吸血鬼に義の人あり

 晴れた空に猛禽が飛んでいる。眼下には、沃野が千里、どこまでも続いて、大河の支流が血管のように枝分かれしていく。無人の街の屋根に一人、ふしんな装束をした男が佇んでいた。そこはハーフの街だった。死体を食い荒らしにきた野犬の群れが街の横丁の陰に点々と見える。

 男は肩を枝のように突き上げて、腕を水平に伸ばした。すると、猛禽は止まり木を見つけたように下降してきて、彼の腕にとまった。

「……応答、願う」

 猛禽は首を曲げ、くちばしを開けたり閉じたりした。痰を切ったような鳴き声を上げて、「コトヅテ、コトヅテ」と叫んだ。

猛禽がしゃべっても、男はまったく驚く様子を見せなかった。

「だれからだ?」

「ヴィ――――」

「ほう。なんと」

「トラ、ヲ、テナズケル」

「虎を手懐ける?」

「カクドウシ、シス。ムネン」

「むむ。カク導師が死んだか……。では、こう伝えよ。準備はよいか」

「コトヅテ、コトヅテ」

「我、違う虎、救う。ヴィー、そちらも、頑張れ」

「ワレ、チガウトラ、スクウ。ヴィー、ソチラモ、ガンバレ」男は猛禽のちぐはぐな発音にため息をした。

「よし、行け」

 男は猛禽を空に向けて放した。彼は小さくなっていく猛禽のすがたを眺めながら彼はせき込んだ。肌が白いのは吸血鬼の形質というには、すこし血色がわるい。口を押えていた手もとに、血が握られていた。血を払って、前を向いたおもてには、老獪なる悟りが映っていた。

 ――ブレージア―城下は穏やかな昼下がりであった。碁盤の目状の横丁を異様に長い刀剣を背に抱えて、歩いている男があった。黒い衣の袖に手を入れず、髪も伸ばしたままだった。姿形から所作までどこか吸血鬼の定型から外れている。けれど、鋭く伸びる鼻と顎は吸血鬼のそれであった。

「剣公」と彼は呼ばれた。普段から背中に巨大な凶刃を背負っているのが由来だった。本当の名まえはレオンだったが、祖父と同じだったし、ほかにも吸血鬼にはレオンなる者はたくさんあったので、彼は「剣公」の方を気に入っていた。

 また、宮中では王室護衛官を務めて、コンラート王にも非常に近い存在だった。今日もあまり動かないコンラート王の周りについて回って、その身辺を守っていた。

最近、コンラート王は絵を描くようになって、城内の一室に美術家を囲い、よくそこで絵の講義を受けている。

「レオン、お前も描いてみよ」と戯れに促されるのを「私はいいです」と嫌そうに断った。

「お前はつまらん奴だな」コンラート王は笑った。太ったせいか笑窪が深くなったようにみえる。

「風流は知りません。芸術はクズだと父親に教わりました」

「はっはっは。あの御仁ならそういうだろう」

 コンラートの描きたがるのは女ばかりだった。室内の壁に描いた女の絵を飾るので、この部屋に来ると、たくさんの女に囲まれて睨まれているような気分になる。 しかも、女の種族も様々であった。獣人族、オーガ、フラーガ、驚くべきは人間の女までも彼は好んで描くのである。 レオンは主君を変人である、と思う。元来、コンラート王は政治にはあまり興味がない。幼少の頃から一緒に宮中で育って、青春を戦火に過ごした。しかし、どうしてか、ヒューマンとの戦争に敗北して、前王から王位を継いでからは引きこもることが多くなり、浮世離れしたものを好むようになった。

 レオンは窓から外を覗いた。ブレージアーの国土は青々として美しい。他国に比べても、小さいながらも肥沃な大地が広がっている。彼はこの国土を単なる風景として愛でるだけでなく、父祖たちの守ってきた土地として見るのである。

 この厳として存在する国土より美しいものがあるものかとレオンは思った。横で熱心に淫蕩な絵を描いている主君の丸くなった背中を見て、彼は憂いを感じた。

「ああ、もうここは良いから、息子の稽古でもつけてやってくれ」コンラートは言った。どうやら、邪魔と思われているようだった。

「わかりました」と彼は塗料の匂いが立ち込める部屋を後にした。 陽光の差し込む城内の内庭に木剣のぶつかる音がする。何度も靴底に叩かれて、庭に繁茂していた草むらは剥げて乾いた土になっている。木剣のぶつかる音に合わせて、地面を擦る足音がした。

「若君、剣技はもうこの辺で良いでしょう。次は近接戦闘です、はい、構えて」

 レオンが言うと、利発そうな少年は木剣を置いて構えた。その少年はコンラートの息子だった。レオンという名前だった。同じ名前である。長男はすでに夭折しているので、この子供が次の王位の継承者ということになる。背丈は同年代の男子にしては小さいし、細身である。けれど、切長の眉と澄んだ瞳は子供っぽさをあまり感じない。服飾にあまり拘らないのか、稽古の時は決まって農民みたいな格好でやってくる。そういう衒いのなさは吸血鬼には珍しい。レオンは、この少年に大器になる匂いを嗅いだので、コンラートの護衛と併せて、武術師範を務めることに快く同意した。

 レオンは少年を何度も地面にのした。しかし、少年は立ち上がってくる。無口だが、情熱家である。

 そして、レオンに舌を巻かせるのは、休憩中にカンどころの良い質問をしてくるところだった。

「先生、なんで、剣技の後はいつも取っ組み合いをするの」

「はっはっは。王子、<王家の血>を持つ者の戦いを見たことがありますか」

「いいや」

「王家の血を使うと、武器を使うより殴った方が早いということです」

「え、なら先生はどうしていつもでかい剣を背負ってるのさ?」

「うーむ。難しい質問です。これは体の一部ですから」

 レオンはニヤリと笑って見せた。彼は、とくべつ厳格ではない。自分が育てられたように、知性や身体を涵養しようと、目の前の少年に向かい合うのである。ゆえに、冗談を許し、自然体を貫く。王子には他にもたくさんの家庭教師がついていて、他に学ぶべきことがある。そんな教育を飲み込んでいった王子はすでに博学である。けれど、城外にはあまり出たことはないし、城下の壁外には出たことが一度もない。だから、王子はよくレオンを質問攻めにする。

「先生、今日の歴史の授業で出てきたんだけどさ。やっぱり、ヒューマンとの戦争の箇所は省かれたんだよね。実際何があったか詳しく教えてくれる気はないみたいなんだ。まさか、父上に聞くわけにもいかないから、先生、教えてよ」 

 レオンは困った顔つきでしばらく考えた。王子は好奇心が旺盛だった。レオンもその点は好ましいと思う反面、その好奇心は大人の禁忌とするところにまで飛び込んでくる時がある。ヒューマン、つまりははるか山脈を超えた先のヒト族に二度目の敗北をしたことは吸血鬼からしてみれば、国辱であり、思い出したくない古傷なのである。歴史書はすでに修正されているらしい。しかし、王統を継ぐのならば、生身の歴史を知らなければならない。

 レオンは迷った。

 それは果たして、自分の口から軽々しく教えていいのか。彼は内庭の四隅に伸びている支柱を見た。いつも、そこに王子の母親、つまり王妃が隠れるようにして、稽古を覗いているのだった。やはり、今日もそこで召使いを連れて、王妃がじっとこちらを見ている。レオンは咄嗟に気づいていないふりをした。王妃は美しい方だった。滅多に表情を崩さない。視線も刃物のように鋭い。元は側室だったが、正室が早逝したことで王妃になった。この大出世を見て、民衆の中には前の正室を毒殺したと邪推するものもあった。コンラートとの夫婦生活は円満ではないようである。これ以上世継ぎが産まれ得ないと確信しているがゆえ、コンラートは王子の教育に注力するのである。レオンは迂闊なことは言えないと思った。

「さあ、どうでしょう。何が知りたいかによりますな」

「……ギルバート」

 レオンは目を丸くした。ギルバート、ただの名前である。けれど、その名前には呪いがへばりついている。レオンは周りの気温が下がったような気がした。

「まあ、二度目の戦争の時は私も若かったので、そこまで直接経験したわけではないのです。知っている範囲でなら、教えられないこともないですが」

「先生、俺、王位を継ぐんだろう? なのに、俺は、この国のことをほとんど何も知らないんだぜ」

「……」

 賢い子だ、とレオンは思った。賢者は己の知らないことを知っている。浮世を離れて、芸を嗜み、世界を知った気になってしまっている父王コンラートは、この少年を「変わった子だ」と小馬鹿にしている。

(変わっているのではない。成熟しているのだ)とレオンは思った。

「いいでしょう。私が見たものをお話ししましょうか」

 レオンは観念して、地面にしゃがみ込んだ。

「まずは見目形から。黒い髪、瞳の色までは覚えていませんが、かれは獣のような攻撃的な顔をしていました。また炭を塗ったみたいな特異な戦化粧をしていました」

「へえ。それは獣人族みたいな?」

「いえ、獣人族の戦化粧には見てとれる規則性があります。彼のにはそれがなかった。今思えば、あれは自分がギルバートであるという誇示だったのだと思います。彼は恐怖をうまく使った。酷い殺し方をするのも、彼の戦術の一つです。軍営は彼の来襲を知らされるたびに浮足だっていたのを覚えています」

「ギルバートは優秀な戦略家だった?」

「……彼は軍師ではありません。何せ、一人で突進してくるのですから」

「一人で突進? 先生、そりゃあ強いのは本当だろうけど、一人で千人は倒せないよ」

「常識的に言えば、そうでしょうねえ」

「そうでしょうねえって」

「けれど、実際に、青色山脈の手前に布陣した我が軍を一人で押し返したのは事実です。それにヒューマン側の軍は冬の山脈を越えてきて、ほとんどヘロヘロでしたから」

「先生、その戦争の時って、今よりも王家の血を持つ吸血鬼がたくさんいたんだろ。どうして、ヒューマン一人倒せなかったのさ?」

 レオンは感慨のこもったため息を吐いた。三十年の年月によって凝固した想念が吐息に宿っていた。賢明な少年にもわからない大人の憂鬱であった。

「……私はその理由を人生を投じて考えてきました。簡単な理由です。王家の血を持つ者たちがとんでもない臆病者だったというだけなのです」

 レオンの声色が変質した。王子は身震いした。形式上の身分差は消えて、二人はただの大人と子供になった。

「我が国は王家の血を開眼した者を優遇します。城下の北に屋敷を与え、美しい妻を与え、所領を与え、この世の生を謳歌させる。王子よ、想像してください。そのような愉楽を与えられた者が戦地で命を捨てる覚悟を持てると思いますか。ご存知の通り、王家の血を使うと、体に異常をきたします。しかも、戦っている最中でも相当な苦痛を伴いますから、これは覚悟がなければ使えません。当時、王家の血を持つ者は百名を数えたと言われ、その九割方が戦死しました。けれど、その中で、王家の血を開いて、ギルバートに戦いを挑んだのはほんの数名に過ぎません」

「その一人が先生のお父上ですか?」

「さよう。ギルバートの侵攻を、このブレージアーの京師の前で止めたのが、我が父でした。そのおかげで、その子息の私は、このように王室護衛官というたいそうな重職に就いて、王子の稽古のお相手をしているのであります」

 レオンは少年に戻ったような誇らしげな笑みを見せた。

「先生、今のお話は、我が人生で聞いたどんなものよりもためになりました」

 王子は慇懃に跪こうとした。

「いやいや。王子よ。おやめなさい」レオンは慌てて、王子の伏せられかけた体を手をとって止めた。

「では、先生、今日も修正された歴史の授業があるので、これぐらいで」王子は穏やかな笑みを見せた。そして、名残惜しそうなそぶりは見せずに城内の廊下を颯爽と走っていった。忙しない背中だった。

「――ほ、ほ、ほ」

 いやな猫撫で声が響いて、レオンは振り返った。石造りの支柱の影から、王妃が顔を出した。芳醇な女の香りが鼻をついた。レオンは眉を顰めた。香水の匂いの中に、甘ったるい体臭が主張してくる。獣の情欲を惹起するような蠱惑的な香りである。

(きたぜ。女狐がよ)。

「王妃様。今日も変わらぬ美しさで」レオンは軽く会釈した。

「剣公殿、ご機嫌いかが?」王妃ヒルデガルトは弓弦のようにピンと張った背筋をさらに伸ばした。胸から腰回りに緩急がある。何か紛い物を胸の中に入れてないらしいことは男の目で見ればわかる。また、彼女は非常に背が高かった。偉丈夫のレオンですら、そう簡単に見下ろせないほどだった。その体躯で、また一歩彼女はレオンに近づいた。コツンと石畳が鳴った。

(ちけえよ。この女)。彼のおでこの血管が脈打った。

「私の機嫌ですか? ええ、まあ、最近は平和ですからな。特に憂うこともありませぬ」

 人形のような顔面だった。女の顔が自分の背丈に迫ってくるのは不思議な感覚であった。面長で可愛いらしいというより彫像のような整合された顔つきだった。白い肌が陽光に乱れるように反射して、その白い背景の上に赤茶色の大粒の目玉が嵌まり込んでいる。めったに動かない目玉である。爬虫類みたいに一直線をじっと見つめている。見られているのは自分の顔だと思うと、レオンは、目の前の婦人がより大きく見えた。

「奥様はお元気?」

「細君は元気だけが取り柄ですから」

「ほ、ほ、ほ」

「では、私は城下に用事があるので、これにて」

 レオンは逃げるようにして顔を背けた。 去り際、「あ、お待ちになって」と急に腕を掴まれた。温かく柔らかい手のひらが、レオンの手首を握った。怖気が彼の手から首筋に走った。 首だけが彼女を遠ざけるように曲がったまま、レオンは「まだ何か御用ですか」といった。

「男手がいるのです。部屋の模様替えをしようとしたら、衣裳箪笥が重くて動かないのですわ」

「――は?」

 彼は開いた口が塞がらなかった。ピクリと腕の神経が震えて、筋肉が振動した。

(ありえない。何を考えている)。一応、相手はコンラートの妻、この国の王妃である。しかし、重職にあり、王家の血を持ち、国防の要であるレオンに対して、特異な頼みであることは間違いない。

「男子が女子のお部屋に足を踏み入れるわけにはいきませぬ。城内に変な噂が立つことも考えられますから」

「ほほほ、考えすぎですわ。そう長く時間は取らせないから、頼まれてくださる?」

 レオンは嫌そうな顔を顰めると、ヒルデガルトの後ろに控えている召使いに目顔を使った。

「あ、剣公様。今、城内には男手がありませんので。コンラート様と昵懇なあなたならと。奥様も、いろいろ勘案した結果でございまして」と召使いは言った。

 確かに、今は城内だけでなく、城下にも男の兵士は少ない。けれど、彼はただの将士ではない。王室護衛官といっても、戦時には陣頭に立つ大将軍格なのである。

(我に雑用をさせようというのか)。生来、かれにも怒りっぽいところがある。

「わかりました」と彼が折れると、「ほほほ」とヒルデガルトは笑った。彼の口の中で長く尖った八重歯がギリギリと音を立てた。

 王妃の部屋は絢爛だった。扉は異国的な意匠が施されているし、天井には木のように枝分かれした燭台のようなものがつり下がっている。一人には大きすぎる寝台はピンクのリネンで囲まれて、その側面が金細工で模様を描いている。

 ここでも、例の甘ったるい匂いがして、彼はうんざりした。それに感応する自分に対する廉恥が何よりも鬱陶しい。

「何をどこへ運べばよいのでしょう?」

 すると、気を利かせた召使いが「ああ、剣公様。お背中の大刀……」といって両手を伸ばした。

「気をつけよ。女には重い」

「ああ、これはどこを持てば?」

「どこを持ってもよい。刀身は刃こぼれしておるから、怖がることはない」

 召使いは両手で大刀を抱えた。

「もう、あなたは邪魔だから出てなさい」ヒルデガルトは召使いに、そういって、虫を払うように手を振った。

「ああ、はい。奥様」にべもなく、退去する召使いの様子を見て、レオンは王妃の性格の悪さを感じた。ブレージアーの北面に住む吸血鬼は大抵、貴族であり、奴僕を抱えている。この貴族社会の中では使用人に対する応対が、その人格を反映するといってよい。

 使用人が去って、部屋に二人きりになると、レオンはより不安になった。女と男が密室に二人っきりである。奇妙な空気が流れる前に「さて、私はどれを運べばいいのですかな?」といった。

「その衣裳箪笥をそこの角の方へ」

「……」

 大丈夫には家具など軽い。持ち上げると、ヒルデガルトに「ほほほ、力持ち」と背中越しに褒められて、怖気がした。言われた通りに箪笥を動かしたが、あまり変化がないように見える。

「ここでよいですか。あまり変わっているようには見えませんが」

「……ええ、そこでいいわ」

 彼女は潮らしくなって、「では、これで」と逃げるようなレオンの背中を追うように「お待ちを。本当は家具のことなど、どうでもよかったのですわ」

「と、いうと」

「貴方様と二人きりでお話ししたくって」

 ヒルデガルトの顔が真っ赤になった。口は半開きになって、瞳は艶めかしく潤んだ。口角の端に透明な粘液が漏れる。ヨダレである。三十路の女体に溜め込んだ情欲が液状となって、外部に漏れ出てくるようである。秘してきた想いはいつの間にか呪縛となっていた。しまいには、腹を痛めて産んだ息子に同じ名前をつける始末であった。

 しかし、彼女はレオンが一番嫌うものを知らなかった。淫だった。彼は父親からそこだけは厳しくされた。冗談みたいな話だが、彼は十八になっても一度も自慰をしたことがなかった。性的に覚醒すると、彼は父親の教育の意味を理解した。

 普通の吸血鬼の生活は淫蕩極まりなかった。混血種が、このブレージアーに最も多く見られるのも、その強欲の落ち度であった。レオンは自分の生まれた種族の最大の欠点が性の乱れにあると知った。

 ヒルデガルトは堰を切ったように口角泡を飛ばす勢いで、上着を脱いで、彼の胸に縋った。

「ず、ずっと、お慕いしておりましたの。どうか、お願い」

 ヒルデガルトは尋常ではない力でレオンの服の裾を引っ張った。彼は微動だにできなかった。偉丈夫の膝が恐怖に打ち震えている。 端的に言えば、女恐怖症であった。大刀を背に、街路を練り歩く巨漢にこれほど単純な弱点があろうとは誰も思わない。

 彼は怖いと思った。女は何を考えているのかよくわからない。彼には女が魔物のように見える。 妻と子供一人作るのに苦労した。結局、生まれたのは女子だった。男が生まれるまで、この地獄が続くのである。

(次も女の子だったら……。また、女か)

 女とは彼にとって、自分が不完全であると証明する数式の記号のようであった。

「こ、このケダモノめが!」

 レオンは彼女の細首を掴んだ。まともに取り合わずに、退去すべきであった。が、彼の女への恐怖が、ヒルデガルトを敵として認識させるのである。ドクンと心臓の脈打って、彼は一瞬、身体中が破裂するような波動を感じた。

 彼は無意識に<王家の血>を開きかけたのである。

 ヒルデガルトが潤んだ瞳で見たのは幻覚ではない。刹那のあいだ、彼の顔面は銀色の膜に覆われた。銀色の中に、赤い目玉が鋭く光っていた。 レオンは、その時、罪の意識をもって我に帰った。

「ご、ご免」

 レオンは逃げるように走って退室した。額から冷たい汗が噴き出していた。焦って足が絡まった。武人の走り方ではなかった。

「あ! 剣公様」 と召使いに呼び止められた。

「ああ、悪かった。重かったろう」

 彼は召使いに預けていた大剣を再び背負って、幾分か冷静さを取り戻した。背筋を伸ばし、胸を張った。 すると、召使いは彼の首が銀色の膜に覆われているのを見て、唾を飲んだ。悲鳴を上げようとした口があんぐり開いたまま「あ、あ」と声を漏らした。 レオンは気づかず通り過ぎた。瞬きする間に、首は元の肌色に戻っていて、召使いは幻覚を見たものと思った。けれど、それを否定するような光景が飛び込んできた。彼の背中の凶刃が金属の光沢を放っていた。刃こぼれしてなまくらだったはずの刀身は悪魔的なほどの鋭さを感じさせた。その輝きは一瞬で消えて、すぐもとの刃こぼれした刀身に戻った。

 ――レオンは城の外へ出ると、当然のごとく不安を感じた。王妃の首を握り締めた感触がまだ手のひらに残っている。 彼は二つの罪の意識に苛まれながら、城下の方へ続く坂を下った。一つは女に手をあげたことだった。王妃があるまじき要求をしてきたことが発端だったが、それでも主君のコンラートの妻に暴力を振るったことは動かせない事実だった。 そして、二つ目は<王家の血>を開きかけたことである。ヒルデガルトがどこまで視認したかは定かではないが、顔が鉄に覆われた状態まで見られたとなると、難しい事態になる。平時に、<王家の血>を開くことは禁じられているからだ。

 厄介ごとが増えたとため息まじりに、彼は城下の最下層に足を踏み入れた。ブレージア―の城下は三つの区画に分かれている。仕切りみたいに、北側から南へと階層上に赤門、茶色門、黒門という門楼によって寸断されている。吸血鬼は身分によって、ろこつに住む場所を制限されているのである。 赤門の先にはレオンのような貴族階級が住み、茶色門の先には職人や商人が住んでいる。 レオンのような貴族階級でも、茶色門にはよく出かける。この中産階級の住む区画には東と西に一直線に道が通っており、商人の行列が通り過ぎやすいようになっている。常に人口も、この区画が一番多い。さらに、そこを越えて黒門をくぐると、様相は一変する。 とにかく道が入り組んでいる。そして、狭い。四つ辻がクモの巣のように張り巡らされている。往来する人々の瞳にも、どこか暗鬱としたものがある。浮浪者がところどころに座り込んで、飢えた獣のように目を光らせている。 ここには裏の社会がある。蠢動する世界の動きは、この場所に流れ込んで地下水のように停滞する。政界で闘う者は、この場所の無法者の力を借りずには生きていけない。 彼は路傍に止まっている馬車に乗って「どこでも好きなところへやってくれ」と言った。馭者は「やあ。倅殿」と言って、鞭を打った。

 その馭者はブルーノと言う裏社会きっての情報屋であった。レオンの父親の代からの付き合いで、ほぼお抱えの間者と言っていい。なにせ、レオンが子供のころは武術師範まで務めていたひとだった。ここまで昵懇であり邸に出入りしていたにも関わらず、レオンはブルーノのことをよく知らなかった。レオンが成人すると、ブルーノは鳥が飛び立つみたいに、邸を出て、世界の方々をうろつくようになった。家中の者によると、それがもともとの彼の生活だったらしい

 ブルーノは一枚布の僧兵のような外套を着こんで、フードを深くかぶっていた。顔はよく見えない。顔の下部分からにやけた時に白い八重歯がのぞくのが印象的である。馬車の車輪が乾いた地面を転がっている。どこへ進んでいるのかは知らない。いつもそうだった。たいてい、どこかへ馬車を走らせて、城下の門の前に着く頃には話が終わっている。

「倅殿、あんたに頼まれた通り、フォルカーがやろうとしてるハーフの虐殺のことをだいたい洗っておいた。いやあ、これは命がいくつあっても足りないねえ」

「ご苦労だったな。先生」<先生>という言葉は重い。国の重臣であるレオンが先生と仰ぐならば、それなりの人物でなければならない。が、傍から見ると、ブルーノは浮浪者である。それでも、幼年のころに剣を教わった恩義をわすれず、いまだにレオンは彼のことを先生と呼ぶのである。

「で、どうだった」

「ううむ。中つ国の皇帝から檄が飛んだのは本当らしい。しかしな、中つ国の中枢はフォルカーの実兄グレーゴルが握っている。それが厄介だ。グレーゴルは秘密裏の暗殺集団を忍ばせている。俺でも、近づくには限度があんだ。だから、グレーゴルのことまでは手が回らなかった」ブルーノは客車の方を振り返っていった。

「べつに構わない。知りたいのはフォルカーが何をしようとしているかだ」

「……倅殿、あんた、甘いな。そういうとこは御父上にそっくりだが」

「なんだ、どういう意味だ」

「ハーフなんかをどうして助けたい?」

 ブルーノは聞く。レオンは言い淀んだ。

「……俺は、ハーフの町普請を担当した時に彼らの世界を見てきたが、まったくもって、吸血鬼に明らかに劣るところを見出せなかった。あれは、明瞭にヒトなのだ」

「ふんふん。しかしながら、背が小さいのが多いし、畸形的な顔つきのもたくさんいるように見えるがな」

「……無礼なことをいうな。もし、混血のせいで虚弱になるのだとしても、その落ち度は彼らにあるようには決して思われぬ。我が種族が荒淫であることが理由だろう」彼は王妃の情欲に溢れた顔を思い出して、気分がわるくなった。

「だが、街の治安は悪いし、野蛮だ」ブルーノは言った。彼はわざとレオンを煽るような口ぶりだった。止まり木の鳥が様子を窺うように、彼の答えを待っている。

「吸血鬼の下層民も似たようなものだ。治安の悪さも、貧しいのがわるいのだ。そして、貧しいのは、ブレージア―城下の北に住んでいる我ら貴族階級が贅沢ばっかりやっているせいではないか」

「あんたは贅沢しないのかい?」

「しない」

 ブルーノは軽妙な口ぶりである。貴族のように言葉に修辞があまりないし、会話に間隙がない。むすっと表情をこわばらせながらも、レオンは、この老獪な吸血鬼を話せる人だと思っている。

「いいから、さっさと調べたことを話せよ、先生」

 すると、気分に影が差したように、あたりの光景に違和を覚えた。彼は客席の窓に顔を近づけて、外を覗いた。

「ここはどこだ」

 白塗りの五階建ての建物が左右に並んでいる。その間には青々とした灌木が伸びている。見たことがある場所だった。 (妙だな)と思って、レオンはあたりを見回して、背後のブレージア―城とその城下町を認めると、「そんなバカな」と馬車から飛びだした。 あの場所にブレージア―城があるとすれば、おのずの今いる場所がどこか分かった。

「ここは、ハーフの一番町か……。――ばかな、あり得ん!」 ブルーノは馬車を止めて、彼が長嘆するのを意味深長なまなざしで見ていた。ブルーノは「だから、口で言っても、信じないと思って、ここに来たんだ」と言った。

「住人がいない! いったいどうなっている」

「倅殿、気づくのが、遅かった。虐殺はすでに始まっている。ここだけではない。大小三十近くあるハーフの町はたいてい、こんな有様だ」

 ブルーノは言いながら、顎をしゃくった。その先には無辜のハーフたちの死体が転がっていた。戦場で見る死体とは違う。すべて、逃げ傷である。

「しかし、数が合わない。ここにはもっと多くの人が生活していたはずだ」レオンが疑問を呈した。

「すでに連れ去られた」

「どこへ」

「龍のアギトを越えて、中つ国の帝都へと向かっている」レオンはそれを聞いて、即座に、全力で駒を走らせて追いつくか、頭で計算したが、すぐに不可能だと思った。

「いったいこんなことをしてなんの益がある」

「なにやら、帝都の政府はどでかいことをしようとしているようだが、これ以上は深入りできなかった」

 レオンは熱を帯びて、意味もなく四方を歩き回った。ブルーノの方を振り向くと、殺意のこもった目で「だが、どうやったんだ。昨日、フォルカーが動かした兵力は二万に満たない。どうやって、混血種たちをすべて縛することができた。彼らにも、自警団があるんだぞ」

「それは、あれの所為だろう」

 ブルーノは白塗りの家屋の壁を指さした。壁には古代の文字で<岩>と書いてあった。

「ゴ、ゴーレム。奇術を使いやがったのか。だが、わが国にはそんな高度な術師はフォルカー以外にいないぞ。この数は一人でどうにかできるもんじゃない」

「その通りだ。出所は間違いなく、フォルカーの実兄グレーゴルだ。つまり、帝国の術師によるものとみていいだろう。倅殿、敵はあんたが思っているよりずっと巨大なようだ」

 レオンはブルーノの話の後半を聞いていなかった。憂国の大丈夫は、祖国の死を感じた。 まだ、この場所から見えるブレージア―の大地は健康のままである。けれど、人心が腐乱していた。 この大地のすべてが、淫蕩で傲慢で冷酷であるように彼には見えた。

「おやじ! これが、あんたが命をかけて、守りたかったものだったのか。むしろ、こんな下衆どもは、すべてギルバートの野郎に食わせてやったらよかったのだ」

 彼は子供みたいに悪態をついて、半狂乱になった。彼の赤眼の動向は極限まで広がって、白目は赤くなって、涙で潤んだ。

「倅殿、情けないこと言ってる場合じゃないぞ。これから、どうする?」

 レオンは呆けたように、それには答えず「知ってるか。この街ではな、俺の娘と同じぐらいの女童が女郎小屋で働いていたんだぜ。顧客は俺のような貴族の吸血鬼だった。小児愛の癖がある奴らだろう。俺はそんなのが嫌で、耕作地を増やして、農業の比重を増やし、ハーフにまともな仕事を与えようとコンラートに何度も言った。だが、あいつは口ごもって、却下しちまった。その時も、あのフォルカーは口出ししてきやがった。ハーフに耕作地を与えすぎれば、人口がふえすぎて、制御下に置くのが難しくなるってよ。だが、間違いねえ。あいつは、あの時から、ハーフを皆殺しにする気だったんだ」

 レオンは火を噴くような口吻で怒った。この口調が彼本来の地金なのである。もともと、ブレージア―城下で暴れまわる不良青年だった。油断すると、激烈な血液が騒ぎ出すのである。

「倅殿、悪たれ小僧に戻ったみたいな口ぶりだな」

「ああ、演技はおわりだ。わりにあわねえ。我慢の限界だ」レオンは地面に唾を吐いた。

 ブルーノは呵々と大笑いした。不貞腐れた子供に見えて、レオンはかんたんに折れる者ではなかった。それを知っているがゆえに、ブルーノは冷静に言葉をつづけた。

「フォルカーの行軍には、いまとなっては追いつきやしない。しかし、帰り道だけは明白だ。龍のアギトは必ず通る」

「……知れたことだ。もう帰ろう。ご苦労だったな。先生」

 レオンはその一言一句に究極の情愛と感謝を映した。先生という語がブルーノに平穏だった頃を懐古させた。

「……倅殿、いままで、黙っていたことがある」 ブルーノは何か感化されたように重たそうに口を開いた。レオンは驚いて振り返った。別人に話しかけられたような気がしたのである。

「なんだ。先生」

「……俺は君の叔父なのだ。つまり、君の父上の弟だ」

 レオンは目を剥いた。

「あんたが、俺の叔父上だと……。そんな話、父上は一度も……」

「それもそうだろう」

 ブルーノは深くかぶったフードを取った。彼の額には小さな角が二本生えていた。

「俺がハーフだからだ。腹違いの弟なのさ」

 

 ――レオンは難しい顔をして政庁から出てきた。ブレージア―も、肌寒くなってきた。吐く息は白くはないが、朝露が霜になりかけているのを感じさせる。彼は不機嫌を顔に出さないように努めていた。

「剣公、剣公」と城下の小童に呼ばれても、笑いながら「おう」「やあ」とか言い返している。

 石を投げられても、素手で弾き返したりして、小童を楽しませている。彼は人気者である。けっして、英雄の父の七光りではない魅力と人望を備えている。

「うわ。ほんとに弾き返したよ」

「当たり前だ。戦場では矢や魔球が飛んでくるからな」彼がそういうと、小童たちはまた喜んだ。

 平常通りの顔つきで、彼は邸に帰ると、そこではじめて血相を変えた。玄関の石畳をこつこつと小さな足で駆けてくるのが聴こえた。十歳ぐらいの彼の娘だった。

「あっちいけ」とレオンは娘を突っぱねた。

「……お父様」

 娘が立ち尽くしていると、乳母が後からかけてきて「エーデルガルト様。旦那様はお疲れのようです。あっちで遊びましょうねえ」と言って、彼女の手を引いて、庭の方へ行ってしまった。 門をくぐって、塀の中の自分の家に戻ると、許されたように彼は溜まった不機嫌を、その面に現してきた。

「……あの子にあたることないでしょう。いったいなにごとですか」

 と玄関の方からレオンを諭す声がした。

「……エラ。わが心、決まった。離縁だ。いますぐ、皆に伝えろ。荷物をまとめよ。家財はすべて持っていけ」

 レオンの言葉を聞いて妻のエラは、一瞬、当惑した。が、すぐに呑み込んで「よくお考えになったのですか」と聞いた。

「ああ。もう十分、考えたよ」

 彼がいうとエラは頷いた。それから下男から妻のエラまでが家財を運び出したり、掃除をしたりとレオンの邸は嵐のようになった。

 レオンは自室で一人、剣を見ていた。

「フォルカー、あんたを殺して俺も死んでやる」

 彼は再度、出仕した。

「レオン、どこ行っておった」コンラート王は自室の安楽椅子に座りながら聞いた。最近、いよいよ、気を遣うほどにコンラートは太った。太った分、よく椅子に座っている。

「王よ。ハーフの虐殺は、誰の献策ですか」コンラートはめんどくさそうに眼をそらして、頬杖をつきながら、外の景色を見た。

「……帝だよ」

「なぜ、お許しになったのですか」

 聞かれて、コンラートはさらに困った顔をした。

「そりゃあ、ハーフがいると、血筋の力が弱まるからだろ。俺たちの国は山があるとはいえ、ヒューマンと境を接しているし。もうギルバートの悪夢は見たくないからなあ」 レオンは王の前で長嘆した。王として宮中に引きこもり、外の世界を知らないゆえにフォルカーの言葉に簡単に丸め込まれる。幼少のころの人間陶冶は見る影もない。その精力はすべて、夜の痴夢に費やされているらしい。 レオンは腹が立ってきた。こういう時、彼の口調は激烈になり、コンラート王と過ごした幼少のころの地金が出てくる。

「王よ。フォルカー殿のいうことを真に受けて、国を傾ける気ですか。あの男は、皇帝の側近の弟君ですぞ。帝国と結んでどんな奸計を練っているか知れたものではない! 父祖たちから受け継いだ、この土地を帝国にくれてやるつもりか」

 コンラートは安楽椅子に凭れ掛かっていた背をぴんと張った。驚いてまごついた口と当惑した瞳が哀れだった。闘気がない。怒っても張合いがない。

「ハーフの民を虐殺するなどもってのほかだ。彼らには、我らの血が色濃く流れているのだぞ。血の濁りがなんだ! その濁りを生んだのも、我が主君のような女遊びをする輩が跳梁跋扈しているからではないか! いい加減、目を覚まされよ。安穏とした日々が続いていたから、口をつぐんでおりましたが、もうこの危急の事態には黙っていられない」

「……レオン。フォルカーがいうには、君の方が佞臣だと」コンラートは自信なさげに言った。

「俺が佞臣ですか」悪寒がするようだった。レオンはこぶしを握り締めた。青白い手の甲がひび割れるように筋張った。

「もちろん、わたしは信じなかった。君とは長い付き合いだからな。しかし、いまの口吻を聞くとなあ」

 レオンは首から下がっているアミュレットを、コンラートの膝に投げた。

「官職などもういらん」

「なに。その年で隠居でもするつもりか。妻子もいるではないか」

「妻子とは離縁する」

 コンラートは安楽椅子からひっくり返らんばかりに驚いた。間抜けな顔で、投げ落とされたアミュレットを拾っている。

「気でも触れているのか。お前には<王家の血>が流れているんだぞ。一族に貰ったものではないか。かんたんにやめられる運命じゃないぞ」

 コンラートの言葉の終わる前に、レオンは部屋を飛び出した。廊下を歩くさまは鬼神のような怒気を発している。 すると、「先生、どうされました?」とレオン王子に呼び止められた。

「王子、きょうの稽古は素振りです。わたしは用事がありますゆえ」

 子供に構っている暇はない、と言わんばかりのせわしなさであった。彼はあたりを見回して、王妃ヒルデガルトがいないことに安堵した。もう厄介はこりごりだった。王子はその背に暗澹たるもの、大人の憂鬱を見て、子供ながらに心配になった。

 ――レオンはブレージア―城から出て、自邸に帰った。邸の前には家財を積み込んだ馬車やらが行列になっている。下男の一人が山積みになった茶器や什器を両手にもって歩いている。

「おっとっと」と見てられないので、レオンは手を貸した。硝子のぶつかり合う音が小気味よく響いた。下男の赤ら顔は彼のすがたを見ると、明るくなった。

「ああ、旦那様」

 レオンは邸を出入りする使用人には優しかった。じつの娘のエーデルガルトに対する以上の気遣いを与えられるので、使用人たちの方も引け目を感じるほどであった。不思議と甘く接しているのに、彼の邸内は厳しく律されている。邸内にゴミひとつないし、庭の植物もよく手入れが行き届いている。

「奥様はあちらに」下男に促されて妻のエラのようすを見に行くと、目に映ったのは、礼服を脱ぎ捨てて、自ら先頭にたって家財を運んでいる妻の健気な姿だった。

 エラはレオンを見つけると「レオン、まだ準備が終わらなそうよ」と言いながら、家財の行く先を「それはあっち。で、それはこっち」と指示している。彼女は、この今生の別れの悲しみを紛らわせるようなせわしなさだった。

「奥様、御車は?」と使用人に聞かれた。

「いらないわ。わたしも馬で行くから」

 目を背けるようにレオンは自邸に入って、庭の方へと歩いた。庭では娘のエーデルガルトが蓮池の周りで遊んでいた。彼女はレオンのすがたを見ると走り寄ってきた。彼女の走り方はきつい靴のせいで、ぎこちない。社交界では女は、その靴を履かなければならないらしいが、社交界に行ったこともなければ、女でもない彼にはよくわからない苦しみであった。

「その靴。もう慣れたか」

「いいえ。まだ、少し痛いわ。でも、お母様はもうしばらくは履かなくていいって。ねえ、お父様。壁の外には私を丸のみにできるぐらい大きな怪物がいるって本当?」

「え? だれに聞いた、そんなこと」

「婆やに聞いたの。ねえ、ほんと?」真っ赤な無垢な目に見上げられて、レオンは頭を掻いた。

「……ウーム。なんで、そんなこと気にする。どうせ、お前は女子だろう。外の魔物ことなんか怖がることなどない」

 すると、急にエーデルガルトはしゅんとして、目をそらした。彼女はべつに外の魑魅魍魎を怖がっているのではなく、むしろ、そういうモノに興味を惹かれてしょうがないのである。けれど、レオンの方は女の好奇心をひどく狭量としたものと考えているらしかった。吸血鬼の世界では女は深窓の令嬢として一生を過ごすのが美徳とされている。レオンはまだ寛容な方だった。妻のエラに小言を言われても、笑っている。ふつうは、その程度の意見すら家庭では許されない。エラがいまだ彼のことを「レオン」と呼び捨てるのもあり得ないことである。

「わたし、外の世界を普通の靴で走ってみたいな」とエーデルガルトは不服そうに言った。レオンはこらえきれずにふっと笑った。

「安心しろ。これからは革靴を履いて好き勝手、走れるとも」

「え、どうして」

レオンはそれには答えず、「そんなことよりエーデルガルトよ。さあ、ついてきなさい」とむすめを連れて、庭の隅の父祖の霊廟へと入っていった。壇の上に先祖の遺灰が入った壺が並んでいる。それぞれの壺には名札として紙が貼られている。紙の腐食具合でどれが昔に死んだ者か、わりとわかりやすい。

「……あれは誰か分かるか」レオンは一番目新しい名札の壺を指さした。

「おじい様でしょ。お父様、いつも言ってるじゃない」

「……頑固な御人だった。だが、信念だけはまっすぐだった。ヒューマンとの戦争で死んでしまったが、立派な最後だったと聞いている」

 レオンは壇に足をかけて、壺を両手に持った。

「お前が父上の遺灰を持て」

「え? お父様、それはどういうことですの。遺灰を持っていくの。お母様は少し出掛けるだけって……」

「さあ、持て」

「はあ。子ども扱いですわ。いつも蚊帳の外で」

「お前は子供だろう。落とすなよ。爺さんが化けてくるぞ」

「はあい」

 エーデルガルトは短い腕を目いっぱい使って、大事そうに遺灰を持っていった。入れ違いで、妻のエラが遺灰を抱えていく娘を不思議そうに眺めながら歩いてきた。

「あれは御父上の遺灰でしょう」

「そうだ」

「なんで、あの子が?」

「父上のだけではない。父祖の遺灰をお前らに預ける」

「……え? 何考えてるの、レオン。そんなの絶対だめよ。御父上はわたしの血筋じゃないし、弟君に預けたほうがいいわ」

 「弟」と聞いて、レオンは「フン」と鼻を鳴らした。

「あいつはだめだ。今度の悪行に与している」

「今度の悪行って?」

「お前の知ったことではない」

「……そう」

「とにかく、その遺灰はお前が守ってくれ。俺のせいで父祖の墓を暴かれたくはない」

 レオンは無機的な言い方をした。感情を水一滴漏らさない。エラはそっぽを向いて、祖廟に並んだ遺灰を運んでいった。その頬は赤くなっていた。 彼の眼には義と死とが克明に描かれていた。そのことを彼女も理解したようだった。レオンは、その背を見て、慚愧が波のように胸いっぱいに広がっていくのを感じた。

「……俺は義を行う人形だ」

 彼は自分に言い聞かせた。それは死んだ父親の口癖だった。いまになって、過去の父祖たちの背中に、色とりどりの感情があったことが分かる。死を覚悟した人間は寡黙である。フォルカーを殺す、彼は、この一点に人生のすべてを総決算するつもりだった。 ふと、庭の草花を見つめていると塀の向こうから「兄上」と呼ばわる声がした。レオンはその声を数舜の間、無視して頭を掻いて困った。「はあ」とため息交じりに出迎えると、弟のイグナーツの姿があった。

「兄上、この騒ぎは一体なんですか」

「……お前には関係ない」

「コンラート王に頼まれてきたのですよ。官職を捨てるなんて愚かなことはやめましょう」

 イグナーツは弱弱しく、兄のレオンの顔色を窺うように言った。イグナーツはレオンに比べると、背は小さく、体も細い。鋭い眼は二人とも共有しているが、それ以外の肉体と性格においては面白いぐらいに相反している。

「知らん。貴様はもう帰れ」

「そういうわけにもいかない。宮中はちょっとした騒ぎですよ。しかも、フォルカー殿が留守の最中に王の身辺を守る兄上が勝手な行動をしては家名に泥を塗ります」

「イグナーツ。宰相殿がなぜ留守か分かっているだろう」

「……兄上。ハーフなどのために身を砕くことはありません」

「このバカ」

 振った腕の甲がイグナーツの頬をはじいて、瑞々しい音をたてた。レオンは弟を睥睨した。すると、イグナーツの方も鋭い眼光をもって見返した。

「我々の宿志はヒューマンとの戦争に勝つことでしょう。血の濁りは弱みになる。じじつ、ハーフに<王家の血>に類する力を持つ者はいません。ハーフとは劣等種なのですよ」

 レオンは、イグナーツを血を分けた兄弟とは思えなかった。宮中での話し方も癖づいてきて、兄弟の自分も籠絡しようとしてくる。レオンは怒った。おでこが火鉢のように熱くなった。

「貴様、風の噂で聞いたぞ。獣人の妾を囲っているそうだな。貴様のようなのがハーフを増やしているのではないか、この愚か者。これ以上減らず口を叩くなら亡き父上に代わって、お前を殺す」

 彼は背中の大刀に手をかけた。言い訳がイグナーツの喉で詰まった。(この剣幕はほんとに殺される)とイグナーツは気づいて、さっと踵を返して逃げだした。

「兄上は完全に乱心している」とひとりごちて、碁盤の目状の横丁から大通りを奔った。その道はまっすぐコンラートの座す宮殿まで続いている。イグナーツはレオンの異様なようすに、いまから何をしようとしているのかおおよそ勘づいた。また、同時に兄の行動の責が自分に及ぶことを恐れた。なので、イグナーツはコンラート王に大げさに事の顛末を伝えた。

「兄上は何かよからぬことを考えているようです。なんでも、今回のハーフの虐殺に憤激しているようで」

「……ウーム。どうしたものかな。宰相殿が居れば、どうするか聞いたものを……。なぜか、君の兄上は宰相殿のことを奸賊だと勘違いしているようでな」

 コンラート王の吐露にイグナーツは直感が働いた。ふと、膝を付いて伏せた顔をあげて「それで思い出しました。兄上は平素からフォルカー殿に敵愾心を隠しません。今日、兄上が離縁したのは、もしかすると、宰相殿を殺そうと画策しているのを親族の罪にしないためでは?」

「……それは私も考えていたところだ。けれど、肉親のそなたに、そのような邪推をさせるのは心苦しいな」

「いえ、もし、兄上がそのような奸悪に成り下がったのなら、除いてしまうのが、国政のためです」

 じつはイグナーツはレオンに獣人の妾を囲っているということを指摘されて、面にこそ出さなかったが腹の底から憤激していた。けれど、レオンの腕っぷしの強さにかなわない。なので、彼はひそかな復讐の種をまいておくことにしたのである。

「実弟のお前が、そういうのか。……じつは前々から、宰相殿には、レオンには先見性がないから重職は与えてはならないと諫言されていたのだ。そして、つい最近には、かねてよりの<血の浄化>を行うにあたって、レオンには気を付けろと釘を刺されていた」

「たしかに兄上は現代で闘うには少し意固地なところがありますから」

「……私もまだ若いので、簡単に<王家の血>を持つ血族を除くようなことは決断できぬ。この度の問題は保留しておきたい。レオンとは幼少からの誼もあるゆえ……」

 コンラートは弱気だった。が、イグナーツは豺狼のような眼を光らせて、再度、口を開いた。

「王よ。お考え下さい。迷って、我が兄上を生かすのなら、のちにどんな人災を引き起こすか。兄上も、あれで鋭い御仁ゆえ、王が兄上を殺すか迷っていたら、その気配に勘づくでしょう。あの御気性ですから、間違いなく、刺し違える覚悟で、王宮に襲いかかってきます。王よ、わたしは家族ゆえに兄上の危うさが分かるのです」

「ならば、いかにせよと?」

「せめてもの情けです。自刃を迫るほかありませぬ」

「……自刃を迫るか。それなら、世の中も納得するだろうが、しかし、問題はレオンが素直に応じるかどうか」

「もし、拒否するなら臣下の道に反します。そうなれば、力に訴える大義名分も立ちましょう」

 さすがにコンラートはイグナーツのあまりの薄情さを不審に思った。沈思するふりをして、顔色を窺う。コンラートは、それぐらい王として臣下に強く臨めない人だった。が、王統を継いでいる自負は大きい。他人を見る目は鋭くないが、猜疑心は強い。結果、不要に人に疑ったり、または甘言を簡単に受け入れたりする。しぜん、行動家の忠臣は遠ざけ、甘言ばかりの佞臣が宮中にはびこっている。イグナーツも重臣として政治に参画するうえで、政のゆるみを感じないわけではない。けれど、いまや彼は一個人の兄弟げんかの延長のような稚拙な感情を一番、優先している。イグナーツの頭のなかで頑固一徹の兄の顔が浮かんできて、諭すのである。

「――獣人の妾など囲っているらしいな」

 これはたしかに事実であった。それゆえにどうしようもなく腹が立った。

「王よ。わたしは、兄弟に対する小さな義よりも、国に対する大義を重んじます。それに……わが父はギルバートに殺された。その怨みを晴らせるのなら、本望です。しかし、兄弟の無視しがたい感情があるのもまた事実。どうか、お察しください」

 あほの演技である、とイグナーツも顔を伏せたまま、思った。 コンラートはお気に入りの安楽椅子から脂肪がのった尻をあげた。

「イグナーツよ。君の忠心は痛み入る。が、レオンは王家の血に連なる者だ。だいじな人材をそうやすやすと……」

 さすがに、幼年期をともに過ごした友情はかんたんには腐食しないものと見える。イグナーツは歯噛みした。すると、コンラートの書斎の扉が勢いよく開いた。王妃ヒルデガルトだった。

「な、大事な話をしておる時に入ってくる奴があるか!」コンラートは居丈高に叱りつけた。けれど、王妃のようすが少しおかしい。もとから美しい顔立ちにいつも不機嫌が映っている人だが、今日の血相は一段と他人を射殺しそうな鋭さがある。

 彼女は急にコンラートの膝に縋りつくと、「ああ、貴方。そのレオンというお人は危険極まりない人ですわ」と泣き叫んだ。

「貴様、妻が夫の話を盗み聞きするか!」

「だって、この首の傷を見てください」

 王妃の首筋が赤くなっていた。裁縫の糸が通ったように帯状に傷がついて痛々しい。

「いったいどうした、この傷は」

「その件の男に迫られて、付いた傷ですわ」

 イグナーツはすぐに王妃の嘘に気づいた。兄が根っからの女嫌いであることは、イグナーツはよく知っている。おそらく、王妃の方がそういった関係を迫り、それに対して兄が激高したのだと、彼は推測した。が、それを口にはださなかった。コンラートは椅子から立つと、よく審議もせずに「あのクソ野郎。こともあろうに、我が王妃に手を出すとは。もう我慢ならん」と猛り狂った。

「宰相殿に対する讒言の数々、おかしいとは思っていたが、彼奴め、自分の官位を案じていたのか」王の怒りはもう収まらない。イグナーツは王妃が白い歯を見せて、にやりと笑うのを見て、怖気を感じた。

「イグナーツよ。ほんらいなら、一族の貴様も罰を受けるべきだが、忠心に免じて、助けよう。いや、お前が、今回、あの悪賊を殺すのに手を貸すなら、新たな王室護衛官の任を与える」

「は、お任せください」

 イグナーツは汗が止まらなかった。もし、王妃より先に讒言していなければ、どうなっていたか。イグナーツは城から去りながら、ふと背筋に悪寒を感じた。勢いに任せたものの、自分は恐ろしいことをしてしまったかもしれないと後悔した。しかも、レオンの王室護衛官の後任まで仰せつかってしまった。大悪を引き受けるには、良くも悪くも精神が強靭でなくてはならない。イグナーツには、それがない。彼は道の真ん中で人混みの中、しばらくうごけなかった。

 ――レオンは床几に向かって、一片の紙を前に懊悩していた。妻のエラを田舎の郷里に帰すにあたり義父、つまりエラの父親に一筆書いているのであるが、言葉がまったく浮かんでこないのである。フォルカーを暗殺しようとしていると正直に書くわけにもいかないし、だからと言って嘘は書きたくなかった。頬杖をつきながら、あれこれ考えて、何度も書き直した。

 妻のエラはまだ引っ越しの準備に邸を行ったり来たりしている。そのたびに「いいわよ。お父様には私が言っておくから」と小言のように言われた。

「いや。それでは薄情だ。君を見初めた時のことは覚えている。義父殿から見れば、ほとんど娘をかどわかしたようなものだ」

「ふふ。お父様は喜んでいたわよ。王家の血を持つ英雄に娘が嫁ぐって」

「面だけ見ればそうかもしれないが、親子の情理はまた別だろう」

 エラは何かを言いかけて、口を閉ざした。吸血鬼の慣習が彼女の口を寡黙にしている。レオンは彼女が何かを言いかけてやめるのを過敏に感じた。けれど、そういう時は決まって問い詰めない。

「ああ、そうだ。エーデルガルトはどこへいった」レオンは話をそらした。

「あなたの御父上の遺灰を持って蓮池の前で、じっとしていますよ」

「もしもの話だ。あの子が王家の血を継ぐ者だったら、吸血鬼の慣習にとらわれず、男のように自由に育てて構わない。いや、なんなら男と偽って育ててもいい。あれには王家の血の<気>があるからな」

 エラは目を丸くした。

「いいのですか。そんな常識はずれなことして」

「……吸血鬼の常識なんて、本当は俺も嫌だった。もしかすると、我が種族を誤らせたのも、そういった常識なるモノだったかもしれぬ。とにかく、あの子は君の好きに育てていい。知ってるぞ。本当は君も、こんな縮こまった世界で、あの子を育てたくなかっただろう?」

 彼は哄笑した。エラは驚いて開いた口も塞がらなかった。

 彼女がレオンの書斎から出ると、その会話を聞いていた使用人の老婆に「ふしぎなこともあるもんですねえ。旦那様があんなこと言うなんて」と言われた。

「びっくりしたわ」

「ほほほ、旦那様も、すこし本音が漏れたようで」

 レオンはまだ床几の上の紙と格闘していた。儀礼上の糊塗を無くすと、短くて淡白な文になる。かといって、修辞的にすると嘘っぽい。 <此度、我が種族の愚行を止め、我が義を押し通すために、まことに遺憾ながら、離縁せざるを得なくなった次第であり…… それに際し、王家の血を使うという禁を犯すことになるため、我が親戚一同へ罪の及ばぬよう……>

 レオンは知恵熱が出た。額から熱気が迸った。彼は自分の八重歯で親指を噛んで、血判を押した。すでに外は夜になっていた。

 すると、戸の外から「旦那様、お客様が……」と老婆が呼び掛けられた。

「ム、こんな遅くにか」

「それが……王子様がお見えに」

「王子が?」

 レオンは嫌な予感がした。彼は急いで、玄関を出て、門の前へと走った。

「王子、いったい、こんな夜分にどんな用事ですか?」王子は寝間着のままであった。護衛も伴っていない。 その風体にレオンは驚いて「王族が夜に一人で出歩くとは、いったいなにごとですか」と叱るような声色で言った。 すると、王子は「先生、俺は……」と口ごもった。レオンはあたりを見回して、人がいないのを確認した。

「王子。今夜は冷えます。なかへどうぞ」

「いや、ここでいい。だれにも聞かれたくないんだ」

「かような御姿は初めてです。どうしたんですか?」

 王子はレオンの顔色を窺って、言いにくそうに口を開いた。

「……先生、母上を襲ったというのはほんとうですか?」

 レオンは眉をひそめた。

「どこで、そんな話を」

「まずは、お答えください」

 王子は語気を強めた。いきさつはとにかく、レオンが王妃に暴行を働いたのは紛れもない事実である。また、こういった痴情のもつれをまだ年若い王子にどう説明したものか分からない。

「わたしは潔白です。後ろめたいことは一切ありません」レオンはいった。純粋なこころで、ありのまま伝えた。

「……先生。おれにはわからない」王子はそういったが、それでも、ここに来たのは彼の気持ちがレオンの方に傾いている証であった。そう思うと、この子供にレオンは何とか自分の潔白を信じさせてやりたかった。

「王子。あえて、言います。わたしを信じてほしい」

「ああ、分かるよ。ほんとうは、先生が正しいって分かるんだ。母上は悪い人だから」

 王子が親を信じたい気持ちとの相克に苦しんでいるらしいとレオンは気づいた。(まだ、子供だ。親を絶対と思いたいのは当然の心裡だろう)。

「俺、今日、聞いちゃったんだよ。母上が貴方のことを逆賊だと父上に言っていたのを。しかも、母上と一緒に先生の弟君までが、貴方が国の大患であると」

 レオンがめまいがした。いますぐにでも、イグナーツの邸まで行って弟を殴ってやりたかった。家族の情は、こうなるとただひたすら加熱する憎悪である。彼は孤立を感じた。ふと、自分が間違っているという可能性を考えてみる。ひょっとするとハーフたちは皆、劣等種で、第三のヒューマンとの戦争に勝つには除くべき存在なのかもしれない。ハーフの美しくない顔貌が無数に頭の中に浮かんできた。(我は、こいつらのために死ぬのか?)。

 ――それでも、と彼は思う。ブルーノのことが思い出された。

「ずっと、あんたのことを見守ってきた。あんたが兄貴と同じように、ハーフの俺をまともな生き物と見てくれるか、正直不安だったよ。でも、杞憂に過ぎなかった。レオン、あんたは父親によく似ている」ブルーノは別れ際、最後にそういった。その言葉は脳裏に焼き付いている。

「先生、はやく逃げた方がいい。父上はカンカンに怒ってる。ここにいたら、殺される」王子は懇願するように言った。その肩を握って、レオンは頷いた。

「心配は無用です。……家来に送らせますから、お帰りなさい」

「いや、送ってもらったら、ここに来ていたのがバレるから、一人で帰るよ。先生、頑張ってね」

 王子はそう言われた。風が吹いたように王者の威光をレオンはその小さな子供に感じた。――彼の忠心が火柱のように燃えあがった。 (この御人が主君だったら、どんなに良かっただろう)とその小さな背中が夜闇に消えていくのを見ながら、思った。 レオンは邸に戻った。門の前に家の従者から妻や娘までが何事かと集まっていた。エラは覚悟した顔つきで娘のエーデルガルトの肩を掴んでいた。

「皆、今生の別れである。我の一存に巻き込むのは誠に申し訳なく思う。達者で暮らせよ」

 使用人の老婆がほろりと涙を浮かべて「若様、ご武運を」といった。

「はっはっは。若様なんて、久しぶりに聞いたぞ」

 レオンは笑った。

「皆、裏門から出よ」と促して、家の者たちの背を見送った。

「お父様? どういうことですの?」急にエラの手を離れて、エーデルガルトが流れるように走り寄ってきた。

「よく聞け。エーデルガルトよ。お前にも<鉄の血>が流れている。その力、無為に使うなよ」

 子供も何も知らないわけではない。レオンの顔に浮かんでいる死相を読んだか、彼女は服のそでにしがみついて離れなかった。エラが厳しい顔でその体を何も言わずに引きはがして、抱いていった。 さらに「お父様」と叫ぶ声をエラは手でむりやり塞いだ。エーデルガルトに映る父親の背中が遠ざかる。邸は沈黙した。什器はすべてない。庭も死んだように静かである。悠遠な気配の中に、父親の霊魂を感じる。幼少期の記憶がまっさらになった邸内を下地にして、流れていく。

 レオンは床几に胡坐をかいて、なにもない部屋に一人っきりであった。刻々と時が過ぎていく。 ふと、レオンは暁闇に向かって「イグナーツよ。やってくれたな。この愚か者め」と嘯いた。 刹那に、轟音とともに、彼の邸一帯は炎に包まれた。一瞬にして、すべてが灰燼と化した。

 イグナーツは消え失せたレオンの邸の跡地を見て、身震いした。使ったのは、錬金術の一種らしい。壁に浮き上がった文字には<爆>と書いてあった。フォルカーの囲っている錬金術師たちの魔術である。全員、黒衣のローブを着て、顔を隠しているのが、不気味だった。

「あとは私らが片付けますゆえ」と言われて、イグナーツはとぼとぼとコンラートへの報告にあがった。

「――兄上は死にました」というと、コンラートは熱を冷ましたのか、安楽椅子に体をあずけて頷いた。

「そうか。よくやった。奴の家族はどうした」

「城外へ出ていきました。おそらく、義姉殿の郷里へと行くのでしょう」

「レオンの子には男子はいないな」

「ええ、居ません。仇討ちに来ることはないでしょう」

「今回の件は、これで終わりだ。イグナーツよ、今後は王室護衛官の任、頼んだぞ」

「はい」

 イグナーツは腑に落ちなかった。兄の死体がみつかるまでは油断ができない気がした。彼は窓からレオンの邸の跡地を覗いた。

「宰相殿も、あと三日で帰ってくるらしい。禍根はもう断ち切って、ともに国政に参与してくれよ。もうそろそろ、ヒューマンとの戦争再開について考えねばならぬからな」

 イグナーツはレオンの亡霊を見るように、灰の山に釘付けになっていた。

「イグナーツ。聞いておるか?」

「え、あ、はい」

「お前の邸は、いまどこだ?」

「北面の三丁目です。赤門のすぐ近くです」

「そなたが良ければ、この城の近くに住んでほしいのだが。心配するな。レオンの邸の跡地では居心地が悪かろう。また、別に土地を空けてやる」

「ありがたき幸せ。このイグナーツ、王のために犬馬の労も厭いません」イグナーツはみるみるうちに、高く登っていく自分の地位に恐ろしくなった。もし、ヒューマンとの戦争が再開したら、陣頭に立たされることは想像に難くない。いまはもう、剛毅な兄はいない。不安が、性欲と結びついて、彼は早くこの部屋を退去して、女を抱きたくなった。

 すると、戸を叩く音がして、青ざめた顔で老臣が入ってきた。

「王よ。重要なお知らせが」

「明日にしてくれ」とコンラートが言うと、老臣はかぶりを振って「事態は急を要します」と尋常でない様子だった。

「なら、さっさとせよ」

 老臣は部屋の外に待たせていた兵卒を呼び寄せた。兵卒はコンラートの前に拝跪すると、緊張に声を震わせた。

「バ、バルナバス殿が戦死なされました」

 コンラートとイグナーツは飲み下すのに時間がかかった。今は戦時ではないのに、戦死する者があろうか。しかも、フォルカーの甥で、<王家の血>に連なるバルナバスである。

「バカな。あり得ん!」コンラートが安楽椅子から立ち上がった。

「バルナバス殿はどこで亡くなられた?」イグナーツが兵卒に詰問した。

「ハーフの二十四番町であります」

 イグナーツは黙った。嫌な直感が働いた。

「……バルナバス殿は<王家の血>を開いて、死んだのか」と我慢できず、イグナーツは聞いた。

「はい。たしかに、王家の血を開いて戦った形跡がございました。残念ながら、首を取られていました」

 イグナーツは青ざめて、コンラート王の顔をうかがった。コンラートは目に見えて、おびえていた。

「ギ、ギルバートではないか?」

「どうでしょう。噂通りなら、首だけ取って終わりにするわけがありませんから」

「なら、もしかすると、レオンの仕業か」

「いいえ、二十四番町はここから相当に離れています。兄上は、ずっと、自邸にいたはずですよ」

「なら、いったい何者だ」

 コンラートの投げつけるような問いにみんな黙った。すると、今度は王妃の侍女がふらふらと入ってきて「コンラート様、王妃様がお呼びです」と叫んだ。

「いったい、今度はなんだ」

「レオン王子が、急に癇癪を起されて、王妃様に殴りかかったのです。私どもでは、収拾がつきません」

 コンラートは家と国との混乱に挟まれてひどく機嫌を悪くした。これは、退去した方がいいと、皆、逃げるようにコンラートの部屋から去った。

 イグナーツは自邸に帰る際に、ふと、(兄上亡き、いま、コンラート王をだれが押さえつける?)とイグナーツは思って、自分の兄が、国という大樹の根幹を担っていたことに気づいた。不安に押しつぶされそうだった。彼は自邸に帰ると、帳の奥の痴情の夢に明け暮れた。




























 







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