第4話 惨劇ハ森ニテ #3

「断る」


 魔族の男がシャツを脱がそうとした時、リルが言った。普段よりも少し低い声ではあるが、それでも、確かにリルの声である。

 ただ、声云々以前に、魔族の男にはどうしても理解できないことがある。

 リルは、既に死んでいる。男は確かに、自らの手でリルの首を絞めて殺したのだから。


「なっ、!」


 なに、或いは、何だと、とでも言いたかったのだろうか。魔族の男は小さく声を漏らし、露骨な動揺を表した。

 動揺した拍子に、男は僅かながら体を後ろへ仰け反った。

 刹那、地に背を当てるリルに跨っていた男の下腹部に、形容しがたい強烈な痛みが走った。痛みを味わい、男は無様にもバランスを崩し、体の左側から転んだ。

 魔族の男には、その痛みを知っている。それは何かの武器を用いた外傷による痛みや、魔法攻撃を受けた際の痛みでもない。それは男性に共通した弱点、股間を強打した時の意味である。

 はらわたの内をスコップで抉られるような、脂汗必至の痛み。この痛みを味わうのは久しく、魔族の男はその痛みに思わず嘔吐えずいた。

 男は吐瀉物の代わりに、唾液と、喉を枯らすような低音ながら痛々しい叫びを吐く。グメル達を惨殺していた先程までの印象は瞬時に失せ、魔族の男は涙目になりながら、無様にも体を丸めて幼虫のような蠢きをしてみせた。


「悪く思うな。俺も悪いとは思わない。こんな華奢な少女を手にかけるような奴に、同情の余地なんて無いからな」


 息を止め、動きを止め、鼓動を止めたはずのリルが、ゆっくりと起き上がる。その最中には魔族の男に向け言葉を吐くが、その声は普段よりも低く、口調も明らかに変化している。

 その口調は、18歳になる女性の口調というよりも、青年以上の男性の口調に近い。

 まるで別人のように、再び起き上がったリルは変わっていた。


「なんっ、で! 死んでない!」


 中々癒えぬ痛みに顔を歪めながら、魔族の男が問う。尤も、痛みのせいで声量の調整ができていないため、ただの問いと言うより尋問に近く聞こえる。

 リルはその問いに対する答えを述べる前に、ジャンパースカートの肩紐を掛け直し、背中の方へ右手をまわした。

 リルと、他に集められた10人の成人予定者は、試練の間限定でナイフを所持している。サバイバルナイフ程の大きさも鋭さも無いが、最低限、イノシシくらいの大きさの獣を屠る程度の装備にはなる。

 各々はナイフの鞘が付いたベルトを腰に巻き、その鞘にナイフを収めている。リルの場合は、鞘に収まるナイフが自らの背中側に来る様にベルトを巻いている。


「死んださ。殺した張本人なら分かっているだろう?」


 そう言うとリルは鞘からナイフを抜き、うっすらと月光に触れた刃を見つめる。

 ナイフの刃はよく見ると少し歪んでおり、所々ザラつきもある。新品なのか否かは分からないが、武器を持つ敵と対峙すれば即座に刃毀はこぼれでもしてしまいそうな、決して頑丈そうには見えないナイフであった。

 中途半端な出来の粗末なナイフだ。そんなことを考えながらも、リルは妥協でもしたように軽く溜息を吐き、皮を巻いたナイフの柄を少しだけ強めに握った。


「お前……人間じゃ、ない、のか!?」

「人間だよ。まあ、普通の人間ではないがな」


 普段よりも少しだけ大股で歩きながら、リルは「人間ではない」という男の仮説を否定した。


「本当なら、お前の知る情報の全てを絞り出したいところだが、今回は敢えてしない。この体を殺した奴から得られた情報なんて、例え価値があろうとも飲み込みたくない」


 語気は荒げず、表情も崩さない。全く感情を表に出さないまま、リルは蹲る男の眼前に立ち、その場にしゃがむ。左膝を地面につき、右手に持つナイフの刃先を男の顔面に向ける。

 眉を顰める男は、唐突に向けられたナイフの刃先に警戒したが、その警戒心を払拭するためか即座に魔法を発動した。

 男が発動したのは、脚力強化魔法。両脚の脹脛に魔法陣が出現し、再び両脚の脚力が増強した。

 仰向けに近い体勢で転がる男は、脚力を強化した右足で地面を強く蹴る。同時に、極僅かながら回復しつつある腹筋を活用し、下半身を地面から浮かせる。体を浮かせるための衝撃を起こした右足は即座に使えない。故に現状自由な左脚を曲げ、男は攻撃に移行する。

 左脚も右脚同様に脚力強化中。下腹部の痛みと不利な体位が災いし全力は出せないが、それでも急場を凌げる程度の膝蹴りを繰り出せた。

 男は即席の膝蹴りを、膝をつくリルの顔に向ける。このまま上手く決まれば、致命傷か、或いは限りなく致命傷に近い負傷を与えられる。


「ばーか」


 男が繰り出した左脚の膝蹴りは、リルの頭には当たらなかった。照準が狂った訳ではない。膝が触れる前に、リルの左手で蹴りが防御されたのだ。

 本来なら、人間の脚を簡単に切断してしまうほどの蹴りが、人間の、リルの小さな左手で防御された。その現実は、人間を羽虫同然に殺めてきた魔族の男にとって、正直受け入れ難いものであった。


「この程度の不意打ちで殺せると思ったか? 残念だが、それは無理だ」


 そう言ったリルの目は暗く且つ冷たく、向けられた刃先よりも鋭く、そして何より、魔族の男の出会ってきた者達の中で最も恐ろしかった。


「や、やめ、てくれ……」


 魔族の男は、これまでの人生の中で、恐怖というものに遭遇したことが殆ど無かった。強いて言うならば、魔族の殲滅を命ぜられた勇者と呼ばれる存在を知った際に、勇者との遭遇を避ける為に自宅から離れたことがある。改めて思えば、勇者という存在にも多少は恐怖していた為に逃げたのだ。

 魔族の男は、これまでの人生の中で、力に屈したことがなかった。比較的平穏な人生の中で、多少の魔法を覚え、魔法の使えない魔族を揶揄しては自らの力を誇示してきた。しかしながら、強者達はこの男の力など目にも留めず、男は男で強者には挑まず、結果として、この男は無敗の人生を築いてきた。

 真の恐怖に遭遇することも、強者に屈することも無い人生。故に、男は今、人生最大の危機である現状と、自らの弱さを自覚した。

 これまでは性欲の捌け口としか捉えてこなかった女性の前で蹲り、恐怖し、ナイフを向けられ、涙目で命乞いまでした。屈辱的とも言える状況ながら、その屈辱さえ感じぬほどに怯えている。

 男は、身に迫る死に気付いた。


「まだ殺さないさ」


 リルは手の角度を僅かに変え、一切躊躇いを見せることなくナイフを振り下ろした。

 リルの持つ粗末なナイフは、男の二の腕を刺した。


「ぅぐ!」


 初めて味わう痛み。金属の塊が右腕の筋肉を切り裂き、体内に侵入してくる異物感。溢れ出る血液が保つ僅かな熱を感じながら、損傷部に広がる熱湯を凌駕する程の熱さに顔を歪める。


「命乞いをすれば救うとでも?」

「たの、む……こぉさ、ないで……」

「お前は、そこに転がる連中の命乞いに耳を貸したか?」

「頼む……!」

「貸してないよな。何せ命乞いをする暇さえ与えずに殺したんだからな」


 言葉を紡ぎながら、リルは次に左腕にナイフを突き刺す。痛みと恐怖に硬直したのか、右腕よりも少し刺さりが悪く、リルはその手にグッと力を加えながら刃を押しこんだ。


「いっ……痛い……!」

「ナイフで刺しただけだ。だがお前は何をした? 腹を貫き、首を抉り、頭を潰し、四肢を壊してきた。考えてみろ、お前の感じている痛みは、アイツらが味わった痛みに匹敵するか? いいや、するはずがない!」


 リルは男の左腕からナイフを引き抜き、刹那に男の左耳を切り落とした。


「あぁぁぁぁぁぁあああ!!」


 腕を刺される痛みを凌駕する痛みが、耳の切断面から脳に響き、即座に全身へ巡った。恐怖のあまり声が細くなっていた男だったが、耳を落とされる痛みに耐えきれず、嘔吐く寸前にまで泣き叫んだ。


「アイツらが味わった痛みと恐怖、今度は俺がお前に味あわせてやる」


 リルは左手で男の顔面を押さえる。その握力は10代少女の域を超えており、顔の骨を押し付ける指の力に男は更なる痛みを感じた。

 そしてその直後、男は自らの首に何かが触れたことに気付いた。男も極まった馬鹿ではないようで、その「何か」が何なのかは容易に理解できた。


「嫌だ! 嫌だ! 嫌だ!」


 子供のように泣き叫ぶ男に対し、リルが一言。


「俺は嫌じゃない」


 その言葉を最後に、男は自らが何を言い、何を聞いたのかを理解できなくなった。代わりに、ギコギコと、ノコギリのように皮膚と肉を裂くナイフの動きを感じた。

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