第28話 天海さんは看病をする。
「……や、ごめん。ほんとごめん」
「いや。そんなにしんどくはないから大丈夫だ」
ミアは夜には良くなっており、紫苑達から幼稚園と保育園であった話をたくさん聞いていた。お母さんと一緒に。
これはもう、次の日にはもっと良くなっているだろうと思っていたのだが……。
その代わり、俺が思いっきり風邪を貰ってしまった。生憎と心当たりしかない。
今日休むかもしれないと連絡した所、ミアが来てくれたのだ。
「それよりありがとう、ミア。でも、学校行っても大丈夫なんだぞ」
「昨日のお返しだよ。……風邪引いたら人肌欲しくなるのも分かってるし」
ミアがお膳を持ってきてくれた。ことり、と机の上にそれを置いた。
その上に置かれているのは湯気が出ている、熱々のお粥である。
「一口でもいーよ。食べれそう?」
「食欲はあるから大丈夫だ」
熱は37.5。昨日のミアに比べれば、微熱と呼んでも良いくらいだ。
それでも、倦怠感や頭痛があるのは確かである。週末には紫苑達とプールにも行かねばならないのだから。
ズキズキと痛む頭を押さえていると。ミアが手に手を重ねてくれた。
「食べる前にしばらく押さえてよっか」
「……ありがとう」
痛む頭はしかし、押さえていると不思議と痛みも抑えられるようである。
「いーよ、これくらい。私も柊弥の頭に触るの好きだし」
重ねられた手には熱が篭っている。俺自身にも多少は熱があるはずなのに、今はその熱がどこか心地好い。
更にもう片方の手が俺の手を握った。
風邪の熱とは違う、人の温もり。それは痛みを忘れさせる。思い込みなのだろうが、それでも構わない。
「んじゃ、ぼちぼち食べよっか」
握られた手が離されて。ミアはお粥をベッドの方に置いた。
お粥の入ったお皿を持ち、スプーンで掬った。
「はい、あーん」
「……あ」
ミアの言葉に俺は口を開ける。
ゆっくりとスプーンが入ってきた。
口の中に暖かい酸味と柔らかな塩味が広がった。梅干しと……薄く、塩をかけているのだろう。
「どーかな」
「美味しい。めちゃくちゃ」
「そりゃ良かった」
温かなお粥が喉を通り、胃を満たしていく。それが心地よくて、少しだけ目を瞑ってしまった。
また目を開けると、ミアが小さく口角を上げている。またお粥を口へと運んでくれた。
そうして食べ終えて、薬を飲む。病院に行くほどではないので市販薬だ。
「んじゃ、おやすみ」
ミアは俺の手を握って。そう言った。
「……自由にしてくれて良いんだぞ」
「自由にしてるよ。柊弥の隣に居たいから居るんだよ」
ミアが即答し。もう片方の手をまた、俺の頭に乗せた。
「それに、傍に居るって言ったからね」
「……そっか」
「そ。だから、起きるまで居るよ」
寝るまでではなく、起きるまで。
その言葉に少し申し訳なくなって……でも、嬉しいのは確かだった。
「ありがとう」
「ん、どーいたしまして」
その手が柔らかく髪をくすぐられる。それがまた心地いい。
「おやすみ、とーや」
「……おやすみ」
俺は。静かに意識を落とすのだった。
◆◇◆◇◆
ガチャリと。鍵の開けられる音がする。
誰が帰ってきたのかすぐに分かった。
「ただいま、柊弥」
「お帰り! お父さん! お母さん!」
声の主が自分だと分かっている。それなのに、そこに居るのは自分ではないという事も分かっていた。
今より五歳以上幼い……多分。十歳くらいの自分。
「ケーキ。柊弥が一番好きなの買ってきたからな」
「ふふ。プレゼントもね」
「やったー!」
分かっている。この二人は紛い物なのだと。
分かっていた。また、傷つく事になると。
目が覚めたら、俺は一人で。ベッドの上に居るのだから。
それでも。この世界くらい……夢の中の俺くらい、楽しんでて良いんじゃないかって。
そう、思いたかった。
「柊弥」
お父さんの優しい瞳が俺を包み込む。
「柊弥」
お母さんの優しい温もりが俺を包み込む。
「大好きだよ、柊弥」
「大好きよ、柊弥」
二人の声はいつまで覚えていられるのだろう。いつか、忘れる日が来るのだろうか。
この温もりも。いつか、忘れる日が来るのだろうか。
この気持ちが。いつか、忘れる日が来るのだろうか。
それが怖い。嫌だ、と思う。
いつまでも覚えていたい。だからこそ俺は前を向く事が出来ない。
優しく、甘い毒に蝕まれる。
蝕まれても良いじゃないか、と思ってしまう。
この毒に侵されて死ねるのなら――
「とーや」
名前を、呼ばれた。
お父さんでもお母さんでもない。だけど、耳に心地好い。暖かな声。
「とーや」
また、呼ばれる。手が、とても暖かかった。
世界が薄くなっていく。夢が、終わっていくのが分かった。
いつもならここで怖くなって。心臓が痛くなって、吐きそうになる。
そのはずなのに――
◆◇◆◇◆
「とーや」
目を開ける。視界はうっすらと滲んでいた。
その細く、綺麗な指が伸びてきて。目に溜まった涙を掬われる。目が傷つかないよう、優しく。
「だいじょーぶ。私が居るよ」
その手が優しく。頬を包み込む。
「いつまでも。傍に居るよ。私は」
「……み、あ」
「私もずっと、夢に見てた」
その緑色の瞳がじっと、覗き込んでくる。
「眠れない夜もいっぱいあった。何もしたくない。やる気が全然出ない日もいっぱいあった」
でも、と。ミアは柔らかく笑う。
「お母さんが。紫苑が。茜が。柚が。私を家族にしてくれた」
その手はとても暖かい。……陽だまりのように。
「私が柊弥を家族にするから。ね、だから心配しないで」
その言葉はじんわりと心に染みていくようで。本当に――暖かかった。
「……あり、がとう」
「どーいたしまして」
ミアは柔らかく笑い、髪をくしゃりと撫でた。
「とーやが前向けるまで。いつまででも付き合ってあげるからね」
その言葉はとても暖かく、嬉しくて。
俺は笑った。
「……ああ。ありがとう」
「どーいたしまして」
その笑顔は柔らかい。暖かい。心のそこからじんわりと解されていく。
それから、あの夢を見る事はなかった。
無事、夜には俺の風邪も治り。週末のプールに行けると三人に伝えると、凄く嬉しそうにしていたのだった。
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