第33話 天海さんは決意する

「……結構血出てる。痛くない?」

「そこまで。後から痛むやつなのかもしれないが」


 紫苑は怪我はなかった。しかし、飛び散った破片に俺の足が当たってしまったようで、何ヶ所か血が出てしまっていた。


 とりあえず浴室でそこを洗う。その後俺は浴槽に腰掛けて、ミアが絆創膏を貼ってくれていた。


 絆創膏を貼り終えた後。ミアはじっと、そこを見つめていた。


「……ごめん」

「ミアが謝る事ないぞ。運が悪かっただけだ」

「でも。もしかしたらヒビ、紫苑が強く押しちゃったのかもしれない」

「だとしても。ヒビがあるという事はそう遠くないうちに割れていたはずだ」


 小さな子供が指で押すだけで割れる。それなら、机に置いた衝撃で割れてしまったのかもしれない。


 なんにせよ。


「あのお皿に寿命が来たって事だよ」

「……でも。でも、さ」



 ミアが立ち上がり。そっと、頬に手を置いた。


「柊弥。辛そうだよ」


 次の瞬間に、俺は胸に抱かれていた。


「私が悪かったって。そう思ってよ」


 ミアの声は震えていた。


「ダメだよ。抱えすぎだよ。柊弥……ぶつけるとこ、ないじゃん。それ」


 強く。強く、抱きしめられる。



「壊れるよ。壊れちゃうって。……吐き出さないと」


 ミアの言葉に小さく首を振ろうとするも。強く抱きしめられているからか、首は動かせない。


「だい、じょうぶだから」

「本当に大丈夫じゃない人はそう言うって。……分かってるよ」


 更に強く抱きしめられる。呼吸すら困難になるくらい。


「……」


 ただ、無言で。俺は抱きしめられ続けた。


「柊弥」


 手を捕まれ――柔らかい物に触れさせられた。


「柊弥が、そんな顔しなくなるんだったら――」

「ミア」


 俺はそこから手を離して。ミアを抱きしめる。


「俺はミアが大切だよ」

「……」

「大切だから、傷つけたくなんかない」

「……私だって。傷つく柊弥なんて、見たくないよ」


 その返された言葉に俺は返せない。



 そのまましばらく。抱きしめ合っていた。


「……ミア。紫苑の所に行かないと」

「……」


 ミアは抱きしめる力を更に強めたが――



 ふっ、と。その力が抜けた。


「……分かった」


 ふー、と。長く息を吐くミア。背中へとその吐息が届く。


「とーや」


 ミアが離れる直前。俺のすぐ目の前に顔を突き出してきた。


 ずつきをされんばかりの勢いで、ミアは近づいてきた。


 その緑色の瞳がじっと。俺を見つめる。


「私は絶対、柊弥から離れない。離れたくないから。……頑張るね」



 それだけ言って。ミアは浴室から出ていった。



 それを見届けてから、ふう、と息を吐く。



 ミアの言葉も気になったが。今は置いておこう。


 天井を見上げ。長く、大きく息を吐いた。



 紫苑は悪くない。もちろんミアも悪くない。絶対。



 それでも、あのお皿が割れた事は……凄く、悲しい。悲しいと言うのに。涙は出てこない。


「……はぁ」


 それが喜ばしくも、悲しくある。目が腫れて紫苑達に嫌な思いをさせない……のは良い事だ。


 しかし、泣けない。このどうしようもない感情は行き場を失い、ただ胸中をさまよっている。



 脳裏を過ぎるのは、両親の事。



『柊弥。このお皿好き?』

『お父さんとお母さんが三日かけて選んだお皿だからな。気に入らなかったらどうしようって最初は不安だったんだぞ?』

『ふふ。離乳食もこのお皿じゃないと食べないくらい気に入ってくれたもんね』

『覚えてるかー? 柊弥がこーんなに小さい頃。そのお皿抱えて眠ろうとしたんだぞー?』



 思い出してはいけない。


『ふふ。きっと柊弥が大人になるまで使えるわよ』

『そうだ! 柊弥の結婚式、ウエディングケーキはこのお皿に乗せて貰おう!』


 分かっているのに。


『お皿が壊れるのが怖いの? 大丈夫よ、そんなに不安がらなくても。……これからもお母さんとお父さんがいっぱい柊弥の為に色んなものをプレゼントするわ』

『ああ! 両手じゃ抱えきれないくらい! たっくさんプレゼントするからな!』


 プレゼント……する前に居なくなっちゃったもんな。




 静かに目を瞑り。顔を下げる。


「いなく、なっちゃったもんな」


 小さく呟いた声は、浴室に反響した。


 かなり、良くなったと思っていた。……きっと、あと少しで前を向けるのだと思っていた。


 実際はこのザマである。どれだけ女々しいんだ。お前は何も変わってないじゃないか。


 何も。何も変わっていない。


 弱い。強くなろうともしない。転んだまま、立ち上がれない。


 忘れる事は、出来ない。思い出が色褪せる事はない。


「どうすれば、良いんだろうな」


 浴室の壁に頭を打ち付けて。拳を強く握りしめるのだった。


 ◆◇◆◇◆


 ミアがリビングへ戻ると。紫苑を茜と柚がぎゅっと抱き締めてる所であった。


「お、ねえちゃ……おにいちゃ、は」

「お兄ちゃんは紫苑を嫌ってなんかいないよ。……でもちょーっとだけ一人になりたいみたいでさ」


 ミアはしゃがみ、紫苑と顔を合わせる。そのまま優しく、柔らかく笑いかけた。


「大丈夫。大丈夫だからね。お兄ちゃんはずっと紫苑の事が大好きだからね」


 ミアはそのまま、紫苑を……茜と柚もまとめて、強く抱き締めた。


「茜と柚も、紫苑の事見ててありがとね。お兄ちゃん、二人の事も大好きだから。安心してね」

「……うん」

「んー」


 普段は元気な二人も、今ばかりは声が小さい。ミアもそれは分かっているのか、微笑みながらも真面目な表情は抜け切っていなかった。


 ミアは三人を抱き締めて。順番に頭を撫でる。


「紫苑も。怪我なくて良かった」

「おにー、ちゃんは」

「大丈夫。手当はしておいたから。ちゃんと洗ったし大丈夫だよ」


 紫苑の顔は涙や鼻水で大変な事になっていた。ミアはティッシュで拭い、その額にキスをした。


「紫苑も怖かったね。おっきい音出てびっくりしたね」


 ミアの言葉にふるふると、紫苑が首を振る。


「おにーちゃん。まもってくれたから」

「ん、そだね。後で一緒にありがとう、って言おっか」


 またぎゅーっとミアは三人を抱きしめる。


 そして三人を離してから。じっと、三人を見据えた。


「紫苑、茜、柚」


 泣き止んだ紫苑。茜と柚もじっと、ミアを見ていた。


「三人に一つ、相談があるんだけどさ」


 ミアの言葉にこくこくと頷く三人。ミアは小さく笑って――



「お兄ちゃん。ほんとのお兄ちゃんにしようと思ってるんだけど。紫苑、茜、柚。どう思う?」


 その言葉にきょとんと。三人は首を傾げた。三人にとって、『お兄ちゃん』は彼をさす言葉であるから。


「あー。なんて言うのかな。……あ。もっとお兄ちゃんと仲良くなりたい?」


 ミアがそう聞くと、三人はこくこくと頷いた。


「おにーちゃんともっとなかよくなりたい!」

「なりたい!」

「なかよくなるー!」


 ミアの言葉に三人は頷き。ミアは笑う。



「りょーかい。じゃあお兄ちゃん、にしようね」


 その瞳には強い光が灯っていた。

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