雲の傍らで
その日は、けたましいサイレンの音で目が覚めた。
耳を叩かれるようにして起こされた妾は多少機嫌が悪くなったが、それもすぐ別の疑問に置き換わる。
この監獄島に、一体何が起こったのか。
こんなに煩わしく音が鳴るのだ、場所も考慮して浮かんでくるのは脱獄。
この場所には様々な人外の化け物がいる、幾ら設備が整っていたところで無理なものは無理だ。死人が出るかもしれぬ。
───コヨリはどうだろうか、非番だといいのだが。ただ、今日がそうだとは聞いていなかった。
そもそも、こんな異常事態では寮にいた所で飛び出しているだろう。
コヨリが危ないかもしれない、そう思ってからの行動は早かった。
首より下の髪を爪で切り落とす。そうして現れた白銀の髪束に自らの血を操り取っ手を付け、先端には尖った重りを作った、即席の鞭だ。
できるやいなや思いっきり振りかぶって正面の硝子を壊す。
子供でも通るには厳しい狭い隙間をぶつかりながらも抜け、すぐ隣の扉を蹴り飛ばした。
その先に見えたのは通路を塞ぐように展開した強固な防壁。
流石に今の鞭で破壊できるようなものでは無い。かと言って手段を悩んでいる暇もなかった。アレを使うしかない。
腰を落とす、右の拳を引く、左手に噛み付いては自らの生き血を啜った。
心臓が跳ねる、不自然なまでに身体が強ばっていくのを感じる。
目が充血するのが分かる、ありとあらゆる血管が破裂しそうなほど膨張し、吐く息でさえ血の色に染まりそうだった。
息が出来ないほど苦しい、具体的な異常が理解不可能となるほど異常だらけの瞬間だった。
あまりに常軌を逸した握力で握られた手のひらに爪が刺さる、そんなことが些細にすらなれない痛みが駆けずり回っていく。
痛み故にたった数瞬が何秒にも何分にも引き伸ばされるように感じる。
嗚呼、この瞬間、この痛みだけは生を実感するのだ。
そうして、一撃が放たれた。
音がなる、それも耳が壊れてしまうような轟音の中の轟音。
厚さ30センチはあるだろうか、金属で出来ているはずの防壁は大きくひしゃげた。
だが、これでは足らない。通れなければ意味が無い。
今のを打ち込んだせいで右腕はしばらく使い物にならないだろう。
だから、骨が粉々になって握れなくなった手を左の手で口元へと向かわせる。
もう噛み付く必要すらありはしない、折れた腕からとめどなく流れる血を啜った。
今度はより深く痛みがやって来た。歯を食いしばって前を向く、思いっきり打ち込んだ。
再び響く轟音、そうしてようやく壁は壁としての意味を見失う。
あまりに歪んだ故にできた隙間から妾は飛び出る、両腕は使い物にならないから鞭は置いて行った。
負担は両腕には収まらない、もはや全身が痛覚として機能していた。
死なない身ではあるとはいえ、ここまで無理をしたのはいつぶりだったか、覚えていられないほどの昔だった。
本来であれば、瀬戸際の状態で維持される身体が壊される程の不可。
ただ、それに釣り合う程の必殺技。
それが先程放たれた【始祖の一撃】と呼ばれるものだ。
吸血鬼の5人の始祖だけが持つ、万全の状態であればありとあらゆる生物を殺す事が可能とまで言われる攻撃である。
本来であれば一撃しか繰り出せないそれを2度放ったのだ、それも血が足りない状況で。
その理由も、ただの人間の生存確認の為。
こんな異常は妾が産まれ落ちてから初めての感覚だった。
どうしてあそこまで、気がつけば死ぬ存在を気に止めているのか答えの出ないまま駆けた。
上下左右を床にして飛ぶ、走るよりも脚力に優れた吸血鬼ならこの方が早い。
実際は飛行した方がいいのだが、そんな余力は無かった。
目的地は、より血の匂いが濃い方向。
窓を蹴り破り、鉄格子を噛み砕き、身体をぶつけては、辿り着いた。
その瞳と出会う、夜のように黒い瞳はたった一日ぶりだと言うのに懐かしさを感じた。
「コヨリ…」
その言葉は、自分自身が気が付けないほど無意識に零れた。
「え、ルナティたん…!?なんでそんな傷負ってるんですか!というか、どうしてここに!?そしてショートヘアかわよ!!!」
相変わらず、うるさい声だ。なのに心の中が凪いでく、安らぎの音だった。
「妾の事は良い、無事そうで何よりだ。」
「え?私が心配されてる…?来ちゃったかな、私の時代…!」
テンション三倍増しのその対応も、拒めないどころか嬉しかった。
「ふふ…。ん、では行こう。」
「行くって、どこにです?」
「何を言う、安全なところだ。人間は弱いのだからこんな危険な場所は去るべきだ。妾の傍なら、守ってやれる。」
治りかけの手を伸ばす。それは何かを掴もうとする動きではなく、抱きしめ受け止める前の優しい仕草。
それに対して、銃を持って罪人と向き合う彼女は視線を下げる。
「あはは…。そう、来ちゃったかぁ。」
それは、普段とは違う落ち着いたニンゲンの声。冷たく、遠い距離を示す残念そうな言葉。
「ごめんなさい、その声には狂ってあげられません。」
その意味を、妾はハッキリと理解した訳では無かった。
ただ拒絶された事だけはわかってしまっていた。
「なぜ……?なぜ…………じゃ?」
「それは簡単ですよ、ルナティたん。貴方が私をハッキリと見てくれていないから。」
湖依の言う言葉は、その時の妾には理解出来なかった。ハッキリと見る、とはどういうことなのだろうか。
コヨリは背を向ける、妾と面と向かって対話を続ける場所にするにはここは戦場と化していたから。
でも、背中を向けた
果たして、どちらがより相手を知ろうとしてきただろうか。
「それにね、ルナティたん。
ニンゲンハ、ヨワクナイ。何を言っているのだろうか。
簡単に死ぬではないか、簡単に殺せるではないか。
わからない、妾にはそれがワカラナイ。
人間とはどういう存在なのだ、コヨリとはどういうそんざ…
頭が痛い、身体からではなく心から来る苦痛を感じる。
ナんダ、こレは。
ニンゲンハヨワイ、間違っていないはずだ。
何故なら、その身体能力に何も秘められた力は無い。
科学という力も、始祖たる妾を脅かすに至らない。
なのに何故だ。脳裏に蔓延る痒みが、違和感が消えないのは何故だ。
頭を掻き毟る。なんなのだ、なんなのだコレは。
身体が寒い、胃がおかしくなる、呼吸が定まらない。
事実を思ったはずだ、人間という存在が形作ったその時から見ていたのだから。
進歩はしていたその上でか弱いモノだ。ヒトという存在はそういうモノだ。
幾度の死を乗り越え、幾多の死因を克服しても尚、ただの吸血鬼にまるで届いてすらいない。
なのに、なのにだ
「どうして、胸が痛むのだ…。」
気がつけば、戦いの音は止んでいた。
どうやら、無事に鎮圧したらしい。コヨリを探す、良かった目立った怪我は無い。
その事実が不安を安心へと変える。でも、ここに彼女がいる以上は、この不安は小さな根を残し続けて消えないのだ。
そうだ、不安があるということは弱い事の証明ではないか。
対象が妾なら、不安を抱く事など有り得ないのだから。
だから、何も間違ってなんかいないはずだ。
「コヨリ…」
「はい、湖依です。」
「コヨリ、傍で守らせてはくれぬか?」
それは、神に祈るような、そんな幼い子供の懇願だった。
「それは無理です。私、この仕事が実は大好きなんです。」
「危険じゃ、いつ死ぬか分からぬでは無いか。コヨリは弱い、ニンゲンは弱いのだ…。だから、傍に。」
「いいや、人間は弱くなんか無いんですよ。ルナティたんが思うよりもずっと強いんです。」
子供に言い聞かせるような声で、
「そんなことは無い、妾がその気になれば簡単に殺してしまう…か弱いのだ、ニンゲンは。」
それに対して、駄々をこねるように少女は拒んだ。
「いえ、強いです。きっと、ルナティたんに負けないぐらいに。」
「そんな訳、ない。」
「勝てます、この状況なら私でも。」
「無理だ、そんなの考えなくても分かるではないか。」
「なら、やりましょうよルナティたん。どうせ檻には戻ってもらわないといけないですし。」
「…それで死んだら、どうするのだ。」
「ルナティたん、私は確かに人間です。ですが、その前に東雲湖依なんです。種族だとかそういうもので知ったフリなんかやめてください。」
彼女は視線を逸らさない、前を向くのを辞めない。
「私は今ここで生きている、死んでなんか絶対にやるもんか。そっちはどうなんだルナティア=フィーア=アエテルニタス、そんな
その叫びは、その少女には酷く堪えた。痛覚なんてほとんどないはずの身体が、必死に痛いと叫んでいた。
「私は!例えルナティたんでも、東雲湖依を否定することを許さない!だってこれは、私が憧れた貴方そのものの生き方だから!!!」
「妾の、生き方…?」
生き方など、考えたこともなかった。振り返るなら、欲に溺れて生きてきたのだろう。不老不死だ、好き勝手できるのだから自由を謳歌していた。
コヨリは何に憧れたのだ?わからない、コヨリを理解することが妾には出来そうにない。
「始めましょうか。」
「始める…?」
「決まってる、だろ…!」
少女の顔面に拳が突き刺さる。驚くほど簡単に体が倒れ込む。
その間に彼女は持っていた血液パックをナイフで切ってその血を口へと流し入れた。
傷があっさりと治っていく、少女の体は色香を帯びて大人の姿に変わっていく。
そうして表情が変わらないまま、彼女の背丈に並んだ。
気持ちの定まらない頭で立ち上がる、昔は良かった攻撃してくるものが全て敵だったのだから。
でも、そんなに単純なままではいられないのだ。
関わるなら傷もつく、そういうものなのだと、そんな単純なことをぼんやり理解した。
どうあれ、殴られたのは事実だ。ただ大したダメージもない、力の差を教えれば守ってあげられるだろう。
「コヨリ、力ずくでも連れて行くからな。」
「いえ、それには及びません。もう一度ルナティたんには倒れてもらいますので。」
そうして、始祖と人間の戦いが始まった。
いつかの記憶を思い出す。
それは私が8歳の頃、夏のことだった。
まだ短い両足をせっせと動かして夜の街を私は歩いていた。
時間は7時を回ったぐらい、明かりが無くても見えなくは無いけどそれでも仄暗い闇。
祭りに行っていたのだけど、お母さんとはぐれて彷徨っているうちに、元の場所にすら私は帰れなくなっていた。
陽の光のない場所は冷たく怖く感じて、そんな場所から逃げるようにただ歩いていた。
お母さんもお父さんも居ない、そもそも周りに人が居ない。それが辛くて泣いていた。
私よりも高い場所を見渡す風船だけが、心の依り所だった。
そんな孤独な世界で運命に出会ったのは、風船が風に飛ばされた瞬間。
私はそれを追いかけて道路に飛び出てしまう。車は走っていた、ブレーキの音はしたけれどもう間に合わない。
彷徨った果てに死んで終わり、なんて呆気ない結末。
それを、迎えるはずだった。
私は空を飛んでいた。視線を下げれば風船があった。
そして何かに掴まれていることに気がついた。
上を向く、白銀の髪が見えてその色に囚われる。
ただ、それよりも目を奪われるものがあった。
紅い月だ。空が雲に覆われて月なんて見えないはずなのに、それがあろう事か2つ存在した。
───それが、ルナティア=フィーア=アエテルニタスと私の出会いだった。
仕掛けたのは私から、まずは拳銃で狙っての3発。
普段なら頼もしい重みも反動も、相手が相手だからちっぽけに感じる。
吸血鬼の動体視力は人間のそれでは無いし、始祖なら尚更凄い。
衝撃が肩を伝って全身に流れる、空薬莢が宙を舞う。
そんな確かな感触を感じても、弾丸は対象を掠めることすらせずに壁に衝突しては散った。
人に撃てば一発で死にかねない口径でも、火力に欠けるのにそもそも当たらないとか反則だった。
並の人狼くらいならまだこの銃で対処出来るぐらいなのに…。
でも、何の策もなしにとりあえずで撃った訳でもない。
銃に集中させた隙に、閃光弾を投げていたから。
銃を持った手ですぐに目を塞いで突撃した。ほんの少しでも光に怯んでくれれば御の字だ。
胸ポケットからナイフを取り出して、目の見えないまますぐさま振る。
距離は駆け出す前に確認してたから軌道修正はあとから。
腕をすぐ下げて目を開ける、効いていたようで防御出来る余裕も無さそうだ。
真っ先に狙う場所は腕の腱、数秒とかからず治るだろうけど今はこれで十分。
ルナティたんは避ける様子もない、取った…!
滑らかに刃が入り込む、皮膚を裂いて肉を断ち傷口から血が盛れていく、はずだった。
実際に来たのは切った感触じゃなくその真反対、固いものにでもぶつけたような骨にまで響く感覚。腕が痺れて危うくナイフを落としそうになった。
恐らく、血液操作が原因だろうか。自らの血で武器を作る吸血鬼がいること自体は知っていたけど、身体の中でするなんてめちゃくちゃだ。
普通なら操作したところで内から自分を傷つける行為にしかならないだろうに、器用なのか切られるよりマシだと判断したのか。
何はどうあれ思い切った攻撃を弾かれて形勢逆転されてしまった。
左手はこの一瞬は使い物にならない、ならどうにか残った右手で相手の攻撃を防がないといけない。
ただ始祖という存在はそんな思考を置いていくくらい早かった。
吹っ飛んだ、防御なんてする暇もなく気が付けば壁へと真っ直ぐ飛んだ。どんな攻撃を貰ったのかさえ分からない。
手加減されたのだろう、私の知識よりも随分優しい一撃だった。
でも、攻撃が直撃した腹に来たのは本来なら内蔵が破裂してもおかしくない衝撃。
一定以上の火力の攻撃は備え付けの九尾の術式が防いでくれるけどそれを貫通してのダメージだ。
これは5階から飛び降りても無傷で済むような術式なんだけどな…。
なんとか痛みを堪えて受身を取り、体勢を立て直す。
ルナティたんは立ち止まっていてこっちから仕掛けない限り何もしないつもりらしい。
ああ、腹が立つ。私は守られるだけの存在じゃないから…!
歯を食いしばる、ほかの人外との戦いとも比べて意味不明で理不尽極まりない速さと重さだった。
防御術式はあと4回、その4回の内に決めてやる。
と言っても、銃が効かない相手にどうするか…。
汗で濡れた髪をかきあげる、呼吸を落ち着かせて思いっきり駆けた。
トリガーを引く、避けるということは少なくとも効かない訳では無いはずだ。
弾倉内が尽きるまでうち尽くしてリロード、ちっともかすりもしない。
拳銃じゃなきゃもう少し何とかなっただろうか、無いものを考えても仕方がないのだけれど。
もう一度トリガーを引く、今度は撃ちながら距離を詰めた。
3、4、5発と空を切っていく弾丸、そろそろ間合いだ。
そう思った瞬間には視界が前ではなく上に変わって天井が見えていた。
「い…つっ……。はぁ、はぁ…。」
厳しいなぁ、人間だと。でも、私にだって意地があるんだ。
「もう、辞めぬか?最初から分かりきった勝負であろう。気にする必要は無い、ニンゲンとはそういうものだ。」
「舐め、るなぁ…!!!」
今度は思いっきり真正面から向かった。姿勢を高く、武器をポケットにしまって。
そうして間合いに入る瞬間、私は大きく後ろに飛んだ。スレスレのところを拳が掠めていく。
「っ…!」
ルナティアも少しは驚いたみたいだ、ただそれはたった一瞬だけ。
でも、たった一瞬があれば覚悟は出来る…!
次に来たもう一撃、それを私はわざと受けた。
お腹に向かってのアッパーカットが私の内臓まで響いて吐き気が込み上げてくる。
でも、でも
「捕まえた…。」
両手で思いっきり握りつぶすような気持ちで彼女の腕を掴む。ちっとも傷にはならないけどそれで良かった。
ようやく、この距離に達せられた。防御術式は残り3回、決めてやる。
「くっ…離せ!」
すぐさま来るパンチを更に密着して避ける、私も攻撃しずらいけれどそれは相手も同じだろう。
一瞬を稼いで、稼いで。1歩ずつ着実に、貴方をぶっ倒す。
ルナティアは腕を振るって私から逃げようとする、その腕を私は呆気なく離した。
離した勢いのまま左手で拳銃を握る、この距離なら外しようがない。
ただルナティアは私の足を取ってバランスが崩れた。
放たれた銃弾が明後日の方向へと飛んでいく。
回避も出来ないまま次撃で地面に叩きつけられる。
「か、はっ…!」
肺の空気が外に流れ込む、息が、上手く吸えない。
でも、私はやらなくちゃいけない。
私は、手榴弾のピンを抜いた。
「なっ…!?」
耳が痛くなるくらいの爆発音、全身に鈍い痛みが走る。
術式があっても無傷とは行かなかった。でも、そんな痛みを気にせず駆ける。
無我夢中だった、止まってなんていられなかった。
軽く飛び退いた彼女を、全身全霊で追っていく。
1歩、2歩と距離が縮待っていく最中、右手を思いっきり握りしめた。
拳を後ろに引く、痛くなるほど歯を噛み締めて、最後の力を振り絞って叫んだ。
「うおおおああああああああ!!!!!!!!」
私の拳は、その顔面を撃ち抜いた。
いつかの記憶を思い出す、
その月のような人は、私を両手で持ち上げて空を飛んでいた。
「大丈夫か?」
その声はあまりに綺麗な音色で、私はただその完全さに憧れることしか出来なかった。
「大丈夫かと言っておろう。」
「…。」
真っ直ぐに月を見る私に、彼女は恥ずかしそうにして、私の頭を撫でる。
その暖かさが今でも胸に残っている。
「まあ、怪我もしていないな。大丈夫そうだ。ほれ、降ろすぞ。」
真っ黒な翼をはためかせて段々と地面が近づいて行く。それがなんだか残念で仕方がなくて、私は声をあげて言った。
「もっと、お空の向こうまで飛べますか…?」
一瞬、キョトンとした彼女は優しく笑い直して。
「ああ、飛べる飛べるとも。まだ見ぬ秘境、地平線の彼方、雲の向こう。ああ、それからこの場所にも。街の風景は好きだ、明るく綺麗だった。」
優しくそう語り掛けてくれて、私はおとぎの世界に入ったようで胸が高鳴りました。
でも、高度は段々と下がって言ってこの時間が終わるのも分かってしまった。
「連れてって、ください。」
気がつけばそんな言葉を口にしていた。私は空の向こうに手を伸ばしていた。
「それは無理じゃ、お主には帰る場所があろう。ただ、巣立つ時が来ても言うのなら。考えてやらんでもない。」
「絶対、絶対…です。絶対言います…!」
「ふふ、なら元気に過ごすことだな。」
そう言って彼女は夜に浮かんで消えた。
その光に憧れた幼い私は、それを追うことをその日から始めた。
貴方は冗談のように受け流して去ってしまったけど、その姿が脳裏に焼き付いて来てなかった。
あの時とは気持ちは随分変わってしまったけれど、貴方に憧れてそばに居たかったのは同じで。
そうして月に手を伸ばして、監獄島に私は入ったのだ。
鈍い音がする、でも傷ついてなんていないだろう。
ナイフを手に取れたのに取らなかったのは、自分自身よく分からなかった。
防がれると思ったのか、傷つけたくなかったのか、ぶん殴ってやりたかったのか。
ただ、私は貴方と対等の場所に行きたい。そんな気持ちだけが前へ走って。
私たちは互いに地面へと倒れ込んだ。
ああ、これじゃ私の負けだ…。今までの全てが無駄だったんだろうか。
ずっと貴方を追いかけていた。がむしゃらに進んで色んな反対を押し切って私はここまで来た。それなのに。
最初の方は楽しかった、一緒に入れたのが嬉しかった。
でも、段々と腹が立って。私のことを一人の人として見てくれてないんだろうなって気がついた。
そうして捻れて、私は間違えた。
私はここで貴方に勝たなきゃいけなかった。
貴方の隣にいるためには、勝たなきゃ、なのに…。
涙が出そうになる、だめだ、これじゃあの夜のわたしと変わらない。
───ポン、と音がした。
それは、私の頭に手が置かれる音。
優しく、髪を撫でられる。この温もりは知っていた。
「ルナティ、たん…。」
唖然としながらも、その温かさは離れがたくて身体の力を抜いてしまった。
「お前の勝ちだよ、
それは訳が分からない宣言だった。
私は負けたはずだ、頑張っても届きはしなかったのだから。
「な、んで…?」
まだ整わない呼吸のまま私はそう言った。まだ、頭は撫で続けてくれた。
「妾はずっと、勘違いしていたのだな。人間というものを深くは見てこようとしなかった。それが、ようやくわかったよ。」
「そう、ですか。」
「心が強い、そのような在り方もあるのだな。知恵と覚悟で世界を切り開く生き方があるのだな。妾はその始まりから見てきたというのに、ようやく気付かされた…。人は、其方は強かった。」
「そっか、そっかぁ…。」
私は、泣き出してしまった。なんだか、堪えられなくなっていた。認めて貰えたのに涙が出てきていた。
ゆっくりと頭を撫でられる、その感触が嬉しくて仕方がない。
だから私は、その体を思いっきり抱きしめた。
「ルナティたん」
「ん、なんだ?」
「またいっぱいお話しましょう、今度はルナティたんの話もしてください。」
それは、前々から伝えたくて、でもいえなかった言葉。貴方を知りたいと思う、私の願望。
「ああ、良いぞ。正直言ってお前の態度は引くところがあるが嫌いでは無い。」
「あの、このタイミングで言う事ですかね、それ…。」
そうしてその日が終わった。
すっごい上司に怒られたし、ルナティたんの扱いも色々変わらなくちゃならなくなったけど、でもそれでいい気がした。
それから、20年。
あれから少しづつ歩みを進めた妾と湖依はその日を迎えた。
妾が、出所する日だ。色々と特例を働かせて、湖依が頑張って妾は夜空に再会した。
満月が浮かび、それに寄り添うように支えるように叢雲があった。
木々のせせらぎだけがある仄暗い闇、なんとも落ち着く感覚。
「ルナティたん、少し冷えますね。」
「ああ、そうだな。だが、それ以上に懐かしい。そうだ、夜空とはこういうものだった。」
羽織るものを貰いながら、妾は空を見上げた。
血を飲んだ後ゆえ大人の姿である。
湖依の方を向く、ゆっくりと手を伸ばす。そうして、言うと心に決めていた言葉を紡ぐ。
「湖依、どこまで行きたい。この翼、此度はお前のために使おう。」
「っ…!えぇ、そうですね…!うーん、えーと、あのぉ。どこまでも、ではダメでしょうか?」
照れくさそうなその瞳に、妾まで照れてしまう。
そっと、差し出された手を握る。
それから引き寄せて、体を抱き締めた。その体温をこの上ないほど愛おしく思いながら。
「───ああ、それが望みならどこまでも行こう。」
そうして、2人はあの夜の続きを始めたのだ。
手記:妾の記憶 白月綱文 @tunahumi4610
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。手記:妾の記憶の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます