冷血種族

 そこに、吸血鬼方の一将軍バルナバスがいた。

「――この手際、さすがに叔父上は恐ろしい御人だ」バルナバスは馬上で捕囚たちを見ながら、近侍に嘯くように言った。今朝、前触れなく、叔父のフォルカーがのろしを上げて、吸血鬼の常備軍を集めた。

「――ハーフを全員、捕える」とフォルカーが言った。バルナバスは何を言っているのか、叔父の気が触れたのかと小ばかにしていたが、いまの状況はどうだろう。純血主義という宿志を、一瞬で成し遂げてしまった。

 彼は駒をおりて、壁の<岩>と書かれた古代語を見つめた。彼はへへへと笑った。路地の奥から、女の悲鳴が聴こえた。すでに、毛細血管のように入り組んだ路地には、兵卒を放って、「見つけ次第、殺せ」と命令してある。路地の暗闇から聞こえてくる雑踏からは、追うものと追われるものの尋常ではない血気が匂ってくる。

「――バルナバス、あとは好きにしろ」とフォルカーはそれだけ言うと、悠々、捕囚を引き連れて去っていった。無数の十重二十重の足音がバルナバスと彼のわずかな侍従を残して動いていく。彼はあたりを見回した。血の匂いと、虐殺の声が、寂然と主を失った人工物に吸い込まれていくようだった。

 彼に課されたのは、ハーフの残党狩りだった。そばを歩いている侍従を連れて、女、子供、関係なく、殺していった。彼は上気していた。思想の上に、弱者を斬り殺すことの快感が、噴火しやすい性格と作用しあって、彼はあやうく、自身の吸血鬼としての<王家の血>を開くところだった。

「バルナバス、そいつはいけないよ」と彼の侍従が言った。バルナバスの放蕩ぶりにうんざりしたようすである。

「分かってる。分かってる。さあ、次はどこのゴミを掃除に行こうか」彼は部下の不機嫌顔には気づかないで、大股で歩いた。彼が吸血鬼の王系の血を受けて、やたらに強いのが余計に癇に障るのである。

 気づくと、彼は鉱山の谷間を見下ろしていた。町の中心から外れているのか、急変を知らないのか、まだ、ハーフたちは各々、平常どおりの生活をしていて、その様を高みから覗くと、バルナバスは酷薄そうな瞳を輝かせて、彼らを無惨に殺してやりたい、と思った。

 ――豺狼のごとく、吸血鬼の暴虐非道は留まるところを知らなかった。軍の統帥であるフォルカーはハーフの街々に残した軍隊に戦利品の現地調達を命じた。いわば、殺したハーフの物はいくらでも奪って自分の物にしていいという意味である。

 ハーフの街は、バッタの大群が通った田畑のような有様であった。

 バルナバスは、鉱山夫たちは並ばせた。虚飾に富んだ口吻で「貴様ら、自分をよく見てみろ。なんだ、その継ぎ接ぎだらけの姿は。しかも、いくつもの種族の特性を併せ持つならまだしも、その隠れてる奴みたいに背がペシャンコになっちまう始末だ。そこの小男が子半人ハーフをなしてもみろ。劣る者がさらに、この魔界の大地に増えるだけだ。しかも、貴様らの住処には、そう言った悪しき営みを助長するような娼婦が溢れかえっている。我らは貴様らを隷従させたことはない。むしろ、最低限の居場所さえ与えた。けれど、結果がこれよ。ヒューマンに敗北するとは」

 バルナバスは滔々と罵った。罵詈雑言の類ではない。むしろ、一本の骨子が通った論理と思想とを持って痛罵している。彼は侍従に向かって「殺せ」といった。侍従らは、皆、嫌がった。ハーフに対する軽蔑の視点をもっていても、それを無為に殺すかは別である。フォルカーがなぜ、わざわざ、このような人徳にかける貴族の子弟を引っ張り出したのか、侍従たちは遅まきながら理解した。侍従たちは赤い瞳をもって、お互い見合って、誰が、ハーフの無辜の民を殺すのか無言のうちに相談しあった。


 ――砂塵に粘液のような血が這うように広がっていく。力を持たない者の哀訴糾合をホウロウとポロは聞いた。ふたりの眉が焦りを感じて、吊り上がった。ホウロウとポロはテムの言った通り、風を頼りに出口までやってきたが、「開かねえ」と古くて使われていない出口らしく、両開き扉に四苦八苦していた。

「もういいぶっ壊す」とポロが蹴りを入れると、錆びた蝶番が音を立てて飛んだ。けだるげな日の光に照らされて、眼下を望むと、ポロとホウロウは目をぱちくりさせて、(これはこの世の光景か)と青ざめた。

 砂塵の茶色い土に点々と誰かがまき散らしたみたいに、死骸が血肉の赤を路傍に咲かせている。方々から地鳴りが聴こえて、家屋の陰や入り組んだ横丁に、坑道で出会った岩の怪物が我が物顔で跳梁跋扈子していた。そして、四つ辻の真ん中に、死体の山が築かれていて、さらに、死体は四つ辻のあらゆる方向から今も運ばれている最中であった。

 死に老幼の区別はない。虐殺に仮借がない。――二頭の猛虎のこころが揺れた。

「あにじゃ。……これはいったい」

「なんて惨いことを」

 テムは酸鼻な光景を見ても、冷静だった。

「だが、転がっている死体はすくない。少なすぎる。この街には、もっと多くの人々がいたはずだ。おそらく、捕まって、どこかに連れていかれようとしているんだ」

「ああ、たしかに」

 最初にくぐった坑道の入り口のまえに居並んだハーフの姿が見えて、ホウロウは眉をひそめた。いま、まさに、行われようとしている虐殺を察知して、ホウロウは心臓を掴まれたような怖気を感じた。

「おい、ばか、よせ……」

「あにじゃ」とポロは突撃していく兄の背を追いかけた。

「――あんたには、ドマがいるだろ。ここは、俺がやるっ! おいっ!」

 ――眼下のバルナバスも、不審な音が上の方から聴こえて、その方を見ると、天を衝くほどの大男がこちらを睥睨しているのに気づいて、「や、あいつらは何者か」と近侍に諮った。陽光を後方にまとって、浮き上がった影にバルナバスはぎょっとした。

「――さあ、あの体格を見るになんとか生き延びたならず者でしょう」

「だが、叔父上は街の隅々までゴーレムの印術を配したと言っておったぞ。どうやって、生き残った」

 すると、獣のような声色と圧力で「このケダモノどもめっ! この俺が天誅をくれてやるっ!」と大男の一人が一喝して、坂を下ってきた。バルナバスら、三十余名の近侍たちも、ハーフの反撃を想定していなかったので、この言葉には驚いた。 ホウロウは砂塵を巻き上げて、地面にどすんと足を付けた。彼は即座に上衣を脱ぎ、履物も蹴るようにして放った。陽光に上裸をさらし、裸足で地面を掴み、バルナバスを睨んだ。

「なんだ。こいつは」と、その何者かに創られたような魁偉なすがたにバルナバスたちは茫然とした。ハーフはたいてい、魔界の四族の形質を劣る形で二つ、受け継ぐ。――だが、ホウロウは四つの形質、すべてを受け継いで、しかも、そのすべてが美しい形で表れている。背中に山のようなオーガの筋量をたたえ、瞳はフラーガの鋭い輝きがあり、手の指やつま先は獣人の長い爪を備え、口元には吸血鬼の長い八重歯が光っている。

 ――天賦の魔人。と思うと、ふいに今度はポロが、兄の背を追いかけて、坂を下ってきた。ポロの形質は獣人と吸血鬼を受け継いでいるが、とくに吸血鬼が色濃い。一見すると、獣人の形質である長い耳がないと、純血の吸血鬼にしか見えない。彼も、ホウロウに劣らぬ偉丈夫なので、バルナバスを圧するには、十分な威力がある。

「――なんだ。貴様らは」とバルナバスは問うた。

「賊に答える気はない」ポロはいった。 

「バカな、我らが賊だと。あまりふざけていると……」バルナバスは並んだハーフの人質をながめて、悪しき心をうごかした。ただの愉楽で一所に集めたハーフもいまや、人質として機能する。

「貴様、天誅といったな。では、これではどうだ」バルナバスは虫を潰すように無作為に選んだ若者の首をへし折った。ぐたりと地面に倒れて、ハーフの若者は泡を吹いた。その死骸を足蹴にして「だれのせいか」とバルナバスは問うた。

 ホウロウとポロは言葉をうしなって、怒りことも、悲しむことも一瞬、わすれた。あまりのことに、その赫怒は水を浴びされたように冷え切ってしまった。他方、もっと、腹の奥から噴火の前兆のようなものを感じた。無意識のうちに自分の半身がなにかを準備しているような気配である。<王家の血>が内側から現れ出でようとしている。

「――お前のせいだろうが。ええい、まだわからないか。じゃあ、もう一人だ」

 暗がりに紅い怪しい光が現れて、とつぜん、子供が悲鳴をあげた。見れば、バルナバスの掌が童の顔を掴もうとしていた。けれど、掌は目の前で止まったままである。すると、赤い線で出来た螺旋状の渦が現れた。それは血管のような潮流をもって動いている。同時に、眼球の表面から血煙が吹き荒れて、螺旋状のとぐろと混ざり合って、バルナバスの掌へと吸い込まれていった。見る間に、童の血色が悪くなった。

 (この、悪魔めっ!)とホウロウは歯を食いしばった。見る間に、彼の口に血があふれて、舌が鉄っぽい味を感じた。

 バルナバスは、そのさまを見て、ホウロウの敵愾心が消え失せるか否かを注視している。

「――未熟児、平身低頭せよ」

 ホウロウとポロは顔を見合わせた。ホウロウが小さな声で「ここは従おう」というと、ポロは眉根にしわを刻んで「ばかな。ここで、俺たちが従って、助かる命じゃねえ。むしろ、俺たちに害が及ぶぜ。よく考えろよ。ここで死ねる身かよ。あんた、甘っちょろいのも、いい加減にしねえと死んじまうぞ」

 ポロの口吻はだんだんと強くなって、バルナバスの方まで聞こえてきた。会話の様相が知れてくると、バルナバスは「そうか。我らに頭を下げるのが、いやか。ならば、このガキには血を吐いて、死んでもらう」といった。

「よせ。待て。この通りだ。頭を下げるって言ってるじゃないか」ホウロウは急いで、平身低頭しながら、ポロの頭をひっつかんで、むりやり頭を地面につけさせた。

(我慢だ。我慢だぜ。ポロ)とホウロウは念じた。彼が頭を冷たい地下の地面に擦り付けると、こんどは革靴が後頭部に乗ってきた。屈辱がかれの胸奥の炎を燻らせた。しかし、地面に転がっている若人の死骸を見るに、もうこれ以上の流血も見たくなかった。

「その小僧を……離してほしい」ホウロウはろれつが回らない口で、言いやすい言葉を無意識に使った。吸血鬼たちはお互いに顔を見合わせて「混血の徒には、出来た方だぞ」とわらった。彼らは俗っぽい笑い方をしない。あくまで、整理された儀礼的な笑みを、その白い顔に浮かべるのである。ホウロウはぞっとするものを感じた。

 ――まったく、悪党は一筋縄ではいかない。かんたんには、子供を掴む手を放そうとしないのである。一瞬でも引き離せば、一撃のもとに殺害しようとしているのだが、その機はなかなか訪れない。ふと、その氷の微笑のなかに、ホウロウは嫌な気配を見て取った。

(……殺す気だ。まちがいない)。

 バルナバスの相貌に優越感のような色が浮かんだ。彼は舐めるように、ハーフの子供の顔を覗き込んだ。

「死ぬが怖いか」

「いや」

「なぜか」

「もう、家族はあんたらに全員殺されたもの」

「――では、俺が憎いか」

「……」ハーフの子供はふと、燃えるようなホウロウの瞳に気づいた。目と目が合った。

(よけいなことは言うな)とホウロウは首を振った。

少年の沈黙にバルナバスは微笑んだ。

「だれか、ほかに俺が憎い奴はあるか」と彼は人質の列に聞いて回った。彼が目の前を通過すると、ハーフの人質は膝から震えだした。

「憎くありません」と誰もが言った。その列の背後の四つ辻には、殺されて山と積まれた同胞の死骸がある。――この世の地獄である。 かれは近侍を呼び寄せて、「火砲を持ってこい」といった。

「バルナバス、あまりお遊びが過ぎると、叔父上に怒られますよ」と近侍が諫めるも「いいから。いいから」とバルナバスは聞く耳を持たない。

――がらがらと砂塵の上を滑るようにして、龍を象った装飾をされた大砲が牽かれてきた。

(何をする気だ)とホウロウとポロは低い視線から様子を窺った。

「わがブレージアーの壁の城楼には、かような大砲が百個、並んでいる。――その威力、試してみたくないか」とバルナバスはいった。

 それを聞いて、ホウロウは耳を疑った。

「――ばかな。人質だろ。ちがうのか」ホウロウが言うと、ポロは頭を地面につけたまま、彼を見て「あにじゃ。もうだめだ。こいつらに話が通じるものか。人質はもう死んだものと腹を決めて、戦うしかねえ」といった。

「むうう」

「あにじゃ、これ以上、迷ったら、俺らも死ぬぞ」

 ――天地を火砲の爆裂音がゆらした。吸血鬼は死体の血肉をいやがる。こういった怨恨を残した戦場には決まって、不死の病に侵された幽鬼という魔物が生まれやすい。幽鬼は歩く死体である。それを防ぐために、死体を残さず、燃やすというのが吸血鬼のみならず、魔界人がとる戦争手法であった。

 ――火砲は龍が火炎を吐くがごとく獄炎をあげた。龍の咆哮と弱者の哀訴とが混ざりあって、蒼天にむけて、黒煙がのぼっていく。ホウロウとポロはひっくり返って、煙に取り巻かれた。黒煙のなかを幽霊のように、燃えた人の鋳型が「あつい、あつい」と声にならない叫びをあげて、走り回っている。

「あにじゃ。どこだ」ポロは焼死体を何度も跨いで兄のすがたを探した。

 ホウロウは意外と彼の近くに立っていた。彼は半身に大やけどを負ったが、その痛みより、バルナバスに対する軽蔑の方がはるかに心を切り刻んだ。おでこが火鉢のように熱くなった。

(こ、こんな奴らは殺さにゃいかん)

「あにじゃ。それは、だめだ。俺がやると言ってるだろう」と兄の肩を掴むと、くわっとにらみ返された。

「――失せろ。ポロ。俺の獲物だ。奴らの頭蓋で酒を飲んでやる」

 ポロは言い返そうとしたが、ホウロウの顔を見て、閉口した。顔半分にやけどを負って、瞼が焼け落ち、頬は蝋のように溶けて、口内が露出している。彼は足元に子供の死骸を見ていた。肉の焼けた匂いで、腹のそこからこみあげてくるものがある。

 ――ホウロウはポロを見た。そのフラーガの瞳に煌々と光るものを見て、ポロは下がった。

「わかった。なにもいわん。あにじゃの言うとおりにする」

「お前は……生き残りを探して守れ。奴らは俺が殺す。もし、俺が死んだら、ドマを頼んだ。すまねえな、兄貴の勝手を許せよ」

「ああ、心得た」

「……」

 黒煙に英雄が開闢した。ホウロウのおでこから一本の角が赤い火花を散らして突き出る。彼の瞳の万華鏡のような幾何学的な模様がより複雑な線を描いて浮き上がった。胸板が膨れ上がって、皮膜のような黒い体毛が滑るように全身に生えそろっていき、長い腕はより長く、立ったまま、膝を触れそうなほどに伸びた。なにより、不気味なのは顔である。まるで、鎧兜でも被ったように、口がふさがって、眼だけが光っているのである。ホウロウは確認するように自分の手を見、こぶしを握った。

 吸血鬼は、それを<王家の血>と呼んだ。オーガは<憤怒>と呼び、フラーガは<脱皮>と呼び、獣人族は<化身>と呼ぶ。良くも悪くも、魔界の趨勢は、多くの場合、この<変身>能力をもつ選ばれた者たちによって、うごかされる。戦争も兵数や技術だけでするわけではない。

 だから、魔界人は人の力を過小に考えず、天を信じても、神を信仰しない。いわば、人が神なのである。ひとえに運命や英雄というものを信じている。

「――虫けらどもめ。踏みつぶしてやる」

  その一挙手一投足に空気は歪んで、地は揺れた。

 ――バルナバスは煌々と燃える炎のあまりの大きさに、いまになって、驚いていた。(やりすぎた)という感がある。

 近侍の反応も「バルナバス。やりすぎだ。火砲をお遊びで使うとは」と芳しくない。責めるような三十余名の眼がバルナバスをにらんだ。皆、<王家の血>を持たないがゆえに、バルナバスという若輩の下風に甘んじている。けっして、バルナバスの人となりを尊敬して、従っているのではない。皆、焼死体の匂いと煙でむせて、せき込んだ。

「叔父上には、黙っていろよ。もし、秘密にしなかったら、ひどい目にあわせるからな」

  近侍たちはそう脅されて、ため息をした。

 ――ふいに、黒煙が風に吹かれたように歪んで、その奥に刺々した人型の陰が現れた。

「……ん?」と近侍の一人がそれに気づいて、影を見上げた。と思うと、岩のような腕が迫ってきて、頭を掴まれて宙に放り投げられた。

 近侍の悲鳴が雷撃のようにひびいて、バルナバスたちに緊張が走った。

「や。なんだなんだ」

「カールが消えたぞっ!」

 火柱と煙で視界が不明瞭の中、混乱がひろがった。が、ホウロウは彼らの間近くに立っていた。わざと、火柱のなかに隠れていた。<王家の血>の変身は、炎など全く通さない。ホウロウは、まるで、ネズミか虫でも見るような目つきで吸血鬼たちを見下ろしている。 近侍の一人が、その気配に気づいたようにくるりとホウロウの方を振り向いた。

「な、な」

 ホウロウを見て、あまりの怪異なすがたに言葉がでない。即座に逃げることすらできない。ハエを叩くように右から左に弾かれた。ばちんと瑞々しい音がひびいて、炎と煙を背景に血肉が飛び散った。

 どよめきに、バルナバスもやっと、ホウロウのすがたを遠くから捉えた。

 「あれは、一本角……」

 バルナバスはホウロウの額から突き出た槍のような角を見て、周章した。(な、なんで。オーガの王族がこのようなところにいる)と彼は、即座に恥を忘れて、踵を返し、侍従を置き去りにして奔った。結局のところ、彼は貴族の子弟に過ぎなかった。彼の血気は、自分の引き継いだ血統の強さに寄りかかったまがい物に過ぎない。ゆえに、少しでも、自分より勝るとおぼしきものが現れるだけで、侍従を置き去りにして逃げ出す始末だった。

 ――一方、ホウロウは人格の統制を失っていた。彼の爪牙は吸血鬼たちを虐殺するのに、まったく手心を加えなかった。そこには動物的な攻撃本能が強く作用していた。ホウロウの疾駆するところに、砂塵と血煙が舞い上がった。ほんの一瞬で、三十名を数えたバルナバスの近侍は、全滅した。ずたずたになって四散した肉片の中を残して、巨躯をもろともせずホウロウはバルナバスを追った。

「卑怯者。……逃がさん」声色すら変わっていた。獣の雄たけびが、人声に変換されているような声だった。

 ――鉱山の入り口から一連の復讐劇を見ていたテムは命を拾った嬉しさとホウロウに対する生物的な恐懼とが混濁して狂った笑顔を見せた。

「へへへ。あいつは、初めて会った時もあんなんだったぜ。バケモンなのさ。――あいつは天が与えた怪物なんだ」

 テムは情緒が浮ついて、地面にへたり込んだ。

「そうだ、ホウロウ。やっちまえ。ひとり残らず、ぶち殺せ。わっはっは」

 ☆

 ヴィーは自分がまだ生きていることに気づいた。真っ暗な暗闇で一瞬、死んだのかと思ったが、足と顔がとてつもなく痛いのである。じじつ、暗闇で彼女は見えていないが、衣は泥にまみれて、顔には裂傷があり、足は瓦礫に挟まっていた。

「い、痛い」

 彼女は暗闇のなかで、嘔吐した。痛みに耐えられるぐらいの自負はあった。が、ほんとうの痛みに遭遇して、嘔吐してしまった。彼女は自嘲ぎみに暗闇の虚空にむかって「ふふふ」と笑った。

 ――ぼうと暗闇に灯りをともした。足が瓦礫の中に埋まっている。彼女は腕を握った。

(腕はうごく。僥倖僥倖)。

「ぐぐぐぐ」と足を腕で引っ張ったが、びくともしない。しかも、足の怪我は思ったよりひどいらしく、強く引っ張ると激痛が走った。もたもたしていると、坑道がさらに崩れてくるかもしれない。

「根性。根性」

 ヴィーは帯剣の鞘を足が挟まった箇所に差し込んだ。わずかな隙間を作って、足を引き抜きにかかる。

「――こんじょぉぉぉお」

 顔は紅潮して、脂汗が浮いた。目にも潤んだ光が見える。砂や泥もともなって、根っこのように足が出てきた。

 しばらく、足を抱えてうずくまった。

(いってええ)と体が震えた。

 患部を見ると、傷口に泥や砂が入っていて、ひどい有様だったが、さいわい骨は折れていないらしい。ヴィーは傷を負った足をかばいながら、なんとか、出口に向かって歩いた。

(あのふたりは無事だろうか)と思いながら、彼女は出口までやってくると、ふしんな空気のわななきのようなものを感じた。

 壊された扉を抜けて、外に出た。

「ああ……やっぱり」

 眼下に火炎と黒煙が見えた。血肉の焼ける匂いに、(う……また吐きそう)と口をおさえた。まずは、いちど、ここを離れなければならない。

(あの虎たちは、しっかり逃げたかな)と不安だったが、なにしろ、けがをしているうえに、眼下に広がるのは路上に吸血鬼の兵卒やゴーレムが闊歩している戦場である。

「さあ、逃げないと」

 彼女は虐殺の声が聴こえる地獄のなかを闇に紛れて、あるいた。この世の地獄を見て、観念したようなため息が漏れる。吸血鬼は街に火を放ったらしい。すでに炎が波のように広がり、街の路地や横丁は火鉢同然である。死にきれなかったハーフの苦痛の声が地の底から湧き上がるように響いている。ヴィーはこころを殺した。無、という顔で歩いた。

 ――ところへ、へろへろと裸足でいかにも娼婦っぽい色の女が影を奔り、それを追って、吸血鬼の士卒が笑いながら白刃を振り回しているところに出くわした。いまや、どこにも、溢れているであろう光景である。女が転んで、軍靴の音がゆるやかな調子になった。

「これ以上逃げてもしょうがない。楽に死なせてやるから、少しの愉しみを俺にくれ」

 吸血鬼は言った。娼婦の女にとっては、捕虜になった方がマシだったとすら思える状況だった。 ヴィーは、その歩みが近づいていくのを見ていた。紅眼に鋭い閃光が走った。彼女は懐の凶刃をもって、体を投げて真上から吸血鬼にとびかかった。刃は鎖骨の間を縫って吸血鬼の悪漢に突き刺さった。吸血鬼は彼女の姿を見る前に絶命したが、彼女はその死体の首を斬って、路傍に放り投げてやった。

 娼婦は、その様を見て、色を失った。

 そして、「ああ、吸血鬼」と彼女の赤い瞳と微笑みから露出する八重歯を見て、礼も言わずに光の差す大通りの方へと逃げ走っていった。

「アハハ」ヴィーは笑った。どうやら、フォルカーの置いていった兵たちは、バルナバスの血気に絆されて、ほとんど賊徒のように好き勝手やっているらしい。しかし、自分の力では、いちいち助けていられる命の数ではない。

 眼に見える現実には短慮をもってし、目に見えない現実には深謀がある。彼女は不思議な倫理を持っていた。

「わたしは吸血鬼じゃねえっつの」と彼女は嘯いた。じじつ、ヴィーにはオーガの血と吸血鬼の血が流れている。

 ――刹那に、全身が総毛だつような感じを覚えた。逃げ足が加速しかかって、同時に、いや、この足を運ぶ気配と速度は到底、逃げ切れるものではないと直感した。彼女の習性は、こういった時に身を隠すことを優先する。

 ヴィーは足をかばい、階上の丸窓に手をかけて、屋根の上にさっと登って、切妻の棟木に隠れるように、うつ伏せに張り付いた。おもむろに、屋根の頂点から顔を出して、大通りの方を覗いた。見れば、閑散とした通りを、一人の吸血鬼が大股で走っている。その顔つきには、怯えがある。

 ヴィーは、吸血鬼の胸に王家の印綬を下げているのを見て、ぼう然とした。吸血鬼は<王家の血>を受け継ぐ者に、独特の装飾の印綬を与える。その印綬と、まだ年若い顔つきを見て「あれは……バルナバス」と彼女は勘づいた。

 ――間が悪い。いま、ホウロウとポロに、一番出会ってほしくない手合いである。ヴィーはバルナバスのようすをじっと観察した。彼はしきりに背後を気にしてるようである。急に立ち止まると、「ハーフの分際で。まさか、種族の禁を犯すことになろうとは」と天に向かって言った。

 バルナバスは黒衣の上着をはだけさせて、花弁のように翻した。露わになった上体は、細くて、筋に彫りがない。バルナバスが声にならない叫びを喉から発すると、体が膨張して、一挙に峻厳な山肌のように筋張った彫りが、全身に刻まれた。

「さあ、やるぞ。来い、未熟児」彼の虹彩が白目を押しつぶして、赤い瞳孔を囲んだ。真っ黒い炭のような漆黒の中に紅い光がぽつんと鋭利な殺意を輝かせている。

 彼の背中から黒い蝙蝠の翼のようなものがぬうっと生えて広がった。それは痙攣した筋繊維のようにぶるぶると震えている。バルナバスは準備が出来たとばかりに落ち着き払って、先ほどまで目に見えた臆病風もどこかへ消え去っていた。――風がバルナバスを中心に円状に広がった。その風は、ヴィーの赤毛の前髪を撫でた。

「はーあ……」

 彼女は見つかるという恐怖を忘れて、その姿をうらやましいと思った。帝系の血を受けて、鍛錬を経ることなしに、ただ強いことがどれほど、この百鬼夜行の世界で価値があるか。彼女は多くの錬磨と、直感的に働く工夫でなんとか彼我の差を埋めてきた。命がけの糊塗である。バルナバスの構えの小細工の無さは、ヴィーに苛立ちを感じさせる。

(――流行り病でもこじらせて死ね)と彼女は思った。

とはいえ、豎子バルナバスは、いったい何を恐れて、王家の血を使ったのか。

 すると、地面を擦りながら、重い足取りで現れた巨漢がいた。ヴィーは目をぱちくりさせながら、その魁偉な威容を見た。まず、腕がおかしいぐらいに長かった。しかも、その腕の先から五本の黒い爪が伸び、鋭い眉の下に鉱物のような眼玉がある。おでこから生えた一本の角を見ると、彼女は不思議と恍惚した。

「一本角……」

そこには、神威すら宿っていた。男はすべての魔界の種族の形質を受け継いで、昇華させ、さながら混血の化身のように見えた。バルナバスの姿と相対すると、その対比はより色濃く浮かび上がる。混血と純血。いや、ヴィーの眼にはそれ以上の対比が見えた。新世界と旧世界。――しかし、ここで、ヴィーは冷静になって戦場を趨勢を観察し、ううむと唸った。

「……<変身>しちゃったか」

 実は、まだ、その時ではないのである。できれば、いたずらに消費せずにおきたかった。

(――が、変身しちゃったならしょうがない。この際、勝ってバルナバスを殺すしかない)。

 ヴィーは援護したかったが、けがをしている身なので、むしろ邪魔になると思って傍観を決め込んだ。

 「ン? あれは兄と弟、どっちだ?……わかんね」

 変身したすがたがあまりに変わりすぎて、遠くから一見しただけでは、ホウロウかポロか見分けがつかない。おそらく、瞳のフラーガの気配がある光を見るに、兄のホウロウと思われた。

(面白くなってきた。はやく、戦え戦え)。

 彼女は気が逸った。興奮して、奥歯が震えて、かちかちと音をたてている。けれど、両者、動かない。ヴィーの見たところ、バルナバスの方が得体の知れない相手に尻込みして動けないようだった。

「――お前は、いったいなんだ」バルナバスは吸血鬼という自負心から尊大に聞いたが、体の重心が後方に下がっていた。たいして、ホウロウは前のめりで、いまにも飛び掛かっていきそうな気配だった。ホウロウはとつぜん、ハッとしてあたりを見回した。さっきまでのかれの生活に、無人の世界が広がっていた。その静寂の中をぽつぽつと、無残に殺された同胞の死体がある。

「み、みんな居ねえ。てめえら、どこに連れてった」

バルナバスは黙った。恐れるがゆえの赫怒が、その相貌にあらわれた。

バルナバスは「俺の質問を無視するな。貴様、その一本角はオーガの王の血脈だろう。いったい、何者だ。兵器か、オーガの姦策か?」

「なぜ、こんなことができる。てめえら吸血鬼と俺たちの何が違う」

 ホウロウは言った。会話がかみ合わない。路上の喧嘩のようだった。

 静寂が降りてきた。双方とも住む世界が違かった。お互いが、言葉の無をすぐに悟った。ヴィーは身をかがめることを忘れて、頭一個を屋根の頂点から出して、その紅い両目で見守った。彼女も殺人の機微を知っていた。

(あ、くるな)と彼女が直感した刹那、両者の足元の砂塵が俟った。思わず、ヴィーは剣を握って、機に乗じて、バルナバスの背後をとる準備をした。腹の底で、仮にホウロウがバルナバスに勝てなくても、手負いの彼を殺すのは自分だ、と考えていた。が、次の瞬間、手出しはめったに出来ないことを悟った。ふたりはすでに視界の外にいて、街をぎゅうぎゅうにしている家屋を半壊させていた。太鼓のような音が粉塵の中から聞こえる。

 彼女は閉口した。あまりのことに笑いすら漏れた。

 ――どん、どん、どん。

 それは人と人が殴り合っている音だったのである。笑うしかなかった。その音にあわせて、しきりに粉塵の中から、角材のかけらのようなのが吹き飛んできた。

 バルナバスが殴るとホウロウが殴り返す。拳が空を切って、風が粉塵を飛ばす。お互い、顔が朱に塗れていた。鼻血である。

 体の他の部位は血一滴漏らさない。血が出るほど、防護されていないのは鼻だけのようである。

が、ヴィーはすぐに決着が早いことを感じた。膂力はそこまで変わらないが、覚悟がまったく違った。バルナバスは、常に逃げる瞬間を模索しているように見えた。怒りで我を忘れているホウロウとは雲泥の差である。無理もなかった。バルナバスは初めて、自分の命を奪える力で殴られて、冷や汗が止まらないのである。

「ばあか」ヴィーはほくそ笑んだ。

 すぐに、バルナバスは地面にのされた。開いた翼も相まって、死にかけの蛾のようである。

「たすけて」バルナバスはそう漏らした。ホウロウは珍重な面持ちで、バルナバスを見下ろし、滴っていく鼻血を手で拭った。

 その様を見て、ヴィーは「つっよ。やべえ、あいつ、バケモンだ」とひとり興奮していた。――<王家の血>を使っているにしても、あまりにつよすぎる。カク導師が目を付けていただけのことがあると彼女は舌をまいた。

 ホウロウはうつぶせになっているバルナバスの金色の髪の毛をひっつかんだ。

「殺されたくなけりゃ、同胞がどこに連れていかれたか言え」

「そんなもの、言った瞬間、お前、俺を殺すに決まってるだろう」バルナバスは半泣きで言った。こうなると、哀れなものだった。かれは宮廷暮らしの子どもに戻ったかのようだった。

「それはお前らのやり方だ」とホウロウはバルナバスの頬を叩いた。

「足の骨を折るぞ」

「わかったよ。わかったから。やめてくれ。――ハーフたちは皆、中つ国まで送られるんだ」

「なんで、そんなことするんだ。なんの意味がある」

 ホウロウの当然の問いに、一瞬、バルナバスの顔つきが曇った。彼は、いったい、どんな理由が、この状況で自己の保身に有利か考えていた。

「し、死の龍を呼ぶために」彼は確かにそういった。

「意味わからん」

「俺も、意味が分かんなかったよ。けど、中央からそういう勅令がきたんだよ」

 バルナバスは哀訴した。嘘ではないと直感すると、ホウロウは解せないとばかりに、バルナバスの背中を蹴った。

「――いやだ。ころさないで」

「だれが、てめえみたいなゴミを殺すか。失せろ。二度と姿を見せんじゃねえ」

 バルナバスはそれを聞くと、涙を流した。その一滴は、頬を伝って、土に吸い込まれていく。彼は、動けなかった。王家の血を使った代償で、全身が切り刻まれたかのように痛んだ。それでも、命が助かったという安堵が、ホウロウが踵を返し、歩き始めたと同時に、胸にこみあげてきた。

「……は? まじで?」ヴィーは目を丸くした。会話の内容までははっきり聞こえなかったが、どうやら、ホウロウがバルナバスを殺さず立ち去ろうとしているのは確かなようである。

「イカレてんの、あいつ」彼女はいてもたっても居られなかった。すぐに、屋根をおりて、横丁から大通りへ躍り出た。尋常ではない殺意のこもった目をして、奔った。けがした足のことなど忘れて、不格好な走り方で駆けた。

「あ。お前は!」とその足音にホウロウが気付いた。ヴィーはホウロウに目もくれなかった。彼女は疾風のように倒れているバルナバスの方へ走って行き、「このクズ。お前にゃあ生きる価値なんかねえんだよ」と汚く罵って、その首を一撃で寸断してしまった。 首を掲げて、彼女の相貌が喜びに崩れた。

「ぶっ殺してやった。王の血筋破れたり。わっはっは」彼女は欣喜雀躍していた。正々堂々とか、儀礼など知ったことではない。吸血鬼という種族に屈辱を与えたということ、また、殺された仲間の恨みを晴らせたことが欣喜だった。

 その喜びに打つ震えている肩に手をかけて、「なぜ、ころす?」とホウロウが言った。ヴィーはその怒りを予期していたように、興味なさげに彼の顔を見上げた。怪雄の口の無い不気味な顔が目の前で義憤に揺れている。鼻血がまだ止まらないようで、血が顔を伝って頤まで流れていた。

「ねえ、あんた。頭、おかしいんじゃないの。なんで、こんな虫けらをたすけんの。こいつらは屈辱はぜったいに忘れないよ。死んででも、復讐しようとするに決まってる。ああ、そう。自分が強いから、復讐されることなんか、こわくないんだね。うう、気持ちわりぃ。そういう奴があたし、一番、きらい」 彼女は口角泡を飛ばす勢いで痛罵した。ホウロウは戦いの余熱があるのか、すぐにカンカンに怒った。

「このやろう。倒れた者の首を取る奴があるか」

「はあ? バカなんじゃないの」

 ヴィーは困惑した。

(こいつは……なにを考えてるんだ? もし、バルナバスに本気で憐憫の情を持っているなら、ビョーキでしょ。……ぐぐぐ。強さは申し分ないけど、この異様な倫理観は、この乱麻の時代には危険すぎるような……)。

「坑道で、助けてくれたことは、もちろん感謝しているが……。この吸血鬼のガキを殺すことはなかったんじゃないか」とホウロウはいった。

「……」

 ヴィーは顔をしかめた。性根から歪んでいる、と彼女は思った。ふと、このような鬼神のごとき強さを天に与えられて、ホウロウがどう世界を見ているのか、ヴィーは興味を持った。

「どうして? 周りを見なよ。死屍累々。ぜんぶ、こいつらのせいだよ?」

 ホウロウは肩で息をしていた。ヴィーはいぶかし気に、「ねえ、聞いてんの?」といった。

「もし、奴らが悪魔の所業をするなら、オレは……正道をもって戦うしかない。哀れみでもって、こいつを救いたかったわけではない。正道で戦わなければ、それは復讐だ。そして、復讐は復讐を呼び、永劫続く。――他方、大義は敵を感化し、人心を清めるっ! だから、怒りを抑え、穏やかな心をもって戦うのであるっ!」

 ホウロウは苦しそうに呻いて、彼女の肩に前のめりにつっかかった。額の一本の角がぬるぬると、芋虫のように蠢いて、萎んで消えた。彼の獣毛に覆われた体はもとの肌色に戻った。元のすがたに還った彼は、ヴィーには、はじめ見た時より小さく痩せて見えた。ホウロウは天を仰いで、頬を膨らませた。

「え? ちょっと――」

ホウロウの膨らんだほっぺは、ザクロが破裂したように萎んで、彼は吐血した。ヴィーの顔と服に吐き出された血の塊がべっとりと広がった。そのまま、ヴィーの小さな体躯を押しつぶすように倒れた。

 ホウロウは失神していた。

「んんんもう!」ヴィーは何とか、彼の巨躯を押しのけ、立ち上がると、うつ伏せになっているホウロウを見下ろした。

「ああ、そう。ふふ、面白いやつ」

 彼女は気を失ったホウロウの向かって独り言をこぼすと、背中に耳を当てて、鼓動を聞いた。ドクンという音の間隔が心配になるほど長い。弦のような跳ね返りが、彼女の青白い頬を押す。魔界の四族の血を一身に受けて、吸血鬼の王の力を退ける動力の声が、耳に心地よかった。ここが世界で一番安全な場所な気がした。彼女は舌を出して、口周りに付着したホウロウの血液をなめた。

「あま」彼女は目を丸くした。

「――ま、放置しても、死にはしないかな」

 また、会うことだろう、と彼女は思った。このまま去るのも、少し気が引けたが、けがの養生もかねて、いちど、ここを離れたかった。

 ――遠くの方から人声がした。ポロの声だった。放置しても大丈夫とわかって、彼女は大通りから路地の暗闇に走って行った。けれど、「あ!」と暗がりの中で、気づいて、すぐに戻ると、彼女はバルナバスの首を持って、今度こそ、本当に去った。

 

 ホウロウは目を覚ました。悪夢が覚めたかのように思われた。ホウロウは事後的にさっきまで自分が苛まれていた激しい感情を思い出した。

 (怒っていた。じぶんでも信じられないぐらい)。大の字になって仰向けに倒れていた体を起こして、あたりを見回した。雨が降っていた。炎は、いくぶんか、勢いが収まりつつある。もうすでに焼けつくされた住宅の骨組みが灰のクズと化して、山積していた。蕭条とした街並みに、焼き殺された同胞たちの呪詛が聴こえる気がした。

「目、覚めたか」テムが背後から声をかけてきた。ホウロウが上体をそって、振り返った。テムは注意深くホウロウの顔色を窺いながら、離れたところにいた。

「最悪だな。最低最悪の一日だよ、まったく」テムは禿げ上がった後頭部に手を当てて、うんざりしたように悪態をついた。

「あの女はどこいった?」

「どの女だ。ドマか? あにじゃ」とポロが聞くとホウロウはかぶりをふって「坑道で命を救ってくれた女だ。たしか、ヴィーって名前の。あいつ、生きてたんだ」といった。

「ほんとうか。だが、ここには俺たち以外、いないぜ」

 ホウロウは頭をかいて、ヴィーに言い放った自分の高言を顧みて、恥ずかしくなった。

(よけいなこと言ったから、怒ったのか)と思って、すこし後悔した。

 ――テムはホウロウの方へ近づいて、ためらいながら、珍しく慎重な口ぶりで説明した。

「殺された奴もいるけど、全員じゃない。明らかに、数があわない。俺が思うに、みんな連れ去られたってことだろう。一応、ポロがお前の部屋を見てきたけど、ドマも居なくなってた」

「あにじゃ。すまねえ。遅かったらしい。だが、ドマは死んでいないと思う。ちゃんと確認したから……その……あんたの住まいの近くに焼死体に妊婦がいないか」とポロは重苦しく言った。ホウロウはポロの肩を叩いた。

「わるかったな。嫌なものを見ただろう?」

「いいや。なんてことないさ。それより、体は大丈夫か。<王家の血>を開いたのは久しぶりだろ」

「ああ、問題ない。――ほかに、生き残った同胞は?」

 テムとポロは顔をしかめた。

「たぶん、いない。生き残った奴は、街の外に逃げたかも。どっちにしろ。俺たちも早いところ移動した方が良い。ここには、まだ、吸血鬼の近侍がうろついている」とテムが淡々と説明すると、ホウロウはため息をついた。

「――ざんねんだ。もっと、はやく気づいて、まえもって吸血鬼と戦えば、こうはならなかったのかも」

 すると、テムはどすの利いた声で言った。

「ホウロウ、おまえ、そんなバカなこと言っちゃいけねえ。若かろうが、自分の命だ。自分で責任を持たなけりゃあいかん。それが、この世のお約束ってもんだ。そこの吸血鬼の若造が死んだのは、お前のせいか、そんなわけはない。自分のせいで、命を落としたのさ」ホウロウは返す言葉に窮した。テムの言葉には説教するような棘も熱もなかった。ただ、当たり前のことを、普通の熱量で、言っているのである。ホウロウは、この町で死と親しんで生きてきたはずだった。路傍で些細な喧嘩で殺されたり、人気のないところで、知らず知らずのうちに餓死したり、食あたりで医者にかからず死んだりといった具合に、命が雑草のように繁茂すれば、結果として、塵芥みたいに散逸していく。そういう光景を見てきた。なのに、彼はいのちを極限まで価値の高いモノとして考える。ホウロウのこころには、憐憫というものが深く根を張っているらしかった。

 テムは薄く笑うと、「あ、そういえば」と姑息な手つきで、首のなくなったバルナバスの死体を漁り始めた。

「――金、金、金」

 テムはごそごそと、胸襟の奥や懐に手を伸ばした。ホウロウはバルナバスの胴体を見ていると、そういえば首はどこに行ったのかと思った。どうやら、あの女が持って行ってしまったと気づいて、ため息をした。

「あにじゃ。これから、どうしようか」ポロが言った。めずらしく、眉間にしわを寄せて、食って掛かるような気配があった。

「そりゃあ、ドマを助けに行くとも」

「あてはあるのか」

「蹄の跡でも、あのバカでかいゴーレムとやらの足跡でも、追えばいいのさ」テムがバルナバスの骸の懐に手を入れながら言った。

 ホウロウはバルナバスの言葉を思い出した。

「その吸血鬼は、ハーフは全員、中つ国に運ばれるって言ってたぞ」

 テムはようやく、バルナバスの懐に金目のものがないとあきらめた。悔しそうに、彼はつるつる頭を撫でた。

「中つ国? その話は本当なら、道は一つだ。龍のアギトっていう谷の桟道を通るしかない。下手すると、もう桟道の手前ぐらいまで行っちまってるかもしれんなあ」

「そんな近くに谷があるのかよ」とポロが言った。ホウロウもポロも外の世界をよく知らなかった。唯一、他のハーフの町に行商していたことがあるテムだけが一応、このブレージア―国内の地勢を知っていた。

「知らねえのも、無理はないな。他国から侵入するには、ほとんど唯一の道だから、吸血鬼どもも、そこに城塞を設けて、監視しているのさ」 

「よし、じゃあ、すぐに行こう。話は、道すがら」

 ホウロウの言葉にテムは嫌そうに顔を歪ませた。 

「はあ、ドマなんてもうきっぱりと諦めた方が身のためだけどな」

「ふざけたこと言うな。あにじゃはそんな薄情じゃねえ。ついてくるのか、来ないのか」ポロは物凄い剣幕だった。彼も、この状況に浮足立っているのかもしれなかった。ホウロウはポロの吊り上がった目を見て、不安になった。

(ああ、やはり……憎しみはぬぐいがたい。どうなることやら)とホウロウは憂鬱な気持ちで空を仰いだ。

「しょうがねえなあ。ここに残ったって、どこに吸血鬼が隠れ潜んでるか分かんねえし」とテムが折れた。

 ――三人は、一応の合意を見て、歩き始めた。ホウロウは急ぎ足の中で、郷里の変わり果てた姿を瞼に焼き付けた。町自体が生命を失っている。ときおり、鳥のわななきや砂を運ぶ風の音だけが、骨だけになった町の隙間を通っていくようだった。ここで生きた記憶が一歩一歩、足を運ぶたびに、みるみる希薄になっていく。この街に名前はない。吸血鬼には便宜上、二十四番町と呼ばれている。数ある混血種たちを隔離する区域の一つに過ぎない。だから、そこに住む人々の実生活というたしかなモノを喪えば、一瞬で忘却の彼方へと消える。

 ――ふと、ホウロウはドマを助けた後のことを考えた。

 このブレージア―という国の支配者である吸血鬼が、本気でハーフを抹殺しに来た今、どこにも、行き場がない。 彼の了見は狭かった。ホウロウは二十の後半とは言え、まだまだ年若い。多くの星霜が、その生涯に残されている。ようやく、天命は、気まぐれに、この英雄を時代の濁流の中へ放りだした。けれど、その五体と精神を遺憾なく発揮するには、身を縛っている鎖が重い。 好漢、いまだ時を得ず、覚悟も中途半端なまま、吸血鬼という遠大な種族史を持つ敵に相対しなければならなかった。






























 













































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