。
(いったい、どうなっている)とレオンはますます混乱した。
――刹那に、馭者の座っている方の簾を突き破って、ブルーノがエラの額を蹴った。彼女は吹き飛んで、馬車から放り出された。ブルーノは即座に、馬に鞭を打った。奔馬が走り出し、馬車が駆動した。
「い、いったい。今のはなんだ。先生っ!」とレオンは叫んだ。
「……いや」ブルーノは返す言葉を失った。いまは、ただ、暴れる馬を御して、逃げることだけを考えていた。レオンは冷静な頭で今見たものを反芻した。
(あれは、俺の妻か。いや、そんなはずは……)と、まず、否定した。車輪が石を噛んで、大きく揺れた。
「先生っ! いったい、あれはっ!」とレオンはさらに詰問したのを「倅殿ッ! いまは、辛抱してくれッ!」とブルーノは制止した。レオンの当惑の表情と違って、ブルーノのそれは焦りや恐怖に近かった。レオンは、彼がなにか確信を得ていると察して、もどかしさに狂いそうになった。
「教えろっ!」とレオンは激高した瞬間、馬車は得体の知れない閃光に包まれた。そして、車輪が壊れて、あらぬ方向へ、馬車は進み、断崖を飛びこえた。臓物が掴まれたような悪寒がしたと思うと、天井に頭をぶつけた。何度か、岩壁の肌にぶつかって、車体は転がった。
止まったときには、馬車は地面でさかさまになって、空に腹を向けて、車輪はからからと風車みたいに回っていた。レオンは、その中から這い出てくると、ブルーノのすがたがないことに気づいた。
「先生っ! どこだっ!」と呼んでも返事がない。レオンは焦って、もう一度、呼びかけようとしたが、ブルーノは思いのほか、近くの川瀬に立っていた。が、ブルーノはなぜか返事をしなかった。彼は眼の前の、エラに睨まれて、まったく動けないのだった。
「……」レオンは白日のもとに、その白くなって変わり果てたエラを見た。彼は眩暈がした。むろん、幽鬼という怪物が現実に存在することは知っているが、自分の妻が、その姿で現れるのは、想像の埒外だった。邸内のありとあらゆる場所で、良妻賢母という吸血鬼の慣習に縛られて、文句も言わずに、ぎこちなく微笑む彼女の顔がレオンの脳裏によぎった。
エーデルガルトが産まれたときに、その彼女を抱いて、「ごめんなさい。女の子だったの」と謝るエラに、レオンはただ黙っただけだった。責めはしなかったが、労わなかった。あのときの後悔が彼の頭をもたげた。彼女の体は、つぎはぎのように、随所に傷が目立ち、服はぼろぼろで、哀れなこと、この上ない。しかも、彼女が幽鬼になったということは、死ぬ間際に地獄のような苦痛をともない、そのうえ、この世に呪いのような未練を残したということである。考えれば、考えるほど、レオンは後悔と悲しみに狂いそうだった。
――レオンの頬に涙がながれた。
(自分の家族をみすみす死なせるクズに、なにが義だ……なにがハーフだ)。彼は自分の哲学が歪んでいくのを感じた。死んだフォルカーが嗤っているような気がした。力が抜けて、彼は地面に四つん這いになった。急激な感情の高ぶりに吐き気がした。額が火を噴くほどに熱くなって、手が震えた。その瞬間、どくんと自分の心臓が脈打った。
「あ……」
まずい、と気づくが、彼は自棄になって、そのまま<王家の血>を開こうとした。むしろ、このまま、妻を抱いて死のうという自殺願望に酩酊した。
「よせッ! レオン、いまは耐えろッ!」ブルーノが叫んだ。幼年期の記憶から、レオンは叱られたと思って畏縮した。瞬時に持ち直そうと気合が働いた。歯を食いしばって、鼻から深呼吸した。
エラはじろと、そのようすを見て、レオンの隙を盗んだ。身を投げ出して、拳骨を突き出すだけの小細工のない暴力がレオンに襲いかかった。刹那に、びゅんと空気が鳴いた。
エラの腕が地面に落ちた。切断面に淀みがない。技巧によって、極限まで高められた斬るという行為の結晶だった。が、ブルーノは自分の身を斬ったようなこころの苦痛を感じた。彼はレオンの顔を見れなかった。ほんの一瞬、この達人に迷いが生じた。彼は、もう一打でエラの首を飛ばせる間合いにいたが、その腕は迷いによってふるえた。代わりに、エラの片方の腕がひるがえって、ブルーノの頬をかすめた。
(ただの幽鬼の威力ではない。まともにもらったら、死ぬか、よくても意識を刈り取られていた……)。彼は半歩下がった。
彼は技術によって身を立ててきた。ゆえに、その便利や無為も知っていた。この世界には凡人の膂力では二、三回斬られても死ななかったり、そもそも刃を通さない体を持っている怪人がいる。年月をかけて陶冶された技術も、それらの理不尽のまえでは塵芥に過ぎない。
だから、あえて、かれは生き残りをかけて、狡猾になった。
彼は一瞬の差し合いのなかでエラの服の懐に、錬金術の<炎>の印が刻まれた札を入れていた。あとは彼の意志で札は爆散して燃えあがる。当然、幽鬼になったエラでも無事では済まない。いまはレオンも立っているのがやっとの状態である。正攻法では、この等級の魔物を倒せるか怪しい。
(私はまだしも、レオンの命は博打で失えない)とブルーノは思ったが、彼を踏みとどまらせるのは道徳的な問題だった。なにしろ、レオンの妻を彼の眼のまえで焼死体にするという凶悪である。
が、その躊躇を察したレオンが「先生! あいつはもう死んでるんだろ。体裁はどうでもいい。もう終わらせてやってくれい!」と叫んだ。
ブルーノは重く頷いて、その札を起爆しようとしたところ、エラはその札を懐から取り出しているところだった。
(バカな。幽鬼にしては賢すぎる)と思ったのもつかの間、札が爆散したのは空中だった。温風が吹く。当てが外れたブルーノの切り替えは、思いのほか、はやかった。
(しょうがない、正攻法だ)と腹をくくった。恐ろしいとか、どうして見破られたかといった当惑は、断ち切っていた。
すると、「かっかっか」と雷鳴のような笑い声がエラの喉から鳴った。
「笑った、だと」ブルーノは呆然として、その血色の悪い白い喉が揺れるのを見ていた。笑う幽鬼など聞いたことがない。魔物の知能はたいてい、馬や犬にも劣るとされている。さっきの危機察知能力といい、いまの嘲笑といい、魔物にはありえない行動の連続である。そして、エラの笑い声が止んだと思うと、彼女は不気味な微笑を含んで「リュウガクル。リュウガクル」と言った。さすがに、ブルーノは一瞬、意識の集中を頭脳による分析に割いた。レオンはなんと言ったかわからなかったが、ブルーノは(龍が来るって言いやがった)と、その鳴き声と見紛うような発音の意味を瞬時に理解した。
「なんたることだ」ブルーノは、麻痺した。時が凍結し、彼は考えた。考えて、完全にこころが武装解除して、呆然とした。
それに呼応して、エラはその間隙を鋭い嗅覚で察知して、かすかに上体を前傾させた。エラの冷たい肉の集積が蠢いて、力を溜めた。生者とは異なる力学で動いているらしく、彼女の動きは不規則で気味がわるい。
ブルーノの技術は生者にしか適合しない。ゆえに、その不審な気配を感じ取るのが、一瞬遅れた。魔術に似た浮力が働いているのか、彼女は地面から浮き上がりながら、真っ直ぐ迫ってきた。
ブルーノはハッとして、顔を上げた。
「この化け物め。俺の妻から出ていけ」レオンはエラを背後から羽交い締めにしていた。代名詞の大刀は、先程の馬車の落下でどこかへ紛失していたので、病み上がりの身ひとつで、妻に取り憑いた悪鬼にしがみ付いていた。エラは首を曲げて、つまらなそうにレオンを一瞥した。
「出て行け。悪霊ッ!」と目一杯、首を絞めあげたが、そもそも幽鬼は呼吸をしない。平然と、「はっはっは」と不気味に笑いかけて、身を揺らした。
「貴様、俺の妻の顔で笑うな」とレオンは振り回されながら、食らいついた。その拍子に引っ張ったエラの髪の毛が抜けて、ごっそりと指の間に絡まった。レオンは、魂が抜けた。血気は萎えて、ただ呆然としている面に滂沱として泪が止まらない。
(天は俺を見放しているのか。こんなのはあんまりではないか……)。
エラは憔悴したレオンを背負い投げた。地面に叩きつけられ、彼は、茫洋とした曇り空を生気のない瞳で見上げた。
エラの白い面が睥睨する。彼女は足を上げて、レオンの顔を踏み潰そうとした。その時、銀色の煌めきが宙に散った。刃の一閃である。半円がちょうど、エラの首筋から現れて、消えた。
「……ああ」とレオンはため息した。滑るようにエラの顔面が前に滑って、ぼとりと目の前に落ちてきた。
首が落ちて、残された胴体が木のように佇立したままだった。やがて、崩れるように倒れて、そのそばで、辛そうにしているブルーノの姿があった。濁った黒い血がどろどろと、ブルーノの剣の刀身を芋虫のようにゆっくりと流れていく。
沸騰するような静謐が二人を取り巻いた。レオンは地面に座り込んだまま、エラの首を胸に抱いて「いったい、だれがやった」と呟いた。幽鬼になったのは酷い殺され方をしたということである。そう思うと、レオンは犯人に対する復讐心を燃やした。
「先生、どう思う。フォルカーの手のものか」
「……」ブルーノは慎重に言葉を選ばなければならないと思って、黙った。まずもって、ブルーノは十中八九、陰謀がらみの殺人ではないと推測していた。やり口に計算がない、理がない。こういった脅しは二流のやることである。いまのレオンの赫赫とした殺意の光る目を見ればあきらかだった。脅迫も行き過ぎれば、相手を怒らせ、不倶戴天の敵を増やすだけである。
この程度のことがわからない<歴史家>の連中ではない。せめて、やるにしても誘拐か、多少怪我を負わせる程度で終わらせるべきだった。もしくは、フォルカーの死に怒り狂った兄のグレーゴルの仕業か、と考えたが、帝都にいるグレーゴルがフォルカーの死を知るにしてはあまりに早すぎるし、あの惨状は三日四日前である。フォルカーの死とほとんど同じ時期の出来事と見て間違いない。
つまり、この惨劇はいま、レオンが取り巻かれている吸血鬼の政争とは無関係の出来事だった。たちの悪い偶然である。しかも、ブルーノの口をさらに重たくしたのは……。
「あまり、憶測はしたくないが」
「かまわん」
「……ハーフの仕業かも」
「バカな」とレオンは否定しかけて、フォルカーとの対決の前日に見かけたハーフの盗賊のことを思い出して、皺を顔に刻んだ。谷淵に沈んだ幾万のハーフの老幼の屍山血河が克明に思い出された。生き残った者は、復讐心を万丈の火柱の如く燃え上がらせているに違いない。
レオンは、それでも、と拳を握った。どうして、自分の妻が、その咎を受けることになったのか。天の気まぐれを呪った。レオンは自分がくぐってきた労苦を振り返って「なんのために戦ったのか」とうそぶいた。厭世的な声が曇り空に溶けていった。ふと、雨が降り始めた。冬前の身にこたえる雨だった。
ブルーノは、妻の生首と向かい合っているレオンが見ていられず、「布か、何か包むものを探してこよう」といって、逆さまになった馬車の方へ歩いた。
その背中に「先生、俺の子は死んだのか」とレオンは問いかけた。突き刺すような質問である。ブルーノは立ち止まって、先ほど、見かけた焚火の周りに散乱した肉片を思い出して、身震いした。口が乾いた。双方にとって、耐えがたい沈黙だった。――刹那に、鳥の鳴き声みたいな笑い声がひびいて、レオンの抱えていたエラの生首の目玉がかっと開いた。
「かっかっか。全員、食っちまったぞ。かっかっか」
レオンの顔が苦悶にゆがんだ。半狂乱になって、その首を投げ捨てようとしたのを、ブルーノが肩に手をかけて止めた。
「倅殿、倅殿」としかブルーノは言えなかった。レオンの肩が小刻みに震えた。生首は、それだけ言い残すと、瞳の青が灰色に変色して、そのまま動かなくなった。最後の一撃がもっとも、強く、この大丈夫の胸を突き刺した。もう心はぼろぼろだった。
「あの子も死んだんだろうっ! 先生っ!」とレオンは叫んだ。ブルーノは否定できなかった。沈黙が静謐なる雨空の下に奏でられた。ふたりは雨を吸った泥に足を取られながら、歩いた。馬車を牽いていた馬は、滑落で死んでいた。目指す場所はあいまいに、ブルーノはトルンと定めた。もし、娘や家中の者らが生きていれば、トルンに避難していると考えられたからである。しかし、まず先に――。
「家中の者の死体があれば、弔ってやりたい。それに、父上の遺灰もそのままだろう」というレオンの望みを容れて、ブルーノはもと来た道を戻ることにした。レオンの歩みは泥濘の上で、おぼつかなかった。そもそも、彼は<王家の血>を開いて、満身創痍の状態なのである。心労も手伝って、失神しそうな顔いろだった。けれど、「重かろう。私がもとう」とブルーノが言っても、「いや、いい」とレオンは布でぐるぐる巻きになった妻の首を離そうとしなかった。体を痛めつけるように、その歩みは遅鈍ながら、決してゆるまなかった。
――寒風に遊ばれて、降ってくる冷たい雨は、焚火跡の煤を洗っている。レオンは茫然と、あたりに散乱する小さな赤い血肉を見ていた。
「下に、老人の死体があった。たぶん、お前の乳母のものだろう」とブルーノが崖を上がってきて言った。
「ほかは」とレオンが聞くと、ブルーノはかぶりを振った。レオンはもう一度、散乱した肉片に目を落として、乳母以外の家中の者の死体は、エラが食べたのだということに思い当って、顔を伏せ、胸のむかつきを抑えるように歯ぎしりした。
「残念だが、土に埋めて、略式で済まそう。せめて、魔物に食い荒らされないように」
レオンは地面の血肉を集め、ブルーノは崖の下から老婆の死体を運んだ。簡単には掘り返されないように、血肉と死体を布に包んで、深く埋めた。拾い集めながら、近侍の鉄靴や、篭手を見つけたので、それもあわせて埋めた。
手で埋めるのは、それなりに時間がかかった。レオンのことを慮って、ブルーノは、その労働を遮るように、先んじて、土を掘った。すると、レオンは、その労苦に報いるように、さらに働いた。
不思議な空気の戦いが、ふたりの背を押していた。無言のなか、手を動かす一時に、感覚がまひして、レオンは悲しみをわすれた。が、埋め終わって、泥だらけのなか、彼はふと、目に溢れるものがあった。
「先生、俺は、まだ、娘の持ち物を見てないんだ。間違ってるかな、そんなことだけで、あの子が生きてるなんて思うのは」と彼は見たことないほど弱って、震える声を絞り出した。ブルーノは沈思した。ひとの苦しみをこれほど自分の痛みと錯覚したことはなかった。ブルーノは、その震える肩に手を置いて「トルンに行こう。生きていれば、そこにいるかも」といった。むろん、それは、多分な希望的な推測をもっていた。なので、ブルーノは、その言い方に気を付けた。あくまで、冷厳に客観的事実を述べた。
「――かわいそうなガキだった。俺はまったく可愛がらなかったし、外で遊びたがっていたのに、ずっと小部屋の中での生活。いったい、あの子はなんのために生まれてきたんだ」
ブルーノは意外な感にうたれた。エーデルガルトは天真爛漫な少女だったから、てっきり甘やかしていたものとブルーノは想像していたのである。思い返せば、めったに、レオンは娘のことを話題にしなかった。血筋の存続のために男児を望んでいたのは想像に難くない。レオンには、ふしぎな影がある。憂鬱がある。その淵源を、ブルーノは初めて、垣間見た気がした。
「父上の遺灰はどうしようか」とブルーノは話題を変えた。レオンの憂鬱に深入りしたくなかった。また、深入りするべきではないと考えた。
「はあ、どうしようか」骨壺は割れて、破片が散乱しているが、遺灰そのものはどこにも見当たらない。吸血鬼の遺灰は、霊の残滓に近いものだから、風に吹かれれば、砂塵などよりも軽く吹き飛んでしまう。が、ブルーノは実の兄の遺灰のことはあまり気に留めていない様子で「私の兄のことだから、森に遺灰を散らされても、文句は言うまい」といった。
「まあ、たしかに。そうかも」
「なら、トルンへ急ごう。――あそこには、君の義妹がいたろう」
「義姉だ」
「そこに一時の宿を求めよう」
「ああ、わかった」とレオンは言ったが、そのおもてには、まだ歩かなければならないという疲労が色濃かった。ブルーノはじろと、レオンの抱えている白い布にくるまれた首を見て、迷った末に、何も言わなかった。
ふと、去り際に、ブルーノは背を引かれるのを感じて、ふりかえった。曇り空のしたの湿り気のある灰色っぽい宙に、光の粒がみえた。
疎林はざわめいて、微風がふいた。ブルーノは実兄のラインハルトの気配を感じた。
(わかっているとも、兄貴。こいつは、俺が導いてやる。力尽きて灰になる、そのときまで……)。彼はまだ、レオンに事態の要諦を隠していた。なぜ、ハーフが虐殺されたか、レオンは知らない。死の龍伝説も迷信だと思っている。その運命には、ブレージアーの一国を超えた重責が予定されていた。そうとは知らず、レオンは額に汗して、重たい足をトルンへ向けて運んだ。
――トルンは死んだように静かだった。小雨が降りだして、焼け野原を洗っている。血を吸った泥に引き寄せられるのか、屍鬼が時折、寒気のするような鳴き声をあげている。灰色のそらの下の疎林で、エーデルガルトとヘラは身を縮めていた。彼女は、まだ、ホウロウを待っていた。もう三日は経っているが、エーデルガルトはヘラに無理を言って、またここにきて、待っているのである。
「必ず、戻ってくる」というホウロウの言葉をまっすぐに彼女は信じていた。無垢な恋心を燃やして、その帰りを一日千秋のおもいで待っているのである。ヘラは、その姿を見て、(へえ、なんてかわいい子)と思った。エラの気性とは似ても似つかない。
が、待っても来ないのは明白だった。本来なら、もうとっくに現れて、救われたトルンの村人たちの歓待をうけているはずである。そうしないのは、単純に、心情的なしこりがあって、去ったということだった。
ヘラは、そう確信しつつも、エーデルガルトの期待に火照った顔を見ていると、「もう帰りましょう」と言い出せなかった。また、万に一つ、本当に現れたら、ホウロウに対して、無礼を重ねるような気がした。ヘラは、ホウロウを信じなかったことが悔やまれた。むろん、あの状況で、おいそれと突然現れたハーフを信じるほうが難しい。が、それでも、彼女は悔やむべきことを悔やんだ。それもあって、ヘラはエーデルガルトに付き添い続けているのだった。
――無為に時間が過ぎていく。雨脚が強まっているような気がした。そこに糸口をつかんで、ヘラは「雨が強くなってきたから、今日はこの辺で帰りましょう」といった。
「……もうすこし、もうすこしだけ」とエーデルガルトは粘った。そう無垢な瞳で懇願されるとヘラは、突っぱねることができなかった。
「わかったわ。じゃあ、もうすこし」
「ごめんなさい。叔母様」
「いいのよ」エーデルガルトはヘラに対して、申し訳なくなってきて、しゅんと目を伏せた。ふいに、幻惑が解けたようにエーデルガルトは、冷静になった。いまのいままで、彼女は酩酊したように理性が働いていなかった。盲目的に、ホウロウは自分のことだけを考えて戻ってくるものと思っていた。が、ホウロウの物憂げな顔いろを思い浮かべて、彼女は目を覚ました。
(あの人は自分のことをどうとも思っていない)ということに彼女は思い至った。それ以上に、もっと重大なことに直面している<おとな>の顔だった。そういう大人の顔を幾たびも、彼女は城下の邸で目撃してきた。父親のレオンの顔、母親のエラの顔。憂鬱な顔と顔がいくえにも重なって、それに囲まれている無力な自分だった。
ホウロウは戻ってこないと、確信して、彼女はほろほろと頬をぬらした。ヘラは哀れに思って、「もうあきらめましょう。ね」と、そのちいさな肩を抱いた。ふたりとも、肉親をつい数日前に殺されて、傷心していた。その傷の痛みが、ふたりを急速に結び付けた。ヘラは息子を失い、エーデルガルトは母親を失った。毎夜、眠ろうと目を瞑れば、寂しい、寂しいと身もだえする。期せずして、お互いがお互いの空いた心の穴を埋めあっていた。
雨足がいよいよ林冠の枝葉を揺らすほどになった。焼け野原と化した草むらは、灰色の泥となって、雨水をたたえている。
「雨が強くなってきたわね。すこし、雨宿りしていきましょう」
「……はい」
「あなた、好きな食べ物とかある?」
ヘラが聞くと、エーデルガルトは首をかしげて、「んー。分かりません」といった。ヘラは笑って「あのね。ここは城下じゃないのよ。多少、ワガママ言ってもいいの」と彼女の頭をなでた。
「そうなのですか」
「そう。あと、そんな話し方はしなくてもいいの。こんな田舎ではね」
「話し方は変えたほうがよろしいですか?」と彼女は逐一、問うた。ヘラは苦笑した。
「べつに、そのままでもいいのよ。あなたの自由よ」
「自由ですか……」
貴族の生活は衣食住が満ち足りているが、そのほかのありとあらゆる生活の様態は規定されて、ほとんど自由がない。それが不幸とも、思わないほど慣れているエーデルガルトだったから、<自由>といわれると、どうすればいいのかわからなくなった。彼女はもじもじして、縮こまった。
――雨は弱まる気配を見せない。寒風に殴られて、冷たい雨が真横に降っている。
「寒くない?」
「ええ、大丈夫ですわ」とエーデルガルトはいった。けれど、寒さは細い足先や指先の末端に突き刺さるようだった。
ヘラは彼女の手を握った。指先が冷えて、氷のようだった。エーデルガルトは叔母の顔を見上げた。
「いいの。いいの。おばさんが握っていてあげる」
母親そっくりの匂いがした。ヘラは目鼻立ちは母親のエラに似ているが、ヘラの方が笑窪の目立つ愛嬌ある丸顔だった。顔以上に低い声色が似ていた。その声が耳元でするたびに、母親と錯覚して、あの青い眼玉がよぎった。あの憎悪の瞳が頭のなかで像を結んだ。
エーデルガルトが顔をひきつらせていると、ヘラは含みのある表情で沈黙した。疾風がふいて、藪がざわざわと音をたてた。ふと、小雨の自然音の中に、ひとの足音らしき、ふしんな音の気配を聞いて、二人はぎょっとした。ヘラはエーデルガルトを抱き寄せて、藪の奥にかくれた。ふたりは藪の陰から目を見張って、物音がする方をのぞいた。
雨にうたれて、二人の吸血鬼然としたいで立ちの男が二人、トルンに向かって歩いていた。顔は笠のせいでよく見えない。長旅をしてきたのか、その歩みは鈍重で、疲労が色濃くあらわれている。
エーデルガルトはヘラの腕に抱かれて、その人影に嬉々として期待をはらんだ眼差しを向けた。
「ホウロウ様、ではないのですか? 叔母様」と彼女は小声でいった。
ヘラは、いぶかしげに、その二人組の人影をじろりと眺めた。
「どうでしょ。あの御仁はもっと背が高かったような気がするし、それに、あの風体は……」とヘラは冷静だったが、エーデルガルトは胸の高鳴りが抑えられなかった。ヘラがその手を離せば、走って行ってしまいそうだった。前のめりにうごめくエーデルガルトをがっちりとつかんでヘラは「お待ち。もうすこし様子をみましょう」といった。同時に二人組はトルンが見える街道まで出ると、立ち止まった。茫然、焼け野原と化して、静謐のなかにある寒村を見つめている。やはり、ホウロウではないとヘラは直感して、より一層強く、エーデルガルトを抱きしめて、退路を探した。もしかすると、戦場跡に現れる悪辣な賊である可能性がある。逃げるか、息を殺してかくれ続けるか、ヘラは迷った。
「いい。絶対、声を出してはだめよ」と言い含めると、エーデルガルトは不服そうに「叔母様、ホウロウ様は?」といった。
「あれは、違います」
エーデルガルトは信じられずに、じっと、二人組の男をみつめた。たしかに、ホウロウは、もっと肩幅が広かった。二人組のうちの一人はホウロウに迫る偉丈夫に違いないが、線が細い。袖から伸びた腕にも獣毛は見られない。
「あれは、同族。吸血鬼です」
顔は笠で隠れているが、吸血鬼然とした気配が所作から装束に見て取れた。さらに、奇怪なのは、背の高い方の男が甲羅のようなものを背負っていることだった。ヘラは目を細めた。(あれは、いったい、なに……)。
城下から派遣された軍人の可能性があるが、この時勢なので、同族とはいえ、信用するわけにもいかない。ヘラがじっと観察していると、二人組はなにやら、話し込んでいるようすであった。けれど、遠すぎて会話の内容までは、よく聞こえない。雨音だけが克明に響いている。鬱々としたふたりの会話はやがて、劇的な調子へと変質していった。耳を澄ませば、そこには慨嘆があった。おそらく、このトルンの有様に同情しているのだと思われる。ヘラは若干、警戒を解いた。
男が地面に座り込んだ。その際、ヘラは、甲羅のように見えた背中の物体が、見たことないほど長い大刀だと分かって、身震いした。男は地面に大刀をさして、刀身にもたれかかった。地表は雨水で泥濘と化しているが、男は、服が汚れることなど気にも留めていないようすで座り込んだ。その首が力なく、前に突き出て、うつむいた。ヘラの方までため息が聞こえてきそうだった。エーデルガルトは丸っこい瞳で、呆けたように、その男を見ていた。ホウロウの幻想の鋳型を重ねようとしたが、どうにも気配がちがう。妙な違和感がした。もっと、近づかないと、わからないと彼女は思って、吸い寄せられるように、ヘラの手から離れた。
「お、お待ち」とヘラが言ったのも、耳に届いていないようすで、ふらふらと、藪をかき分けて、堂々と歩いて行く。
「ああ、なんてこと」とヘラは頭を抱えて、一時、迷ったあとに、追いかけた。
――「はっはっは。フォルカーの言った通りかもしれんな。ハーフは野蛮。……いや、それはあまりに勝手な言い分だ。ハーフを虐殺した吸血鬼も野蛮か。どっちも、野蛮、野蛮。馬鹿どもが跳梁跋扈する濁世だな」レオンは長嘆した。
「ああ、酔いたい。酔いたい」レオンはうそぶいた。こうなっては、娘のエーデルガルトの生死はよりおぼつかない。すでに諦念が顔に浮かんでいた。そのまま、泥のなかに沈んでいきそうである。レオンは目を瞑れば、死ねるような気がした。疲労が手伝って、視界が朦朧として、灰色に染まっている。
「わたしの血を飲むかね」
「わるい冗談はやめてくれ。先生。俺はもう死にそうだ」
「いや、冗談ではない。望むなら、いくらでも血を流してやろう」ブルーノは懐刀をだして、腕の腱を斬ろうとした。冗談とは思えない本気が悪霊のように顔に映っている。――ブルーノは責任を感じているらしい。が、これは人知でどうにかならない偶然がなしたことなのである。間違えば、このトルンではなくて、ほかの村落が同じ憂き目をみていたかもしれない。その程度の天の気まぐれで禍福が二転三転する。肉体を持って、地をあるく者に出来るのは、後になってそれに懊悩することだけである。
「――まさか、ハーフにこれほどの反発力があるとは……」とブルーノは思った。彼は、その番号を振られたハーフの街を歩いてきたが、見誤った。路地の裏、大通りを練り歩く群衆、大河のように流れていく有象無象のなかに、何者がいたのか。
ただの数人の賊徒にできることではない。統領が確実にいて、その統御のもとに動いている。まとまる理由はいくらでもある。命の危機、同じハーフであるという帰属意識、そして何よりも、吸血鬼にたいする復讐心である。
恐ろしいとブルーノは思った。もしかすると、悪鬼と化したハーフの集団は、もうすでに想像できないぐらいに膨れ上がっているのかもしれない。しかも、もっとも危うく思われることは、ブレージアーの暗君コンラートが、このことに気づいていないらしいということである。いや、気づいても適切に対処できるかあやしい。
そう思い至ると、有史以前から数千の歴史をもつ、このブレージアーという王国が薄氷の上に立っているような気がした。安穏と過ごしている場合ではない。内乱の炎は、ブレージアーの大地を焦がし始めている。
もう、頃合いだとブルーノは焦燥につつかれた。
(限界だ。もう話しておくしかない。この男が希望を失ってしまうまえに。生きる指針を与えなければ)。
「倅殿、あんたには、まだ、話していないことがたくさんある」
レオンは疲れた瞳で、ブルーノを見上げて、苦笑した。レオンは雨にあたらないように大事そうに抱えたエラの首をじっと見た。
「そうだろうよ。だが、あんたが俺の叔父だということ以上の驚きがあるかな」
「ある。いや、その程度は副産物にすぎない。……しかし、どこから話せばいいのやら。まだ時期尚早なのだが、まず、問題の一番の要諦は……」ふと、ブルーノはそこで言葉に詰まった。どう話したものかと悩んで、右往左往させた視線に、幻想のような小さな人影を見て、茫然自失したのである。
「――はっはっは。先生、あんたがおかしなことばかり言うもんだから、幻覚が見えてきた。こともあろうに、あの子が目の前にいるぜ」レオンは狂気じみた笑い声をあげた。笑顔で細くなった瞳から、涙がこぼれた。いかにも、麻のぼろをまとって、顔の半分が傷だらけの状態で、突っ立っているエーデルガルトは亡霊としか思えなかったのである。が、彼女は正真正銘、本物だった。その眼は欣喜にうるんでいる。それが、レオンには逆に恐ろし気な、自分を責めるような瞳に見えて、胸を締め付けられた。
つまり、妻のエラが亡霊として、自分の目の前に現れたように、娘も幽鬼となって、自分を殺しに来ていると彼は錯覚しているのだった。
「――い、いや。こ、これは」ブルーノは声がふるえた。ふたりとも同じ幻覚を見るはずがないから、ブルーノの方は気づいた。その声音の震えは、望外な喜びのせいだったが、レオンには、恐怖からくるものにしか聞こえない。偶然、うまれた齟齬が深い谷のようにエーデルガルトとレオンを親子の情理から分断した。
「お父様、なの?」
レオンは目を見開いて、彼女の顔を見つめた。幻覚というには精彩なエーデルガルトの無垢を感じた。城下で、育てられて、穢れを知らないまま、生きていた娘のすがた、そのものだった。レオンは目を細めた。<王家の血>を開いて、幾分、歳を取ったようにすら見える顔で、いぶかし気に眉をひそめた。
エーデルガルトも半信半疑だった。なぜなら、父親のレオンがこれほど、弱っているのを、見たことがなかったからである。剛毅で、朴訥で、世間的にも立派とみられている父親が、目の前で、切羽詰まったようすで、座り込んでいるのが、信じられなかった。しかも、目に涙を浮かべている。
(……お父様が、泣いている)とエーデルガルトは衝撃をうけた。ほんとうは、彼女が知らないだけで、彼は涙もろい男だった。が、妻や娘のまえで、泣いている姿を見られるなどというのは、吸血鬼の世界ではありえない。図らずも、エーデルガルトは、父親の本当のすがたを垣間見た。
レオンは幽霊のような足取りで立ち上がると、かぶっていた笠を捨てて、一歩一歩と、エーデルガルトに近づいた。彼女は、笠の陰で朧だった顔貌があらわになって、目の前の男が正真正銘、自分の父親レオンであると確信した。震える手で、口元をおさえた。
「う、う、う」しぜんと、大粒の涙が目に溢れた。彼女は少女である。泣くとなったら、止め処がない。我慢しようという自尊心もない。真っ赤になった頬に滝のように涙が流れ、大声をあげて、泣く。
「お前、俺の子か。……エル」
「うん、うん」彼女はうなづいた。
レオンは信じられないといった顔つきで、言葉を失って、黙然、考えた。考える必要などないはずなのに、へんな猜疑が彼の頭をもたげそうになった。エラの青白い瞳が想起された。ふと、全身の力がぬけて、大事に抱えていたはずのエラの首が手からするりとこぼれ落ちた。
――エーデルガルトの目の前に、いきなり、死んだ母親の生首が現れたら、いったい、彼女はどんな気分になるか。間違いなく、この感動に水を差すことになる。そう完全に直感したわけではないが、ブルーノは、反射的に、そのこぼれ落ちた白布にくるまれた生首を地面の泥濘に落ちる寸前で、つかんだ。そのうえで、翻ってあらわになりかけた首の顔を隠すように身を返して、エーデルガルトに背を向けた。
ブルーノは、レオンの肩に手をおいて「よかった。ほんとうによかった。天は、まだ、倅殿を見捨てていなかった」といった。そのうえで、エーデルガルトの方へ顎をしゃくった。彼女は大泣きしていたので、母親の首を見ずに済んだらしい。ブルーノはほっと息を吐いた。
「す、すまない。先生」
「御婦人は私が見守っているから、安心して、娘を抱くがいい。なあ、倅殿」レオンは目顔だけで、精一杯の礼をブルーノに言った。
レオンは目いっぱい、エーデルガルトを抱いた。
(生まれたとき、以来か。抱き上げるのは……)。
「ああ、よかった。もう一人にはしない。わるかった。わるかった」レオンは慈母にすがるように、エーデルガルトの頬を自分の頬でこすった。
「うう、お父様、お父様」
彼女はとめどなく泣いた。レオンは、ふつふつと、闘争心のような炎が自分の胸奥に広がるのを感じた。妻のエラは死に、娘のエーデルガルトだけが生き残った。つまり、この子は、母親の死を間近で見たということである。
(かわいそうな子だ。俺の勝手で、そんな憂き目に)。その憐憫が<王家の血>を開いたせいで、失われた活力を取り戻させた。
(この子は、俺の命に代えても、守ってやる。エラ、約束だ。命に代えても、命に代えても。かならず、俺がこの子を守る)レオンは、自分の胸に呪いを刻むように何度も唱えた。
瞳は怒色のような生気が戻った。その様子をみて、ブルーノは安堵した。むろん、甥の娘が生きていたのは、僥倖だった。が、それ以上に、レオンに、英雄の気概が戻ってきたのを頼もしく思ったのである。
――夜通し、トルンには篝火が煌々と燃えた。難民のるつぼが、ひとりの男の顔を拝もうとヘラの邸にやってくる。レオンは身を縮ませ、気まずそうにしていた。ヘラの歓待をうけて「義姉殿、俺はもう流民も同じ。歓待は無用です。筵の上で、寝るし、土民の仕事も手伝います」
ヘラは驚いて「何をおっしゃいますやら。あなたが鍬を持っていたら、トルンの村民が肝を冷やしてしまいます」と笑った。レオンは、この未亡人に感謝してもしきれない思いがあったので、その人からの歓待は身を切られるような廉恥を感じさせた。最後に会ったのは、五、六年ぐらい前だったが、彼女にたいする肯定的な印象は変わらなかった。けれど、その眉に暗澹たる影が見えて、薄幸な女性を思わせた。
(たしか、息子が一人いたはずだが……)とレオンはその姿を探した。だが、いない。エーデルガルトの寝息が隣の小部屋から聞こえるのみである。ほかに人の気は、目の前のヘラと隣のブルーノと、ほかには感じない。
(ああ、さては……)とレオンは直感して、黙然とうつむいた。村長が死んだのは、人伝に聞いた。つまり、彼女は一時に、父と子を両方、喪ったのである。しかも、妹のエラの訃報も、今から聞かなければならない。
その口火をどう切っていくか、レオンは迷った。しかも、その首も伴っているというのを、驚かせずに、どう伝えたものか、逡巡していた。
「ほほほ、お疲れでしょう。寝屋は整えてありますから、お供の方もごゆるりとお休みください」
「あ、いや……その」レオンは結局、切り出せなかった。ブルーノももどかしい思いであった。蝋燭の炎だけの朧げな夜陰に、レオンの緊張は挙動に色濃くあらわれていた。
ふと、ヘラは立ち上がって、ブルーノの方へ、歩いた。台所に行くかのようなしぜんな所作で、ふいに、ブルーノの背後に隠すようにしておいていた。白布を手にもって「ああ、帰ってこられたのね」といった。
「エラは、村の祖廟に置いておきましょう。よろしいですね」
「あ、はあ。私は、もう城下の人間ではありませんから、妻は、ここの廟に入るのが、適切かと」
「よかった」
といって、ヘラはエラの生首を平然と抱いて、夜陰のなかに消えていった。ブルーノとレオンは目を見合わせた。
「気づいていたらしいな」とブルーノに言われて、レオンは気恥ずかしそうに、頭をかかえた。
「俺は愚か者だ」
「立派なお方だ」とブルーノは笑った後に、隣の小部屋で寝ているエーデルガルトに気を遣って「エラの胴と、あんたの家中の者の遺骸は、あした、運びに戻ろう。俺が手伝う」といった。
「ああ、わるいな。せんせい」
「なあ、もう<せんせい>と呼ばんでも、いいんだぞ」
「叔父上と呼ぶのは、無理だな。そんな急には変えれない」
「そうしたいなら、まあ、べつに構わんが……。そんなことよりも……」とブルーノは膝を崩した。
「倅殿、わかるか。このトルンの崩壊ぐあいを見るに、ハーフの賊は糾合し始めている」
「……」レオンは黙って、蝋燭の炎の揺らめきを見ていた。
「さっき、村の壁の外を見てきた。すると、足跡が、山脈のふもとを添うようにして続いていた」
「つまり……どこに行った?」
「俺の推定は、ふたつ。まず、ソベニというハーフの谷」
「聞いたことないぜ、ソベニなんて」
「そりゃあ、そうだろう。王国の官僚で知っていたのは、フォルカーぐらいなものだったからな。奴はソベニの谷の長と秘密裏に通じていた。ソベニの谷の存在を黙認して、その口止め料をふんだくっていたのさ。で、トルンを襲ったハーフの賊の一団と、ソベニの谷のハーフが結びついたら、さあ、どうなるか」
「ウウム」
「そして、二つ目は王家の墓の街、ムルゥーン」
「ああ、なるほど……そうか」
「そう。ムルゥーンは、王家の墓を守るために、混血を重ねたハーフたちの街だ。むろん、管理するための純血の吸血鬼の守備兵が駐屯しているが、もし、ハーフの賊徒が想像より大きくなっていたら。いや、それだけじゃない。城壁を同胞に囲まれれば、内部からハーフの反逆の火の手があがる。ムルゥーンのハーフに対する扱いを考えれば、その裏切りの火種はつねにくすぶっている。あの古城とその牢獄のような街は危うい砂の上に立っているってことだ」
「王は、ご存知なのか。この事態を」
ブルーノは笑った。
「お前には、たしかに忠心がある。まだ、あの暗君を信じているのだな。だが、よく知っているはずだ。あの王は、この事態に気づいているわけがないと。もし、気づいていたとしても、何もしない。なぜなら、動けば、ブレージアー城の守りを緩めることになる。ぜったいに、そんなことはしない、できない。それに、フォルカーが死に、倅殿が城下を出た今、だれが、あの暗愚な王をなだめ、諫言できるのか」
レオンはブルーノの話を聞くうちに、焦燥を感じた。
(危ういのか。俺の祖国は……)。
「先生。教えてくれ。俺は何をすればいい」
「ふふ。いま、できるのは、ここまで。あとは、寝ろ」
「寝ろったってなあ」
すると、ふと、ヘラが戻ってきた。彼女が元の場所に座ると、すかさず、レオンは前のめりになって「そうだ。義姉殿、ぜひ、お聞きしたいことがある」といった。
「はい、なんでしょう」
「わが娘を救ったというハーフの男は、いったい、どこにおられるのか」レオンは、夜通し、そのことばかり、気になっていた。エーデルガルトが嬉々として、話すので、彼も一度会ってみたいと思ったいたのである。
「それが……」ヘラは口ごもった。その沈黙に「死んだのですか」とレオンは聞いた。
「いえ、なにもいわずに、消えてしまって」
すると、ブルーノは「この時世だ。ハーフなら、吸血鬼に囲まれていたくないというのも、わからないことではないな」といった。
「……いや。ますます、会いたくなった。そのホウロウという男には会わねばならぬ気がする」
レオンはなぜか、夜分に生き生きとしていた。
(英雄は英雄を感じるらしい)とブルーノは思った。
「それで、ヘラ殿、そのホウロウという男の連れ、女らしいが。その女は、赤毛で小柄な女でしたかな」とブルーノは聞いた。ヘラは驚いて「ええ、そうです。どうして、お分かりに?」といった。
「ふふ。倅殿、この危急存亡の秋をくぐりぬけたら、会えるぞ。そのホウロウという男に」
ブルーノはそういって、ご機嫌に笑っていた。レオンは意味が分からず、いぶかし気な顔だった。夜のとばりに、雨が降っていたはずが、いつもまにか止んで、エーデルガルトの安心しきった寝息が心地よく耳をなでた。
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