外道を往く
「あちゃー、これは右目が使い物にならないね」ヴィーは治療しながら、手よりも口をうごかした。ホウロウは近くの地面に胡坐をかいて、黙然と彼女の言葉をきいていた。
「かわいそうに。綺麗な顔だったのに。片目になっちゃったね。これはお嫁にいけないよ」レジ―ナはわざと、ホウロウに突き刺さることをつぶさに教えた。粉砕されたエーデルガルトの顔から、血の塊のようなものが溢れている。ホウロウは緘黙を貫いたが、その背は冷や汗が噴き出し、小刻みに震えていた。
「……吸血鬼は、女の見目形に神経質なのか」彼はおそるおそる聞いた。
「そらあ、もちろん。片目の女なんか、終わってるね」
自分は視力以上に、彼女の社会的地位を奪ったと気づかされて、ホウロウは罪悪感で押しつぶされそうだった。命が救えるだけマシ、とは言えない厳しい昨今の世界のすがたがある。ホウロウもそれはよく承知していた。
「でもね。ひとつ、方法があるよ」彼女はエーデルガルトの顔をいじくり回していた手を止めて、ふりかえった。
「なんだ」
「あんたの眼玉を、この子に移植する」
「そんなこと、ほんとうにできるのか」
ホウロウは彼女をいぶかし気に睨んだ。
「そう。こわいんだ。こわいなら、いいよ。べつに。わたしには関係ないし」
「……」ホウロウは考えた。彼は片目を塞いでみた。(遠近の感覚が狂っても、なんとかなるかな)と片目だけの戦闘を思い描いた。それに、いつ死ぬかもしれない身だと半分、悟っている身である。眼玉ぐらい、と彼は思った。
「いいよ。片目ぐらいくれてやる」
すると、ヴィーは懐から短刀を抜き出して、クモのような速度で寄ってきて、刀身を彼の眼のまえに向けた。ホウロウは驚いて、あぐらのまま、のけ反った。
「逃げないでよ。一息に切り取ってやったほうが、あんたのためかなと思ったのに」
ホウロウはムッとして「いらない気遣いだ。俺は座っているから、思いのまま、やってくれ」といった。
「ぜったい、動かない?」ヴィーは確認した。
「動かん」ホウロウは目を瞑って、なすがままに任せるという体になった。
「ばあか。眼、開けなよ」
ヴィーは、ホウロウの頭を懐刀の柄の部分で殴った。カチン、とホウロウは怒りがおでこの熱気となってくるのを感じた。
ホウロウは目を開いた。ヴィーは興味深いものを見るように、じっとその瞳を覗き込んだ。ホウロウの瞳には、フラーガと呼ばれる魔界の種族の形質が見られた。その瞳は、離れてみると、ふつうの眼玉だが、感情の昂ったりすると、万華鏡のような光沢を映しだして光るのだった。しかも特徴的なのが、瞼に、亀裂が入っていて、目尻をこえて、戦化粧のような線があることだった。奇異であり、美しくもある。一瞬、ヴィーは、その瞳に魅入られた。
けれど、すぐに冷酷な顔つきに変わって、短刀を彼の瞳の膜にまで近づけた。ホウロウは、身震いしそうな体を抑えるように肩をこわばらせた。
とたんに、「――うそだよ。はっはっは、冗談やめてよ。人の眼玉を移し替えるなんて、できるわけないじゃん。だいいち、こんな眼玉移植してどうすんの」と彼女は大笑いした。喉の口蓋垂がバカにするみたいに震えている。
「こ、このクソガキ。ぶっ殺してやる」
ホウロウは飛び掛かろうとした。
「いいの? わたしが死んだら、この子はどうなるんだろうね」と彼女が言って、ホウロウは振り上げた拳をとめた。歯噛みして、地面に腰をおろした。
(こいつ、なにをたくらんでいやがる)とホウロウはますますヴィーに対する懐疑を深めた。腕を組んで、あぐらをかいて、冷静になろうとしたが、怒りの持って行き場がないのか、貧乏ゆすりが収まらなかった。
粛々と、滝の音をきいて、怒りをごまかしていた。
「この子もバカだよね。首を狙うなんてね」
「……」ホウロウは無視した。
「男、殺すのに、首なんか狙う必要ないんだけどなあ」ホウロウは黙っていたが、ヴィーの思わせぶりな言葉を浴びせられると、ふと、頭のなかで(なんでだろう?)と思った。
「なんで?」とホウロウは聞いた。
「え? そりゃ、男の股間には、弱点がぶら下がってるじゃん」彼女は言った。ホウロウは固くなった表情を崩して、大笑いした。予想外のことを言われて、笑いがとまらなかった。
ふと、久しぶりに笑った気がした。ドマも下品な女だった。けれど、彼女はとくべつ、口がまわって、話すと面白かった。いまだに、その死を信じられない。ホウロウは彼女の幻影をみた。
「あんたも、笑うんだね」ヴィーは柔らかい微笑みを浮かべた。
「女にいきなりそんなこと言われたら、だれでも笑う」
ホウロウは何かヴィーに共鳴するものを感じた。
ヴィーはいよいよ、本格的にエーデルガルトの体にむかいあった。その機微をホウロウも感じた。緑のいわくありげな光が明滅し始めた。ぶくぶくと、エーデルガルトの顔が泡立って、解けた蝋みたいになった。ホウロウは気味悪そうに、顔をしかめた。
ホウロウはそういった術をよく知らない。けれど、ヴィーにとっても難しいことをしているらしいことは、彼女の緊迫した背中だけ見ても、何となくわかった。ぶくぶくしたエーデルガルトの顔に緑色の光を当て続けるのを見ていたら、気づけば、あたりは暮色に染まっていた。
ふと、急にヴィーが振り返った。ホウロウは彼女の汗ばんで真っ赤になった顔にぎょっとした。
「おわった」
彼女は言った。首が座らず、前後の頭がゆれて、彼女は前のめりに倒れかけたのを、ホウロウはすんでのところで肩をつかんで止めた。
「この子は助かるのか。おい」
「助かるよ。こどもを殺さずにすんで、よかったね」
ホウロウは横たわったエーデルガルトの顔を一瞥した。彼女が死んでいたら、自分はおかしくなっていたに違いない、と思った。
「ああ、ありがとう」
と彼は自然に言った。ヴィーはホウロウの服の裾を引っ張って、「おんぶして」と言った。
「どうして?」
「行く場所があるの。そこまで、連れてってよ」
「そんなふらふらなのに、どこに行くって言うんだ」
疲労からくる世迷言かとホウロウは思った。けれど、彼女の意識はまだ、明朗に見えたし、恩顧もあるので、従うほかない。彼女の肩は熱かった。死にやしないかと不安になるほどだった。
「大熱だぞ」
「人の命を救う術をなんの代償もなく、使えるわけないじゃん」
「たしかに、そうだな」
ホウロウは彼女の前に背を向けて、しゃがんだ。
「で、どこに行くんだ」
「すぐ、そこまで」彼女はそう言って、ホウロウの首に手を回した。思ったより、小さな体だった。ヘンなやつだとホウロウは改めて思った。見ず知らずの自分の肌に躊躇いなく触れてきた。彼女の頬から出る熱を背中に感じた。
「ねえ、お尻触らないでよ」
「はっはっは。触らねえよ。で、どこだ」
顔の側面から指で指示されて、ホウロウはその方へ、歩いていった。そこは緩やかな斜面になっていて、その先に小さな粘板岩の壇があって、見たことない社が立っていた。経年と苔によって、ごく普通に自然の風景に溶け込んでいた。
「なんだ、これは。墓か?」
「そこにおろして」
ホウロウは言われたとおりにした。彼女は黒い壇に腰を下ろして「あんた、これから、どうするの」と何気なく聞いた。
「わからん」とホウロウは言った。実際、ほんとうにわからなかった。彼女はだまってうなずきながら、「あの子は、どうするの」と聞いた。
「それもわからん」
ヴィーで鼻で笑った。
「まあ、頑張ってね。ひとつ助言するけど、めったなことで怒っちゃだめだよ」
「……最近は、本気で怒るようなことばかり起こる」ホウロウは首をひねって、反論するように言った。
「ふふん。そうだねえ」
沈黙が流れた。彼女の沈黙にどのような心理の動きがあるのか、ホウロウはわからない。彼女のことをよく知らないからである。恩は受けたが、いまだに気を許せないほど、なぞは多い。
「なあ、君は一体何者なんだ?」ホウロウは聞いた。
――ふと、林冠を揺らすような奇態な音が響いた。心臓を掴まれたような気味が悪い女の叫びのような音だった。
ヴィーは血相をかえて、ある方角を食い入るように見つめた。その音の出所は森に反響してホウロウにはわからなかったが、彼女は確信めいた目つきで、その方角を見ていた。
「なんだ、いまのは」
「――最悪。なるべく、はやく、ここから逃げた方がいい」
「どういう意味だ」
林冠から覗く夕空に黒い瘴気が立ち込めてきた。ホウロウは嫌な予感を感じて、四方を見回した。茂みや岩の影に何かが居そうな気配がぬぐえない。
「せっかく、あの子を助けてあげたんだから、しっかり守ってあげてよ」
「へんな天気だな」ホウロウは言いかけて、彼女を見た。そこには、古びた社だけがあって、ヴィーのすがたはどこにもなかった。驚いて、ホウロウは社の周りを探してみたが、痕跡すら見当たらなかった。
ふと、彼女は自分が作り出した幻影だったような気がした。それほど、一瞬の逐電だった。
――この時、荷台の上に横たわっていたエラの死体が人形のように起きあがった。白んだ眼玉が蒼い気を放って、光った。
「か、か、か」
喉から声がもれた。
それは非業の死を遂げた骸に何万分に一かの確率で起こる現象だった。ホウロウすら恐れる魔物がエラの骸から生まれた。それは幽鬼とよばれた。幽鬼にも種類と階級がある。主に、瞳の発光する強さで危険度が分かるとされている。エラの瞳の発光は夕焼けの赤にも負けない強さだった。
彼女はポロに殺された下男や従者たちの死体を喰っていた。ポロに傷つけられた脇腹の刃傷がみるみるうちに塞がっていった。歩くたびに、足が絡まった。その足はどこに向かっているのか知れない。彼女はすでに滅多に現れない怪物と化していた。おもに、強い幽鬼になるには、同じくらい強い未練が必要だった。
とくに、恐ろしい幽鬼になる素養があるのは、母親だった。子供は骸を地上に縛する強烈な未練らしい。けれど、未練があるからと言って、その歩く骸が人間性を残しているわけではない。幽鬼は生前の記憶を頼りに人の名前を呼ぶのである。
「エ、エ、エル」
彼女はそう言って、どこか目的地があるように動き出した。
――滝の打ちつける音が夕空の不審な瘴気を吸って、不気味に聞こえる。ホウロウは嫌な予感がして、逐電したヴィーを探すのあきらめた。すぐに滝のまえまで戻ってきて、無辜な少女のまえで鎮座した。もうそこそこ寒い。エーデルガルトは筵も敷かずに、地面のうえで寝ている。
ホウロウは彼女の顔を見て、申し訳ない気持ちがより強くなった。傷は治ってはいるが、顔半分が象皮のように荒れていた。ひどい火傷痕と同じで、一生残る傷だと思われた。
ホウロウは、吸血鬼の子供を初めて見た。顔半分だけで、その美しさが分かる。顔に特徴めいた点がない。彫像のように黄金の比率が、吸血鬼の顔貌には通底している。ホウロウは、その顔を恐ろしいと思った。もしかすると、この子を含めた吸血鬼はすべからく、冷酷無比な怪人なのかもしれない、と疑いもする。この清潔な顔をした種族からすれば、ハーフはゴミに見えても不思議ではない。
(ポロのやり方は正しいのか。自分は悪魔を助けているのか)と自信がなくなってきた。
ふと、少女は寝返りをうった。ホウロウは、それにひやりとした。
まだ、彼女に言うべき<言い訳>を何も考えていない。
(起きてくれるなよ)とホウロウは身を縮めた。高まる自分の心音すら彼女を起こしてしまいそうで、こわかった。
けれど、ホウロウの怖れとは関係なく、少女の目覚めは気まぐれだった。エーデルガルトは目を覚ますと、半身を起こして、虚ろな目で正面を見た。光のない眼で、どこをともなく見つめていた。
心理的なショックかとホウロウは思った。が、じっさいは彼女は単に寝ぼけているだけだった。おどろいて、ホウロウは目を丸くした。
ふらりと立ち上がって、とことこ、と彼女は浅瀬に足を踏み入れた。水に触れて、彼女は放埓な頭を若干、覚まし、右目が痛いことに気づいた。しかも、視界の右半分に帳が降りている。
エーデルガルトは自分の手で瞼を触ってみた。顔の半分がざらざらしている。眼窩にぽっくりと穴が開いていた。
「あれぇ……」
ホウロウは狼狽えている彼女を見て、縛られたみたいにうごけなかった。彼は茂みか木の裏にでも隠れたかった。いま、見つかったら、どんな驚きを彼女に与えるかもわからない。ホウロウはエーデルガルトのせわしない背中をみて、すぐにでもふり返って来そうな気配を感じた。
思わず、彼は背後の茂みに飛びこんだ。
「きゃっ」と物音に彼女は驚いて、ふりかえったが、そこには茂みのざわめきしかない。彼女は動物か何かだと思ったらしい。
ホウロウは青々とした草に抱かれている自分をかえりみて(俺は一体、なにをしてるんだ)と恥ずかしくなった。
夕暮れが赤々と最後の輝きを見せている。――森の夜が近い。ホウロウは機を逸したことを悔いた。茂みの陰から見える少女は、自分の奇態な状況におびえていた。
(どこから話せばいいのやら)と迷いながら、ホウロウは茂みから顔をだそうとした。そのとき、あたりの気温が一気に下がったような悪寒を感じた。
「あっ!」と少女の喜びにみちた叫びを聞いて、ホウロウはハッとして、滝つぼの対岸に佇立している<それ>に気づいた。蒼い眼が夕闇のなかで光っている。
――エーデルガルトは盲目的に母親のもとへ走って行った。痛む足が絡まった。けれど、目のまえで手をこまねいている母親の手に気持ちが逸った。もう夕闇だった。彼女は夜が何よりも恐ろしかった。その恐怖に差した光明に、エーデルガルトはまったく理性が働かない。
しかも、目のまえの母親と目される人物は暮色に陰って、よく見えなかった。暗くなかったら、エラの口や服に酸鼻な血液がべっとりと付着しているのが見えていただろう。
けれど、そのかわりに、夕やみに青い眼玉が二つ並んで光っていた。
「お母様?」彼女はその蒼い鬼火のような光を奇妙に思って、立ち止まった。青は忌み嫌われる色として、吸血鬼に記憶されている。魔物の発する光の色だからである。
「……エ、エルゥ」
狼の咆哮のような呼び声がひびいた。エーデルガルトは名前をよばれて、確信を新たにして、また走り出した。その手に抱きしめてもらいたい一心だった。孤独と戦って、この深い森の中を歩いたことを、「頑張ったね」と褒めてもらいたかった。
エーデルガルトはエラの胸に飛びこんだ。そこに温もりはなかった。母親の手のひらは金属みたいな冷たさだった。
「お母様?」不審に思って、エーデルガルトは母親の顔を見上げた。睥睨する青い眼玉がまったく母性を見せない。エラの伸びてくる手がエーデルガルトの首筋を掴みかけた。
とたんに、雷撃のような影がすっ飛んできた。岩のような拳がエラの額を捉え、彼女の体は地面を滑るように飛んでいった。
エーデルガルトは口をおさえて、呆然とした。目の前に、天を衝くほどの巨漢が立っていた。突き出された拳が彼女の頭ほどもあるかと思われた。エーデルガルトの顔は恐怖にゆがんだ。鋭い万華鏡のような目が彼女を睥睨した。
ホウロウには情理のうえでの迷いはなかった。ヴィーに「早く逃げたほうがいい」と言われたことを思いだした。
(……幽鬼だ)とホウロウは夕やみに映る青い双眸を見て、直感したのである。
「いやっ!」
エーデルガルトは殴打されてうつ伏せにたおれた母親のもとへ走って行こうとした。ホウロウはその肩を掴んだ。
「死にたくなけりゃあ、動くな」
危急にさいして、力の調整ができるほど、彼は器用ではない。少女からしてみれば、攻撃だと認識されるほどの力で肩を掴んでいた。エーデルガルトは悲鳴をあげた。
ホウロウは、そんな悲痛を勘案している暇がなかった。彼は厳しい瞳で、うつ伏せにたおれたエラを見ていた。彼は、幽鬼が多少の殴打で倒れないことを知っていた。
むくりと、滑稽な所作でエラは立ちあがった。首の骨が折れていた。肩に側頭部が置物のように乗っかっている。が、まったく問題にしていないように首はもとの位置に戻った。
(読めない。読めない)とホウロウはいよいよ怖くなった。前にテムが斡旋してきた<自警団>の幽鬼退治のときに、なぜ自分がこれまで無いぐらい苦戦したのか、いま、わかった気がした。幽鬼の動きは人とは違う力学が働いているのである。端的にいえば、幽鬼は若干、地面から浮き上がっているらしい。
空気の流れが変質した。異様に濃い霧が立ち込めた。宙を歩くように幽鬼は近づいてきた。相対して、全身全霊でぶつかれば、時間がかかっても倒せない相手ではない。それに、彼には神域に至る奥の手がある。
まえに幽鬼を倒した時は、ホウロウは馬乗りになって、原形がなくなるまで殴りつけた。それが、彼にとって、幽鬼を殺せる唯一の方法だった。
ホウロウは足を一歩、踏み出した。彼の眼は鋭い殺意をおびて、幽鬼をにらんだ。
人と人の立ち合いには、かならず、機微がある。読める気配がある。しかし、この幽鬼にはそれが一切ない。静と動の流動が人体の力学を外れている。
ならば、と彼は考える。
(待ちは外れる。つねに、自分が先に動けばいいんだ。殴打による反撃の隙は与えない)。
ホウロウは、闘うということにおいては賢い頭脳を持っている。考えないと、腹に決めると、じりじりと、にじり寄って、飛び掛かった。拳の往来が何度も繰り返された。反撃はこなかった。拳が冷たい体にめり込み、鈍い音がした。けれど、柔い茎の草を殴っているような心許ない感触だった。
むかっとして、ヘンに力が入った。すると、より当たらない。遊ばれる。
ひるがえる死体と上気する生きた肉体がまわりまわって、殴る、避けるを流転していた。
(掴むか。組み伏せるしかない)と彼は思った。おそらく、殴っても手ごたえがないのは、なぞの機動力が拳が触れる瞬間に作用して、力を逃がしているからだと分析した。
ホウロウは握った拳をひらいて、幽鬼に文字通り、頭からとびかかって、その肩を掴んで、地面に伏せた。馬乗りになって、殴打する。地面に頭を押し付けて、再度、殴った。
(手応え、あった)とホウロウは思った。
血走った眼で、ためらいなく頭蓋を叩いている。彼の鷹揚とした性格の中には、たしかにオーガの荒い気質が併存していた。太鼓のような音が響いている。この際、彼がもっとも、警戒すべきは、魔術の類だった。こういった白兵戦において、使える魔術は限られている。たいていの魔術は発動に一定の時間を要するからである。
そんな間隙を与えない。打撃音の感覚が狭くなっていった。
果肉のように血まみれの顔の蒼い眼玉の発光が弱まった。
(はやく、しぬんだ)となかば、願った。どこに幽鬼の動力の核があるのか知らないが、確実にそれは弱くなっている。ホウロウは勝ちを確信して、ふと、この幽鬼の魂に憐れむような気持を戦闘のなかに差し挟んでしまった。(かわいそうに)と思った。
――その瞬間に、耳をつんざくような声量で「うわあああああん」と泣き叫ぶ声がした。ホウロウは血まみれの拳を止めて、ふりかえった。少女が渾身の力で、大泣きしていた。「お母様、お母様」と何度も叫んでいる。
ホウロウは自分がメタメタにした幽鬼の顔を見つめて、寒気がした。
(お母様……だと。母親を呼んでいたのか……)と呆然とした。
ホウロウは完全に無防備になった。その時、幽鬼は凄まじい速度で起き上がって、刃物のように鋭い爪を突き出した。ホウロウも避けようという反射が働いたが、遅かった。通り過ぎた鋭利な爪は彼の首筋に真っ赤な一本線を残した。ホウロウはしりもちをついた。
(まずい)と思った瞬間に手で首筋を押さえた。が、それを押しのけるように血があふれ出た。
幽鬼は伸びあがるように立ちあがって、ホウロウの前に立った。
「――オカアサマ。ハッハッハ」無機的な笑い声が響いた。蒼い眼がより鮮やかに明滅した。
その蒼い瞳に狡猾な知性をうかがえてホウロウは(こいつは、前に戦ったヤツより賢いし、強い)と思った。即座に服を破り捨てて、布の切れ端を首に巻いて、手で力いっぱい抑えた。
自分の気力が萎えていると自覚して(もう戦えない。逃げるしかねえ)とホウロウは即座に走り出した。麻布は彼の運動する肉体に押し出された鮮血に染まっていく。
なりふり構っていられない。ホウロウは、片手で傷をおさえて、韋駄天走りに、少女の前を通り過ぎると、「来な」と彼女を空いた手で小脇に挟むと、どこをともなく、逃げ出した。
背後の夕闇から、怒っているのかよくわからない叫び声がした。
「……リュウガクル。リュウガクル」
鳥のような叫びだった。それが、幽鬼に定められた鳴き声なのかと思うほどに自然と発声されていた。逃げるホウロウの耳にはあまり意味のある言葉に聞こえず、記憶にも残らなかった。逃げる、ということに一心不乱だった。幽鬼があとを追ってこないということに気づくまでだいぶかかった。すでに森の漆黒が海のように広がっていた。小脇に抱えた少女の泣く声が、闇の中に溶けていくかと思われた。
彼は、首に巻いた布を外した。傷はすでにふさがって、少し赤みがかっているだけだった。
(にげきれた……)と胸をなでおろすと、少女のすすり泣きがより明朗に意識されて、彼はどうしたものかわからなくなった。陶器をあつかうようにそっと地面におろした。
細い足首がたよりなく地面に着地した。闇の中でもわかるほど、少女の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。
それを見ると、ホウロウは何を言ったものかまったくわからなくなって、珍しく、饒舌とは言えない舌をうごかした。
「す、すまない。君の母親とは知らなかった。でも、彼女はもう幽鬼になってしまっているんだ……。幽鬼、わかるか? つまり、おれは……おれは、ハーフで君が殺そうとした男だが、それは、カン違いで、君の旅団を襲ったのは本当は俺の弟分で……。だから、起き抜けに襲われたものだから、つまり……」
自分で言っていて、わけがわからなかった。気づけば、ホウロウは、熱がこもって、小さな体躯に対して前のめりなっていた。エーデルガルトからすれば、異形で魁偉なすがたの巨漢が迫ってきて、(喰われる)とでも思ったのかもしれない。
ホウロウは、悲鳴をあげて、逃げようとした彼女を「待て」と掴んだ。この手を離せば、彼女を漆黒の森に迷い込ませることになる。そう思うと、より彼女を手首を締め付ける力が強くなった。すると、彼女は「いやっ」と言ってホウロウの手に噛みついた。八重歯が手の甲に突き刺さり、ホウロウはうめいた。
「おい、離れろ。この」と腕を振ると、エーデルガルトの体は宙に浮き、それに合わせて上下に振られた。彼女は噛みついたままだった。
少女の体重と、振り回した腕の力とが協働して、手の甲は地割れのように引き裂かれた。
やっとの思いで引きはがして、宙ぶらりんになったエーデルガルトを睨むと「痛いじゃねえかよ」と言った。すると、彼女の朱に塗れた口元が開いたと思うと、「ぶぇっ」と口に含んでいたらしい血液を眼に浴びせられた。
「くそ。このガキ」眼を押さえて、長い腕を振り回した。その腕を避けて、よたよたとエーデルガルトは逃げ出した。けれど、まずもって運動能力がちがう。ホウロウはすぐに、その行く手に立ちふさがった。彼女が縮こまって、後ずさりするのを見て、(こいつは、俺が相当怖いらしい)とホウロウは気づいた。
さすがに、本気で逃げたい一心の子供をずっと縛り付ける方法はない。こんなままごとのようなことを続けていたら、かならず、逃げられる。ホウロウはため息して、唾をのんだ。
「――つぎ、逃げたら、縛り付けるぞ」といった。恐怖でしか、いまはこの子供を呪縛することはできないと考えた。
「もう逃げないと約束できるか?」ホウロウは片膝を付いた。彼も、なるべく、怖がらせないようにいったつもりだったが、生来、彼の話す言葉は粗野なわりに抑揚があって、不気味なところがある。暗夜に見える彼の瞳も、ふしんな光を放っている。森の精霊の声のような荘厳がある。
「……もう逃げません。もう逃げません。だから、お慈悲を」彼女は哀願した。幽鬼になった母親を見てしまった子供の悲しみを慮ると、(なんて、かわいそうな子だろう)と大丈夫のこころは揺れた。ホウロウにとっては名前すら知らない少女だった。しかも、自分の妻を惨殺した憎き吸血鬼の少女である。
けれど、その頬を濡らす泪をみればわかる。吸血鬼も、まぎれもない人なのだ。親子の情愛もある。恐怖に震えもする。けっして、冷血ではない。ホウロウは溢れそうな情の渦に蓋をして「ならいいんだ」といった。
話題を転じて、「行く当てはあるのか」と聞いた。そんなことを聞かれると思わなかったのか少女は困惑した様子で「いいえ、ありません」と言った。
「なら、あの馬車はどこへ行こうとしていた」
「母の郷里ですわ」
「ここから近いか?」
「たぶん」
「街道をまっすぐ行けばいいのか」
「……え、ええ」
「わかった」ホウロウは重くうなづいた。立ちあがって、「歩けるか」と聞いた。ホウロウはちらりと、エーデルガルトの足元を見た。
(なんだ。このクツ)とさっきから不思議に思っていたのである。異様に細くて、どうやって人の足指が入っているのかわからない。
「……は、歩けますわ。行けというならどこへでも」無理して言っているのがわかった。拒めば、殺されるとでも思っているらしい。洞察するときのホウロウの眼は冷たい光を帯びる。
「そのヘンな靴を脱いで見せろ」
エーデルガルトは、その言葉の意図を汲み取ることなく、ただ、恐れて、従った。露わになった少女の足先は血餅がこびりついて、紫色に変色していた。ホウロウはその足を見て、黙った。峻厳な自然の声だけが聴こえる。彼は、傅くように屈むと、少女の足をさすって「痛かったろう。かわいそうに」と言った。
エーデルガルトは一瞬、なにを言われたのかわからなかった。「この足はうまそうだ」とでも言ってくるのだと幼子の頭は想像していた。
ホウロウの瞳が潤んだ。眼玉が水晶のように幾何学的に反射した。エーデルガルトは、その瞬間に、あの荷台の下を覗きこんできた恐ろしい男の淡い赤色の瞳の輝きを思いだした。
(この眼じゃない。あのとき、目が合ったのは、こんなキレイな瞳じゃない。……貴方はいったいだれ?)と彼女は思った。
「その足じゃ、歩けないだろう。おぶってやる」とホウロウは背中を向けた。エーデルガルトは、この暗夜の森に、初めて、憩を見つけたみたいに、その熱く、凸凹した背中に吸い寄せられた。
「痛かったろう。かわいそうに」
その言葉が少女の頭に残って反響し続けた。それが、彼女がもっとも欲した言葉だった。けれど、母親から言われたい言葉だった。
彼女はホウロウの背に頬を付けて、すぐに眠った。
「おい、土地勘はあるか……」とホウロウが問いかけても、返事がなかった。
かわりに、眠ったまますすり泣く声が聴こえた。ときおり、「お母様」という寝言が聴こえて、ホウロウは胸が熱くなった。
(ポロ、お前、この声が聞こえるか)と夜空に問いかけた。
「おい、起きろ」と言われて、エーデルガルトは眼を覚ました。瞼をあげて、即座に差し込んでくる朝日に目を細めた。
ホウロウの肩越しに、標識と二分かれした道が見えた。ホウロウは、標識を指さして「俺はどっちに行けばいい。分かるか」と言った。
「……え、ええと。右ですわ。右に行けば、トルンとありますから」
「わかった。もう寝てもいいぞ」
「……貴方は寝ないのですか?」
ホウロウは笑って「俺は怪人だから。まともな常識が通じる体じゃねんだ。お嬢ちゃん」と言って、右手の甲を彼女に見せた。きのう、エーデルガルトが噛みついた痕が綺麗にふさがっていた。彼女は眼を丸くした。
ホウロウの足取りとそのまま背中に伝ってくる振動は、とても空元気とは思えなかった。エーデルガルトはまじまじと、ホウロウの毛むくじゃらな長耳を見ていた。
(ヘンなの)と正直に思った。ハーフを城下の生活のなかで閲したことがない。彼女は父親の言葉を思い起こす。
「いつか、ハーフの街に連れて行ってやる。おもしろいぞ。決まり事が全然なくて、雑でうるさいんだ」その時の父親の顔は何か郷里を思うような微笑みを浮かべていた。
(これがハーフなんだ……)。
「顔の傷は痛くないか」
「え……はい」彼女は呆けたような生返事をした。
沈黙が訪れて、ホウロウは余計なことを口走ったかと思った。あまり、昨日のことを、思い出させる辛苦は味合わせなくなかった。けれど、少女は自ら進んで、暗い記憶の海を思い描いて、昨日、見聞きした事象を整理した。見慣れた家中の者が死に、母親が死んだ。死屍累々と、森の漆黒を往く孤独が思いだされた。無上の恐怖にいたことを覚めた頭で、反芻して、いまは一応の安全な場所にいることへの安堵があった。記憶に炭をぬられたみたいに理解できないことは何個かあったが、いま、直近で、いま彼女はもっとも気にするべきところは――。
(この人は信用していいのかな)というところだった。彼女は本当に、鷹揚なる巨人を信じていいのか疑った。自分の視点のある位置の高さが異様なほどだった。おそらく、城下の偉丈夫として知られる自分の父親に背負われた時でさえ、これほどの高さまで目線が来たことはなかった。
「貴方は……だれですの?」
子供の漠然とした問いかけだった。ホウロウは眉を動かして、(変な聞き方をするなあ)と思った。
「……俺はホウロウ」
「ホウオウ様、難しいお名前ですわね」
「……ホウロウ」
「あ、失礼。ホウロウ様、ホウロウ様」
エーデルガルトは、名前を知って、眼前の大男に親しみを感じた。謎の男の輪郭に鮮やかな線が描かれたようだった。つぎは、エーデルガルトは自分の名前を当然、聞かれるものと見て、黙って待っていた。けれど、ホウロウの軽快な足音だけが沈黙を走っていく。
「……あの」と重たい口をひらいた。
「ん、なんだ」
「わたしの名前はお聞きにならないんですの」
「ふふ」とホウロウは薄く笑った。(案外、かわいい奴だな)と思って「なら、聞くとも。お名前は? お嬢ちゃん」といった。
「剣公レオンの娘、エーデルガルト。王室から見て、街路の横丁、六行目の生まれ、以後お見知りおきを」
ホウロウはぽかんとした。
「なんだ。俺は君の名前を聞いただけだぞ。なんで、お前の父親の名前や生まれた場所まで言うんだ」
「さあ? だって、そうしろと教わったものですから」
「それに、エーデルナントカなんて、長たらしい名前、いちいち、呼べるか」
「でしたら、エルと呼んでください」
「はは、意外に、融通が利くんだな」
ハーフの街路で出会う子供と言えば、盗人やならず者の雛みたいなのばかりだったから、ホウロウには、この純粋無垢な子供が新鮮だった。
「ああ、そうだ。これを忘れるところだった」とホウロウは背中越しに、懐中から短刀の柄の部分を前にして差し出した。
「は、これは……」エーデルガルトは、一瞬、その刀身が母親の血で染まっているような幻覚を見た。幽鬼となった母親の慨嘆が、その刀身を通して、聴こえるようだった。けれど、ホウロウが気を利かして、滝の清流で刀身を洗っていたので、血のりも血餅も付着していなかった。
なかなか、手に取ろうとしないエーデルガルトのようすに(まだ、返さない方が良かったか)と思いもした。
「いえ、いいんですの? わたしは、この刀で、ホウロウ様のことを……」<殺す>という言葉をエーデルガルトは使ったことがなかった。口が忌避するように震えた。けれど、昨日のあの行為は<殺す>という行為に他ならない。
「なんなら、いま、俺の首を刺してもいいぞ」
「まあっ!」エーデルガルトは水を浴びせられたみたいに悲鳴を上げた。ホウロウは大笑いした。
「おまえは乙女だな。冗談だよ、冗談」
「そうですか。冗談ですか……ほほ、面白いですわ。ほんとうは、そうは思っていないということですわね?」
「そうそう。で、鞘はあるか」
「はい」
「……なくすなよ。大切なものだ」とホウロウはいった。
彼女は短刀を鞘に納めると、ふっと、涙をこらえた。悲しみに打ち克つ力をホウロウから得るように、彼女は白い絹肌のような頬をホウロウの背中につけた。彼女はそもそも、父性に飢えていた。吸血鬼の生活文化は家父長制の濃い色彩を持っている。レオンは頑張って、娘を愛そうとしたが、彼生来の女嫌いの性質が、何度も、邪魔をした。もとから、男子が生まれることを望んでいた。家中の者や母親から受ける愛情は一身に受けて、育ったのは確かだったが、その栄養には父親がいつも欠如していた。その結果、この時、彼女は性急に、過度に、ホウロウに懐いていた。愛する者たちの死という汚泥のなかに萌芽した恋だった。
けれど、ホウロウはというと、上裸の背中にぴとりとくっついた彼女の人肌の温度を感じて、(懐かれちまったなあ。このあと、どうしよう)と不安に思っていた。
(この御方は、いつか見た劇みたいに、わたくしを救いに現れた英雄ですの?)と彼女は独り思った。
ホウロウはそれを知らずに、人気のない街道を歩いた。地平線を射殺すように睨んでいた。その瞳は道の先の血なまぐさい喧騒を見抜いているようだった。
トルンという田舎の村だった。ヒューマンと魔界を分け隔てる山脈のふもとに位置する小さな村だった。山脈の雪解けの清水が村を横断して、いくつもの支流を束ねて、国土を横断する大河となっていく。トルンには、墓標が無数にあった。みんな、日付の同じ墓標であった。怪雄ギルバートが、まず、この魔界の大地に顕現した時、一番初めに飲み込んだのが、この村だった。
村人も結構、年若いのが多い。吸血鬼は城下の者と、こういった平均的な民の間で生活に大きな分離がある。昨今まで、ハーフに対する虐待が壊滅的でなかったのも、吸血鬼の内実がそもそも貴族と農民とで寸断されていて、差別の向かう先が枝分かれするからであった。
土塀が環濠のように村を囲んでいる。櫓から、番兵が遠い地勢を睥睨していた。ちかごろ、匪賊がおかしいぐらい増えて、番兵の気の張りぐあいは尋常ではなかった。
「ねえ、姉様はまだ見えんの?」と大仰に騒ぐ女の声がした。番兵は櫓から下を覗いて「見えないですよ。なにも。ヘラ様、何か見えたら、すぐ呼びに行きますから」といった。
ヘラは村の大通りを小走りして、この村の中では一番、立派な邸の門をくぐっていった。
「おとっさん。ぜんぜん、見えないんですって」と大部屋の前で耳の遠い父親に向かって、怒鳴るように報告した。邸の大部屋で、家中の者たちも大勢いた。食卓は御馳走が並んで、なにか、祭日のような気配があるが、どうも主賓が不在らしい。家中の者の不安顔を見て、ふと「わたし、見てくる」と彼女は立ちあがった。
「やめろ。ちかごろ、匪賊が増えている」と彼女の父親は皺で瘤みたいになった瞼を薄く開いた。村の長で、戦争によって、崩壊しかけた村を、この齢まで支えてきた頑健な老人だった。エラにとっては、父親にあたり、エーデルガルトには祖父にあたる人物である。
「あたしが、ハーフの匪賊に後れを取るものですか」とヘラは父親の言葉に一層猛り立った。
「エラにも、城下の近侍がついているだろう。不安がることはない」
「そんなこといって、姉と姪になにかあったら、おとっさんのせいですからね」といって、大股に退去した。
田舎の野生は、ブレージア―城下の習わしの厳格さはないけれど、ヘラという男勝りにも、吸血鬼の男性優位に対する反動めいた感傷があるし、父親に対する反駁も、父殺し的な感情の発露と言える。透き通る空気と水の美しい村の裏には、戦火の傷跡を色濃く残す憂うつがある。
ヘラは、トルンの端の石橋をこえた小さな邸に息子と二人で住んでいた。夫はまだ、息子が二つだったころに、ギルバートの侵攻によって殺された。骸は見つからなかった。ギルバートは、殺した者を喰うという風聞がある。嘘らしいと思う魔界人はたくさんいるけれど、このトルンの墓標の下に、遺骸がほとんどないことをみれば、その噂の真を信じざるを得ない。
「おかあ、叔母さんはいつくんの」
「薪を切っておくれ、テオ」ヘラは話を逸らすようにいった。息子のテオは、今年、十三になる。横幅ったく広がった背中と農作業で固くなった手をした好青年だった。
けれど、ヘラにとって、この唯一、頼りなく、思えるのは、この子供に一度も<王家の血>を持つような気配すらないことだった。彼女は夫の仇を息子が討つという美談をほんの少しだけ、息子の成長に期待していた。
しかし、天運はそううまくはいかない。といっても、息子が他の九割九分の有象無象に生まれたからと言って、落胆することばかりではない。むしろ、ヘラは、納得している。
なにしろ、孝養のある子どもだったから、ヘラは、その落胆をおくびにも出したことがなかった。
彼女は邸の床几をまえに頬杖を突きながら、丸窓の外をながめて、(姉さん。大丈夫かしら)と不安に思った。戦火の傷か、彼女の不安は鬱積していきやすかった。
すると、ふと、外から「ヘラ様。慈父がお呼びございますよ」と呼ぶ声がした。彼女が顔を出すと、家中の下男だった。
さっき、怒って退去してきたのに、今度は何の用だと問いただすと、「いや、重大な詮議があるらしいので、村の父老も皆、呼ばれているので、台所の手伝いをしてほしいとのことです。テオ殿も伴って」と言われた。
ふん、と鼻を鳴らして、彼女は従った。
村長の邸に参集した老人たちの顔はどこか安穏としていた。ワインでも飲めるといった顔つきであった。じっさい、血の匂いのする杯が床几のうえに並んでいた。村の実力者たちが、三十人は並んで、集まっていた。
像みたいに真ん中の上座にヘラの父親は座っていて、おもむろに口をひらいた。
「御足労感謝する。皆も同じ思いだったろうと思うが、さいきん、やけにハーフの匪賊が多い。ワシも、不審に思っていたのだが、どうやら、わけがわかった。一応、皆に知らせた方がよいと思って、集まって貰った次第だ」
しれっと、男衆に混ざって、席にぽつんと座っているヘラが眉をうごかした。てっきり、姉や姪の捜索を皆に頼むものと思っていたのである。むっとして横やりを入れようとした。けれど、父親の口から発せられたことがあまりに奇妙で彼女は言葉を失った。
「ハーフの十五番町はまったくイナゴが通った後みたいに、人っ子一人いないらしい」
「えっ!?」と集まった者たちは驚いて、ざわめいた。トルンは人口は千に満たない。ハーフの番号が振ってある町は万単位で人が住んでいる。トルンの村人から見ると、その大量の失踪は人口的な比率を考えても、驚天動地の出来事だった。しかも、ギルバートの傷跡を色濃く残す村なので、こういった予兆には敏感だった。
「街には、死骸がそこかしこに転がっておる。おそらく、この擾乱に乗じて、匪賊の動きは活発になったものと見える。もしかすると、もっと、匪賊の集団は大きくなるかもしれない。なので、村の門楼はかたく閉じることにしよう。おって、お上から沙汰があるまで、皆、油断なきように。番兵も増やすので、家から壮健な者を出してくれい」
皆、各々、話を聞いてうなづいた。
ヘラは、姉のエラの旅程が遅れていることと併せ考えて、不安になった。
「おとっさん。姉さんは、やはり、匪賊に襲われたのでしょうか」
ヘラの問いに腕を組んで、沈思すると、老獪な父親は下男を呼んで
「……だれか、ダミアンを呼んで来い」といった。
ダミアンというのはこの辺りの領邦の間で、もっとも腕が立つ剣客だった。放浪の徒で、貴族の子弟の師範役を求めて、歩いているらしい。それが、このトルンにおいて、つぎの目的地に向けて、逗留していた。
それに金でも渡して、姉と姪の安否を確認しようという腹なのである。
ダミアンは昼間から、酒瓶を片手に、邸のまえにあらわれた。たしかに、巨漢には違いないが、風采はあまり上がらないし、肥えて太っている。
「村長、何用ですか」
「我が娘が今日、引っ越してくるはずなのだが、一向に現れる気配がないのだ。そなた、手が空いているなら、街道を見てきてくれないか」
「ああ、そんなことですか。お安い御用」邸に泊めてもらっていることに対する報恩もあるらしく、ダミアンは快諾した。
「気を付けよ。田舎の街道は匪賊が待ち伏せているかもしれぬ」
「まあ、賊と言っても異端児ですから、そう心配にはおよびませんよ」
そういって、ダミアンは踵をかえして、重そうな鉄靴の音を鳴らして辞去した。
すると、その背を見送るヘラに「おっかあ、俺も付いていっていいか」とテオがいった。
「え、なに。あんたが行っても、邪魔でしょう」とヘラがぴしゃりというと、テオはしょげた。腰に下げた木剣が寂しい。
それを見て、言った後に(少し、素っ気なかったかしら。どうしましょう)とヘラは思った。
すると、老父が見かねて、「ヘラ。良いではないか。行かせてやりなさい」といった。
「でも……ねえ」彼女は迷った。
「ダミアンは、剣客として名高い方だから、心配ない。テオ、ダミアンによく話して、許しを貰ったら、付いていきなさい。しっかり、いうことを聞けよ」
テオは「はい、おじい様」といって、元気に駆けていった。
「大丈夫かなあ」と彼女は嘯くようにいった。
「テオにも、思うことがあるんだろうて」
「でも、あの子には才能がありません。土民でいいのです」
「<王家の血>か。いいや、ワシはあれを才能とは思わん」
「でも、剣公様みたいに、幼年から、その力に目覚める方がほとんどでしょう」
「たしかに。ブレージア―の城下では、それが常識だ。しかし、ある学士が言うには、吸血鬼には、もとから<王家の血>が全員に備わっているらしい。違いは、その力を覆う殻が薄いか、厚いかでしかない。戦時には、わしらのような田舎者でも、かの力を開眼していく者が居たものだ。要は経験だよ。乱麻の時には、だれが、龍のように天に昇るか分からない」
(そんなもんかなあ)と思いながら、ヘラは父の話を聞いていた。
刹那に、土木工事をしているような鈍く重たいズドン、という音がした。なんだ、と大部屋に集まった全員が、その音がした方を見た。大部屋は出口が玄関みたいに繋がっていて、ヘラの方からも、邸の門が一望できた。その門楼をくぐって、坂道を上がってくる人影があった。しなやかで、大木のように背の高い人影だった。また、その人影の頭部には獣の耳が生えていた。
細い手首のわりに、太い二の腕だった。ずずず、と人をひきずって、こちらに向かってくる。
「――え、なに、アレ」ヘラは思わず、漏らした。理解がだいぶ遅れた。みんな、呆けたように平和に淀んだ危険察知能力を急激に覚まして、口々に「ありゃ、ハーフでねえか」と言った。
「あっ! たしかにあの風貌はハーフに違いない」と父親がいった。
けれど、ヘラはまったく別なことを考えた。
(デカい。あれは、まちがいなく、強い)。
誰もが、気圧されて硬直した。近づくごとに、男の顔が明朗に見えてきた。無為な淡い赤色の瞳だった。足取りにも、一言も発さない態度にも、無為が潜んでいる。
男は段を上がって、大部屋に足を踏み入れた。
「ダ、ダミアン卿」集まっていた老人の一人が叫んだ。
男が引きずってきたのはダミアンだった。顔を粉砕されて、朱に塗れて、死んでいるとも生きているともわからない。男はダミアンの巨体を軽々と、皆の床几のまえに放り投げて、左右に居並ぶ父老たちを交互にながめた。
男はおもむろに横の床几のうえに目を落として、ワインの残った杯を掴んだ。
「――お前らに聞くが、これはいったいだれの血だ?」
柔らかな声色のなかに、名状しがたい棘棘しさがあった。また、その誰もが知っている答えをあえて問うような修辞にも、身震いさせるものがある。
むろん、杯のなかの液体は特殊な防腐処理がされたハーフの血液なのである。
彼は不気味な笑みをうかべて、杯を上座に座っている村長に向かって投げた。老父の額が真っ赤に染まった。
「おとっさんっ!」ヘラが叫んだ。けれど、多少、額にケガした程度である。大部屋にいる全員が、目の前の異形な男に対して、新たな恐怖を感じた。
皆、同じことを思った。
(――こいつは、ギルバートに似ている)。枷をつけられたように、だれも動けなかった。
が、「やっ! 下郎っ!」と、その恐懼を共有できない年若いテオだけが、木剣を片手に突きかかっていった。彼はすでにダミアンと一度に殴り倒されたと見え、顔を腫らして門から走ってきた。
「や、やめなさい!」ヘラは思わず、叫んだ。その声は血気にはやったテオには遠かった。
男は身をひるがえして、児戯のように躱した。
ヘラは全身が総毛だった。あのときの光景とあまりに酷似している。毎夜、毎夜、瞼の裏に呪縛された光景と被った。
まさに、あの日、ギルバートに夫を惨殺されたときのことである。
テオは襟首を掴まれて、床に叩きつけられた。板木が跳ね返って、床に穴があいた。
転がった木剣を男は拾った。瞬間、男の顔はまったく別個の生物になったみたいに、無機的な表情を見せた。彼は子供用の刀身の短い木剣を振りかぶった。ちょうど、薪を斧で斬るみたいな動作で、振り下ろされて、鈍い音が鳴って、テオという青年の若い人生に終止符が打たれた。ヘラは、自分が腹を痛めて産んだ子供が目の前で、頭を割られて死んだのを見て、失神した。
「……一人たりとも、逃がさねえ」
ポロは息を吐いた。同時に、トルンという村の門が破られて、この世の悪鬼羅刹の雑踏が地獄から湧いてくるようにあたり一面に響いて、無辜の者たちの哀訴が鳴りやまなかった。
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