鉄と炎
レオンは流れゆく大河を見ていた。上流ははるか遠くのヒューマンとの境界になっている山脈から流れてくる。彼が見ているのは、その下流域だった。上流は雪解け水なので、透明な清流だが、下流は茶色い土を運んで、濁っている。流れも遅い。木造船が右から左へと流れていった。レオンは笠を深くかぶった。
「――倅殿、宿の工面はできたぞ」と同じような笠をかぶったブルーノが呼びかけた。
「ああ、先生。すまないな」
「……」ブルーノは背後で黙っていた。城下を脱してから、レオンはつねに厳しい表情をしていた。歩く所作にも、ぬぐいがたい殺意が漏出し、機敏に動く双眸には鋭利な光がある。
「先生、この世にはどれほどの塗炭の苦しみが溢れているのか。なんて、時代だろう」大河の雄大な流れをみながら、レオンはそう問うのだった。
「そうだな。殺されたハーフたちのことを考えると、同族として心が痛い。けれど、天は暗い時代には、錠剤のように英雄を配薬していくものだ。倅殿も、天の意志に選ばれた英傑だろう」
「どうかな。なあ、先生、俺はフォルカーに勝てるだろうか。屈託ない意見を聞かせてほしい」
ブルーノは微笑んだ。
「倅殿、昔、教えたことを覚えておられるか? 闘いで最も大事なのは――」
「決死の覚悟、だろう。先生」
「そのとおりだ。フォルカーは、いま、何を考えているだろうか? 旅の疲れを癒し、自邸に戻って、安閑と過ごしたいに違いない。つまり、どう転んでも、すべてを捨て、後顧の憂いの無い、君が勝つということだよ」
ブルーノはそう言って、「さあ、行くぞ」とレオンの肩をたたいた。
「ウム。わかったわかった。不安が消えたぞ」
彼は大河に背を向ける前に、遠くに見えるブレージア―城をちらりと一瞥した。(さらばだぞ、我が故郷)と思った。すると、自分の身が軽くなったような気がした。もう貴族ではないし、国の高官でもない。ただの男の吸血鬼が一匹いるだけである。ふふふと相好を崩して、大河を背にブルーノのあとを追った。
閑散とした農村だった。畑が広がっている。兵隊みたいに居並んだ植物が実を付けてお辞儀するように曲がっている。
「先生、ここでは何を育てているのだ?」
「ん? ああ、あれか。豆だよ、豆」
「ふうん」
「特殊な豆でな。潰すと、薬液が出てきて、魔力の増強効果があるらしい」
人の往来がそこそこある。すれ違う農民は、ふり返って、レオンの背中の大刀におののいた。
「その大刀はやはり目立つな」とブルーノが言った。
「しかし、肌身離さず、持っておけとは父上の教えだ」
「家宝か。お前の父上は、よくその大刀に話しかけていたよ。気が触れているのかとも思ったがな」
「俺も同じことを言ったよ。が、ごくたまに、こいつから人の気配のようなのを感じることがある。あながち、父上の言う通り、こいつは生きているのかも知らん」
ふと、遠くから、人の悲鳴が聴こえてきた。
「ム、なにやら。騒ぎか」レオンは元気を取り戻したように、言った。
「倅殿。路傍の喧嘩だったら、無視だぞ」ブルーノがくぎを刺した。
「おう、わかっている」
レオンは足早に人声のする方へと歩いていった。喧騒の気配から、一瞬で、ブルーノは(野盗だな)と思った。吸血鬼のコミュニティで盗みはめずらしい。彼らは同族への犯罪行為に潔癖だからである。
人混みをかき分けて、奔ってくる人影がひとつ、ふたつ、こちらに向かってくる。泥棒と見られる二人組が近づくと、レオンは足を半歩開いた。背が高い彼が道の真ん中にいると、泥棒も気づいて、立ち止まった。
「あ、貴様らは」レオンは驚きの色を浮かべた。泥棒はハーフだった。ふっと、逃げるようにふたりの泥棒は畑のほうへ道を曲がっていった。そのあと、吸血鬼の農夫たちが血走った目つきで後を追っていった。
その様を見送って、レオンは不安そうに「先生、見たか?」といった。
「あれは、フォルカーの魔の手を逃れた者たちだな」
「ウウム……」
不安が霧みたいに彼の胸にひろがった。(俺は野盗を助けるために妻子を捨てたわけではないぞ)と思った。ブルーノはレオンの胸中のわだかまりを察した。
これから命を賭して、今回のハーフの大虐殺の中核であったフォルカーと対峙するのに、生き残ったハーフたちが悪行を働いているのは、印象が悪い。道理が立たない。何より、心中に迷いを生む。
昼の気だるげな空気が、思い悩む大丈夫の背中に陰りをみせる。ブルーノはまず、泳がせるようにレオンに悩ませた。柔い土を軍靴が踏みしめている。人の思索の色が映っていくように、レオンの足取りはとぼとぼと重い。
その眼は思い悩んで、焦点があわない。地平の先の山脈の稜線をぼけっと見ている。
「みんな、郷里に帰ったころだろうか」レオンがぼそっと言った。
「……ああ、そうだなあ。もう着いてもいい頃合いだな」
レオンはまた黙った。
「……なあ、倅殿よ。吸血鬼はなぜ、吸血鬼と呼ばれるか、分かるか?」ふと、ブルーノがレオンの緘黙を突くように口をひらいた。
「――ん? いや」
「知っての通り、現代の吸血鬼は、八重歯を使った吸血行為をしない。他種族の血を吸っていたのは数百年の昔にさかのぼると言われている」
「だが、まだ、血を口から飲みはするぞ。俺は好まないが」
「さよう、現代の吸血鬼は血を八重歯で吸うのではなく、飲む。けれど、血はもうすでに酒のように酩酊するための嗜好品に過ぎない。古代の文献には、吸血すれば、一夜にして、どんな傷も治ると書かれているが、いまの吸血鬼は血を飲んでも、酩酊するだけ。魔界の四族のなかで、ここ数百年で、これほどの劇的に変質したのは、吸血鬼のみだ。倅殿、この事実、どう考えるか」
「先生、議論は苦手だ。答えから、教えてくれよ」
「わたしの考えでは、天が吸血鬼に平和を望んだのだと思う。このブレージア―だけでなく、この魔界の大地では種族の大乱が絶えたことがない。諸族の慣習、見目形、あまりに異なっているゆえ、つねに互いを憎み合っている。その四族の長と言っていい吸血鬼に、天は攻撃性を抑えることを望んでいるのだ。だから、その攻撃能力の最たる八重歯の孔を閉じた」
レオンはブルーノの言葉に眼の色をかえた。
「――まてよ、先生、その話、父上から聞いたことがある。聞いたことがあるぞ、先生。ガキの頃に親父がしていた話だぜ」レオンは子供みたいに興奮していった。
「ふふ、わたしが、君の父上にうわ言のように聞かせていたことだからな」
ブルーノはわらった。レオンはふ、ふ、ふ、と笑った。その足取りは、もう憂うつではなかった。遠く見える山脈の谷間に見える<竜のアギト>へ向かって、彼の神経は集中していた。その曇りのない背中に、ブルーノは満足げに頷いた。
中つ国から、竜のアギトの桟道へと至る道のてまえで、ブレージア―の精兵二万がちいさな宿場町に蝟集している。町長の来客用の建物の二階で、フォルカーは外の景色を見ていた。夕餉の匂いがどこからともなく香ってくる。
「なぜ、こうも我々のやろうとすることが、筒抜けなのか」フォルカーは嘯いた。
僧服のような黒衣を着た男がフォルカーの背後にいた。その男は仮面を付けていた。人間の顔を模した仮面ではない。白と黒の幾何学模様の不気味な面である。
「君は組織の<目と耳>をやっていて、何年ぐらいになる?」フォルカーがきいた。
「十年になります」仮面の男が答えた。無機質な声色で、あたりが凍り付くようだった。
「それで、我々の邪魔をしてくる<例の組織>のことはどれくらい知っている?」
「まったく、わかりません」
「そうだな。我々は、彼らの名前すら知らない。ということは、つまり、向こうが上ということだ」
「是非もありません」
「まあいい。最後は我々の勝ちだ。兄上は、なんと?」
「グレーゴル様は、よくやった、とだけおっしゃっておりました」
「よくやった。それだけか。兄上らしいな。降誕の儀はいつだね?」
「初冬に予定しております。死体が朽ちる前に」
「外道だな。まさに、外道である。兄弟そろって、地獄すら生ぬるい外道だ」フォルカーは呵々と笑った。
「フォルカー殿、もうひとつ、重大なお知らせが」
「ん、なんだ」
「剣公レオン殿が、死にました」
望外の喜びであった。フォルカーは目を丸くした。けれど、天啓のような直感が彼をとらえた。
「いや、ありえない」
「真偽は不明ですが、王妃様と姦通したという風聞です」
「ますます、ありえないな。あのカタブツが、猫女と交わるなど」
「わたしの部下が処刑にあたりました」
「あいつの死体はあがったのか」
「いいえ、火焔の印を使ったようで、跡形もありません」
フォルカーは顎に手を当てて、部屋のなかをうろうろし始めた。
「君はどう思うね。あいつが、死んだと信じるかね?」
「……賭けはしませんが、死んでいると思うこと、この上なく危ういと感じます。とくに、いまの貴方の身の上では」
「では、彼が生きていると仮定しよう。それで、彼は次に何をするか?」
「貴方を殺しに来るでしょう」
「なら、どこで、私を待ち伏せるか」
フォルカーは自分で問い、そして、瞬時に「竜のアギトだ」といった。
「では、私が先に見てきます」仮面の男が言って、立ち去ろうとした。それを、フォルカーは手で制した。
「……いや。君はすぐに兄上のところへいけ」
「――ですが」
「君は<王家の血>を受け継いではいないだろう。あいつも本気だ。助けは無用。王家の血を持つ者どうし、勝つのは強い心を持つ方だ。取り巻きがいると、心裡に穴が開く」
「御意」仮面の男は音もなく、退去した。それに入れ替わるようにして、階下からどかどかと忙しない足音が近づいてきた。足音は止まって、戸を叩いて「ラルフです。フォルカー殿、判断を仰ぎたいことがいくつか」と呼ばわる声がした。フォルカーの部下で、将軍のラルフだった。
「はいれ」というフォルカーの声に瞬時に呼応して、戸が開き、ラルフが入室した。
「兵の何人かが、婦女子の暴行して、死なせたらしいのですが」
「そんな輩は、さっさと首を斬って、町民に見えるよう、晒しておけ。放っておいたら、わが軍に対する評判も悪くなる。ラルフよ。いちいち、そんなことを聞いてくるな」
「それが……死なせた婦女子というのが、ハーフだったのですが。これはどのように軍法に適用したものかと」
フォルカーは一瞬、きょとんとして、天井を向いて考えた。そして、すぐに答えた。
「まだハーフなど中つ国にはいくらでもいる。それに、ハーフでも、女子は女子だ。不埒なことをしでかした者は、即刻、斬首せよ。今後も、同じことがあったら、斬首すると、全軍に伝えろ」
「御意」
フォルカーは「それと」と言って、全軍を統率するための印章をラルフに渡した。驚いて、ラルフは印章を大事そうに持って「フォルカー殿、これはいったい」と言った。
「わたしは、すこし留守にする。もし、一週間、経って戻らなければ、全軍は竜のアギトを通過して、ブレージア―に帰国すること。よいな」
「フォルカー殿、戻らないとはいったい、どういう意味ですか」
「ふふ、戯れで言っただけだ。けれど、お前がついてくるのは、つねに、私の代理を想定しているということだ。これも、訓練と思って、兵符を持っておけ」
「なるほど、はい、わかりました」
ラルフが辞去すると、フォルカーはまた、外を一瞥した。彼には心休まることが許されないようだった。
二階の望楼の欄干に足を駆けて、野鳥のように現れた人影があった。黒装束で、笠を被り、顔の下半分を黒布で覆って、いかにも、間諜といった見目形の男だった。
フォルカーはとくべつ、驚かなかった。恐ろしいほどの怜悧な人格の境地に到達していた。
「ブレージア―王国の宰相フォルカー殿」
人影はそういって、一枚の紙きれを差し出した。フォルカーは注意ぶかく、それを受け取ると、人影の姿かたちを二度見、三度見した。
紙切れに目を落とした。
(竜のアギトの谷口にて待つ。我が祖国の精兵を傷つける意図はない。願わくば、貴君は独りで来られよ)と紙切れには書いていた。差出人の名前はない。彼の喉がまるで別個の生き物のように震え出した。
「ふっふっふ」笑いがこぼれた。
「やはり、しぶとく生きていやがったか、レオン坊」
なにも言わずに去ろうとする黒装束の男の背にフォルカーは「待たれよ」と言った。
「こちらの間諜はどうやって躱した」
「もう殺した」
「ほう、なるほど。やはり、君らの方が我ら<歴史家>より上手のようだな」
「もうあきらめたほうがいい。お前はおわりだ」
男はそういった。フォルカーは、ふと、直感的な閃きとともに、幼少の記憶を思い起こした。男の声に聞き覚えがあった。そのとき、フォルカーは目の前の男がだれか分かった。
「まさか、貴方だったとは。そうか、あなたは、私の指南役のあとに、レオン坊の剣術の先生をやっていたな。我々の懐に最初から入り込んでいたのか。みごとだ、先生」
男はフォルカーを睥睨した。笠の下の影から、赤い瞳が覗いた。
「流石は若君。昔から、グレーゴル様と一緒で人の考えを読むのは得意だったな。しかし、道理というのを見誤ったようだ。残念だよ、わたしは」
「あの青二才のレオン坊を選ぶというなら勝手にしろ。が、結局、勝つのは我々<歴史家>だ」
「……君たちは大きな過ちを犯そうとしている」
「もう遅い。わたしがここで死んでも、降誕の儀は止まらない」
「死の龍は定命の者には乗りこなせない。ヒューマンに対する戦争兵器に使うつもりだろうが、身を亡ぼすことになるぞ」
「あの怪物を殺すには、この方法しかない」フォルカーはめずらしく熱気をもって言った。彼は、かつてヒューマンとの戦争で暴れまわった<ギルバート>のことを言っているのである。フォルカーの後半生はほとんどギルバートの悪夢による虚妄に彩られていた。
「若君と倅殿がともに戦えば、その怪物も倒せない相手ではないのに。……じつに、惜しいことをしたものだ」
フォルカーは呆然として、二の句をつげなかった。あまりに想像の埒外の言葉だった。彼も自分の力を頼みにして生きてきた男だったが、その彼をしても、ギルバートを正攻法で倒すことなど考えたことがなかった。それほど、若年のころに見た、<ギルバート>なる怪人物の強靭は神域に入っていた。けれど、フォルカーはギルバートを実際以上に考えている。それも、怪物が血煙のなかで見せる笑顔が、フォルカーにあまりに大きな恐懼として記憶されているからだった。
そのギルバートの幻影がはじめて、ほんのすこしの揺らぎを見せた。
「倒せない相手ではない」と薫陶を受けた相手から言われては、(ギルバートを過大に評価していたのか)と数舜でも思ってしまう。が、もうすでに外道の限りを尽くして、いまさら省みることは許されない。フォルカーも生半可な人物ではない。すぐに己の中の迷いを打ち消して、「先生、レオン坊に待っていろと伝えてくれ。やくそくしよう。わたしは兵士は伴うことはない」と言った。ブルーノは目礼して、暮色に消えていった。
「炎が鉄に敗ける道理はない」
フォルカーは嘯いた。懐かしい記憶が揺り起こされる。けれど、それに感動しない。悪の仮面が張り付いて、もう悪の顔貌そのものになっていた。
(ひとの心は無限である)と彼は思った。
(――巨悪も聖者も思いのまま)。天がたまたま、自分に悪を配役しただけであろう、と自然な気持ちで感じ入った。
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