龍が来る
@nihirumu
二頭の猛虎
――その国はブレージア―王国といった。 そこまで広い領域を持つわけではないが、四方を険阻に囲まれて、要害の内部の土地は肥沃で、平原を大河が流れている。その河川にそって、城塞の壁がある。なかでは、数十万という紅い眼をした吸血鬼たちが、閉鎖的に、高い技術水準によって、この世の生を謳歌している。壁からは跳ね橋が伸びていて、その南門から都市の大通りをまっすぐ行くと、ブレージア―城という古城が丘陵の上に建っているのが見える。主はコンラート王という壮年の暗君で、いま、城内はその暗愚によって、官僚の闘争と、血族の権謀術数が渦を巻いている。
吸血鬼は異様なぐらい様式美を好む。
碁盤の目状に整理された都市の内部はいくつもの区域に分かれていて、南門から一番近い方に、身分が低い者が住み、北に上がるにつれて、身分が高い者が住んでいる。いくつもある辻のどこを見ても、ごみの一つもないし、路傍に浮浪者の姿も見えない。四角い敷石も魔術の土木に錬磨されて、妙に四角くすぎる。碁盤の目状の四角と家々の四角と敷石の四角。内包し、内包されの繰り返しが、とめどなく続いている。
「お母様、つま先が痛いですわ」
「足を丸めてなさい。すぐ慣れるから」
着飾った十歳くらいの女の子が母親の手に引かれて、酔っぱらったみたいにふらふらと歩いている。靴が小さいらしい。真っ赤な革で出来たそれは、少女の成長と素材の強度の相克によって、彼女のつま先に生理に似た不可逆な痛みを与えている。少女は親指をくねらせながら、無理やり歩く術を心得始めていた。
「お父様、今日は帰ってきますの?」
「いいえ、二、三日は帰って来ません」
「ふうん。お忙しいのね」
母親は、十歳の少女にはわからないふしんな気配を漂わせていた。少女は足元がおぼつかないので、地面ばっかり見て歩いている。最近はどこにも男の顔がすくない。だれも口にはしないがそこには暴力的な胎動があった。
(なにやら、起こるのかしら)と少女の手を引きながら、母親は思った。
――すると、母娘の頭上をつむじ風のように通り過ぎる影があった。そしてその影を追って、また、二つ三つ、影が通り過ぎる。
「え?」母親は頭上を見た。鳥か、獣かと思って深くは考えなかった。
――恐ろしいものに追われている。ヴィーは背後を見て、そう思った。塀から屋根へ、屋根から塀へと足を駆って、宙を行く。遅れて、その背後から千切られずに追ってくる吸血鬼の形相が、引き伸ばされた周りの景色の中でどす黒いものを放っている。彼女はちらと顔をあげて、屋根の上から、遠くの城塞の壁を見た。そこを越えれば、あとは藪の中に消えるだけだった。 背後の吸血鬼の兵卒は、それなりに走って追って来れるらしい。 (たまにこういうのがいるから、ブレージアーは油断ならない)。 ヴィーは上気するこころのなかで、そんなことを考えた。
まだ、そんなことを心の中で思考できるぐらいには余裕があった。 彼女は背後の吸血鬼たちと戦って、勝つ自信は微塵もなかったが、逃げきる自信だけはあった。潜伏しているのを看破されて、彼女が真っ先に考えたのが、逃げることだった。
「逃げないと」が彼女の口癖である。いったい何棟もの屋根を越えたのか。彼女が城塞の壁まであと少しというところに来ると複数いたはずの近侍はちぎれ後方に消えて、追っ手は一人だけだった。
彼女は振り返って、不審な気を感じた。どうにも一向に引き離している感じがない。最後の追っ手との距離感はずっと一定だった。
――と思って、屋根の棟木を蹴り、ふわと宙に浮かんだ刹那に背後の追っ手は、そのために力をためていたと見え、空気を震わせて、物凄い勢いで彼女の背後まで迫った。 どちらも宙に浮いていた。足場に体を預けられない。
「やっべえ」と彼女は思わず漏らした。
すると、彼女の脊髄は錬磨された記憶を揺り起こした。ヴィーは宙に手をあげた。その掌から白い旋風が吹いて、その勢いに押され彼女は下方に向かって吹っ飛んだ。その際、追っ手の白刃が彼女の衣を掠めた。
彼女は地面に腕と足の四本でクモみたいに着地した。顔をあげ、宙を見ると、残された追っ手は白刃を振りかぶったので、宙でバランスを崩している。 機を見るに敏な彼女は反撃と思って、向かって行こうとした。
――しかし、宙に浮いて、統御を失った態で追っ手の吸血鬼の赤い眼玉はぎょろりと彼女を睨んだ。彼女も同じ赤い瞳で見返すと、(こいつ、やっぱり、やべえ)と思って城塞の壁の方へ踵を返した。ヴィーが壁を越え望楼から近くの疎林に飛んでいくのを追っ手の吸血鬼は残念そうに見ていた。
「――反撃に来たら殺してやったのに……ざんねん」彼は嘯いた。土塀の上で市井の眼を集めていると、彼は「は、は、は」と気恥ずかしそうにそこから降りた。
「いやに足が早い奴だ」とヴィーの逃避行に追いつけなかった、彼の部下が自嘲気味に言った。
「あいつは宰相殿の邸でなにをやっておったのだろう」ともう一人が言った。
男はため息して「気づかれた。だが、気づこうと、もう遅い」と言った。
――蕭条と、滝の音がこだましている。岩肌に打ち付けられた水滴が陽光に照らされて光の粒となって踊っている。滝の水流は谷を削り、その深さが自然の星霜の長さを思わせる。削られた窪地に白い衣を着た物々しい士たちが蝟集していた。点々と、白い衣に血痕が見られ、けがを負っている者も多い。言葉はなく、だれの面にも、憂鬱の色が隠せなかった。治癒師による魔術の緑色の発光と音が自然の色と音に溶けて消えていく。 ヴィーは下方から谷の岩肌を蹴って登ってきた。
「この愚か者め。死にたいのか。無茶をしやがって」と頭目と思しき人物がヴィーを烈火のごとく叱った。
「でも、カク導師。……謝罪と言っては何ですが、これを手に入れましたよ」
ヴィーは微笑を含んで、勝ち誇ったように、それを三十余名のまえで披露した。
「これは……フォルカーのヤツ。召喚術を使う気だな」
「カク導師。おそらく、この地図上の点は、その奇術の印の場所を示してるのでは?」
「ううむ。ならば、フォルカーはブレージアーの真ん中に<なにか>を召喚して、それを方々に放つ気だな」
「では、急ぎましょう。ナン導師から援軍は?」
「ない」
「ない?」
「他の者は、諸国にて戦っている。ここにいる者だけで、なんとかするしかないとのお達しだ」
「それは……むりですよ」
「ああ、俺もそう思う。――すでに、ナン導師は次の一手に舵を切られたということだろう。――ついに、龍がやってくるのだ」導師のことばは皆の表情に影を落とした。
「では、この国のハーフはどうなるのです?」
カク導師はそれには答えなかった。蕭条たる滝の音だけがなっている。
「皆の者、よく聞け。もはや、この国の命数は尽きたらしい。あとは、我ら凡下の者に出来ることはわずかである。だが、出来る限り、同胞を救うぞ。まず、負傷者は里に<転送>し、動ける者は、この地図を頼りに一つでも多くの印を消すことだ。ただ、ひとつだけ約束をもうける。フォルカーへの手出しはならぬ。奴は軍をうごかし、我らの前に現れることもあろう。その折には、早まってはならぬ。よいな。では、ヴィー、地図の写しをとるぞ」
導師は数名を呼んで、即座に地図の写しをとらせて、それを各人に配った。
「導師。お言葉ですが、このうえは、フォルカーを暗殺するしかないと思います」
ヴィーはいった。
「もし、それができることなら、とっくにやっている。……いたずらに死を求めるでない」
「ならば、ハーフの民を見捨てるということですか」
「実にもっ!」
カク導師は平常とは打って変わって、怒鳴るようにいった。ヴィーは歯噛みして、導師をにらんだ。
「そなたのやるべきことは……。ン?」
導師はそこで言葉を切った。ヴィーは困惑した。目と目とが複雑な胸中を一瞬で解した。ヴィーはあたりを見回したい欲求を抑えた。
「こちらを見ている者が……」
「見つかったか」
「わたしのせいです。つけられました」
「こうなっては、どうでもよい」
疎林の林冠にしぜんの息吹が溶け込んでいく。そこに不協和音のように、人の呼吸の音が聴こえる。何者かが、身を乗り出して、虎のように、こちらを狙っているのである。カワセミの声がする。 導師は、時を図った。 勃然と「敵襲っ! 散っ!」と一喝した。瞬間、ヴィーの目の前に爆炎があがって、彼女は空中で何回転もして、吹き飛んだ。谷底へ落下し、滝つぼにおちた。彼女は水中から水面に火の粉が上がっているのを見た。涙が滝つぼの水に混じって、消えていく。
気づけば、川の流れに運ばれて、運よく流木に引っ掛かっていた。せき込みながら、川岸に仰向けになった。滝つぼに落ちるときに、何度か岩肌にぶつかったらしく、腰が痛かった。
「う、う、う」と子供のような涙声がもれた。
(くそ、わたしはバカだ。一片の地図と引き換えに仲間を危険にさらしてしまった。しかも、生き残ってしまった。恥だ。いっそ、死にたい)。
彼女は生き残りを探そうと上流に向かって歩いた。フォルカーの手駒なら手抜かりはない。死体すら残さないだろう。そうわかっていて、彼女は歩いた。 諦めかけていると、ふいに藪の陰から声がした。
「ヴィー。生きていたか。こちらへこい」
「あっ! 導師、何処ですか」
「こっちだ」
彼女は声のする方へ走った。導師は傷だらけで、目に光がなかった。体の半身は焼けただれて、腹部には刃物が刺さったままだった。かれは露命をつなぎ、草むらに隠れ、天運の導きを待っていた。 息は絶え絶えで、「ここに。ヴィー」と導師はヴィーに手招きした。
「よくぞ。生き残った。天運に感謝するがいい」
「ああ、導師。わたしのせいです」ヴィーは膝をついて大泣きした。みずからの不覚を呪った。
「すべて、天の御意志さ。ここで、最後にそなたが俺を見つけたのも、同じこと。よく、聞くのだ。我れの密命をそなたに託す。いいな」
「はい」
「ハーフの二十四番町に二頭の猛虎がいる。兄弟の虎だ。兄をホウロウ、弟をポロと言う。そなたはどちらか一頭でもいい、手懐けて、里に連れ帰るのだ。龍の時代には、彼らのような英雄の力が必要だ」
「ホウロウとポロ。しかと、胸に刻みました。しかし、フォルカーの魔の手が迫って、時間がありません。どう探せば、よいのですか」
「簡単だ。ハーフの中でも、ふたりはすぐに見分けがつくほどの大男だ。見つけるのは容易い。しかし、常々、かような怪物との応対で、もっとも難しいのが、心服させることだ。尊敬を得ることだ」いわれて、ヴィーは気恥ずかしそうに
「……導師。その……わたしは女です。見目形も若輩にすぎません。娼婦と思われるのが関の山かと」といった。
導師は血の混じったような笑い声を発した。
「はっはっは。そこに気づける見識があればこそ、そなたに任せたい」
「過大なお言葉です」
「よいか。まずは、この二頭の虎をフォルカーの魔の手から守ってやることだ。それからは、よきように」
「しかと、尊命を承りました」
「よし。わからないことがあれば、あとは、ブルーノ導師に聞くがいい。彼も、このブレージアーにいる。……さあ、もう時間がない。行くがいい」
「導師……」ヴィーは頬を濡らして、導師の死相を見た。
「戦士は、死ぬときは一人が良い。うん」
導師はそう言った。ヴィーは頭をさげて、厳粛に去った。後々、彼女は何度も振り返り、導師の死を想って泣いた。
――吸血鬼の都市の外殻である城壁の楼台から地平に向かって、点々と、文明の光のない野性の集合みたいな街が見える。吸血鬼に関わらず、魔界の人々は、この野性の町に住む人々を<混血種(ハーフ)>と呼んだ。混血種とは、魔界の四つの魔族の形質が入り混じった者のことである。
壁はないし、敷石もない。すべての都市機能が古代人の集落に毛が生えた程度で、そのくせ住居だけは五階建ての堅牢さだった。背の高い切妻の家屋に挟まれた路地には、退廃した暗闇があって、そこでは浮浪者が、豺狼のような眼を光らせて、蠢動している。また、人口が増えて増えまくるので、街はその土地の限界をこえて膨張し、路地は入り組んで、迷路のようになっている。町にはどこにでも娼婦の館があって親に認知されない赤子の産声が時たま路地の暗黒にこだまする。
混血種の町は、吸血鬼の都市と面白いぐらいの対比をなしている。吸血鬼は強力な純血主義を旗幟としているので、その紅い眼から放たれる混血種たちへの侮蔑の眼は半端ではない。けれど、その侮蔑する目を見返す混血種たちの眼も淡い赤色だったりするのがこの世の皮肉だった。しかも、またその混血を助長するのは混血種たちの娼館にタネをまく、これまた純血の吸血鬼というので、混血種たちの主である吸血鬼たちを迎える顔つきには「お前らの落ち度じゃないかよ」という自虐的かつ皮肉的な嘲笑がある。
魔族の畸形的形質を持つ者たちが万華鏡のような色彩をもって跳梁跋扈するのがハーフの世界だった。
――その男の眼は幾何学的な光を持っていた。また、八重歯が氷柱のように下方に向かって尖っていた。ウサギのように大きな耳は獣毛におおわれている。筋骨隆々の巨躯である。腕が長く足は短い。彼はきびきびした足取りで人込みを歩いていた。人と馬車の往来が舗装されていない道の砂を舞い上がらせている。空気に貧乏な気配が立ち込めている。けれど、一様に元気が充溢していた。行き交う麻布を着た者たちのおもてには、文明の光に屈さない未開人の生命があった。
男は短い列に並んだ。吸血鬼が、机の上に紙を広げて、頬杖を突きながら、時が過ぎるのを待っているように「次、はい、次」と音頭のように繰り返している。男が手を差し出すと、吸血鬼は急に眠気を覚ましたのか、二度三度、彼の方を見上げた。ただの混血の徒ではない、といった驚愕が吸血鬼の顔に浮かんだ。 けれど、彼の焦点のあっていないような眼に睨まれると、ほいほいと、事務的な手つきで、彼の差し出された腕に手を当てた。
その吸血鬼は、献血官という役職だった。週二回、ハーフたちの町へとやってきて、血を抜いていくのである。行政の区分上、一棟の集合住宅から二、三人、持ち回りで選び出して、血を集めることになっていて、今日は、彼が献血される日だった。もちろん、死ぬほど血を抜かれるわけではないが、病弱な人間が献血されることもあり、その場合は悲惨である。壮健な者であっても、列を後にしていくその背には元気がないのが普通である。
血液は魔術をもって吸い上げる。遠い昔は、直截に吸血鬼の歯に噛みつかれていたらしい。献血官が男の手に若干、針で傷を付けると、糸のように血が宙を上がってくる。血液はとぐろを巻いて、一度、上へと上昇し、頂点に達すると、下降し、円柱型の銀の容器の中に落ちていった。男は自分の血が宙を浮きながら、蝶の模様のような線を描くのをじっと見つめていた。
献血官は、それをいぶかし気に見ていた。(ふつうは目を背けるものだがなあ?)と献血官は思って、どうも解せないという顔をしている。男は献血されたあとも、顔つきから鋭気が消えなかった。「はい次」と言いつつ、献血官の吸血鬼は、その岩みたいな背中が小さくなっていくのを事務的な作業の中で何度も見直した。
――男は、あばら家の隙間を縫って、狭い道に入って立ち止まった。彼の足音はヘンに小さい。目の前で、ものものしく群衆がざわついているが、彼が背後で通せんぼされて、黙って見下ろしているのに気づいていない。彼は「どけ」とも言わずに、ただ突っ立っていた。
「あ、ホウロウだ」群衆の一人が彼に気づいた。
「おお。来た来た。ホウロウだ」と群衆は分かれて、彼のために道を開けた。ホウロウはその道を歩いた。図体のわりに圧があまり無い。むしろ、どこか、安穏とした気配がある。 すると、人込みの中から背の低い太った小男が「調子はどうだ。ホウロウ。今日の奴ア、ちと手ごわいぜ」と彼の太ももを突いた。
ホウロウは「そうか。うん」と一言だけ言った。
そこは紐を通して枠を作っただけの闘技場だった。ホウロウはここで五年間、無敗だった。先週だけで、この場所では、二人死んで一人は脚が不具になっているが、彼は一度もそういった重傷を負ったことがない。また、奇妙にも、相手方にも死傷者を出したこともない。
「あれは、オーガと吸血鬼だな」と相手方の偉丈夫を見て、テムが言った。神経質そうにホウロウを見ていると、彼は手首のあたりに傷を見つけて「お前、献血を受けてきたのか!」と色を失った。
「ああ」
「バカ。試合の前に血を抜く奴があるかよっ」
「いやいや。大丈夫。いつもどおり」彼はテムの前で拳を二度三度、握ってみせた。(ム。あれ、少し違和感があるなあ)と、この時になって、ホウロウは気づいた。血を抜かれた方の腕がいやに重いような感じがした。それでも、同時に(まあ、大丈夫だろう)ぐらいに思って、慌てふためくテムを尻目にどこ吹く風だった。
そして、またフフフと笑って「いや。今になってみると、少し、腕が寒いなあ」と正直な所感を吐露した。テムは、死にそうなぐらいに頭を抱えて「まだ、遅くはないぞ。試合を先延ばしてやる。べつに心配ねえさ。俺の舌先でなんとかしてやる」といった。
そういわれると、ホウロウはテムを押しのけて「いらん。任せろ」と闘技場のヒモをくぐった。
「ああ、このバカ!」とその背に向かって、テムは叫んだ。
今日の対戦相手というのはどっぷりとイノシシみたいに太った巨漢である。けれど、水膨れのように実のない体に見えて、ホウロウはその図体に気圧されなかった。自分の力を信じているのか、彼はまったく対戦相手を歯牙にもかけず、もうすでに勝敗を決したものと思って、どこか上の空であった。カアンと合図が鳴った。武器の携帯は許されていない、何でもありの殴り合いである。
(ムム、いつもより痛え)。
いかに頑健なホウロウでも殴られれば鼻血は出る。視界に血が入って、心が上気した。血潮が沸いた。ふつうの生活では味わえない闘争に酔った。 肘鉄を顔に喰らった。これはさすがにホウロウでも痛かった。一瞬、彼の幾何学的で万華鏡のような乱反射する瞳がきいっと相手を睨んだ。
(このやろ)。
須臾の間の一閃である。観客はなにが起こったのかわからなかった。イノシシ顔の挑戦者は場外へとたたき出されていた。
(やっべ)。
ホウロウは焦って、そのぐったりとしたイノシシ顔の男の方へ駆け寄った。さいわい、死んではいない。 胸をなでおろしていると、「おい、おい」とテムが欣喜雀躍といった様子で走ってきた。
「テム、お前もすこしは闘技者の力量を見る目をつけろよ」 とホウロウは笑った。
「はっはっは。いやいや。わからん。でかい方がつよいと思うのが、凡人の論理だぜ」
「ははは」
勝敗は決した。闘技は賭け事である。観客は喜んでいる者が半分、落胆している者が半分だった。ホウロウはそれを見て、「なんだよ。このイノシシに賭けたバカがこんなにたくさんいるのかよ」と笑った。
――観客が去ったあとにホウロウとテムは隣り合って地面に座った。喧噪も興奮も、冷めやらず、光が差し込まない路地に沈殿している。そこでテムは天幕を張って、苔のような日陰者の生活をしている。
「いやあ。少し心配してたが、こびとの眼は当てにならんな」とテムは笑った。その際、若干、八重歯の突起が見えた。テムの歯は八重歯が少しだけ尖っていた。ホウロウの八重歯と比べると小ぶりだが、確かな突起がある。
「ふんふん。いつの間にか、腕に血が通ってきたぞ」ホウロウは血を吸われた方の腕を振り回した。
「お前が戦争中に成人していたら、戦争に勝てたんじゃねえかなあ」テムは冗談っぽく言った。すると、ホウロウは微笑を含んで「ああ、俺たちの勝ちさ」といった。
ホウロウのおもては真剣そのものだったので、テムは少し驚いた。が、思い直したように「違いねえ。違いねえ」と笑った。テムに浮かんだ笑いはすぐに打ち消えて、彼は何度か(ほんきで言ってるのか?)といういぶかし気な眉の動きを見せた。
「まあ、従軍なんてさせてもらえんがな。たぶん、馬丁をやらされるな」
「むしろ、ヒューマン側の味方をしてもいい」
二人はふっと笑みをこぼした。彼らは魔族のハーフだった。吸血鬼によって、その生活は一定の制限を受けている。が、そこまで苛烈ではない。ハーフの側から叛乱の火の手が上がらないことからも、それは明白である。思えば、吸血鬼とハーフは、ふしぎな差別関係にあった。
人口の比率で言えば、このブレージアーでは、ハーフの方が三倍、数が多い。とうぜん、吸血鬼も数が多いハーフに苛斂誅求には出られないのである。しかも、吸血鬼の世界も一枚岩ではない。官位があり、身分があり、果てには男女の差もある。
対立はいくつも存在して、それは一面だけでは成立しない。吸血鬼とハーフも、その一面を構成するにすぎない。上下関係が織物のように編み込まれているがゆえに、破壊的結果をみぜんに防いでいた。
ふと、ホウロウは帰路の途中で、ふしんな気配に気づいた。
(むむ、ずっとついてくる奴がいるな)。闘技場では闘士を囲っている場合があり、そういった組織ぐるみの陣営を負かしたとき、思わぬ仕返しをされることがある。ホウロウは振り返った。大通りの人だかりを見回すと、バレたと思ったのか、不意に走り出す影を見つけた。それは、横丁に入っていった。
「ン?」
去り際に見えた髪の毛や体躯を見るに、女だと思われた。ホウロウは追わなかった。「気のせいかなあ」と立ち尽くして解せないといった様子であった。
「――金は?」
彼女はまずそう言って、ホウロウの顔を見た。彼女はドマという娼婦だった。ホウロウは彼女の年齢も本名も知らない。ただ、わずかに尖った八重歯と毛深い手の甲を見るに、獣人と吸血鬼の形質を持った生まれなのは見て取れる。ドマは娼婦だけあって器量は悪くないが、教養はないし、言葉も汚い。また、特別、思いやりのあるほうでもなかった。 ドマは身重になってから安楽椅子からめったに動かなくなって太った。茶色い髪も、どこか艶がないし、肌も不健康に青白い。
「傷負って帰ってくるなんて、めずらし」と彼女は笑った。ホウロウは自分の顔を触った。裂傷が痣になっていた。どういうつくりになっているのか、彼についた傷はたちまちふさがってしまうのだった。
部屋には寝袋と安楽椅子しかなかった。椅子は彼女にゆずり、ホウロウは地べたに胡坐をかいた。
「今日は少し殴られた」ホウロウはいった。
「ふーん。ああ、そうだ。なんか、ホウロウに客が来てたよ」 彼女は生来、人の話を聞かない。けれど、ホウロウはそれに文句を言ったことはない。そもそも、彼女のそういう性格を不快に思ったこともなかった。
「客?」
「吸血鬼だね。ありゃ」
「そいつは何しに来た」
「さあ、あんたが居ないってわかるとどっか行っちゃった。だいぶ、切羽詰まってたっぽいけど、なんだろう」
ホウロウは少し違和を感じて黙った。
「……風体は?」
「髪が黒い背の高い男だったよ。旅装束の」
「そんなやつはしらん」
「ふうん」
すると、ふと窓の外から何者かが喚く声が聞こえた。ホウロウは窓枠から下を覗いた。まさに、いま、浮浪者と役人風の白い立ち襟を着た吸血鬼が真下で言い争いをしていた。
「なになに」ドマは興味津々といったようすで外を覗いた。
「喧嘩だ」
「ふうん」
「止めた方が良いかな」ホウロウが何気なくいった。すると、ドマは「いや。やめた方がいいんじゃない。あんたみたいなのが出ていったら余計ややこしくなるよ」と言った。
「なんだよ。止めるだけだ」
「見て見なよ。今気づいたんだけどさ」ドマはあたりをぐるりと指さしていった。ホウロウは嫌な予感がした。見れば、物々しく帯剣した吸血鬼たちが点々としていた。しかも、それぞれが何か定められた職務を行っているような気配がある。ホウロウは急に直感が働いた。彼は普段はどこか抜けているが、勘は鋭かった。
「――あれは……俺たちの数を数えてるんだ」
「私は足し算できないよ」
と彼女が自虐するのでホウロウは苦笑いした。
「なんのために数を数えてるんだろうな?」
ドマは興味を失ったように安楽椅子に戻って「テムに聞いたら? いつもみたいにさ」と言った。
「ああ。そうする。でも、今日はもう寝る」
ホウロウはそう言って寝床に横になった。夜になると、ドマは急に弱った。毎夜のように「死ぬのが怖いよ」と繰り返した。出産で死ぬ女は珍しくない。とくに貧民街では、日常茶飯事である。おそらく、ドマは働いていた娼館で出産で死ぬ女を見てきたに違いない。
「お腹にいるのは悪魔だよ。わたしを殺そうとしてるんだよ」と彼女は言った。
「そんなことねえって。家財を売ったし、金もできた。そのうち、テムが、いい医者連れてくるから」
「もしかして、恵まれてる? わたしって」
「そりゃあ、そうだろ。孤独な妊婦が、この世界には、どれほどいるよ」
「まあ、そうだね。感謝してるよ。……ごめんね。ホウロウ」
「うん、ああ」
彼女が寝た後も彼はずっと起きていた。寝床に横になって貝みたいに目を瞑っていた。が、不審な音を階下に聞くたびに瞼の筋肉が震えた。(うるせえ)。彼は外を覗いた。はじめ、怒鳴りつけてやろうと思ったが、眼下に広がっている光景の異質さに怖気が走った。
――昼間に負けないぐらいの人だかりだった。全員が黒装束である。虫か蝙蝠の大群のようだった。存在感のわりに足音がない。ホウロウはすぐに隠れたあとに、顔をすこし出して覗いた。夜闇に象牙質の肌が浮かんでいる。黒装束の集団は全員、吸血鬼だった。しかも、服装を見るに傭兵ではなく、高位の軍隊である。ホウロウは不安に駆られた。彼は眠りについたドマを見た。ごくたまに、彼は、この場所を離れることを考えた。
ホウロウはもう一度、外を見た。閑散としている。跡形もなかった。ホウロウは自分がさっき見た光景が幻覚だったのだろうと、一瞬、思った。向かいの同じ規格の住居の壁に朱色の印が付いていた。ホウロウは目を凝らしてそれを見つめた。文字のように見える。ひじょうにカクカクした歪な印象があるが、確かに文字のようである。
(あれは……いったい、なんなんだ)。
――朝、ホウロウは早足でテムの住む路地へと急いだ。ふしぎと、昨日の吸血鬼の大群は市井の話題に上がっていないらしい。ホウロウは自分の見たものを信じられなかった。
「――昨日の夜、吸血鬼の大群を見た」とホウロウが言うと、テムは「あ?」とテントの中から起き出してきた。
テムはホウロウの顔色を一目見て「ひでえ顔色だぜ」
「寝不足だ。それより、昨日の夜、吸血鬼の大群が俺んトコの目の前の通りを歩いてたんだ。なんか、知らねえか」
テムは話を聞き流しながら、歩き始めた。
「さあ。知らん。ここでは、よくある事だろ。なにせ、ここは吸血鬼サマの王国なんだからな」
テムは地面に唾を吐いた。
「いいや。あれは少し様子がおかしかった」
「なにが」
「あれは軍隊だ。コンラートの常備軍だよ」
「お前、酒の飲み過ぎだ。雇い主として禁酒令を出す」
「おい、ふざけてんじゃねえ」ホウロウは前を歩くテムの襟首を掴んでもち上げた。
「わかった。わかったから降ろせって」
テムは襟を正すと、「ガキに見られたじゃねえか。まったく。いまから仕事なんだよ」といった。
「仕事って?」
「自警団だよ。坑道にモンスターが住み着いているらしい」
ホウロウは鋭い視線でテムを睨んだ。
「まだ、俺の弟に怪物退治やらせてんのか」
「だって、頼まれるんだからしょうがない。それに、誰かが、バケモン殺さにゃいかんだろ」
ホウロウは少し考えた。ため息して「手伝ってやる。ついでに、あいつの顔も見ておくか」と言うと、テムは「ほんとうか。こりゃ、ラッキーだ」と喜んだ。
「代わりに、しっかり調べろよ」
「わかった。わかった」
「で、死んだのは何人だ?」
「たぶん、五人ぐらい」
「たぶん?」
テムは笑いながら「いや。頭を数えたんだよ。バラバラで。死人は全員、鉱山夫だ。組合から金が出るって話よ」と説明した。
「もし、悪霊の類だったらおりるからな。ありゃあ、俺でもお手上げだ」
彼らの住んでいる地上には、魔物という普通の動物より殺傷能力が高い怪物と、それを討伐するのを生業にする者がいる。地方によって、呼び名はまちまちだが、そういった者たちはデーモンハンターと呼ばれている。ふつうは、そういった専門家に怪物退治を任せるのだが、このハーフの町にはそんな常識はない。というより、デーモンハンターに依頼料を払う行政機関もなければ、市井の金持ちもない。また、厄介にもデーモンハンターは吸血鬼が多いので、頼むだけ無駄というのが現状である。
だから、結果、安い金で戦闘経験もない混血種の男たちを駆り出して、何人もの屍の先に魔物を討伐するという非人道的な方法がとられる。ホウロウは三度、こういった類の<汚れ仕事>を引き受けた。最初の二回は、あまり獣と変わらない熊の亜種と大きなトカゲだったので、何とか討伐することはできたが、彼に、この仕事から足を洗うことを決心させたのは、透明になったり、不思議な詐術を使ってくる悪霊と呼ばれる怪物に出会ったときだった。謎の魔術で大やけどを負ったホウロウは(こんなバケモンは専門家に任せるべきだ)と痛感したし、また、彼をさらに憂慮させるのは、いまだに、弟のポロが一向に、この仕事から足を洗わないことだった。
――寂然としていた。谷のようになっている広場に向かって、つづら折りに盛り土の坂が続いていく。竪穴の住戸がいくつも並んで、衣に土を付けた恰幅のいい人々が集まっていた。白布を被せた死体が並べてあった。彼らの胸中では、顔見知りを喪った悲しみより、すぐ近くの坑道の先に、これをなせる怪物がいるという恐怖が勝っているようだった。ホウロウは、その人々のようすを見ながら「ポロはどこ行った?」とテムに聞いた。
「さあ、その辺にいるはずだけど」
すると、人混みの中から、背が高いほっそりとした若者が現れた。長い手足を悠々と使いながら歩いてくる。細身ではあるが、頑健な印象がある。耳が獣毛に覆われている。片耳が折れて垂れ、背筋は少し曲がっていた。猫背というより、癖のように見えて、どこか型にはまらない自由な気風を感じさせる。
「やあ、兄者」ポロはホウロウを<兄者>と呼んだ。年齢は、五つか、六つぐらい離れている。向かい合うと、ホウロウの方が一回り大きかった。兄弟だが、親から受け継いだ形質はちがう。顔つきの鋭さはよく似ている。どちらかといえば、ポロの骨相の方が横長で攻撃的な棘がある。
「まだ、化け物退治なんかやってんのか。死ぬ前に足を洗えよ、ポロ」
ホウロウがそういうと、妙に疲労したような笑顔を見せて、ポロは彼の眼を真っ直ぐ見た。
「ふふ。ガキはまだ生まれんのか、兄者」
「まだだ」
「そうか。うん」
「飯は食ってるか。病気はしてないか」
「ああ」
ふたりの会話は実がない。妙がない。そこには、多年、培われた兄弟の情理だけがある。ふたりは、二言三言で、複雑な感情を会話できる。
(ま、元気にやってるらしいな)とホウロウはひとまず安心した。ふいに、坑道の暗黒からどこか生物的な息吹を感じる震動が響いてきて、集まった鉱山夫たちは蜘蛛の子散らすように逃げ惑った。
「よかったな。幽鬼じゃなさそうだぜ」テムがホウロウをつついた。
「でなくとも、俺らより大きいことは間違いねえ」
「いやいや。でかい方が勝つとは限らないんだろ」
賢しらな反撃をうけて、ホウロウは「むうう」と唸った。かれはテムの当意即妙の返しによわい。
――ホウロウは、ポロとテムと三人で頭を集めた。といっても、ホウロウとポロの知恵袋はたかが知れている。だから、たいてい、こういう場合は、テムの提案に二人が納得するかどうかが議論の肝となる。 おもに、ホウロウは「やめたほうがいい」といい、それに対してポロが「そうビビることはねえって」という。 テムが放っておくと、手を変え品を変え、ずっと、同じこと言い続けている。やはり、兄弟である。頭脳にも、そこまで差異がない。
「兄者は心配することはねえって。いざとなれば、俺が<アレ>を使うから」
「このバカっ! 俺が心配してるのは、そこなんだよ。お前、早死にしてえのか」
そういわれて、ポロはつんとそっぽを向いた。ホウロウはため息をして「テム、ほかに人手はないのかよ」といった。
「ないよ。見ただろ、みんな、ビビって逃げちまったし」
「むむ。三人だぞ、たった三人っ!」
「いや、俺は頭数に入れるな。俺は戦えない」とテムが首を振りながら言った。
「じゃあ、ふたりだっ! あの地鳴りを聞いただろ。ふたりでどうにかなる問題じゃねえ」
――ふいに、雨音のようなすすり泣く声が聞こえてきた。三人とも、首をそろえて、その声のする方へ目を向けると、白布を被った犠牲者と思しき遺骸のまえに座り込む、未亡人や子供の姿が見えた。ホウロウは口をへの字に曲げて、峻厳な顔つきで、沈思黙考した。
テムは、好機と見て「なあ、ホウロウ。ここの鉱山が怪物騒ぎで止まったら、彼らの収入はどうなる。薄給で命をつないでいる人たちだ。路頭に迷うに違いない」といった。
「あにじゃ。何度も言ってるだろう。身重の女がいるあんたに、<アレ>は使わせない。もしものことがあれば、俺に任せろ」
「ポロ。勘違いするな。あれは、そんな軽はずみに使っていいもんじゃない。――が、しかし。ああ、クソ。しょうがねえなあ。同胞のためだ」ホウロウは頭を抱えて、そういった。 <はらから>、この言葉は重い。社会の低層を生きる者たちの連帯であり、道徳だった。
――と、この時、ヴィーは物陰に隠れて、そのホウロウの姿を背後から見ていた。コソ泥然とした衣は目立つので、外套を羽織っていた。爬虫類のような赤い瞳が、その背を値踏みするように睨んでいる。
(あれが……ホウロウとポロ。英雄の卵)。ふたりのことは、どちらも前もって尾行したが、ホウロウもポロも尋常ではない直感を持っているらしく、ふいにふりかえられて、ヴィーは何度も尾行がバレそうになった。
(まじでトラじゃん)と彼女は、その野生の勘に舌を巻き、軽々に近づけないと悟った。
ともあれ、こうして、ながめてみると、ふたりの印象は彼女の胸に描いていたものとはだいぶ違う。
(もっと、ケダモノじみた怪人みたいなのを想像してたけどなあ)と彼女が思うように、ホウロウとポロの風格は、穏やかで凡庸である。言葉は粗野で洗練されていないが、弱者の悲哀に、こころを動かされるところを見ると、ある程度の良識は備えているらしい。
――第一印象はわるくない。顎に手を当て、ヴィーは考える。問題はどう接触するかである。見たところ、彼らは坑道に出現した魔物を討伐する自警団を買って出たらしい。
(あれは、魔物じゃないんだけどな)と彼女は、坑道の奥の深淵から聞こえてくる地響きの正体に、ある確信を持っていた。ふと、彼女は直感した。
――彼らは人手を求めているのである。怪物退治は専業ではないが、剣と魔術の心得はある。その辺の男に腕っぷしで劣らない自負がある。
(むむむ。これがしぜん、怪しくない)と彼女は息巻いて、彼らのもとへ歩いて行った。
「――もし、人助けが必要ですの?」ヴィーはつとめて、いんぎんな口調で切り出した。
ホウロウは眉根をよせて、「ン?」と唸って、(俺らに話しかけているのか)といった疑問を抱いた風に周りを見回した。彼は周りに人がいないと気づくと、困ったように「どうした。お嬢ちゃん」といった。
(お、お嬢ちゃん?)。奥歯ががりがりと音を立てた。少し慇懃に過ぎたかもしれない。ふと、ポロは彼女の腰帯に刀剣の光を見ると、ふいにくわっと立ち上がって「おい。女が刃物を持つのか。包丁でも持ってろ」とあざ笑うように言った。刀剣は、物にも依るが総じて値が張る。ハーフの街で帯剣して、街路を歩く者はめったにいない。ただでさえ、めずらしいのに、それを女が引っ提げている。ポロの反応は、ある意味、当然である。ポロは刀がうらやましく、女にはもったいない思ったらしい。
――が、ヴィーはその反応を何よりも嫌った。糊塗された令嬢のような顔色が、怒色にひび割れた。
「ほ、ほ、ほ」彼女はすこし悪戯しようという気持ちで、蔑んだように見下ろしているポロの腕をつかんだ。ポロは「なんだ。おんな」と困惑した。すると、「イデデデデっ!」と雷撃のようなものが腕を走って、ポロはのたうった。ヴィーは暴れる腕を離さず、ポロは悶絶し続けた。
(すこし寝てろ。ならず者め)と彼女は気絶するぐらいの威力の電撃を流した。が、ポロは気絶するどころか、悶絶しながら、獣のような瞳で彼女をにらんだ。屈辱を何よりも嫌う性分である。その瞳には赫々と、仮借のない殺意が見えた。口元から獣人族に特有ののこぎりのような歯がのぞき、目からは吸血鬼の形質であるするどい光芒が放たれた。
「――な、なに。こいつ」 ヴィーは猛虎の力を甘く見ていたらしい。ポロは掴まれていないほうの腕を猛然と振り上げた。「ぐぉぉぉっ!」と猛虎の唸りが響いた。
――刹那に。「このバカっ!」とホウロウはポロを押さえつけた。
「お前、人殺しになりたいのか。――しかも、我を忘れて、<アレ>を使おうとしたな。バカ、このバカ」ホウロウはポロを地面にのした。全力をもって、体で抑え込んで、ポロの顔は地面を擦った。喧嘩を止めるにしてはやり過ぎという感がある。
「あにじゃ。先に始めたのは、この女だ。――離せっ! 食い殺してくれるっ!」ポロは暴れて、腕を振り足を振り、砂塵が吹きあがった。
「先に、無礼を言ったのはお前だ」
「ぐぐぐ」
「頭を冷やせ」
「ああ、もう冷めたっ!」
「本当か。じゃあ、放してやる」とホウロウが退くと、ポロは立ち上がった。襟を正すように、深呼吸すると、ヴィーをにらんで、何も言わず、離れた。ヴィーは呆気にとられたが、一方で、心のうちで、面白い、と思うのを抑えられなかった。兄と弟、二頭の猛虎。ヴィーは、彼らが奸悪に立ち向かう姿を空想に描いた。
(いやいや。頼もしい)。
――ホウロウは憤然としているポロの背中を見て、ふぅとため息をもらして、「お嬢ちゃん。すこし奇術がつかえるようだが、何者だ」とヴィーに聞いた。
「ほほほ。私は怪物退治を専門とする者です」
「なに。つまり、デーモンハンターか?」
「そうです」
「これは……俺の弟が失礼をした。おい、テムっ!」
「なんだ」
「これはどういうことだよ。組合はデーモンハンターを雇っていたんじゃないか」
「ウーン。おかしいなあ。そんな話は聞いてないんだが」
横合いからヴィーは「わたしは慈善事業で怪物退治をやっている流浪の者ゆえ」といって、疑義をかわした。ここはとりあえず、信用してもらい懐に入り込む算段である。ただでさえ、時間がない。災禍の刻限は迫っている。
「なら、俺らに手を貸してくれるのか」
「ええ、もちろん」
「それはよい」
ホウロウは喜んだが、その声に刺々しく「あにじゃ。そんな怪しいヤツを信用していいのか」とポロが横槍を入れる。
「テム。どうするよ」とホウロウはテムに聞いた。
「ううむ。魔法を使えるってことは、信じていいんじゃないか。それに、慈善事業なんだろ。つまり、取り分もいらないってことだ。な? あんた」
ヴィーはテムの問いに鼻で笑って「べつに構いません」といった。
「失礼ながら、あんたの名前を聞きたい」ホウロウはしいて、丁寧に尋ねた。
「ヴィーと申します」と彼女は言った。偽名を使わなかった。猛虎を籠絡するのに、心根から誠意を持とうという気概だった。
――今日は天気がよい。蒼天から日の光が煌々と差し込んでくる。その光芒は、坑道の暗闇と精妙な対比をなして、より暗黒を不気味にしている。
「じゃあ、わたしが先に」とヴィーは坑道の先頭を行く。二歩ずつあいだを開けて、ホウロウ、ポロ、テムと続いた。三人は、武器がなかったので、鉱山夫につるはしを借りてきた。
ホウロウはヴィーの背中を見て、(この暗闇を怪物がいるかもしれないのに、前を歩くとは……。やはり、本物のデーモンハンターにちがいない)と確信をもった。
――入口の光が届かないところまで来ると、ヴィーは指をならした。すると、白球が彼女の肩のうえでとどまって、光を放ち続けた。
「なんだよ。また、奇術の類かよ」とポロは何かにつけて、イライラしていた。一方でホウロウはというと「便利、便利。なあ、あんた。それは、俺にもできるか」と気さくだった。
二頭の猛虎とは、犬と狼ぐらい気性の差があるようだった。鷹揚な兄のホウロウに比して、ポロは喧嘩っ早い。とはいえ、どちらが人として優れているかは、まだ分からない。カク導師は「どちらか一方でも連れ帰れ」といったが、ヴィーは、まだ、二頭の虎に優先順位を付けないでおくことにした。
乳白色のひかりに導かれて、四人の行軍は順調に進んでいる。と思うと、坑道の崩落する音にまぎれて、なにか巨大なモノが蠢動する音が聴こえた。小石がことんとホウロウの頭にあたった。
「なあ、あんた。足音で、化け物の正体がわかったりしないものか」とホウロウが聞くと、ヴィーはふりかえった。彼女は坑道に徘徊する怪物の正体を知っている。が、(なんて言ったら、こいつらにもわかるかなあ)とのっぴきならない事情があった。ホウロウとポロの了見は狭い。一からすべて説明しても、理解できないばかりか、よけいな猜疑を二人のなかに生むかもしれない。迷っていると、ポロが後ろから「そいつに何がわかるんだよ。まったく、あんたも物好きだな。女に弱いんだからよ」と茶化すように言った。ホウロウはむっとした。
すると、最後方から弱弱しく「なあ、この坑道、さっきから少しずつ崩れているように見えるんだが。崩落しねえよな。怪物と戦う以前の問題だぜ」とテムがいった。
いわれて、全員が天井を見た。
「じゃあ」と彼女が何かを言おうとしたとき、前触れもなく、どすんと地鳴りがした。小石がこつんとまた落ちてきた。ホウロウは坑道の奥の暗闇に不明瞭な輪郭を見つけて、眉根を寄せ、「おい、あれはなんだ」と長い腕をもって、指し示した。
「む、あれは」
――時間が止まった。白い光がその黒い塊に明朗な輪郭を与える。黒く見えた体は全体的に灰色を基調としているようだった。それは二本足で歩いていた。横幅ったい胴体の左右から長い腕がだらりと下がって、指先が地面につこうかと思われた。首がなく、頭が胴体に直接、乗っかっている。のこぎりのような歯がぎりぎりと鳴って、銅像のような生気のない瞳はどこを見ているのかわからない。
「――うごくな」勃然と、ヴィーはどすのきいた声をもって、後ろの三人の軽挙を制した。
その確信めいた響きに全員が息を殺して止まった。その黒い怪物は焦点の定まらない眼でホウロウを見つめた。彼は、その顔貌と向かい合った。
(こいつは……生き物じゃねえ。岩で出来ているっ!)とホウロウは色を失った。
ホウロウは閃光のような怖気を感じた。その恐懼は筋肉の硬直に変化した。かれの体はなぜかそういう風に出来ている。怪物は拳骨を握って、腕を振り上げた。ヴィーは帯剣に手をかけた。が、彼女が何かする前に「うおおお」と獣のような咆哮が耳元で聞こえた。
「え?」とヴィーは当惑した。あろうことか、ホウロウはヴィーの肩を跳び越えて、怪物の背に飛びついたのである。ヴィーは目を丸くした。
(こいつ、いかれてる。ああ、もう、邪魔、邪魔)と彼女は自分の方略があるのに、素人にそれを遮られて地団太を踏んだ。
ホウロウは怪物の首に手を回して掴まった。怪物は暴れまわって坑道の壁や天井にぶつかりまくった。土煙が暗闇でもわかるほどに舞い上がって肺がむせ返った。
「よく聞いてっ! そいつはっ! 胸の石を取れば止まるっ!」ヴィーは言葉を切り、ホウロウに向かって叫んだ。たしかに、怪物の胸には意味深長に輝く石が嵌め込まれていた。
しかし、ホウロウは巨大な怪物の首に掴まって、その背中に虫みたいに張り付いているのである。彼は、「バカ野郎っ! そんなことできるかっ!」と叫んだ。怪物はさらに暴れた。砂礫が天井から落ちてくる。これ以上、暴れたら坑道そのものが崩落しかねない。怪物は背中を壁にぶつけ始めた。壁と怪物のせなかに挟まれて、ホウロウは痛い、と感じた。ぶちん、と頭の血管が音を立てたような怒色がホウロウの面に浮かんだ。
(ならば、やるか。<アレ>を……)。と、その気配を感じたか、「だめっ! それは使ったら、まじでコロスっ!」ヴィーは喉が千切れんばかりに叫んだ。ホウロウはハッとした。(この女、なぜ、わかった。なぜ、知っている)という困惑がホウロウの顔に浮かんだ。が、疑問にかまけている時ではない。
――その瞬間、ホウロウの援護しようと、ポロは怪物の膝に体当たりした。
(なんだ、こりゃあ。バケモンだ。動かねえ)。ポロは膂力を発揮し収縮している背筋から寒気があがってくるのを感じた。が、彼も半端な者ではない。「ぐぬぬぬぬ」と気張って、岩の怪物と一進一退、両者は一戸の像のように静止した。その形相は尋常ではない。額の血管がミミズのように浮き出て、眼玉が飛び出しそうだった。
「兄者ゃあ!」
「おう!」何かを感じたか、ホウロウは応えた。ふたりには、闘気でつながった呼吸がある。ホウロウは怪物の動きが鈍ったのを見て、その肩に這い上った。そして、獣のような咆哮をあげながら、側頭部を殴りつけ、ついにはその首を膂力をすべて使ってへし折った。岩のような頭部は地面を転がって、尋常ではない振動をあたりに与えた。残った首から下はなぜか、直立したままだった。ヴィーは風のように、その目の前を通り過ぎて、びゅんと怪物の胸の石を無理やり外した。
怪物は石が外れた途端に、植物のように萎れて、うずたかく積もった真っ黒い灰の山と化した。邪悪な瘴気が、その灰の山から蒸気のように湧き上がっている。
「――わっはっは。死んだぞ。たぶん」ホウロウはさけんだ。が、勝利の余韻を感じる前に、坑道の一部が崩落した。地響きに足を取られて、粉塵が視界を覆っていく。
ホウロウは粉塵を手で払いながら、咳き込んだ。ポロは地面に座ったまま、しばらく立てなかった。彼は呆然と、自分が死にかけたという事実を反芻していた。彼はなぜか、敵と相対して、向かって行く瞬間より、いま安全に地面に座っている時の方が生きた心地がしなかった。ホウロウがにやりと笑って、ポロの前に手を差し伸べた。
「フハハ」ポロは笑った。彼はホウロウをとおして、こころの中の恐怖を駆逐したようだった。ポロは、そのざらざらとした手に引っ張られて、立ち上がった。
「だから言ってんだろ。こんなの続けてたら、いつか、死ぬぞ」ホウロウがいうと、ポロは先ほどまでの恐れはどこへ行ったのか、小僧のような笑みを浮かべて「いやあ、死なないぜ。俺は」といった。ヴィーはその様子をじろと見ていた。
「皆、無事か?」テムは左右に首を振りながら安全を確認して、走り寄ってきた。
「これ、あげるよ。高く売れる」とヴィーはテムに向かって、怪物の胸から外した石を投げた。
「ほんとか。金になるのか? これ」テムは、その青い光石を大事そうに懐にしまった。
――勝利の喜びより、困惑の方が大きい。よくわからないまま、始まり、よくわからないまま終わった。が、(これで、ここの鉱山夫どもは、安心して仕事ができるな)とホウロウは満足げである。
「助太刀に感謝する」とホウロウはいった。ヴィーは微笑をふくんで「わたしは何もしてないけどね」といった。
「何を言う。あの怪物が止まったのは、あんたが化け物の胸から石を取ったからだ。しかも、あんたの奇術のおかげで、暗闇でも戦いやすかった。なあ、ポロ」とホウロウはポロに投げかけた。憤然と「いいや。その女の力がなくとも、俺らだけでなんとかなってたよ。あにじゃ」
「ふふ。強情な奴だ。――ああ、そうだ。あんた、なぜ、わかった。俺が……その……」ホウロウは口よどんだ。
「――なぜ、英雄の力を受け継いでいるのかってこと?」
「……ああ、そうだ」
「ふふ、弟君もでしょ」
「な、そこまで知っているのか。……なるほど、慈善事業とは嘘っぱちだな。あんたは、俺らに会いに来たのか」
ホウロウは急に血相を変えた。ヴィーは薄く笑った。
「あにじゃ。だから言っただろ。怪しい奴だ」ポロは悪態をついた。
「うるせえな。べつに後ろから刺されたわけじゃない」
――ヴィーはいんぎんな調子に戻って、ホウロウのまえに膝をついた。
「真意を隠して取り入った無礼をお許しください」
「いやいや。べつに何とも思わん。で、あんたは俺ら兄弟に何の用だ」
「突然のことゆえ、驚くかもしれませんが、あなた方に危機が迫っております。未曽有の……災禍が襲います。私は、ホウロウ様、ポロ様を災禍から救うために来たのです」
ポロは大笑いして、「あにじゃ、俺が間違っていた。怪しいヤツではないな。ただの気狂い女だ」
一方、ホウロウは昨夜、吸血鬼の大群を目撃したことから、異様な符合を感じて、青ざめていた。
「その災禍とは? 如何なるものだ?」
「……ハーフの大虐殺」ヴィーはホウロウの顔を仰いだ。血のような真っ赤な瞳から(信じてほしい)という一念が呪詛のように放たれている。ポロとテムは膝をうって大笑いした。
ホウロウはその哄笑を手で制して、「それは……いったい、いつ起きる」と聞いた。
「早晩のことかと。もはや、一刻の猶予もありません。どうか、わたしと一緒にお逃げください」
彼女は恥をすてて、地面に頭をつけた。信じてほしい一心だった。なにしろ、彼らの命を救うことは、何百万の命に値する。その思いは、うわべだけの言葉では意を尽くせない。
「――あにじゃ。そんな狂った女の言うことを信じちゃあいけないぜ」とポロは茶化した。
「うるせえ。黙ってろっ!」
ホウロウは憤然と怒鳴った。真っ白になって、全身、総毛だった。
「ブレージアーの吸血鬼は、このハーフの二十四番町の方々に、吸血鬼の古代の言葉で<岩>を意味する文字を刻みました。それが、あれです」ヴィーは坑道の壁を指さした。ホウロウは、その指の指し示す方を見て、目を見張った。
「これは……」
昨晩、夜陰に見た文字にそっくりだった。閃光のような直感は、急激に脳裏で凝固し、明確な恐怖に変わった。
「<岩>とは、ある怪物を召喚する、を含意します。それが<ゴーレム>です」
「さっきの岩のバケモノか」
「はい。しかし、あれは誤作動です。おそらく、数刻のずれが生じたのでしょう。本来ならば、街のあちこちで同時にあの怪物が現れる、というのが吸血鬼側の算段です」
「どうするば、それを阻止できる?」
「……もはや、この期に及んでは、逃げるほかありません。吸血鬼の間諜は、すぐにここの居場所を割り出して、殺しに来ます」
ホウロウは顎に手を当て、落ち着かないようすで歩き回った。その尋常ならざる顔色にテムはいよいよ恐れを抱いて「そういえば、お前。朝に、吸血鬼の大群を見たって言ってたよな」と反芻するように問うた。ホウロウはテムを意味深長に睨んだ。(だから、言ってんだろ)という気色が、その瞳にうつっていた。
それを受けて、テムは「本気で嫌な予感がしてきた」といった。
一方、ポロはというと、「ばかな。はっはっは」といまだに笑っている。 ヴィーは歯噛みして、「ああ。もう、早く逃げないとぶっ殺されるんだって」と吐き捨てるように言った。
「なぜ、奴らは俺たちが、<王家の血>を引き継いでいると知っている?」ホウロウが聞いた。
「血だよ、血。献血を受けたでしょう。だから、もうこの街に二人、<変異>するバケモンがいるってあっちは気づいてるのっ! もうすでに、あんたらの住まいなんて、とっくにバレてる」
ホウロウは目を丸くした。昨日、ドマが言っていた旅装束の男は、何者だったか、今になって分かった。吸血鬼の間諜である。 ホウロウはさつと踵をかえして「おい、ポロ。――だまされたと思え。俺に手を貸せ」とポロに呼ばわった。
「なんだよ。あにじゃ。本気で信じるのかよ」
「俺は信じるが、お前は信じないままでいい。もし、ウソだったら、俺を嗤え」
「――ふん。まあ、いいさ。暇だし」
ホウロウはポロを引き連れて、ヴィーの目の前を通り過ぎた。
「ちょっと待って。どこにいくの?」
「そとだ」
「だめっ!」
「なぜ、いかん」
「何度も言ってるでしょ。火の中に飛び込むようなもの」
「……妻がいるんだよ」
「ぐぐぐ」
(なんてこと。どうしよう、どうしよう)。彼女は唇をかんだ。間が悪い。常識から言って、妻を心配する男は、止めるに忍びない。が、その常識をかなぐり捨てて、鬼のような形相で「もし、坑道の外へ出るなら、私を殺して、その屍を跨いで行け」とヴィーは言った。
「な、なんだと」
その紅潮した顔にヴィーの本気を見て、ホウロウは気圧された。ポロは鼻で笑って「こいつ、麻薬をやっているな」といった。
――ふいに、ヴィーは背後にふしんな人の気を感じた。足音をわざと消しているようなわずかな地面の揺れが暗黒の奥から聴こえてくる。ヴィーは色を失った。
(――ああ、バレたか)。
坑道の黒い帳に、赤い球のような眼玉が点々と開眼した。じろりと、ホウロウとポロを凝視して、瞬きすら躊躇うように瞼は上がったまま、目が見開かれている。
「な、吸血鬼。なぜ、ここに」ポロは当惑した。ちらと、ヴィーの顔を見て、(本当のことを言ってやがったのか)と自分の不明を悟ったようである。
テムは「うわああ」と情けのない声をあげて、何もない所で転んだ。
反射的にヴィーはあたりを照らしていた白球を消した。完全な暗黒が下りてきた。吸血鬼の赤い目玉はよく見える。と思うと、目玉に瞼が幕のように下りて、暗闇で頼りとするところは無くなった。
(さすがに、よく訓練を受けている。これが……<歴史家>か)と彼女は怖気を感じた。
「おい。皆、どこだよ」とテムの悲鳴のような声が響いた。
「ばか。しゃべるな」
ホウロウがいった。暗闇に敵も味方も暗闇の中である。声の音ひとつで、敵に居場所がおおよそバレてしまう。
(おそらく、坑道にポロとホウロウがいることを突き止めた時点で、どう対処するか示し合わせているはず。相手は二頭の猛虎、<変身>する怪物だ。わたしが敵ならいかにするか)とヴィーは暗闇で考えた。
(兄と弟、同時に、首を斬り飛ばす。それしかない。片方ずつ、順番に殺すのは不可能。残った方が兄弟が殺されたと分かれば、ためらいなく<アレ>を使って反撃される)。
ヴィーは伏して、耳をすました。一瞬のやりとりである。人生をかけて、陶冶してきた技術の総決算である。
ばちん、と音を立てて、ヴィーは再度、暗闇に白球を放った。一挙に、あたりが光に照らされた。――まさに、そのとき、吸血鬼の凶刃は、ホウロウとポロの首筋を同時に捉えようとしていた。白刃の輝きが、乳白のような光の渦の中で、びゅんと飛んだ。
吸血鬼の首が二つ、宙に飛び、逆流する滝のような血液の塊が坑道の天井に向かって縦に噴き出した。
「走れ、走れ」と彼女は声を励まして、叫んだ。
雑踏が坑道にひびく。 ――ふいに、閃光のような光が見えた。ちりちりと、燃える火の粉が暗がりに蛍のように浮かんだかと思うと、それは急に爆炎と化して、狭い坑道を火鉢にした。
(坑道ごと、破壊する気だ)と彼女は気づいたが、とうに遅い。炎の広がりは、服の裾を触っている。ホウロウは足の遅いテムを坑道の先にぶん投げたのちに、ポロがついてきているのを見て、走り出した。が、間に合わない。燃えて死ぬが先か、天井が崩れて死ぬが先か。
――彼女は立ち止まった。ホウロウははっとしてふりかえった。会ったばかりの者どうし、須臾の間に、お互いの運命を悟りあった。 ふふ、と彼女は微笑んで、大きく息を吸って「ふうぅ」と掌底をホウロウの方に向けた。
(なぜ、止まる。死にたいのか)とホウロウは思った。瞬間、彼女の掌に奇術に特有の不審な光が見えた。すると、抗いがたい力によって、ホウロウははるか後方まで吹き飛ばされた。彼は地面を二、三回転して、壁にぶつかった。
炎の渦と崩れてくる天井にヴィーは抱かれて、坑道の暗闇に消えた。
――ホウロウはせき込んで、「おい。皆、無事か」と呼ばわった。
「ああ、俺とテムは生きている」とポロがいって、砂塵を振り払いながら、歩いてきた。ホウロウは安堵したが、彼の無事をすると、赫々とした怒りをもって「このバカ。あの女は俺らを守って死んだぞ。ポロ、お前はここで百回頭を下げろ」と癇癪をおこした。
「むむ。たしかに、済まぬことをした」
ポロは瓦礫でふさがった坑道を見て、ふくれっ面をして、いった。
「吸血鬼の奴ら、本気だ。いまごろ、ドマはどうなっていることか」
「なに。外も似たような有様かっ。あにじゃっ!」
「たぶん、そうだろう」
「くそ、ならば、はやく、外に出て戦わなければ」
「だが、出口がわからん。もしかすると、一つだけの出口がふさがれたのかも」
「なら、どうする」
ホウロウは沈思した。ポロはその様子に「ええい。ならば、俺は開くぞ。<王家の血>を。この程度の瓦礫の山、無理やり押し通ってやる」といった。
「よさないか。無駄に命を削ってはならない。それに、<変身>しても、この瓦礫の山の下敷きになったら、さすがに死ぬ」
「じゃあ、ほかに方法があるのか」
ホウロウは魂が抜け落ちたようにうずくまっているテムを起こした。
「おい。俺ら兄弟の知恵袋はテム、お前だ。なにか、考えはないか」
「だが、ここから出て、どこへ行く。吸血鬼は、この辺鄙な鉱山にまで奇術を使ってきている。ならば、俺たちハーフに逃げ場などあろうはずがない」
「逃げ場などいくらでも作ってやる。忘れたか……俺たちが何者か」ホウロウは言った。傲慢なことを清々しいほどはっきりと言われて、テムは思わず、笑みをこぼした。
「ああ、そうだな。――出口を見つけるのは簡単だよ。空気の流れに沿って行きゃあいいのさ。鉱山にはガスがたまって火災になるから、魔術で空気を逃がす機構が備わっている」
「むむ、そういわれると、たしかに風が吹いている」
「あにじゃ。急ごう」
「焦るなよ。気を整えろ。なにが起きるか分からん。もう、ここは戦場だ」
――ポロとホウロウは五体に万丈の若き闘気をみなぎらせた。あたりに獣のような匂いが漂った。安閑と過ごしていた二匹の猛虎は危急に絆されて、本来の地金を見せ始めていた。 いまや、ハーフの町はゴーレムで溢れかえり、その雑踏で地面が揺れている。すでに、大多数のハーフたちは同じ縄に繋がれ、左右を吸血鬼の兵卒たちが挟んで見張っている。ただの一瞬で、天地がひっくり返ったように世界が変わった。逃亡する者や抵抗する者は仮借なく殺された。地面の砂塵に塗れて、捕囚の足元に転がる死骸は数知れない。
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