龍闘虎争

 空はまだらな雲り空になった。湿気が匂う。

雨が降る、とホウロウは思った。街道には雨をしのぐ場所はない。ホウロウには雨風ぐらいなんでもないが、背中にくっついている少女には、この冬前の風雨はこたえると思われた。

「おい」と背に張り付いている小さな旅の道連れに投げ掛けた。

「はい、なんでしょう。ホウロウ様」

「寒くないか」

「……ええ、大丈夫です」エーデルガルトはそういった。けれど、その体のやわらかな足先や手先は、寒くて、千切れそうだった。城下の邸は暖房でどの季節でも温かったので、初めて、経験する野生の寒気が肌に突き刺さるようだった。ホウロウは、少女と体の重なった場所が身震いしているのを感じていた。

「嘘つくな」と彼は言った。それに対して、エーデルガルトは気丈に「嘘じゃありません」と言い返した。

 反駁されて、ホウロウは意地悪く「雨が降るぞ」と言った。

「……こうして、くっついておりますから寒くありません」エーデルガルトの細い腕の締め付けが強くなった。

「風邪ひいても知らんぞ。ガキなんだから、正直になれよ」

「でも、貴方様が服も着ずにわたくしを背負って、歩いてくれてますのに、寒いなどとは言ってられませんわ」

「やっぱり、寒いんだろ。雨風をしのぐ場所を探そう」

 エーデルガルトは不服そうに唇を結んで、黙った。その大きな体に背負われながら、ひそかに自分の脆弱を恨んでいた。

「――お、人里か」

 ふと、ホウロウは、街道から枝分かれする間道を見つけた。あぜ道だった。坂を下がって、間道は藪のなかに続いていた。彼はその道をなぞるように歩いた。でかい図体を、灌木に遮られながらも、進んだ。

 すると、小動物のような足音を聞いて、立ち止まると、目のまえに、腰が曲がった吸血鬼の老婆がいた。老婆は虚ろな瞳で、ホウロウの面を見た。

(俺が怖くないのか。この婆さん)とホウロウは不気味に思って、すぐには口をきけなかった。その老婆は薪を拾っていた。ちょうど、真下の薪を拾う瞬間に、ホウロウに気づいたと見え、腰をかがめた状態で固まっていた。

 老婆はじろとホウロウの顔を監察していた。すると、その肩から、ひょっこりと、エーデルガルトが顔を出したので、目を丸くした。

「人さらいかえ、あんた?」しわがれた声で老婆がいった。ハーフの巨漢が吸血鬼の少女を背負っていたら、そう思うのが道理だと思って、ホウロウはとくに怒らなかった。

「いいや。もうすぐ、雨が降ると思って、このガキが風邪ひくといけねえから、雨宿りできる場所を探そうと思っただけだ」

 彼には自己の潔白を弁明するような調子がない。ただ、正直に言葉を紡いだ。

「ほっほっほ。ふしぎなご時世だねえ」と老婆は笑った。

「失礼。ご婦人。貴女は、トルンの住民の方でしょうか?」とエーデルガルトが言った。

「んにゃ。ここは炭火焼き職人の仮住まいだよ。もっとも、もう私しか住んでないがね。トルンはもう少し先だよ」

 ごうごうと曇り空が唸りをあげた。ホウロウは天を仰いで、真っ黒い鱗のような雲を見た。

「ご老人。一時でいいから、雨宿りだけさせてくれないか」

「ほっほっほ。ついてきなされ」

 老婆の小さな背についていくと、半分地面に埋まった原始的な住居がいくつも、キノコのように並んで立っていた。その貧相な様をみて、ホウロウは自分の生まれたハーフの二十四番町を思いだした。(吸血鬼は、皆、裕福なわけではないらしい)と意外な感に打たれた。

 入り口の簾をよけて、老婆は暗闇のなかに入っていった。ついていくと、狭い住戸内の真ん中に、焚火の残滓があって、老婆が指を鳴らすと、また、ぼうと火がついて、燃えた。

「すまない」とホウロウは言って、暗がりに敷かれたぼろぼろの筵の上に座った。エーデルガルトはちょこんとホウロウの横に座った。老婆はじろと、カエルのような目つきで、ふたりを見た。とくにエーデルガルトの方を不審そうに見ていた。老婆はエーデルガルトの腫れあがって紫になった足指を見て、合点が言った様子で頷いた。(土民の足ではねえな)と思ったらしい。

「お嬢さん。どこの生まれだい?」と老婆が聞いた。

「城下の五行目です」

「名家の出だね。御父上は?」

「王室護衛官レオン公でございます」

「え、剣公っ!?」老婆はのけ反って、手を付こうとした。

「あ、ご婦人。おやめください」エーデルガルトは焦って、言った。それでも、老婆は「ああ、長生きするものじゃて」と頭を深々と下げた。

 ホウロウは不思議そうに、そのやり取りを眺めながら(こいつは、そんなすごい家柄なのか)と少女のことを見直していた。

「失礼ながら、そのお顔の怪我は?」と老婆が問うた。エーデルガルトは自分の顔を触って、(そういえば、そうだった)と思った。けれど、何か言うのがはばかられて、彼女はホウロウの顔色を窺った。

エーデルガルトは(なんと、説明したら、いいんだろう)と迷った。端的に説明すれば、たちまち、ホウロウを悪者にしそうだし、仔細を話せば、話が枝葉まで及んで、どう言ったものかわからない。ホウロウは、迷っているエーデルガルトに対して、(いらん、気遣いだ)と思って、いつもの調子で、正直に話そうと口を開きかけた。

すると、エーデルガルトは「あっ。う、生まれつきです。幼い時分に、患った流行り病のせいです」と早口でいった。

 今度は逆に老婆の方が焦りだして、「申し訳ない。老人のヘンな勘繰りでした。年とると、いらない話ばっかりするもんで」と謝った。

「いえ、よく聞かれることですわ」とエーデルガルトは慇懃に笑った。ホウロウは、(小賢しい嘘つきやがって)とエーデルガルトを睨むんだ。彼女は薄笑いを浮かべて、目顔をつかった。

(これで、いいですわね)と言いたげな無邪気な顔だった。

 気づけば、小さな竪穴の天井は雨粒にうたれていた。いつやむとも知れない大雨だった。自然の暴風の外界と、焚火の音が蕭条、鳴っているだけの住戸内だった。老婆は「お腹がすいたでしょう」と言って、焚火の上に鍋を置いて、豆を煮始めた。ホウロウもエーデルガルトも丸一日、何も食べていなかった。エーデルガルトは唾を飲み込んだ。

 ホウロウは、つかのま、張りつめたこころが、休まるのを感じた。同時に、それを嫌って、反動的にこわばった。

(まだ、流血が続く。安穏としては駄目だ)と自分に言い聞かせた。

 ふと、大雨の風流のなかに、ふしんな物音を感じて、ホウロウは長耳をぴくりとうごかした。自分の鋭敏を恐ろしいとさえ思った。また、その気持ちのまったく萎えていないのを自賛した。

「お静かにっ」と老婆が言った。強迫的な瞳が輝いて、エーデルガルトは寒気がした。

ホウロウは(外に、ハーフの賊がいるな)と気づいていた。

 ふらりと、立ち上がると、「ご老体。俺が見てくるから、このガキを頼んだ」と言って簾をよけて、雨の打ちつける灰色の外界へと出ていった。老婆は、その背中を意外そうに見つめていた。(はて、匪賊とはハーフのことじゃが。同族と殺し合うというのかえ)と老婆は思った。


雨水の灰色のなかに、「おい、ここは、もうすでに、荒らされているぞ」と奔放な声が聴こえる。飢えているらしく、声に野蛮な棘がある。

「あ、ほんとうだ。ちきしょう」

「しょうがない。とりあえず雨をしのぐ場所を探そう」

 鉈と斧を持っている二人組のハーフだった。ぼろぼろの刀身についた血餅が雨に溶けて、赤黒い液体になっている。

「いや、まだ、人の気があるぞ。これは」と一人がいった。ふと、泥濘を踏みしめて、近づいてくる影に気づいて、ふたりは振り返った。


「なんだ。お前らは……」と峻厳な声音がひびいた。

 泥濘の水たまりに巨大な影が映っていた。ホウロウは泰然と雨にうたれて立っていた。

「あ……」ハーフの二人は類まれな巨漢に手に持った得物も忘れて、浮足立った。が、ホウロウの長耳に気づくと、妙に安堵したようすで「なんだい。お前さんも、生き残ったハーフか」といった。

 続けて、「お前さんも、匪賊の軍に入ろうって肚だろう。ちがうか?」と馴れ馴れしく聞いてきた。

「匪賊の軍とは、いったい、なんだ?」

「いま、俺らのようなハーフの宿無しを集めて、急拡大していると噂の賊の集団さ」

 ホウロウはそれを聞いて(もう、そんなに噂になっているのか)と風聞の恐ろしさを感じた。テムは、「目的地がある」と言って、皆をブレージア―の端まで引き連れてきた。その折に、「その辺の根無し草を吸収する。この軍団はいまに大きくなるぞ。はっはっは」としきりに語っていた。

(あいつの言った通りだ。あの狼の群れはどこまで大きくなるのか)とホウロウは寒気がした。

「……その斧についている血は誰のだ?」ホウロウは、静謐な声色で問いかけた。

 ハーフの男は自分の斧の刃渡りをながめて「これか。吸血鬼だよ。街道を歩いていたのを、背後から斬り殺してやった」と自らの残酷を自慢するような物言いだった。

「あんたも、来ないか。見たところ、強そうだし、すぐに上に取り立ててもらえるかも知らんぜ」ともう一人が言った。

 ホウロウはかぶりを振った。ただ、一言、「失せろ」と言い放った。

「え、そりゃあ、ないだろう。この地獄を生き延びて、ハーフ同士、巡り合ったんじゃないか。おそらく、天啓だぜ、これは」

「そうだ、そうだ。吸血鬼は俺らの生活と家族を破壊して、のうのう生きている。こんなことは許されない。……あんた、家族は?」

 何か悦に入ったような口ぶりで、言われて、ホウロウは腹が立った。

「失せろっ! 殺すぞ」と一喝した。赫怒した叫びが雨雲すら吹き飛ばすかと思われた。

巨漢の怒りにすっかりハーフの二人組はよわって、「い、いや。そんなに嫌ならいいんだ。怒るなよ。消える、消えるよ」とさっさと退散していった。ホウロウは、その背に向かって「戻ってきたら、次こそ殺すぞ」と言い放った。


 しばらく、去ったかどうか、しっかり確認するように足の音を聞いた。

「……去ったか」と戻ってくる気配も一応ないと見て、ホウロウは踵をかえした。すると、ぼろぼろの住居跡の陰に妙な石が並んでいるのに気づいた。

 妙に思って、近づいた。

 盛り土の上に石が敷き詰められている。その頂点に一本の棒が刺さっていて、そこに立てかけるように、櫛や子供のおもちゃが置かれていた。真新しい急ごしらえの墓地だった。

 彼はおそるおそる、キノコのように並んだ竪穴の住居内を覗いた。

中は、血まみれだった。壁にまで血肉が飛び散っていた。血だまりが引き伸ばされて、ホウロウの足元まで続いていた。床に折れた刃物の先が突き刺さっていて、刺さった切っ先に服の切れ端が絡まっている。ほかの住居内も全部、似たような有様だった。ホウロウは、ハーフの街がゴーレムに荒らされた時の光景を思い返した。

(吸血鬼どもは誤った。ハーフの平凡な一側面をみて、侮った。もしかすると、俺ぐらいの者は、相当数、いるのかもしれない。だが、ブレージア―の吸血鬼が本腰を入れたら、あの程度のネズミの集まりは、崩壊するに決まっている)。

 ホウロウは、弟分のポロのことを考えた。

(おまえ、いったい、何になる気だ。何をする気だ)。

ホウロウは雨雲を見ていた。龍の鱗のような模様を描いて、雲間から雷鳴が鳴っている。龍は雲を吐く、と聞いたことがある。

(ポロ、お前が天に昇る龍なら、俺は地を這う虎だ)と自嘲気味に思った。

「ホウロウ様?」と竪穴からエーデルガルトの呼ぶ声が聞こえて、彼は竪穴の暗闇に戻っていった。まだ、雨は止みそうにない。

「――大丈夫ですか」神妙な顔で老婆とエーデルガルトがホウロウの顔を窺った。困惑している少女と、どこか訳知り顔の老婆だった。

「ハーフの賊だ。安心しろ。追い返した。たぶん、戻ってはこない」エーデルガルトは顔が引きつっていた。おそらく、あの夜の惨劇を思い返しているのだろうと思って、ホウロウはやるせない気持ちになった。

「今夜は泊まっていきなさい」と老婆がいって、お椀を差し出した。中身は貧相な煮た豆だった。エーデルガルトは犬みたいに、豆を食べ始めた。

「でも、お邪魔でしょう?」とエーデルガルトが言った。

「いいえ。この老婆も、独りが心細かったところです。今日は、かような偉丈夫に守られていると思えば、安心して寝られますから」と老婆は、しわくちゃな手で、お椀をホウロウに差し出した。

「なぜ、独りなのか」とホウロウは聞けなかった。おそらく、家族全員、さっき見た石の下だろう、と思った。

 豆を食おうとしたところ、ホウロウはぎょっとした。

(これは……毒だな)とフラーガの形質で鋭い嗅覚によって、即座に気づいた。彼はエーデルガルトの椀を見た。彼女の椀には毒を盛られていなかった。

(俺だけに死んでほしいのか)とホウロウは理解した。けれど、ホウロウは関係なく、椀の豆を喰いきってしまった。彼に、毒は効かなかった。老婆が目を丸くして、小刻みに震えているのを、気づかないふりをして、筵の上に横になった。

 彼は怒る気にはなれなかった。自分を殺そうとしたエーデルガルトを赦したのと同じように、老婆の塗炭の苦しみと孤独を、この貧相な穴倉に想って、涙をこらえた。

 彼もさすがに疲れていたらしく、横になると、すぐに眠ってしまった。



――夜が明けて、エーデルガルトは小川で下着を洗っていた。あの惨劇の折に、失禁して、汚した下着である。ホウロウに言い出せず、黙っていたが、いよいよ気持ち悪くなって、それを老婆にそれとなく、相談すると、「近くに小川がありますから、洗濯ならそこで」とのことだったので、裸足でここまでやってきたのだった。

長閑な清流と、青々と伸びている樹木の風流を愛でていた。カワセミの声が聴こえる。枝にかけて、下着を乾かしていると、ふと、茶色い毛皮の動くのが見えた。石塊の上に、茶色い野兎が立って、彼女の方を見ていた。

「まあ、かわいらしい」とエーデルガルトは心惹かれて、あの手この手で、自分の方へ誘おうとした。けれど、警戒心が強いらしく、彼女を真っ黒い眼で見つめながら、じっと動かなかった。

 ――びゅんと、風切り音がした。小石が飛んできて、兎の側頭部に当たった。もんどりを打って、兎は浅瀬の水面に叩きつけられた。

エーデルガルトは口元を抑えて、呆然としていた。すると、ホウロウが藪の陰から現れて、困惑している裸の彼女をながめて、ふっと笑った。

「ほら、靴をもらってきてやったぞ」といって、一足の靴を彼女の足元へ放った。

 そして、ホウロウは、水面に濡れている瀕死の兎を掴むと、首の骨を折った。

「ひ、ひどいですわっ!」とエーデルガルトが言った。

「なにが」と言いながら、ホウロウは腰に紐で獲物を縛った。芋づるのようにいくつもの兎の死骸を腰に吊るしていた。

「惨いです。……やり方が」

「ちくしょうは、そんなこと気にしない」

 ホウロウはまともに取り合わず、彼女の裸をながめて「はやく、服着ろ。風邪ひくぞ」といった。

「男性はむこう向いてくださいっ」彼女はいじらしく、体を隠した。ホウロウはあきれて、彼女の貴族病に嫌気がした。

すこし、いじわるを言ってやろうと思って、「まだ、女の体じゃないだろう。隠すことはない」とからかうと、「ま、ひどい」と彼女はまた、真正直に落ち込んだ。

「さあ、戻ろう。どこに賊が潜んでいるか分からないぞ」

 ホウロウはあたりの疎林を一望した。いまや、どこにでも、賊が跳梁跋扈している。彼自身、気づいていないが、穏やかな時ほど、足の先から頭の頂点まで、張り詰めていた。

ふと、清流の流れに乗って、布の切れ端のようなのが流れてくるのが見えた。

(ン? あれは……人の死体だ)とホウロウは気づいた。上流を流れてきたと思われるが、こう離れていると、死体がハーフか吸血鬼か、わからない。

(この川の水は飲んじゃだめだな)とホウロウが思った瞬間、エーデルガルトがおもむろに両手で、河川の水をすくっているのが見えた。

 まずい、と彼は彼女の方まで走った。

「きゃっ」エーデルガルトは悲鳴をあげた。その細い腕をつかんで、ホウロウは「その水は飲むな」と止めた。

「どうしてですの?」

「死体が浮いてるのが見えた。病気になるぞ」

 エーデルガルトは怖いもの見たさで、ホウロウの脇から顔を出して水面を見回した。

「いいから、靴を履け。戻るぞ」とホウロウはそれを遮った。

「は、はい」

 

 帰り路、ホウロウとエーデルガルトの歩幅は合わなかった。彼女の遅々とした歩みに沿って、ホウロウは悶々、考える寸暇を得ていた。ちらりと、背後についてくる少女を見て、(はやく、こいつと離れたい)と思った。彼女が可愛くないわけではなかった。むしろ、純粋無垢で可愛すぎるほどだった。

けれど、彼は決死の覚悟にひびが入ることを何よりも恐れた。ポロと対決するのに、これほど、重い足枷はなかった。

「――トルンとかいう所には、身寄りがいるのか」とホウロウは聞いた。

「ええ、母方の親族がいます」

「親族は信頼できる人たちか?」

「叔母様はいい人でしたわ」

「そうか。なら、よかった」

 しこりがすとんと胸に落ちて、いよいよ、気にかけることは少なくなってきた。ホウロウの眼は心臓の鼓動を思わせる明滅を見せた。かれは、復讐は修羅の道だと悟った。たしかに、吸血鬼はハーフを嘗めている。他を甘く見ている者たちの鼻をあかすことは難しくない。ポロは<あの力>を見出しているし、吸血鬼が本気で焦るぐらいには、打撃を与えることはできるだろう。

 けれど、そのあと、あのならず者たちの居場所はどうするのか。おそらく、延々と破壊の愉楽に浸からせておかなければ、匪賊の軍団は保てない。ホウロウには、終わらない血の海が目に見えていた。

(あいつは、もう止まらない。吸血鬼どもに、止められる奴が居ないのなら、俺がやるしかない)。

 気づけば、腕を組んで、早足で歩いていた。

「ホウロウ様、もうすこし、ゆっくり歩いてくださる」と彼女が呼んでいた。彼が足を止めると、裾をあげて、彼女は走ってきた。あまり走ったことがないのか、不細工な走り方で、ホウロウは大笑いした。

 ――深遠な森の中の貧相な生活だった。ハーフの二十四番町を生きてきたホウロウから見ても、老婆の生活には奢侈的なところが見られない。服も麻のぼろ布だし、背中に兎の毛皮を羽織って、寒さを凌いでいる。

 老婆はホウロウが腰の紐帯に兎をいくつもぶら下げて戻ってきたのを見て、「ほ、ほ、ほ」としわがれた笑い声をあげた。

 兎の肉が焚火の上で踊っている。エーデルガルトは、物珍しそうに、その様を見ていた。

 ふと、老婆が丘陵になっている母屋の上をじっと見ていたので、ホウロウが「なにを見ている」と聞いた。

「ん。昨日の大雨でよく崩れてこなかったものと思ってな」と老婆は視線のさきに顎をしゃくった。

 ぼろぼろの母屋の真上の崖から大木が斜めに伸びていた。根っこが若干、露出して、いつ倒れてくるとも知れなかった。

「あれは、ぜったい、倒れてくるぞ。母屋の屋根に穴が開くぜ」

「まあ、どうせ、ボロだから」

「なら、俺が引っこ抜いてやろう」

「はっはっは。戯れを申すでない」と老婆は嘲るように笑った。

 ホウロウは腕を鳴らして、崖の壁面に飛び出ている木の根を使って、ひょいひょいと登っていった。

老婆とエーデルガルトは眼を丸くして、その背中を見ていた。

 ホウロウは崖を登りきると、木の荒い幹に抱きついて、「ふん」と声を漏らした。雨を吸って、柔くなった土が盛り上がった。彼がのけ反ると、めりめりと音をたてて、木の根がすべて露わになった。

 ホウロウは背後の藪のなかに、抜いた大木を放り投げた。手のひらを払って、躊躇なく、崖から飛び降りた。緩やかな足取りで着地すると、何事もなかったように焚火の舞えん戻ってきて、楽しそうに肉を食んだ。

 開いた口がふさがらない老婆とエーデルガルトを見て、「少し驚かせすぎたな。いや、わるかった。でも、世の中には、こういう奴もいるんだぜ」と他人事のように笑っていた。


 ――夜分、目が覚めた。ホウロウは極端に眠らない。たいてい、深夜に目を覚ます。

 林のざわめきが聞こえた。

 ホウロウは、起き上がって、あぐらをかいた。エーデルガルトはよく眠っていた。老婆のすがたが見えない。外に出ると、まだ薄暗い暁闇だった。

老婆の小さい背が見えた。墓のまえで、祈るように手を合わせていた。居たたまれなくなって、ホウロウは簾の陰に逃げるように身を隠した。

すると、「待たれよ」と呼び止められた。しわがれた声に呪いが込められているように、ホウロウは動けなかった。

 仕方なく、ため息して、体を出して、老婆のもとへ歩み寄った。

「ご老体。朝が早いな」

「年を取ると、目が覚めるのじゃ。よく眠れたか」

「ああ、久しぶりに眠れた。ここ数日、歩きっぱなしだったからな」

「あの子を背負って?」

「そうそう」

 老婆は信じられないといった目つきでホウロウのことをながめた。毒の量が足りなかったか、とその図体を見て考えていた。

「あの子の眼、あれは治癒師の業の痕が見られる。嘘をつかせたな、おぬし」と老婆はいった。

「あれはあのガキが勝手についた嘘だ。……べつに隠そうとは思わない。あいつの片目を潰したのは俺だ」

 老婆は振り返って、細い眼に敵意をみなぎらせた。話を聞く前に襲い掛かっていきそうな剣幕だった。

「仔細を話せ。異端児」

 <異端児>と言われて、ホウロウはムッとした。異端児とは、もちろん、ハーフを意味している。

「あいつが、俺の寝首を掻こうとした。それで、反射的に殴った」

「どうして、寝首を掻かれた」

「……あの子の母親は俺の親友に殺された。それで、俺を親仇と見間違えて、寝首を掻かれたわけだ。吸血鬼から見ると、俺たちはみんな、同じ見目形をしているように見えるのだろう」

「それは確かに、そうだの。だが、なにゆえ、あの子を赦す? よりにもよって、吸血鬼だぞ」

「いいや。俺はあのガキを吸血鬼と思ったことはない。ただの子供。あんたもただの婆さんだ」ホウロウはそれ以上の議論を望まないように、踵をかえした。

「我が種族はハーフに何をした?」と老婆は問いかけた。続けて、「かようなハーフの反乱は生涯、初めてのことだ。なにか、理由があるはず。息子も、義理の娘も、孫らも、いまや、墓の下の白骨だ。理由を教えいっ! おい、異端児っ!」

 ホウロウは足を止めて、ふりかえった。死んだような光のない瞳が暁闇に映った。

「暴れているハーフは生き残りだ。ほかのハーフは皆、吸血鬼に殺された。いまは、葬られる墓もない」

 彼はそういって、老婆の背後の寂寥とした墓を一瞥した。恨み節は言わなかった。妻のドマのことにも触れなかった。

「あんたの家族は残念だったな。けど、俺を恨むな。毒を盛られたのも、赦そう。もう出ていく」とホウロウは言い残して、去った。

老婆は膝から崩れ落ちた。老婆は自らの盲目を恥じ入った。毒を盛っていたのも、とっくにバレていたらしい。ハーフの大男に徳性において、敗北したと唇を噛んだ。悪く言えば、ハーフが人徳を知らないという思い込みがあった。

 吸血鬼の傲慢を老婆は知った。幾年、この事実を知らずに、平然と過ごしてきたのかと、老年ゆえの苦しみに悶えた。

老婆は毒草を食んだ。強迫的に、気づけば口に入れていた。もともと、自死を決め込んで集めた毒だった。ホウロウに使ったのは、突発的な怒りによるものであった。


 ――騒ぎを聞いて、エーデルガルトが眠い目をこすりながら、顔を出した。

「もう行くぞ」とホウロウはいった。

「え、なんですの?」

「もう、ここに用はない」

「え、それは、どういう……」

 どさりと人の倒れる音がして、ホウロウは振り返った。老婆が地面に突っ伏していた。平べったい痩せた体が、小刻みに震えていた。

「あっ! やったな、このばばあっ!」ホウロウは刹那のうちに、怒色を表して、走っていった。抱き起すと、しわくちゃの顔が青白くなって、口元から血が噴き出した。もう助からないのは明白だった。

(……この世は地獄か)とホウロウは思った。

 エーデルガルトは「ホウロウ様、何とかしてください」と彼の肩を揺らして叫んだ。

「……もう死んだ」とホウロウはいった。刺されたようにエーデルガルトは目を丸くして、固まった。その瞳は閲できる悲しみの閾値を超えて、光を失った。

「どうしてっ! どうしてですの!」と泣き縋られた。

 老婆の赤い瞳は濁った。その瞼を閉じて、ふと、老婆の家族が眠る墓をホウロウは見た。

「家族の下へ、還ったんだろう」ホウロウはそういった。そうでも考えなければ、残った者に希望はない。死人は生者に課題を残して去っていく。

「――埋めてやろう。家族の隣に」

 エーデルガルトは大泣きした。幼児に戻ったように、ずっと泣き止まなかった。ホウロウはまったく感傷を面に見せなかった。独りであったなら、涙も流していたかもしれないが、この少女のまえでは自分の弱みは見せられない気がした。手を泥で汚して、穴を掘った。

「泣いてもどうしようもねえよ」となじるように言っても、彼女は泣き止まなかった。

 埋め終わって、ホウロウは額の汗をぬぐった。朝日が林冠から差し込んでいた。

エーデルガルトは健気に老婆を埋めた小山のまえで祈るように手を合わせていた。ホウロウは真似した。

「こうですよ。左手が上です」と指摘されて、「こうか」とまた手を合わせた。

「そうです。そうです」と彼女は真っ赤に腫らした顔にやっと笑顔を浮かべた。


 ――雨は上がったが肌寒い。道の土もまだ水を吸って柔らかい。丘陵を二個越えると、歩みは遅くなった。エーデルガルトは疲れているのか、期待するようにホウロウの顔を横目に見た。彼はその視線に気づかなかった。

「もし……」

「なんだ」

「あの、もう足が痛くて」彼女はそういって、機嫌を窺うように、ホウロウの顔を見上げた。

「おまえ、少し図々しくなったな」

「そんな」彼女は肩を落とした。先ほどから、しきりに、膝に手を付いているし、疲れているのは本当だった。

(しょうがねえお嬢だなあ)とホウロウはあたりを見回して、「まあ、いいだろう。靴は俺が持ってやるから」と屈んだ。彼女がつらそうにしているので、結局、負けて背を差し出した。が、百鬼夜行の気配がする疎林を前に、こうも無防備を晒すことを本能的に、ホウロウは嫌がった。しぜん、瞳は右往左往し、耳は鋭敏に、あたりの鳥の声すら漏らさず聴いている

そうとは知らず、「そういえば、ホウロウ様には家族はいますの?」と背中越しにエーデルガルトが聞いた。厄介な質問だった。が、ある意味、この傍若無人な少女は聞いてきそうなことだと思ってもいた。

(家族など、もういない)とホウロウは自虐的に思った。エーデルガルトはハーフの虐殺を知らない。いや、彼も、この旅路で気づいてきたことだが、吸血鬼の市井の間には、ハーフが虐殺されたことは、まだ、知られていないらしかった。

「家族……」彼は親の顔を知らなかった。家族と言えたのは、ドマとポロとテムぐらいなものだった。

「ホウロウ様?」不意にホウロウは呼びかけられて、我に返った。

「……弟がいる」家族はいない、と言えず、思わず、そういった。よりにもよって、反射的に口から出てきたのは、背中におんぶしている少女の母親を殺した男である。ホウロウは怖気がした。

「弟君だけですか? ご両親は?」

「親の顔なんて見たことない」

「まあ。もしかしたら、貴方様は人の子じゃないのかもしれませんわね。だって、普通は、木をひとりで引っこ抜けるはずがありませんもの」

 ホウロウは少女の説に笑った。彼女が本気で言っているのが、より可笑しかった。すると、急に彼女はしおらしくなって、背に頬を付けて「トルンに着いたら、お別れですの」と呟いた。

「ん、ああ。そうだな」

「わたし、もっと、貴方様のことが知りたいですわ」

 彼女は自分の情緒がまったくわからなくなって、ふいに頬を濡らした。ホウロウは少女が何を言っているのか理解できずに、「あ?」と聞き返した。

「……わたし、貴方が好きです」少女は自分で重大なことを言っている自覚があまりなかった。ふだんの遊び相手は同世代の貴族の女の子か、乳母ばかりだったので、男に対する目覚めを経験していなかった。それに対する甘酸っぱい廉恥を感じる心性も、まだ、十分に涵養されていなかった。

 それはあまりに自然だったので、ホウロウは一瞬、聞き流した。

 事後的に(ン……?)と思って、「は?」と困惑して首を曲げて振りむいた。

「いま、なんていった?」

「あなたがすき」

「……ううむ」

 冷気をまとった突風が山脈から吹いてくる。鼻腔内が冷気を吸って痛い。ホウロウは茫洋と屹立している霊峰をながめた。あの遥か先には、ヒューマンの領域があるらしい。

(すごいところまで来たもんだ)と彼は思った。つい、この間まで、砂塵が舞う貧相な街の一室で、その一生を終えると思っていた。それが、なぜか、こんなブレージア―のはずれを吸血鬼の少女を負んぶして歩いている。

 天運は気まぐれらしい。白い山肌は、この一帯の空気が澄んでいるため、霧がなく明瞭に見える。

(キレイだ)と彼は思った。けれど、越えてきた丘陵の上では、いくども目に映った景色のはずだったが、いまのいままで気づかず歩いていた。彼も疲れていた。肉体的ではなく、精神的な疲労だった。

 ふと、つかの間の平穏に身をゆだねていると、乾いた空気の匂いのなかに、何とも言えない焦げた匂いがした。

 彼の瞳は一挙にあたりを鋭い眼光で見回した。反射的に、敵を探したのである。

「なんだ。この匂いは」と嘯いた。背中から、ひょいと顔を出して「あ、この道は覚えておりますわ」とエーデルガルトがいった。

「なら、もう近いか。トルンとやらは」

「ええ、たぶん」と名残惜しそうにいう彼女を尻目にホウロウは、このふしんな匂いとトルンがもう近いという嫌な符節に強い不安を感じた。じつは、藪が覆っているので、ふたりには見えなかったのだが、トルンは目の前だった。

「おろすぞ」とホウロウは屈んだ。

「え、どうしてですの」

「いいから、はやくおりろ」とにべもなく、地面に一足の靴を置いて、そこに彼女をおろした。

 ホウロウは一歩、二歩と、慎重に進んだ。急に、霧が晴れたように疎林や藪は消え失せて、壁に囲まれた小高い丘が見えた。

エーデルガルトはトルンを記憶のなかに描いていた。トルンの周りは樹木が伐られ、草原のうえに石畳があって、壁の門楼まで続いていた。母親に手を引かれて歩いた道だった。

「……」

 けれど、今日、見る目の前のトルンの門楼の前にはいつしかの風流は微塵も感じられない。冬前にも、青々としていた草花の絨毯は黒焦げで見る影もない。

見れば、壁の向こうにも黒煙が上っていくのが見えた。

「ホウロウ様、これはいったい」当惑する彼女をホウロウは不意に抱きかかえた。

「目を瞑れ。絶対に、目を開けるなよ」ホウロウは彼女の瞳を覗きこんで言い聞かせた。

 あたりに立ち込めている焦げた匂いは草花の焼けた匂いではない。

(人の焼けた匂いだ)とホウロウはすぐに、その遺骸を見る前に感得していた。草花が焦げて、剥げた地面には、見せしめのように黒くなった性別すら怪しい焼死体が無数に転がっていた。

 エーデルガルトは言われたとおり目を瞑っていたが、結局、好奇心に絆されて、一瞬、薄目を開けた。

 ホウロウの肩越しに、その焼死体が地面に杭で突き刺されているのが見えた。似たような惨い焼死体が道の左右に突き刺されて、並んでいた。呪詛の言葉を叫んで、停止したような真っ黒い顔がこちらを見ていた。

「あ、あ、あ」とエーデルガルトは漏らした。叫び声をあげる寸前で、ホウロウは、その口を押えた。

 そのまま、疎林の中に音もなく飛んで身を隠した。

藪の陰からホウロウは望楼を覗いた。おそらく、所作から察するに見張りだった。

「目を開けるなといっただろ、バカ」とホウロウは木の陰に彼女を置いた。今度も彼女が泣きじゃくるものとホウロウは思って、彼女の面を見ていた。けれど、彼女は口を開けたまま、呆然としていた。思えば、この少女はここ数日で、地獄を閲してきた。もう心の閾値が超えていもおかしくなかった。

「あ、あれはいったいなんですの。あの黒いの……」

「……忘れろ」

「ホウロウ様、いったい、あれはなんですの」そう繰り返して、彼女はホウロウに縋りついた。彼は言うべき言葉を知らなかった。なにしろ、彼自身も当惑して、失望の底に落ちていた。

(ポロ、ついにやりやがったな。もうおわりだ)。ホウロウはついに決心を固めた。この外道のやり口を、自分の眼で目撃するまでは一片でも、ポロに更生の余地ありと思っていた。けれど、こうなると、この偉丈夫二人の運命は、ただの喧嘩では終わらない。

(殺してやる……)。

 彼の眼に炎のような敵意が宿った。

「ここにいろ。絶対、動くな」とホウロウが言うと、エーデルガルトはおいおい泣き縋った。

「そんな。置いてかないで。わたし、こわい」と眼に涙を浮かべていた。その瞳をホウロウは厳かな態度で見つめて、首を振った。

「俺は、あれをやったバカどもを止めなければいけない。まだ、あの村の中に助けを求めて逃げまどっている者がいるかもしれないだろ。それに――」途中で、彼女がかぶりを振って、「いやっ! 独りにしないでっ!」と金切声をあげて駄々をこねた。

 ぱちんと、彼女の白く柔らかな頬を打って、ホウロウは少女の顔をのぞき込んだ。吸血鬼の瞳とハーフの瞳は、互いに眼球の奥底まで見つめ合った。

「俺の眼を見ろ。――いいか、俺は力をもって、生まれた。助けを求める弱者を無視すれば、それは俺が殺したのも同然だ。それでも、俺を人殺しにしたいのか、お前は。もう俺は、昨日の老婆のような悲しい死を見たくないんだ」ホウロウは初めて、傲慢とさえいえる、彼の理念を吐露した。エーデルガルトは、胸をうたれた。自分の愚を悟った。

ホウロウの虚飾のない言葉は、まさに、彼女の父親の剣公レオンが命がけで守ってきた人間哲学とまったく同じだった。

「――貴方の父上は強い御方なのよ。だから、民の塗炭の苦しみを我が苦しみとして身を砕くの。それが責任だから」と母親のエラがしきりに言っていたのを思いだした。けれど、父親が直接、その理念や苦しみをエーデルガルトに話したことはなかった。なので、(そういうモノなんだなあ)と半信半疑で信じているのみの彼女だった。

 いま、初めて、父親の相克に正面からぶつかった気がした。

「いいえ。ごめんなさい。もう止めません、止めません」と涙を目尻にためて、何度もうなづいた。ホウロウは彼女が素直になると、とたんに、弱って(よい子だ。それにもまして、かわいそうなヤツだ)と揺れた。

「ホウロウ様、わたし、絶対、ここから動きませんから。……ちゃんと戻ってきてくださる?」エーデルガルトは木の陰に縮こまって、ホウロウに問うた。

(わからない。と正直に言いたい)とホウロウは思った。決死の覚悟だった。とうぜん、ポロは<あの力>を使ってくるだろうし、そうなればこちらも同じ武器をもって戦うしかない。生きて帰ることはおぼつかない。ホウロウは口ごもった。すると、ふと少女は大人びた顔をして「そう。そうなのね。大丈夫ですわ。お父様も、似たような顔をして、行ってしまいましたもの。貴方様も、死ぬ気なんですね。わかりましたわ。心配しないで。わたしは、貴方様が戻ってこなければ、これがありますから」と懐から短刀を出した。

「お母様のところへ、頑張って行きますから」彼女は諦めたような無為な顔つきでいった。

 ホウロウは驚いた。目のまえの年端のいかぬ少女に、そこまで言わせた自分が恥ずかしくなった。

「ダメだ」とホウロウは反射的に言った。

「必ず、ここに戻ってくる。なにがあっても」

「ほんとう?」

「必ず。約束する」

 ホウロウは自分の決死の覚悟を打ち消した。ある意味、それは勇気なのかもしれなかった。ホウロウは背をむけて、トルンの方へ歩いていった。はじめは、ポロの名を呼んで、襲い掛かって行こうと思っていた。けれど、ホウロウは自身の命を、大事にした。軽挙妄動は慎んで、まずは、トルンの村の内部を探ろうという肚だった。


――見張りはすぐに、鷹揚と歩いてくる彼のすがたに気づいて、「お前はなんだ」と望楼から投げ掛けた

「入れてくれ。何日も食べていないんだ」ホウロウは弱弱しく言った。

「オーガか。貴様」

「どこに目を付けてんだ。額の出っ張りはオーガで、眼はフラーガだ。指の先の爪は獣人、八重歯は吸血鬼だ。どう見ても、お前の同胞じゃねえか」

 見張りは望楼の欄干に手を付いて、身を乗り出して、ホウロウの見目形に目を細めた。

「ああ、たしかに、そのナリはハーフだな。新入りは荷物番からだが、いいか」

「メシが食えるなら、何でもいい」

「よし、入れ」

 門が左右に開いた。想像通り、壁の中は外に比較にならない有様だった。建物は半壊し、道端に血だまりが広がっている。

「よし、これは、ガタイのいい奴が来たな。次の街攻めで功を立てたら、あっという間に、将軍になれるぞ。大軍師様は実力主義だからな」ともんを出てすぐの道の真ん中に机をおいて、座している吸血鬼と獣人のハーフが言った。

「大軍師?」とホウロウが聞き返すと、書記係らしきハーフが「テム大軍師は、頭のきれる方だ。お前の使い出も考えてくださる」と誇らしげに説明した。

(テム、出世したもんだな)とホウロウは皮肉っぽく思った。

「お前、名前は」と聞かれて、一瞬、ホウロウと言いかけたのを「ゴロウ」と言い直した。一瞬、この匪賊に属していたのを気取られるのを嫌ったのである。

「よし、いけ。得物は、武器蔵に行けば貰える。槍か、剣、好きなのを選んで来い」

「いや、いらん」

「なに」

「武器は不得手だ」

「なら、勝手にしろ」と鼻で笑われたのを無視して、ホウロウは大股で村の大通りを歩いていった。道の泥は血を吸ってぬかるんでいる。村を流れる川は朱に染まっていた。

吸血鬼の死体は村の広場に一所に集められて、燃やされていた。ああ、とホウロウは長嘆した。すれ違うハーフのならず者の面に、この世を慨嘆する気配は微塵もない。むしろ、晴れやかな一仕事したという感慨が見て取れる。

素直に、彼は怖いと思った。人の変身なのか、はたまた地金が顕れてきたのか、彼には分らなかった。

 ホウロウはポロのすがたを探したが、見つからなかった。ポロの方から見つけてこいとばかりに、ホウロウは道の真ん中を目立つように歩いたが、結局、何も起こらなかった。

(あいつ、どこ行きやがった)とイライラしていると、ふと、背後に人の気配がした。

真後ろに、立って、息を殺しているのが分かった。

「それ以上、近づいたら、殺すぞ」と振り返らずに言った。沈黙が流れて、「ふふふ」と女の笑う声がした。

(女……)とホウロウは思って、ふりかえった。

「なんだ、また、お前かよ。いい加減、急に現れるのはやめろ」とホウロウは言って、笑った。

「――バレた?」

 背後に立っていたのは、ヴィーだった。最後に見た時は、疲労して、歩くこともままならない有様だったが、すっかり元気を取り戻したらしく、その溌溂とした丸顔に蠱惑的な笑みを浮かべていた。ホウロウはすこし嬉しかった。巌のように張り詰めていた表情が弛んで、微笑を含んだ。

「あの子はどうしたの」

「壁の外の藪に置いてきた」

「ふうん」

「お前はなんで、ここにいる」

「――さあね」

 相変わらず、重要なことは彼女ははぐらかす。けれど、その言い方に手心は加えない。「さあね」の一言だけである。ホウロウは、彼女の詐術にも慣れてきて「ああ、そうかい。まあ、いいさ」と受け入れるように言った。

「探しに来たんでしょ。……ポロ王を」

「あいつは、そんな風に呼ばせているのか」

「そう」

「どこだ。あいつは」

「一足遅かったね。ポロ王とテムは、精兵を連れて、ソベニ谷に行ったよ」

 そういって、ヴィーは山川の遥か向こうを指さした。その指さす先に漠然とした風景があって、その<ソベニ谷>なる場所が、相当、遠いことが窺えた。ホウロウは歯噛みした。長い八重歯がぎりぎりと鳴った。

「そこは遠いのか」とすぐにでも、走って行きそうな勢いのホウロウだった。

「ちょっと待って。よく考えてよ。いまから、ソベニに行っても、おそらく、このトルンと同じ轍を踏むよ。要は先回りしなくちゃ」

「奴らは、何をしようとしてる」

「生き残ったハーフを糾合してる。わたしも、少し甘く見てた。あいつら、本気でやばいかも」

 燃える死体の匂いが、鼻腔内でむせ返った。ふと、血の混じった川辺に洗濯物が干してあるのを見て、ホウロウの表情は沈んだ。

(子供の服。……ここにも、人々が住んでいた)と虫のように殺された人の生活の残滓に思いをはせた。

「……」

「ねえ。ぼさっとしないでよ。ここには、まだ、生きてる吸血鬼がいるんだから」

「な、それを先に言え」

 ヴィーはふっと笑って、村の背後に屹立する山麓の方へ顎をしゃくった。ホウロウは振り返って、その方を見た。

 石段の先に、堅牢な門があって、そこにハーフの人だかりができていた。

「あそこに、村民が逃げ込んで、籠城してる。人数は、二十人ぐらい」とヴィーは説明しながら、ホウロウの顔を窺った。

「……」彼は沈黙した。ハーフの手勢の数や、地勢を見て、乱戦になったら、どうなるかを思い描いていた。

「ねえ、聞いてる?」

「ああ」

「どうすんの」

「いま、考えてる」

「逃がすなら、小舟があるよ」

「なるほど」とホウロウは清流の川辺に寄せられている小舟を見た。細い木の骨組みを見るに、(俺が乗ったら沈むかも)と彼は思った。

「あんな遅い流れでは逃げきれない。囮がいるな。――俺が追っ手を引き受けるから、お前は吸血鬼を救い出せ」

 ホウロウの言にヴィーはフンと鼻で笑った。不服というより、その愚を笑っているようである。

「また、<あれ>を使う気なんだね」とヴィーは軽蔑するような眼差しで言った。

「普通の状態で、この地に駐屯しているハーフを全員、やるのはムリだ」

「それは違うね。わたしが背後を守ってあげるから、<あれ>を使う必要はないよ」

 ホウロウは大笑いして「あのな。ここにはハーフが千人はいるんだぞ。女一人がなんの助けになる」と言った。ヴィーはそれを聞くと、目を吊り上げて、八重歯をむき出しにした。

「むかついた。恥かかせてやる。覚えとけよ、いまの」妖怪が憑依したように、彼女は赫怒した。常にへらへらしている彼女が怒り出して、ホウロウは驚いて「急に怒るなよ。俺と一緒に残ったら、死ぬかもしれないんだぜ」と言った。

「……ならず者のくせに。おめえは、いつものように、虎みてえに、暴れたらいいんだ」と彼女は一歩も引かなかった。

「お前はデーモンハンターで、魔物退治が専業だろ。人と魔物は違うぞ」

「ばあか。本業は人殺しだっつの」

 彼女の剣幕に(こいつ、引かねえな)とホウロウはあきらめた。しまいには、面倒くさくなって「じゃあ、勝手にしろ」と言ってしまった。


――石段を上がっていくほどに、悪鬼羅刹の顔が居並んでいるのが、しさいに見えてきた。霊峰から白い風が流れてくる。白んだ空気に、血だまりが目立った。ホウロウは、軽蔑するように、匪賊と化した同胞を見ていた。

 そこは吸血鬼が崇め奉る神殿のようだった。前面を赤色の塀に囲まれて、背後に岩壁がある。

(なるほど、最後の砦にはうってつけ)とホウロウは背の高い壁を見て思った。ハーフたちは、壁の前に屯して、勝者の愉悦に浸っているばかりで、なかなか、攻める様子がない。屯している人数を見ても、本気で、陥落させようとは思っていないらしく、焚きを囲んで、飯を食っているのもいる。

 その機微を感じて、(悪趣味だ)とホウロウは思った。

「遊んでる」とヴィーがいった。ふたりはハーフとして、平然と溶け込んでいた。

「ああ」彼はうなづいた。

「中にいるのは、女や老人がほとんど。加勢は期待しない方がいい」

 匪賊の一人が転がっている吸血鬼の死体を剣を包丁のように使って、首を斬った。そして、その首を手にもって、「おい。腹が減ったろ。これでも食ってろ」と塀の内に放り入れた。それを信じられないといった顔でホウロウは睨んだ。


  ――ヘラは神殿の祖廟のまえで、祈っていた。ここまで、奇跡的に逃げ延びてきた村の女たちも、気が触れ始めてきた。塀の外から漏れ聞こえる「殺す、殺す」という呪詛の言葉に、女たちは完全に、精神を漂白されて、意味のない笑い声が口から漏れたりしている。

 また、境内の門の方から、女の叫び声が聞こえてきた。

「く、首が。人の首が」という声が聴こえても、ヘラは動じず、ただ神殿の廟に向かって、息子の魂の安寧を祈っていた。腰に剣を佩いて、いつ何時でも、危険に備えていた。

(もう、よい)と祖先に言われたような気がした。

 思えば、十七で、ギルバートの惨劇を経験し、夫を喪ってから、薄幸な生涯だった。そして、一昨日、その薄暗い人生の唯一の光明だった息子のテオが死んだ。しかも、見るも無残な姿を晒して殺された。遺体は、おそらく、野に晒されたか、すでに燃やされたと思われる。

(わたしは、強い女だ)と彼女は自分を誇った。その誇りが無ければ、いますぐにでも、子供のように慟哭をあげそうだった。

「ヘラ様、門はもう耐えられません。あとは匪賊の気まぐれで、ここはいつでも陥落します」と番兵が報告してきた。

「そう……」と夢心地で聞いていた。

「私たち、女は捕まれば、慰みものになるでしょう」とヘラは呟くような弱弱しい声で言った。

「かくなる上は、我らが、自死をお手伝いいたします」と番兵があたまを下げた。

 ヘラは一度、神殿の壇の上に並んだ骨壺を見て、別れを告げるように目を伏せた。

 すると、急に、門の方が騒がしくなった。

「一体何の音」とヘラはふらふらと、門の前まで歩いた。生き残った他の者たちも、奇妙な音に吸い寄せられていた。一様に、皆、塀の向こうを漠然と見ていた。

「このケダモノめ」と物凄い声が聴こえて、次いで、殴り合うような喧騒があたりにひろがった。

 ドン、ドン、と嫌に瑞々しい振動が響いた。何が、塀の外で起きているのか、阿鼻叫喚の渦で、虎が暴れているようだった。


 ――ホウロウは四方を囲まれながら、腕を振り回して、一撃で二人、撲殺した。それを口火に、塀の前の五十ぐらいの人数と相対した。

困惑が匪賊たちひとりひとりの顔に浮かんでいた。

(おなじハーフじゃねえのかよ)と顔に書いてある。

「このケダモノめ」

 ホウロウは仮借なかった。彼が暴れると、だれも、その歩幅に近づけなかった。ホウロウは戦いながら、不思議な観にうたれた。なにか、自分の背に堅固な盾を背負っているかのような気がした。じじつ、集団戦において、もっとも忌むべき背後からの攻撃が一切なかった。

(いったい、なんだ。これは)と不思議な感覚に身をゆだねて、拳を振っていると、「こいつは化け物か」と匪賊たちはホウロウの蛮勇に、恐懼して、我先にと、石段を転がり落ちていった。

「まずは、一丁上がり」二の腕まで血まみれのホウロウに比して、ヴィーは服を汚していなかった。ホウロウは肩で息をしながら、熱を持った気を吐いた。

「扉をぶち破ってやる」とホウロウが扉の前に立つと、ヴィーが横合いから「待ってよ。あんたの風体で、門を破って行ったら、逆に刺されるよ。ここは、吸血鬼の形質が濃い私に任せなよ」と諭した。

「たしかに」とホウロウは拳を収めて、引き下がった。

まもなく、ヴィーは、籠城していたと見られる吸血鬼の一団を引き連れて、神殿から出てきた。

「全部、説明したよ。あとは、村の川辺まで、連れて行くだけ」

「ああ、わかった」

ホウロウは門から離れて、端っこで身を小さくしていた。吸血鬼たちは、あたりに四散したハーフの死骸を見て、身震いした。ホウロウのことを(これをやった奴か)と言いたげな目で見ていた。ホウロウはふと、吸血鬼の集団に女が多いことを見て、ある事を思いだした。

「おい。君たちの中に、エルというガキの親族はいないか」と聞きまわった。

 ヘラは真っ先に、その声に「エル? 姪のエーデルガルトのことですか」と反応した。

「あ、さては、あんたはあいつの叔母か」ホウロウはヘラのもとへ歩み寄った。腕が血まみれの彼を見ても、彼女はまったく畏れる様子を見せない。

(ほう。この女は俺が怖くねえのか)とホウロウはむしろ頼もしく思った。

「ご婦人。ガキは、ここから見える、あの茂みに隠れている。手筈通り、ここを逃げきれたら、あんたが迎えに行ってくれないか」

 ヘラは眉をひそめて、ホウロウの人となりを洞察した。とうぜん、ハーフに対する恐怖が手伝って、彼の善意を簡単に信じることができない彼女だった。

「――信じられません」彼女はきっぱりそういった。その言葉は肺腑に響いた。ホウロウは顎をあげて、彼女を呆然と見つめた。結んだ唇の沈黙に動かしがたい意志を感じた。

「ほら、来た。早くしないと、囲まれるよ」とヴィーが叫んだ。ホウロウは半歩下がり、「信じないなら、それもいい。だが、俺は、君らのためなら、同胞だって殴り殺す」と言って、背を向け、石段の頂上から真下を睥睨した。

 大勢が蛆のように石段の最下段を前に蝟集していた。さっき、敗走していった匪賊が、すでに村内の仲間たちに触れ回って、糾合してきたらしい。

「川辺まで、この人たちを連れていくから、とりあえず、あいつらを石橋の向こうまで、追い返して」とヴィーがホウロウと同じように、石段の下を覗きながら言った。

「簡単に言うな」

「そのあとは手伝ってあげるから、頑張ってよ」

「もし、向こう岸から射かけられたら、どうすんだ。小舟は良い的だ」

 ホウロウが言うと、彼女はへへへと笑って「あんたと出くわす前に、武器蔵の弓の弦、全部切っておいた」といった。

ホウロウは彼女の一見、可愛げのある小顔を見直した。素直に感心して、彼はうなづいた。

「わかった。俺が注意をひくまで、ここにいろ」と言って、石段を下りていった。

 どすんと、尋常ではない音が地を揺らした。ハーフの匪賊たちはホウロウが石段を踏まずに文字通り、落ちてきたのを見て、ぎょっとした。お互いの隣を見返して、その頼りなさに呆然としている。ホウロウが前に半歩、足を開くと、風に遊ばれる雑草のように匪賊たちは蠢動した。

「……」

 ホウロウはハーフという種族と闘っているという自覚を、強烈に感じた。ポロがエーデルガルトの母親を惨殺したように、この時、自分も運命的な分水嶺に立たされているような気がした。

 けれど、道義に照らしてみると、こうならざる得なかったとホウロウは思って、迷いを振り払った。

「命が惜しかったら、さっさと失せろ」

 匪賊のひとりひとりの異物のような顔が窺うように互いの顔を見た。逃げたいが、逃げたら、どうなるか知れたもんじゃない、といった機微の恐怖をホウロウは匪賊の顔色に読み取った。

「いいんだな。それで。お前らは」

 彼は半月上に取り囲んでいる匪賊の村に向かって、最後の通告をした。フラーガの血が流れている万華鏡のような瞳が左右を見回した。

彼は長嘆した。(勝った……)と闘わないうちに、わかった。無作為に、真横に立っていたハーフを狙って、ホウロウは拳を突き出した。殴られたハーフは近くの邸の屋根に届くぐらいに吹き飛んでから、もんどりうって、ころがった。

 匪賊たちは、その人を殴り飛ばす膂力以上に、ホウロウの走る速さに背筋を凍らせた。彼の神速は、獣人の形質を受け継いだ足腰から来るものだった。

(さっさと尻尾撒いて逃げろ。雑草ども)と彼は背を屈めた猛獣のように匪賊たちを睨んだ。

 いよいよ、無理を悟って、匪賊たちは石橋の通って逃げだした。

 それを合図に、ヴィーは吸血鬼たちを引き連れて、石段を下りてきた。そのまま、吸血鬼を導いて、石橋の下の川辺の方へ行きかけ、ヴィーはふと血の気を感じて止まった。

「あ……」

 石橋を逃げようとしていたハーフの匪賊がイノシシのような巨漢に大鉈で斬り伏せられたのが見えた。巨漢は「逃げる奴があるか。死ねっ!」と叫んで、背後に新手を多数、引き連れ、石橋を逃げてきたハーフを左右に斬り伏せながら走ってきていた。

「はやく行け。ここは引き受けるから」

 ホウロウは立ち止まったヴィーに言った。フラーガの瞳が乱反射して、不気味な殺気を醸成していた。

(あ、こいつ、また<あれ>を使う気だな)と彼女は勘づいた。

「皆さん、先ほど、言った小舟はあそこです。ここは私たちが何とかします。どうか、逃げおおせますよう、幸運を祈ります」

「なぜ、たすけるの。貴方もハーフでしょう」とヘラがヴィーに問うた。

「ハーフなどという言葉はクソです。吸血鬼という言葉もクソ。いま、このとき、助かる命があるだけです」

 時間に迫られたなかで彼女が言ったことは、単純明快だった。

「そう……わかりました」とヘラは呑み込んで、吸血鬼の難民を引き連れ、小舟の方へ走っていった。ヴィーは、岩みたいに仁王立ちして、張り詰めているホウロウの背後に立った。

「使うなよ。あれを」と野太い声でその背に向かって言った。ホウロウは彼女のことを二度見して、「おい。お前、まだ居たのかよ。さっさと吸血鬼と一緒に逃げろ」と突っぱねた。

 イノシシのような巨漢は石橋を渡りきると、止まった。伴ってきた匪賊の手下は、川辺で、小舟に乗ろうとしている吸血鬼たちを追いかけようとした。

「よせ。あんなのは、ほっとけ」と巨漢が制止した。その瞳はホウロウのことだけをじっと睨みつけていた。

「また会ったな」巨漢が言った。

「ああ、お前か」とホウロウは、やっと、その巨漢の名まえを思いだした。

(アルコンとかいうデブ、ポロの奴隷になったか)。ホウロウは、即座に闘技場で殴り倒した時のことを頭のなかで復習した。けれど、ここは縄で仕切られた闘技場ではない。試合開始を知らせる鈴の音もない。ただの殺し合いであり、しかも、人数不利の集団戦である。

また、ホウロウは、アルコンの後ろに侍しているハーフたちの目つきが、変わっていることにも気づいた。アルコンはならず者の心根をよく知っていた。だから、督戦の意味を込めて、逃げた者を派手に殺した。アルコンの背後の匪賊は(逃げたら、死ぬ)と決死の覚悟で、ホウロウを敵視していた。

(これは、まずい)とホウロウは思った。集団でも、腰が引けている相手なら、たいてい、自分の方から攻撃を仕掛け続けることができる。けれど、決死の覚悟の集団はアリのように四方八方から襲い掛かってくるだろう。

 彼でも、腕は二本、足は二本である。一挙に十人単位に襲いかかって来られたら、さすがにどうしようもない。

ゆえに、この時、(<あれ>を使わなければ……)と彼は思った。それは態度や眼の光にも、わかりやすく空気として漏出していた。


 ひりひりと、内部に怒りをためて、気を吐いた。あの力は怒りと結びついている。ようするに、怒らなければならないのである。怒りの燃料はいくらでも、その辺に転がっていた。石橋の向こうの広場には、積み上げられた吸血鬼の死体が燃やされて火柱をあげている。

(このケダモノどもめ)。

 公憤、義憤が同じような火を噴いて、彼のこころに燃え広がった。ムカデのような太い血管が彼の顔に浮き上がり、足指が地面を掴むように丸まった。おでこの一本の角が隆起してきた。そろそろ、変身の時が来るかと思われた。

刹那に、背後にいたヴィーがホウロウの腰を剣でつんつんと突ついた。

「なんだ。今忙しい」とホウロウといって、手で払った。

「こんなところで血気に逸って死ぬんだ。だっせえ」とヴィーが今度は出血するぐらいの強さで剣の切っ先を背中に押し当てた。

「痛っ! 何すんだ」

 ホウロウは鬼のような面を彼女に向けて、食い殺す勢いで睨んだ。けれど、目のまえの予想外な光景に、目を丸くした。

「――ほうら。おっぱい」と言って、彼女は小さく腰をかがめ、服の胸元をホウロウに向けていた。衣の奥に小さな胸の盛り上がりと赤い点が二個見えて、ホウロウはまったく頭脳が停止した。「え……」と水を浴びせられたように、彼の頭の熱気は急激に冷えて、おでこの出っ張りがもとに戻った。それを見ると、彼女は胸元を閉まって、「ははは」と笑った。その陽気な笑みの中に妖怪のような艶を見て、ホウロウは、彼女に手玉に取られたと知った。<変身>をすんでのところで、見事に阻止されたのである。

「こ、このやろう。死にてえのか」ホウロウは、年下の女の胸を見たぐらいで動揺した恥ずかしさと、単純に弄ばれたことに対する怒りで顔を赤くした。

「あ、ほら。来たよ。しっかり、前見て。集中」まともに取り合わず、彼女はいますでに襲い掛かってきている匪賊の群れを指さした。ホウロウは、前を見て、絶望した。目の前まで、迫ってくるのが五十人はいる。そして、いま、石橋を渡ってくるのが百人近く。まだ、石橋のところに屯しているのがさらに多くて、一見しただけでは数が分からない。ハーフが絨毯のように参集してきていた。ただ一人、自分を殺すためだけにである。

 しかも、もう変身する隙はなく、平常のすがたで、闘わなければならない。

(殺れて、二十)と彼は計算した。

「お前、死ぬぞ」とホウロウは脅すように言った。お前がふざけたことしたからだ、と責めるような語気があった。

「だいじょうぶ。死なない死なない」彼女の軽々しい態度に、ホウロウは怒ることの愚を感じた。大きくため息をし、濁流のように向かってくる敵に身構えた。

 その観念した背中に向かって「不意の攻撃は無視して。正面に一点集中。いい?」と彼女がいった。

「邪魔だから、どっかいけ」と言って、ホウロウは、野獣のようにハーフの奔流の中にとびかかっていった。

 雷撃が落ちたように彼の着地した場所に、空白ができた。三人ぐらいを一挙になぎ倒したが、即座に囲まれ、槍の切っ先が四方から伸びてきた。腹を狙って伸びてくる切っ先を手で受け止めて、槍ごと宙に投げ、もう一人を蹴り殺した。

 後ろと左右から伸びてくる刃物は勘案していなかった。刺さるなら刺されと思って、回避をせずに、向こう見ずに拳を前面に向けて振り回していた。

ふたり、殴り飛ばした。敵はハリネズミのようだった。殴った拍子に、脇や胸に槍や鉈の刀身が触って、傷をつけていく。が、それは、ホウロウの体質によって、すぐふさがる傷である。

 問題は背後と横だった。ホウロウと言えども、思い切り、無防備な背や脇を槍で突かれると、致命傷になる。

  避けるのが無理なら、刺された瞬間に反撃しようと身構えながら、闘っている彼だったから、逆に後ろや背後から攻撃がないのはむしろ奇妙に思われた。

 ――ふと、敵の動きが緩慢になった。

「前だけ見とけばいいんだって」と背後から声がした。

 ヴィーはずっとホウロウの背後に居た。

「お前、いつから居た」とホウロウは驚いた。彼女はずっと、右腕の前腕に手鏡ぐらいの大きさの丸盾を付けて、彼の死角からの攻撃をひょうひょうと受け流していた。しかも、彼の近くで、動き回っても彼の攻撃の邪魔はいっさいしない。気配すら、悟らせず、舞うように防御していたのである。丸っこい幼顔からは想像できない類まれな洞察力をもって、敵の動きを感知し、ホウロウの俊足にあわせて、影のようについて回り、彼を守っていた。そうとは知らないホウロウは、(この囲いの中をどうやって、こいつはついてきたんだ?)と困惑していた。

「しっかりしなよ。脇や背後ばっか、気にしてっから、反撃喰らうんだよ。――言ったでしょ。正面に一点集中」彼女はそういって、前を見るように促した。

 ホウロウは周りを見回した。四方を囲まれて、頼れるのはヴィーだけだった。

「……」

 ホウロウは彼女に信を置くしかないと悟った。どうせ、死を期した身だと思って、彼女の<正面集中>という言葉に従った。

「ふん」と声を張って、重囲に穴をあけるように襲い掛かった。

 すると、不思議にも、敵の囲いの中にあっても、背後や脇からの攻撃が来ないことに確信めいた直感があった。

(なんだ、こいつはいったい何をしてる? まるで、見えない盾に守られてるようだ)とホウロウは思った。

 一瞬、腕を振りかぶった時に、彼女の影が見え、不意に目が合った。いたずらな笑みが残像のように消え去った。

迷いがなくなったらしい。ホウロウは思い思い、暴れまわった。彼はヴィーがどこまでついてこれるのか試すように雷撃のように動き回った。

 あっという間にに重囲はまばらになって、ホウロウとヴィーの二人三脚によって切り崩され始めた。

石橋のうえで、アルコンは逃げようとする者を防ぐように立っていたが、押され始めたとみるや、(これはいかん)と思って、咄嗟に、持っていた鉈をホウロウに向けて、投げた。


 ホウロウは宙を回りながら、鉈が飛んでくるのに、気づいていなかった。それは視界の斜め上から飛んできて、刀身の光沢でやっと気づいた。ホウロウは反射的に身をひるがえそうとしたが、目のまえに敵も居たので、反応が一瞬遅れた。やばい、という直感が、動作の先を走った。

 すん、と吐息が耳元で聴こえた。ヴィーの横顔が視界に乱入してきたと思うと、彼女は鉈の刀身を指で止めた。そのまま、指先を使って、鉈を受け流して、反対に投げ返した。ホウロウは何を見ているのかわからなかった。鉈は、より速度を増して、投げ返されて、ぐさりとアルコンの頭に突き立っていたのである。

「無為に命を捨てるなっ!」と彼女が一喝した。

 それを機に督戦する巨漢が居なくなったので、皆、一挙に石橋の方へ吸い込まれるように逃げ始めた。ホウロウは敗走していく匪賊の群れを呆然と見ていた。

「お前は何者だ」と彼は静謐な死屍累々の上で問いかけた。

「さあね。おしえない」と彼女は言って、指を鳴らし、小さな火球を川向うの母屋に向けて、放った。轟轟と母屋は爆発して、燃え盛った。

「何してる」

「武器蔵を焼いておいた方がいいでしょ」

 ホウロウは感心した。また、自分の向こう見ずを恥ずかしく思った。彼女のおかげで、自分は<あの力>を使わずに済んだし、ポロとテムの勃興勢力の足場を崩すことができた。

「あの術はなんだ」とホウロウは聞いた。

「え、どれのこと」

「鉈を投げ返したろ」

「ああ、あれね。武だよ、武」

「ブ?」

「わたしがやっているのは武、貴方のは、ただの暴力」

「なにが違う」

「さあ。でも、違うもんは違うの」

「どこで習った」

「それはおしえない」

 ふんと彼女はそっぽを向いて、急に振り向き様にホウロウの背後を指さして「後ろ」といった。ホウロウは反射的にふりかえった。が、何も敵意を感じさせるものはなかった。ホウロウは、目を凝らして、崩壊した村々を見回した。

が、結局、何もないと悟って、「いったい、なんだ」といって振り向くと、ヴィーはもう影も形もなかった。

 ホウロウは頭をかいて、「またかよ」とうそぶいた。


 ――エーデルガルトは木の根元に抱かれて、ホウロウのことを待っていた。すると、がさがさと茂みをかき分けてくる音がして、身を乗り出した。眼が期待に潤んだ。

「ホウロウ様?」と呼び掛けると、返ってきたのは女の声だった。

「エル? エーデルガルトですか?」

 母親の声だと彼女は思った。夢かと思って、「お母様?」と返事をした。藪をかき分けて、現れたのは、いくぶん、顔色が悪くなって、前会った時の記憶より老けたように見える叔母のヘラだった。予想外の邂逅にふたりは抱き合った。

「ああ、我が姪よ。かわいそうに。顔の傷はどうしたの?」

 ヘラに聞かれて、エーデルガルトは口ごもった。

「ああ、よしよし。言わなくてもいいのよ」エーデルガルトはヘラの胸に抱かれて、心地よい仄かな芳香を嗅いだ。母親とそっくりの匂いだった。エーデルガルトは涙を流して、ヘラの服にしがみついていた。

「ヘラ様、その御子は?」と番兵が聞いた。

気づけば、ヘラとエーデルガルトはトルンの生き残りの吸血鬼の同胞に囲まれていた。

「妹の子です」

「あ、では、剣公レオン殿の落胤ですか」にわかに、吸血鬼たちは色めきだった。


 ――その喜びのざわめきを遠目にホウロウは見ていた。巨石の影に隠れ、エーデルガルトに会う機を逸して、どうしようかと迷っているのだった。

「叔母様、どうしてここが分かったの?」

「それは、なんというか」ヘラは曖昧に言って、考え込んだ。ホウロウは巨石の影に隠れながら、心臓を掴まれたような緊張を感じた。ヘラの顔に浮かんだ蔑むような瞳がありありと目の前に思いだされた。

「叔母様、もしかして、ハーフの偉丈夫に言われて来たのでは?」

「ええ、そうよ」

「やっぱり、叔母様。あの御仁は、いずこに?」

「さあ」

「では、まだ、戦ってらっしゃるのね。なら、わたしはここから動きませんから。あの方が戻ってくるまで」

「まあ」とヘラは少女の気迫に驚いた。

「ごめんなさい。叔母様」

 ホウロウは彼女の無邪気に救われた。厳しく刻まれた顔のしわも、すこし緩くなって、彼はもとの温和な無表情に数舜の間、戻った。

「ああ、なるほど。得心しました。ハーフにも義の人がいるのですね」とヘラがいった。ホウロウは、その言葉は予想外で、巨石の影から少しだけ顔を出して、ようすを覗いた。ヘラは、エーデルトの肩を抱いて、「いいでしょう。わたしも、待ちますよ」といった。

 ホウロウはあ然として、すぐに隠れた。

(どうしよう)と彼は思った。悶々ひとりで、悩んだ。エーデルガルトもヘラも、いまのホウロウには、眩しい人々だった。彼は、自分の服や手が、流血で染まっているのを見て、頑として、会わないと腹を決めた。

(俺は人殺しだ……)。

  寂然と、ホウロウは疎林に消えていった。だが、彼は二人から確かなモノを得た。

(吸血鬼はケダモノではない。間違っているのは、ポロ、おまえだ)。闘気を養うには、十分な確信だった。








 






 

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