業火に鉄を焼く

 レオンは竜のアギトの手前の関所の壁を見上げて、奇妙な感にうたれていた。哨戒する兵のすがたが見えないどころか、人気がまったくないのである。傍らのブルーノに駒を寄せて、「先生、いったい、これはどうしたことだろう」と聞いたが、ブルーノは黙然と考えていた。

 おもむろに、駒をすすめて、扉の前で下りた。すっと腕で、押してみると、予想外にもそのまま開いてしまった。

「この関は、もう死んでる」とブルーノが言った。

 扉が開くと、ほとんど戦争の後のような乱れた関所の内部が露わになった。レオンとブルーノは門をくぐって、関所の中に入った。

「兵卒の死体に混じって、ハーフの死体がある」とレオンは駒の上から関の内部を眺めた。生きた人の気配はない。寂然とした野鳥の声が壁の外から聞こえてくる。崩れた母屋の影に、屍鬼がいた。ブルーノが追い払った。

 レオンはひとりで、母屋の間の道をうろついていた。整理された四つ辻を通って、邸のまえに立った。左右に灯篭があって、下には敷石が並んでいた。貴族の逗留に備えた客用の邸に見える。彼は誘引されるように、足を踏み入れた。


 敷石を軍靴で踏む。蕭条とした室内にこつこつと寂寥な音が鳴る。評議の場のような広間に、ひとつだけ、青銅の床几があった。

「――座れよ。レオン坊」

 見間違いではない。幻覚でもない。

 怨敵のフォルカーが、その床几を前に座っていた。レオンは反射的に、背の大刀に手をかけたが、左右を見回して、伏兵がないことを悟ると、鷹揚とフォルカーを見据えた。ふたりの時間が、凍り付いたように止まった。

 しぜんと、レオンは無言のうちに、峻厳な表情になり、フォルカーは平素と変わらない無機的な無表情のままであった。お互い、まったく言葉による思惟のない世界に在って、お互いに対する殺意だけがあった。

 二人とも、不意打ちの不可能を悟り合って、むしろ、ここは、真正直に会話しようという気概だった。

レオンはむすっと歩いていくと、きびきびとした所作で床几のまえに座った。

 フォルカーは酒瓶を床几の上に出して、「飲もう」と言った。

「ハーフの血は嫌か? もうすぐ、ブレージアーでは稀少になるゆえ、見納めと思って飲んでおくがいい」とフォルカーは豪快に嚥下している。レオンは蔑むような目つきで睨んだ。

「……いらん」突発的に渡された酒瓶を投げ捨てた。床にハーフの血が広がった。

「癇癪持ちめが。悪い癖だぞ」とフォルカーはひょうひょうと言った。レオンは床几に腕を置いて、「もう逃げ場はないぞ。……ここで死んでもらう」といった。

「ありがたい。もう私も疲れたゆえ、寸暇を貰おうと思っていたところだ」とフォルカーはレオンの挑発をかわした。

 話題を転じて、フォルカーは「妻子と離縁したらしいな。平民になった気分はどうだ」と聞いた。

「……別段、変わることもない」

「宮中の噂を便りで聞いたが、それによると、お前が王妃様と姦通したとか」

「……それは嘘だ」

「そうだろう。お前は、根っからの女嫌いだからな」

 レオンは立ちあがって、床几を蹴った。

「御託はもういい。剣を取れ」彼は背中の大刀を握った。フォルカーはつまらなそうにそれを見つめた。レオンが剛をもってすれば、フォルカーは柔をもってする。斬り合う前から、どういった筋書きか、分かるような二人の相対である。

 フォルカーは一向に立たない。筵の上で、ハーフの血を飲んでいる。もう我慢ならなくなって、レオンは大刀を振りかぶった。刀身が残像のように縦に雷撃のような閃光を発した。

フォルカーはレオンの気性をよく理解していたので、突発的な攻撃を前もって予知していた。

 怒りに任せた大振りは床を破壊した。フォルカーは瞬時に立ちあがりながら、寸前で、それを避けて、床に突き刺さった大刀を踏みつけた。フォルカーの佩いている剣は刀身が細く短い。彼は初めから、レオンの大刀と打ち合う気はなかった。一瞬の隙をついて、刺し殺す気だった。

 あわよくば、<王家の血>を使う前に決着を付けようという魂胆なのである。

 フォルカーの剣の切っ先がレオンの首筋を向かっていく。しかし、その時、すでにレオンは大刀から手を離していた。上体を振って、彼はフォルカーに強烈な頭突きをした。フォルカーはうめいた。鼻筋を血が滴った。剣を杖にして、やっと、立っていた。意味不明な笑いが漏れた。

「ふふふ。良いだろう。――<素>なら、私はお前に敵わない」とフォルカーは言った。

 フォルカーの眼に業火が宿った。瞬間、どこからともなく弓の弦が鳴って、フォルカーの胸に矢が突き立った。

「先生、いい腕だが、もう無駄だ」

 フォルカーは胸に矢が突き刺さったまま、よろめいた。その眼はまだ生気をもって、レオンを睨んでいた。

(やはり、こうなったか……)。

 フォルカーは<王家の血>を開こうとしている。レオンは遠くの屋根に立っているブルーノに(離れてくれ)と目顔をつかった。ブルーノはうなづいて、退去していった。<王家の血>には、系統があり、<翼>、<剛>、<炎>の三つに分かれている。けれど、純粋にひとつの系統を受け継ぐことはない。誰でも、必ず、系統と系統の折衷なのである。その比重がどちらに偏っているかが、変身したときのすがたに影響する。

 フォルカーが気を吐くと、上半身が燃え上がって、衣が煤になり、宙に舞い上がった。フォルカーは<翼>と<炎>の折衷である。背中が盛り上がって、蝙蝠のような翼が左右に伸びた。

いかなる<王家の血>を持つ者も、その生涯において、その力を使う機会は十回、あれば良い方である。とくに、その代償が高くつく系統の場合はもっと少なくなる。

 だから、だれもが、その力を技術的に使いこなすことが出来ないままに、闘わなければならないのである。

 フォルカーは、手を開いたり閉じたりしていた。体をふいに動かして、いつもと感覚的に違うところを手探りで確認していた。手をうごかすたびに、火花が散った。上半身が燃え盛っている。フォルカーの系統は<炎>に偏っていた。そのせいか、両翼はあまりうまく動かせない。左右ばらばらに、痙攣するみたいにはためいている。

 その瞳が蛇のような狡猾さで動いて、レオンを睨んだ。

レオンの<王家の血>はもっとも特殊な例といえる。それは<鉄>と呼ばれた。最近、発見されたような新たな系統だが、いま、それを保持しているのは、レオンとその弟のイグナーツだけである。また、その開祖である二人の父親のギルバートの侵攻をひとりで止めたという英雄伝によって、<鉄>は、一番、強い系統と人口に膾炙されている。

 けれど、その<鉄>の真価をレオン自身、半信半疑なところがある。なにせ、実戦で使う機会がいままで無かったから、フォルカーの<炎>に比して、自分の<鉄>は、どれぐらいのものかは空想することしかできなかった。ここに至るまで、彼を煩悶させたのは、まさに、フォルカーの炎に自分は勝るかと言う問題だった。

「――むうう」

 レオンの眼が真っ赤に染まった。その眼を覆うように鉄の被膜が広がって、彼の全身を包んでいく。地面に転がった大刀を持つと、その皮膜は、指先から乗り移るように伝って、大刀は白銀の巨大な鏡のように光った。レオンは刀身に映る自分の奇態なすがたをみて、(あの時の父上にそっくりだな)と思った。顔が下半分が白銀の面皰に覆われて、真っ赤な目玉が覗いている。

<変身>すると、大刀が軽く感じた。それだけでなく、まるで、自分の体の一部になったような感覚があった。

 試しに大刀を左右に軽く振った。空気が鳴動に自分で鳥肌が立ったほどだった。

 フォルカーとレオンは向かい合った。フォルカーの闘気が高ぶると、邸の天井が燃え上がった。

どちらも、機を見ていた。が、悠長に構えてはいられなかった。レオンは全身の関節に鋭い痛みを感じていたし、フォルカーも肌が爛れるような熱さに耐えていた。

 じりじりと、ふたりは歩みよった。互いが苦悶の表情を読んで、暗黙の裡に、早く決着させようと、近づいた。堰を切ったように、斬り合った瞬間、邸の天井が吹き飛んで、床の敷石は剥げた。塵埃がフォルカーの炎によって、さらに高く舞い上がった。すれ違いざまに、頬骨のあたりにフォルカーの剣が突き刺さったらしく被膜にひびが入った。

 フォルカーはそれを見て、背筋に寒気を感じた。<王家の血>を持つ者どうしでは、得物は意味をなさないらしい。汗が吸血鬼特有の長く尖った鼻筋を通って流れていく。一瞬の差し合いで、フォルカーは不動の巨石に立ち向かっているような錯覚をおぼえた。

 逆にレオンも一瞬、フォルカーに近づいた瞬間に、肌の焼けつくような熱さを感じて、日和見的な態度に陥っていた。(あっちの方が強いのか?)と互いに思った。

その数舜の凍結のなか、走馬灯のように、幼少の教えが思いだされた。

「<王家の血>を持つ者どうしの戦いは決死の覚悟を持った方が勝つ」

 奇しくも、ふたりとも、ほぼ同時に、同じ言葉を思い出して、それを頼みとして、勇気を取り戻した。背の高いレオンが腰低く、大刀を両手で握って、構えた。

 その景色をブルーノは関所の鐘楼から見ていた。陽春の風流な庭で、木剣を打ち合った記憶を振り返っていた。悪たれだったレオンと、本ばかり読んで、あおびょうたんだったフォルカーの顔が昨日のことのように思いだされる。

 彼は多くの貴族の子弟の剣術指南をしてきたが、きたる時代の乱麻に耐えうるのは、この二人だけだと思っていた。けれど、その乱流が、こうして二人を争わせるとは皮肉なものだった。

(風雲は気まぐれだ)。

 ふいに、レオンは大刀を横殴りに振った。すんでのところで、フォルカーは避けた。あいたレオンの脇に剣ではなく、蹴りを入れた。レオンはくの字に折れて、文字通り飛ばされた。燃え盛る邸の壁を突き破った。

 普通なら死んでいたような衝撃だったが、鉄の被膜に覆われたレオンはほとんど無傷だった。レオンは自分の被膜の鎧の性質を知った。軽くて柔らかいので動作の邪魔にならない。しかも、衝撃が加わると、硬くなるらしい。けれど、唯一の弱点も露わになった。頭だけ丸裸なのである。

 レオンは、若干、めまいがして、頭を振った。立ち上がろうとした瞬間、目のまえにフォルカーが迫ってきて、膝がちょうど、腰を上げた自分の目の前にあった。反射的に、大刀の刀身を向けて、頭部を防御したが、そのまま、膝蹴りが入った。

 地面をすべって、関所の門楼の壁を突き破った。壁に開いた穴をくぐって、間髪入れずに、フォルカーはレオンに襲い掛かった。レオンは大刀を離してしまっていた。

なので、とっさにレオンは受け流すように、フォルカーを背負い投げした。その瞬間、レオンの方が悶絶した。

(熱いっ)。フォルカーの体は灼熱の周囲に放ち続けているが、被膜が防いでいた。けれど、至近距離まで近づくと、被膜の下の肌が焼け付くようだった。

けれど、根性で、そのまま、フォルカーを投げた。投げはあまり意味をなさない、と両者ともに感じた。フォルカーは地面に叩きつけられても、あまり損耗なく立ちあがった。

  フォルカーは背後を気にした。彼は竜のアギトの縁に居た。まさに、竜が口を開けているようである。

レオンは地面に転がった自身の大刀を拾うべきか、迷った。

(くそ、なぜ離した未熟者め)と彼は自分を恥じた。彼は、この戦いのなかで、<鉄>の力を受け継いだ自分の利器は大刀であると気づいた。父親が「あれはぜったいに肌身離さず、持っていろ」と言っていた意味を知った。

 <鉄>にはフォルカーの<炎>のような攻撃能力が無いのである。だから、被膜に覆われる大刀は離してはならない。

 その大刀は関の壁の内側に転がっている。戻って拾いに戻るべきか、と逡巡していると、宙を大刀が飛んできて、レオンの目の前の地面に突き刺さった。

「――ああ、先生、すまない」とレオンは気恥ずかしそうに大刀を掴んだ。

 フォルカーはじっと睨んだ。彼は、その大刀が生命線であると、直感して、それを奪おうとした。

(あれを奪いさえ、すれば、あとは焼き殺せる)と踏んで、彼は魔法の印を使った。

ふつう、白兵戦で魔法は詠唱時間があるので使われない。けれど、熟達すれば、詠唱を限りなく、短くすることができるので、近接戦闘の間隙に魔法を使うことは一応、理論上は可能ではある。けれど、恐ろしく難易度が高い。なぜなら、ただでさえ、詠唱を短くすることが技術的に難しいうえに、それを近接戦闘における疲労と緊張のなかで、遂行しなくてはならず、生半可な仕事ではないのである。

 フォルカーは、ためらわない。そうとう、自信があるらしい。彼は<念動>と呼ばれる魔法を使って、レオンの持っている大刀を引っ張った。

その様子を関の壁の上から、ブルーノは見ていて、「ああ、天才め」と嘆息した。たちまち、レオンの掴んでいる大刀は強力な力学によって、宙に吹き飛んだ。レオンは手がしびれた。

 瞬間、なにをされたか悟って、後手を踏む前に、レオンは(このやろう。詐術をつかったな)とフォルカーに丸腰で襲いかかっていった。

フォルカーは吹き飛んだ大刀の行方を追うことに気を取られ、レオンの急な攻勢に及び腰になった。頬を思い切り、殴られて、よろめいたところを蹴りを喰らった。

  レオンは大刀が竜のアギトの谷底に落ちていくのを見て、(ならば、ともに落ちよ)とフォルカーに突進した。

谷淵に二人で、落下していく。フォルカーの上半身が紅葉のように燃え上がって、火の粉が宙に散って、レオンを鉄の被膜越しに焼いた。

 ――谷淵の浅瀬にレオンは頭から落ちた。案の定、無傷だったが、彼は立ちあがって、転がっている大刀を急いで拾うと、「いったい、なんだ、これは」と恐懼した。谷淵の水面に暗礁のように密かな凸凹が暗がりに見えた。とたんに、鼻のなかを突き刺すような腐乱した匂いが暴れまわって、思わず、口元をおさえた。自分が何を見ているのか、彼は理解できなかった。けれど、視覚と嗅覚は、その恐ろしい想像をなぞっていく。彼も多くの戦陣で死ぬ者を見てきたが、これは、その経験の埒外の残酷だった。この世に対する慷慨すらなく、ただ恐ろしいと彼は思った。

「――行軍は遅々として進まなかった。妊婦や足弱の者を多く連れていたからだ。投げ捨てろ、と命じたのは私だ。逃げも隠れもせん。わたしは外道だ、外道」と足元の水面を焼き払い、水の沸騰する悲鳴のような音の上をフォルカーは歩いてきた。

「……あんたは、もう人じゃない。獣にも劣る」レオンは冷淡に憤った。

「ハーフの鼠をいくら殺そうとなんでもない」

 悪とはこれほど大きく育つのかとレオンは静謐なフォルカーの声色に震えた。殺意の中に、ぬぐいがたく、恐れがあった。

「この野郎。殺してくれる」レオンは大刀を振り下ろした。空気の戦慄きが、フォルカーの足元から湧き上がる水蒸気をかき消した。ふたりとも、<王家の血>の力を乗りこなし始めて、先ほどまでのちぐはぐさは無くなった。

 谷の壁、水面、地面がどこにあるのか、次元が移り行く。走れば、景色は残像の様に消え失せて、剣を振れば、突風が吹く。

フォルカーは、どういう身体の動きに呼応して、<炎>が発生するのか、おおよそ、その摂理を掴んだ。

(魔法の詠唱とあまり変わらない)。

 彼は掌をレオンの方へ向けた。まず、耳を塞ぎたくなるほどの爆音が鳴って、あたり一面、爆炎が広がった。無辜なハーフの腐乱死体が焼ける匂いで、レオンは発狂しそうになった。

「荼毘だ。はっはっは」とフォルカーがかかと笑った。レオンは直撃は避けたが、体の大部分に大やけどを負った。もはや、火傷していない部分を探す方が難しいほどである。

 一瞬、彼はよろめいたが、むしろ、その眩暈に発奮して「……いいだろう。俺は、あんたを殺すために生まれたらしい」と大刀を強く握りなおした。

「――すべては、死の龍を呼ぶためだ。……<歴史家>は、この程度の犠牲をいとわない」

「そんな迷信のために、このような残虐をやったというのか」

「迷信?」

 フォルカーは、彼の言葉に引っ掛かった。

(ああ、そうか。こいつは何も知らないのか)とフォルカーは合点がいって、嘲るように哄笑した。

「この世間知らずが。先生に何も、知らされぬまま、ただ、私憤に走って、わたしを殺しに来たのか」

「なんだと、意味がまったくわからんぞ」

「じゃあ、教えてやろう。死の龍はほんとうに実在する。そして、わたしは、その龍を信仰する<歴史家>と呼ばれる組織に属している」

「いや、そんな世迷言は信じぬ」とレオンは頑として首を振った。

「もう一つ、いいことを教えてやる。貴様の弟も、組織に入っている」

 レオンは今度は何も言えなかった。

「貴様らは兄弟仲がわるいな。わたしは兄上の命令ならば、なんでもやるが、イグナーツは、兄であるお前の毀誉褒貶を宮中で流布しまくる始末だ」

 痛い所をつかれた。事実だからこそ、レオンは業腹だった。

「黙れ。弟の話はやめろ。不愉快だ」もういつ振り抜くとも知れない白銀の大刀が縦にフォルカーを睥睨している。

「お前は愚かなほど不器用だ。コンラートなどの薄バカのために、まじめに忠勤するとは、その力の使い出を知らないとみえる」

「いいや。今生の出世が叶わなくてもいい。だが、あんたは、ここで、俺と一緒に死んでもらう」レオンはそう言った。まさに、決死の覚悟だった。

「ハーフなどのために、そこまでするか」

「義のためにするのだ」

「……」

フォルカーは沈思した。こくりとうなづいた首が疲労で深く沈むようだった。

「義……ふるくせえな。化石のようなヤツだ。お前は変わらないな、城下で暴れまわっていた頃から」

 フォルカーはいって、無機的な笑顔を見せ、自分の体をなぞった。胸筋に無数の錬金術の印が顕れた。

 ――<爆>という意味の文字が鱗の様に、彼の前面を覆っていた。

「さっさと行け。わたしの死に場所は、ここと定まった。だが、忠告しよう。わたしの兄は一片の情もない本物の悪人だ。手強いぜ」

 フォルカーはいった。なにか別の人格が憑依したように、その声は柔和で荘厳だった。爆音とともに火柱が彼を包んで、天を衝く勢いで昇った。

「倅殿、早く上がってこい!」と呼ばれて、フォルカーの意図が解けずに、呆然自失したレオンは、一転して目を覚ました。あたり一面、火の海だった。

(フォルカーが、死んだ……)とレオンは淵から上がって、そこに続いている切り立った道の上で、煌々と燃える谷底を当惑顔で覗いていた。ハーフの御霊が悲鳴を上げるような業火の声が響き、竜のアギトの谷底全体が火鉢のように燃えて、燃えて、腐乱するばかりだった死体は灰燼と化した。

気づけば、竜のアギトの底から曇り空を仰いでいた。鉄の被膜が剥げて、<王家の血>の力が内部に戻っていく感覚があった。全身の節々が軋んで動かないうえに、腹のあたりが斬られたように鋭く痛んでいた。フォルカーの炎の威力は被膜越しにも伝わって、彼の顔に火傷を残していた。

ブルーノが視界に顔を出して、レオンを見下ろした。

「まだ、生きてるな」と彼はいった。レオンは、その事実を反芻しながら、焦点の合わない眼で天を見ていた。(……なんてこった。生き残っちまった)と微塵もうれしさもなかった。なんのために、妻子を捨て、官位を捨て、ここまで来たのか分からなかった。死ぬことでしか、清算できない身の上だった。彼は恥を感じた。しかも、フォルカーの行動も意味不明だった。

レオンはかすれた声で「俺は手を抜かれた……」と言った。レオンもはっきりとそれを感じていた。

 彼は勝敗に関係なく、もろとも死ぬつもりだった。それなのに、フォルカーは自死を選んだ。考えようによっては、レオンはフォルカーに命を救われたともいえる。

「先生、教えてほしい。あいつはいったい何者なんだ……」

 ブルーノはうなづいたが、「いまは養生しろ」としか言わなかった。ふと、安穏を得て、彼はため息して、(家に帰りたい)と思った。



 フォルカーは、ブレージア―城下の六行目の横丁に生まれた。宮中でも、歴史を扱う家柄だった。主に王統の歴史を著すのが仕事であるが、それは表向きの話で、実際は、死の龍の本当の歴史を受け継いでいく異端宗教の家柄だった。<歴史家>と、呼ばれた。実際、歴史家であるから、奇異には聴こえない。よく考えられた組織名だった。他国にも、同じ役職の家は多数、存在し、それらはたいてい、<歴史家>の司教座を担っている。フォルカーの家はいわゆる教皇に位置する家格だった。


 なぜ、ここまで世間に露見せずにいられたかと言えば、死の龍が世間一般のおとぎ話として理解されていたことが大きい。ただ違いは、<歴史家>は現実問題として、死の龍を理解し、市井の人間はおとぎ話と考えているところに差異がある。ならば、<歴史家>たちの死の龍に対する崇拝は妄想か、というとそうではない。魔界の歴史叙述にはある一般常識とも言うべき暗黙の了解があった。それは、国家事業としての歴史書の編纂において、死の龍については書かないというものであった。歴史家は皆、死の龍が実在したと知っていた。いや、知らざるを得なかった。ありとあらゆる、歴史の空白に、死の龍が横たわっていた。過去に居たとされる怪物を信仰するがゆえの<歴史家>なのである。


 そんな家に生まれた幼年のフォルカーは、兄のグレーゴルの才覚に隠れて、取り立てて、優れた子供とは思われていなかった。億劫で、書庫に引きこもっているような青年だった。七歳から十歳の間、ブルーノが剣術指南役についたが、彼曰く、「天来の鋭利な直感があるが、膂力に難あり」という風に言われていた。


 けれど、彼の生まれた家系は代々、ブレージア―王家の歴史叙述を専門としていたので、幼年のフォルカーは自分に戦闘能力がないことに対して、とくに焦りはなかった。


「おまえ、少しは剣がうまくなったか」


「いえ、兄上」


「本ばかり読んでも偉くなれないぞ」


「……べつに偉くなりたいわけではありません」


「そうか、俺は偉くなるために剣と読書をやっているがな」


 幼年のグレーゴルとフォルカーの性格は対照的だったが、仲は悪くなかった。グレーゴルの意地悪にフォルカーは怒ったりせず、笑っているのみだったので、めったに喧嘩にもならなかった。グレーゴルは十五になると、フォルカーを残して、中つ国の京師に越した。勉学のためだったが、グレーゴルは中つ国で、匪賊を討伐で功をなして、皇帝の懐までじりじりと入り込んだ。最初は、家柄通り、文官だったが、将軍職を得ると、頭角を現してきた。しかも、彼は古今の事柄に造詣が深く、弁舌にも長けていたので、前皇帝の目に留まって、あれよあれよという間に、出世していった。結局、グレーゴルはブレージア―には帰ってこなかった。


 フォルカーには、物書きに憂き身をやつす寂しい雑用が残るかと思われたが、グレーゴルは弟の存在をまったく忘れなかった。


けれど、情義の上で忘れなかったわけではない。帝国での自分の出世ののちに、フォルカーもブレージア―で出世していれば、強い味方になると踏んでのことだった。


形式ばった兄からの手紙を読んで、フォルカーは大笑いした。


「それでこそ、兄上である」と彼は嘯いた。この時、フォルカーは十五歳で、グレーゴルは二十歳だった。フォルカーには、激烈な兄に比べて、才気の片鱗はまだ見えなかった。この頃、ブレージア―には、不良が暴れまわっていた。若き日のレオンだった。彼は、この時、まだ十三歳だった。


 フォルカーには、一人の想い人があった。それは、まだ年若い家中の下女だった。とうぜん、貴族と下民の恋は許されないが、十五歳の彼の恋慕は炎のようだった。母屋で親に隠れて交わることすらあった。彼女への想いが大きくなるほど、引き裂かれる運命に恐れを抱いた。


 あくる日、フォルカーは彼女に連れられて、邸を抜け出して、貧民街を歩いた。


「若君、こんどはあそこへ行きましょう」と彼女は強引だった。フォルカーは連れ回されても、文句を言わなかった。むしろ、彼女の方が好きに動き回るので、フォルカーの方が、彼女のあとを探さなくてはならなかった。そして、こういった平穏のなかで、かの怪人物が現れたのである。


――そのヒューマンは、顔面に黒い戦化粧をして、コグと呼ばれる妖刀を携えていた。背丈はそれほど大きくない。茶色い肌に半透明の翡翠の虹彩が浮かんでいる。


 貧民街は、ブレージア―の城下の壁の外だった。ゆえに、その男は、雑踏のなかに、平然と立っていた。


  ブレージア―にヒューマンが侵入してきたのは、すでに周知の事実であった。が、魔界人はヒューマンを嘗め切っていた。城下にも、その壁の外にも、弛緩した空気が充溢していた。


 喧騒が、その男を取り巻いていた。まだ、だれも、その姿に、気づいていないが、フォルカーは一目見て、その男の尋常ではない気配を感じた。


「若君、はやくはやく」と彼女は先を走って行った。ふいに、その黒い鬼のような面をした男にすれ違いざま、ぶつかった。


 その顔貌がゆるやかに微笑んだ。


 フォルカーは、その時、忘れもしない言葉を聞いた。


「俺は……ギルバートだああああああっ!」


 雑踏の中に、気が狂ったみたいな声が響いて、一瞬にして、人混みは血煙になった。泥のような血肉が地面にひろがって、阿鼻叫喚がこだました。フォルカーは朱に塗れた。眼に血が入った。眼を擦ると、めのまえに、想い人の断片と思しき物体が転がっていた。


地面を無数の暗紅色の糸のようなモノがクモの巣のように這いまわっていた。その糸の群の中心に、ギルバートがいた。持っている剣が天を向いて、花弁のように刀身が割れて、放射状に糸が伸びていた。


 若き日のフォルカーは凍り付いて動けなくなった。腰が抜けていた。


ギルバートは血の海を鉄靴で瑞々しい音をたてて、歩いてきた。フォルカーの眼には、彼がとてつもなく大きく見えた。その錯覚はどんどん大きくなっていった。


ギルバートの眼中には、腰が抜けたフォルカーなど入っていなかったが、彼は自分を殺しに来ているものと身震いしていた。


 死ぬ、と半分あきらめた。自分の無力を初めて憎んだ。妖刀コグの一撃を運よく生き延びた者たちは一目散に、四つ辻を四方へ逃げていく。


その時、その逃亡する者たちのせわしない喧騒をかき分けて、泰然と緩やかな足音が背後から近づいてきた。フォルカーは地面に座り込んだまま、首を曲げて、背後を見た。静謐に唇を結んで、無精ひげを生やした男がいた。黒衣をはだけさせ、岩肌のような胸筋が露出し、その背に身の丈ほどあるかと思われるほどの大刀を抱えている。その瞳はまっすぐ目の前のギルバートを睨んでいた。


「ガキ、はや、にげい」と男は一言、フォルカーにいった。一瞬たりとも、フォルカーの方は見なかった。彼はギルバートの悪魔的な威圧感に耐えるように、その瞳を見返していた。


 その男こそ、レオンの父親ラインハルトだった。




――彼はいのちを拾って、這う這うの体で邸に帰ると、下女と交わった母屋で慟哭した。翌日、ラインハルトが殉死しながらも、ギルバートを追い返したという英雄的な伝聞で城下は賑わっていた。その浮ついた空気のなか、フォルカーの内部で均衡が崩れた。人性と引き換えるように、フォルカーはみるみるうちに剣は熟達し、肉体も頑健になった。


 そして、齢が二十に差し掛かったころ、彼は自分の足で史跡をまわって、勉学に励んでいた。


 彼は史跡のなかで碑文の写しを取る癖があった。そのたびに、重要な事柄だけ擦れて見えないことが何度もあった。しかも、経年による劣化というより、何者かが無理やり、重要な事実を隠すように意図的に削った跡に見えた。彼は暗くてじめじめした古代の聖堂で、ほくそ笑むこともあった。


 そんな折に、彼の父親が死んだ。中つ国に訃報が飛んで、グレーゴルも参列しにブレージア―に多数の近侍を従えて、帰ってきた。ふたりの兄弟は、再会した。


十年の歳月を経て、グレーゴルはフォルカーの記憶をなぞるように成長していた。が、逆に兄のグレーゴルの眼から見ると、フォルカーは別人のように変わっていた。


「兄上、お久しぶりです」とフォルカーが言うと、グレーゴルは驚いて、フォルカーの壮健な威容を確認するように足元から顔まで二度三度、見直した。


「お前、ほんとうに我が弟か」


「さようです」


 グレーゴルは大笑いして、近侍を下げさせた。フォルカーの肩を引いて、邸の庭を歩いた。


「変わったな。すこし見ないうちに、頼もしい若人になった」


「いいえ。兄上には敵いません」とフォルカーはいった。世辞ではなかった。生来の自己顕示欲で、中つ国で出世する兄を素直に尊敬していた。ふたりはしばらく世間話をしていた。自然と、中つ国の英雄豪傑に話が及んで、ふいにフォルカーは「そやつらは、ギルバートを殺せますか」と聞いた。


「いいや」グレーゴルは間髪入れなかった。


「では、つぎの戦争はどうするのですか」


「さあ、ギルバートが老衰で死ぬことを願うしかあるまい」


「あれはまだ若かった」


「なに、見たのか。ギルバートを」


「この目ではっきりと見ました」


 グレーゴルは、なにが、彼を変質させたのか察した。フォルカーは沈黙した。


「……兄上、策が、というより、夢があります」


「なんだ。話してみよ」


 唐橋のうえで蓮池を見ながら、フォルカーは「死の龍を復活させます」といった。


 グレーゴルは哄笑して、フォルカーの肩をたたいて「俺もそれを言いに来たのだ。親父の葬式はどうでもよかった」と言った。


「だが、まだ早い。フォルカー、お前はブレージア―で出世しろ。宰相まで登って見せろ。話はそのあとだ」




 また十年の歳月が過ぎて、フォルカーは宰相にまで成りあがった。多くの匪賊の死体の上に得た血まみれの官位だった。すでに双眸はまともな光を帯びていなかった。彼は三十に差し掛かっても、伴侶を得なかった。多くの縁談が舞い込んだが、断り続けた。ギルバートに殺された下女があたまに呪縛されていた。


 この頃ぐらいから、フォルカーはいよいよと腹を据えていた。グレーゴルは隠密を組織化していた。その隠密は非公式にグレーゴルからの手紙を寄こした。この時、ふたりの間では、ハーフ大虐殺の構想は固まり始めていた。フォルカーの書斎には各地で取ってきた古代の聖堂の写しが並んでいた。<歴史家>は死の龍を信仰しているが、その復活を画策したことはない。なぜなら、画策した者は謎の勢力によって、殺されているからである。フォルカーは、その影の勢力に勘づいていた。おそらく、碑文の重要事項を消していたものたちに違いないと踏んでいた。


 ブレージア―の宰相となってから、三回、殺されかけた。路傍や夜陰の影にまぎれて、命を突け狙っている者がいる。怖くはなかった。実際、暗殺を三回、回避している。フォルカーはすでに壊れていた。暗殺されかけても、宮中になにも報告しなかったし、護衛も付けなかった。フォルカーはずっと張り詰めて、目つきも獣のようだった。




「――こいつ、怖くねえのかよ。死ぬのが」とヴィーは夜陰に潜み、屋根の棟木に座り込んで、嘯いた。


「手強いだろう。あれは」とブルーノが言った。ふたりは暗夜の屋根で並んで、フォルカーの帰路を睨んでいた。フォルカーの歩く辻から辻へは灯篭が光って、ブルーノとヴィーが隠れている屋根の暗黒と対照をなしていた。


「<剣>に頼むしかないと思うよ」とヴィーはあきらめ半分にいった。


「いや。いまは誰も手が空いてない」


「ぜったい、むりだって。あいつ、<王家の血>も持ってるんでしょ」


「もう少し、粘ってくれ。なんとか、内部情報を探らにゃあいかん」


「そのまえにぶっ殺されるって」


「分担だ。片方はフォルカー、片方はグレーゴル麾下の隠密集団。お前には楽な方を譲ったつもりだがな」


「まあ、それでも、いやだけどね。あんな目つきしたヤツ」


「あとは任せろ。当てがある」


「なんですか、それは」


「ずっと研いでいた<剣>がいるんだ。そいつにやらせる」


「ふうん」ヴィーは夜風に吹かれていた。長嘆して、ブルーノに愚痴るように「ね、もう、私たちの敗けなんじゃないすか」と言った。ブルーノは否定しなかった。


「時期がわるかった。大師と、アレクセイ殿はもうご高齢だし、いまは<盾>も若いのばかりだ。血の入れ替えの時期に重なって、グレーゴルとフォルカーという大悪を迎えてしまった。だが、まだ、やりようはある」


「まあ、頑張りますよ」とヴィーはため息まじりにいった。


「いい子だ」


「ねえ、私も<剣>と組んでもいい頃合じゃないの」


「それはヤオ大師に相談しろ」


「もう聞きましたよ。だめだって」


「じゃあ、まだ、だめってことだな」


「ねえ、先生もなんとか口添えしてよ。もう二十だよ、わたしも」


「なぜ、だめと言われた?」


「……感情に流されるってさ」


「では、修行不足ということだ。原因ははっきりしてるな。精進、精進」


 ヴィーはべそをかいた。ブルーノは笑った。(これは才能だ。いつ死ぬともしれない身でも、平然としている)と彼はヴィーに感心していた。




――大胆にも、ヴィーは翌日、フォルカーの邸に忍び込んだ。蓮池は苔だらけで、庭の植物は繁茂し過ぎて、道の敷石を覆っていた。広大な邸に、住んでいるのはフォルカーただひとりだった。ヴィーは身震いした。


(人の住んでいる家の気配じゃない)と思った。彼女はフォルカーの書斎を探して、邸内を歩いた。人の気がないわりに、整然としている。床の板木が歩くたびに軋んだ。そこには、忍び込む側に無上の恐怖を与える静謐がある。彼女は、怖くなった。けれど、決まってそういう時は、自分の方が幽霊だと思うことにしている。


彼女はフォルカーの書斎を探り当てた。


 机の上に、煩雑に<死の龍>の碑文の写しが転がっていた。ヴィーは、その碑文の内容を全部、知っていた。けれど、この魔界の聖堂の断片的に散らばった碑文は重要項目が抹消されているはずだった。フォルカーに先回りして、碑文を削り取ったのはブルーノだった。


重要項目と言っても、そのほとんどが、民謡になっていたり、おとぎ話になっていたりするので、今更、隠しても何も意味はないと彼女は思っていたが、ブルーノが恐れたのは、死の龍のほんとうの召喚方法がフォルカーに露見することだった。巷では、仙人が死の龍の背に乗って現れるとか、帝都を取り囲む要害の岩盤を突き破って天に昇るとか言われているが、じっさい、何を契機に死の龍が呼ばれるのかはあまり知られていない。各地に散らばった石碑には、死の龍を呼ぶ方法が劇的な壁画とともに書かれている。が、そこにも無数のダミーがあって、にぎにぎしいおとぎ話の様相を呈している。これでは、正式な召喚方法を知るのは難しいと思われたが、それでもブルーノは畏れた。儀式には十万の死体が必要だった。


 もし、碑文にこのことが記されていたら、フォルカーは気づいたに違いない。なぜなら、彼は、帝都の岩盤の下には、太古の白骨が無数に埋まっているのを、好古家ゆえに知っているからである。じっさい、フォルカーはすぐ、帝都の周りの塚に埋まっている古代の白骨と、碑文の奇妙な符節に気づいた。しかも、フォルカーは幼年のころに、もうすでに悪魔的な分析能力を発揮して、帝都に散らばる塚の遺骸を死の龍のための供物だと直感していた。


 


 ――ヴィーは彼の書斎で、折り重なった碑文の写しを眺めた。フォルカーは空欄を、埋めていた。おそらく、想像によって埋めたものと思われた。


(むう。正解)と彼女は恐懼しながらも、感心せざるを得なかった。書斎は丸窓が塞いであって、暗かった。彼女は燭台の蝋燭に火を点けた。


 柔らかな光に照らされて、彼女は膝が震えた。壁一面に、ギルバートの素描が張り巡らされて、さながら図鑑の様に彼の性格や特性などのしさいな分析が添えられている。ギルバートに対して、過小評価する点など微塵も見られない。それは呪詛の言葉が書きなぐられているより、深遠な憎しみを思わせた。


 ふと、壁に山川の要害が強調された地図を見つけて、彼女は奇妙に思って、目を凝らした。地図には番号が振ってあった。彼女はすぐに、ハーフの街の番号だと気づいて、寒気がした。


(いったいなにをする気だ?)と思って、その点描の意図を彼女は食い入るように見つめながら、考えた。バツ印の横に、見覚えのある徴があって、その時になって、彼女は理解した。


「うそだ。やめて……」と思わず、ひとりごちた。


印は古代語で<ゴーレム>と書いてあった。地図上のバツ印は、ハーフの街の交通の要衝に張り巡らされてあって、ハーフの番号の下には、人口と非戦闘員と戦闘員の数まで、計上されて書かれている。彼女はその紙を懐に入れようとした。その瞬間、紙は異様な光を発した。太陽を見続けたような眩しさが目を焼いた。思わず、ヴィーは眼を押さえた。瞼に<爆>という残像がちらついた。フォルカーの書斎は爆炎をあげて、吹き飛んだ。彼女は丸窓の障子をやぶって、邸から飛び出した。背に熱風を感じた。庭の木にさかさまにぶつかった。即座に受け身を取って、あたりを見回した。物々しい雑踏が邸内に響いている。


「はっ……」彼女は飛び上がって廂に手をかけて、屋根に登った。(あ……)と彼女は足が止まった。震える暇すらない。自分がこうして逃げようとするのを前もって知っていたように、フォルカーは屋根の棟木に腰かけて、待っていた。老獪な猛禽のようにヴィーを一瞥して、ため息をした。彼は疲れた眼をしていた。その充血した眼に、彼の本気を見て、ヴィーはより一層、生き残って、この巨悪を防がねばならないと思った。もはや、非人道的であるとかいう誹りは無意味だった。彼女は黙って、フォルカーをにらんだ。


「――君らのことはよく知らんが、歴史の影に隠れる先人に会えたのは光栄なことである。しかし、年頃の女とは思わなかった」フォルカーは腰をあげて、佩剣に手をかけた。その異様は、幽遠の境地に入っていた。女ぐらいためらわず、殺せるという目つきだった。


 逆立ちしても勝てない、と彼女は察知した。背を向けて、逃げた。屋根から屋根へ奔った。


「あっ! いたぞ。奸賊だっ!」と邸の庭を探し回っていた兵卒たちに気づかれた。だが、関係ない。追っ手は最初から一人しかいないに等しかった。


 フォルカーは、屋根を蹴って、逃げる彼女の背後まで迫った。彼が走るたびに、屋根瓦が剥げた。


「やっべえ」と彼女は思わず、漏らした。


 すると、彼女の脊髄は錬磨された記憶を揺り起こした。ヴィーは宙に手をあげた。その掌から、白い旋風が吹いて、その勢いに押されて、彼女は下方に向かって吹っ飛んだ。その際、追っ手の白刃が彼女の衣を掠めた。


 彼女は地面に腕と足の四本でクモみたいに着地した。顔をあげ、宙を見ると、残された追っ手は白刃を振りかぶったので、宙でバランスを崩している。


機を見るに敏な彼女は、反撃と思って、向かって行こうとした。


 しかし、宙に浮いて、統御を失った態で、追っ手の吸血鬼の赤い眼玉はぎょろりと、彼女を睨んだ。彼女も同じ赤い瞳で見返すと、(こいつ、やっぱり、やべえ)と思って、城下の壁の方へ踵を返した。ヴィーが壁を越え、楼台から、近くの疎林に飛んでいくのを、フォルカーは残念そうに見ていた。


「反撃に来たら、殺してやったのに……ざんねん」彼は嘯いた。土塀の上で、市井の眼を集めていると、彼は「は、は、は」と気恥ずかしそうに、そこから降りた。


「いやに足が早い奴だ」とヴィーの逃避行に追いつけなかった、兵卒たちが自嘲気味に言った。


「あいつは宰相殿の邸でなにをやっておったのだろう」ともう一人が言った。


 フォルカーは長嘆して「気づかれた。だが、気づこうと、もう遅い」と言った。(残念だ。もっと強い奴だったなら)と彼は思った。


 フォルカーは何を考えているのか自分でもよく分からなかった。彼は強靭だった。水一滴、漏らさず、大虐殺を行う準備を整えたが、ここにきて、彼自身気づかないうちに、閾値が超え始めたらしい。けれど、後悔するような安っぽい人物ではない。(逃げるなよ。さっさと、俺を……)。結局、彼はヴィーをわざと逃がしていた。


 フォルカーは憮然と、踵をかえして、来た道を帰ろうとした。兵卒たちは、てっきりフォルカーが自分たちの不手際に怒っているものと思って、ばつが悪そうにしていた。城下の昼下がりは、まだ安穏としている。ふと、彼は、目のまえの少女と母親と向かい合って、心底、緊張した。ぎこちなく歩く少女の手を母親が大事そうに握っている。平和の象徴のような光景だった。フォルカーは、その無垢な丸顔に自分の道徳を照らされたような気がして心臓が震えた。四つ辻の邂逅だった。フォルカーが出くわしたのは、彼にとって、命の恩人であるラインハルトの孫にして、剣公レオンの娘エーデルガルトだった。戦争から十年以上の歳月は経過しているが、その尊敬は色あせないどころか、この外道の計画に手を付け始めてから、大きくなった。フォルカーにとって、レオンの父親ラインハルトは、神だった。けれど、彼のしようとしているのは、その神に対する冒涜行為である。フォルカーは小さくなっていくエーデルガルトの背中を食い入るように見つめていた。彼はその時、自分の死期を悟った。というより、死にたいと思った。彼の<王家の血>の系統は炎である。まさに、地獄の業火で焼け死にたいと思った。


 ――フォルカーは竜のアギトに死んだ。みずからが作った骸が腐乱していく前に焼き尽くして、錬金術の印を自分に使い、自爆した。彼は最初からレオンとまともに戦うつもりはなかったし、そもそも、レオンのことを尊敬していた。彼は父親のラインハルトと瓜二つだったから、その似姿からの天誅なら納得がいった。


「……」地獄のような熱さにも、声を漏らさなかった。こころの平穏が刻一刻と迫っているのを感じた。業火の焼け付く痛みが増せば増すほど、気が逸った。その拍子に食いしばった歯が折れた。彼の三十年の人生は終わった。だれも、その実像を知らない。孤独で薄幸な十五年と、その残り滓みたいな十五年の余生だった。




「――あいつとは家が近かった。俺は本が苦手だったから、よく教えを乞いに行ったものだ」


 レオンは関所の邸に戻って、筵の上で寝ていた。ブルーノから痛み止めを処方されたが、頭が酩酊したように気分がよくなって、レオンは病人にしては口数が多かった。彼はフォルカーの行動が解せなくて、まったく安閑と眠る気が起きないらしい。ぽつぽつと、ブルーノに、フォルカーとの幼いころの交わりを話し始めた。


「――若君と倅殿を引き合わせたのは私だったな」


「……ああ、先生が、フォルカーを連れてきたとき、俺はあいつを病人だと思った。心根が穏やかだったのが、どうしてこうまで変貌するのか。俺にはわからん」


 ブルーノは腕組みして、黙然と聞いていた。フォルカーの剣術指南役をやっていた彼にも、分からなかった。


(フォルカーとはいったい何者だったのか……)とレオンとブルーノは黙考した。外では寒々とした雨が降っていた。


ふと、レオンは、邸の天井をつまらなそうに見つめて、「帰りてえ」と嘯いた。


「いまは休め。休んだら、一度、娘と嫁の顔を見にいこうじゃないか」


「なんて言って謝ればいいのだ、先生」


「謝る必要はない。お前の火傷だらけの顔を見れば、察してくれるとも」


「そんな酷いか。俺の顔は」レオンは掌で自分の頬を撫でた。


「いいや。立派に闘った者の顔にほかならない」


 レオンはその言葉を聞いて、やっと安堵して眠りについた。巨大ないびきが寒空の下に響いていた。ブルーノはレオンのいびきを聞きながら、邸の天井を仰いだ。


(だめだ。だめだ。フォルカーは悪人。地獄に焼かれるのは必然。だが……それでも、一片でも哀れに思ってしまう自分がいる。ああ、地獄だ、地獄)とブルーノは懊悩した。








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