第25話 天海さんは風邪を引く

 暗闇から意識が掬い起こされる。


 ただ、決して悪い気分ではない。


 ミアと出会ってから。あの夜があってから、悪夢を見る機会はかなり減った。


 あれを悪夢と呼びたくはないが。少なくとも、俺はずっと苦しめられてきていたのだから。


 あれは父さんでも母さんでもない。ただの紛い物だ。俺の妄想だ。



「……ふぅ」


 寝起きに一杯水を飲み、息を吐く。冷たい感覚が喉を通り、空っぽの胃に染み込んでいく。


「よし、ご飯食べるか」


 昨夜にご飯は洗い、炊飯器にセットしておいた。今朝はどうしようか。納豆でも食べようかと冷蔵庫に向かった時。



 ヴー、と。スマホが震えた。


「……ミアか?」


 画面を開くとミアのチャットのアイコンが表示されていた。

 ロックを解除し、通知を見てみると。



『おねちゃんねつすごいたすけて』



 俺はスマホを落としそうになった。


 ◆◆◆


「紫苑!」

「おにーちゃん!」


 アパートの下に紫苑が居た。そわそわとしていて、今にも泣き出しそうだ。


「ミアはどんな感じなんだ?」

「えっとね、うーんとね」

「急がなくて大丈夫だ。……熱があるのか?」

「さ、さんじゅうはちどとご?」

「38.5か……高いな」


 紫苑を抱え、階段を上る。


「他に喉が痛いとか、咳が出るとか。言ってたか?」

「あたまがいたいって! あとふらふらしてる! ごはんつくろーとしたけどむりだった!」

「分かった。薬はちゃんと持ってきてるからな」


 風邪だと予想し、色々持ってきていた。一人暮らしなので色々常備しているのだ。


 階段を駆け上がり、部屋の前に来る。当然鍵は掛かっていない。


 扉を開けると、すぐに茜と柚が飛び出してきた。二人とも目に涙をたっぷりと浮かべている。


「とーやにぃ……!」

「おにーちゃん……!」

「茜、柚。俺が来たからにはもう大丈夫だからな」


 紫苑を下ろし、二人の頭を撫でる。二人はこくんと頷いた。


 靴を脱いでミアの元へ向かう。ミアは布団の上に寝ていた。


「……ごめ、来てくれたんだ」

「良いんだよ。一応聞いているが。発熱と頭痛以外に症状は?」

「ちょっと鼻づまり。あとだるい」

「ふむ……」


 風邪だろう。十中八九。

 色々薬は持ってきたが……。


「それだけ症状があるなら病院、行った方が良いかもな。ゼリーを買ってきた。食べられそうか?」

「……ん」


 ここに来る前にコンビニでゼリーを買ってきておいたのだ。


 とりあえずと、冷却ジェルシートを取り出し。ミアのおでこに貼った。


「病院が開くまでまだ時間がある。食べて風邪薬を飲もう」


 ミアに横になって貰って。俺はゼリーを開ける。


 そのままプラスチックのスプーンで掬って、ミアの口へと運んだ。


「はい、あーん」

「ん……」


 ミアの口がもにゅもにゅとゼリーを食べ、飲み込む。


「冷たくて美味しい」

「良かった」


 ミアの口へと再びゼリーを運びながら。紫苑達を見る。


「三人の分もゼリーがある。おにぎりもいくつか買ってきた。食べられそうなのあるか?」

「あるよー。あかね、うめぼしすきだったよね。ゆずはしゃけ」

「うん」

「ありがとー、しおん」

「わたしはおかかたべるね」


 袋の中にあったおにぎりを分配する紫苑達。

 紫苑がお姉ちゃんしている。めちゃくちゃに偉い。


「……あ」

「あと少しだからな」


 黙々とゼリーを食べ続けるミアへとゼリーを運び。食べ終えたので水を用意し、薬を飲ませる。


「……ごめ。一つ、お願い」

「なんだ?」

「紫苑達。連れてってくんないかな」


 ミアの言葉に、紫苑達がおにぎりにはむっとかぶりつきながらも。顔を上げた。



「しかし……」

「私さ。好きなんだ。この子達から保育園と幼稚園の事聞くの」


 ミアが横になりながらそう呟いた。


「だからさ。お願い」


 ミアの言葉に――俺は目を瞑り、考え。


 頷いた。


「分かった」

「ありがと」


 静かに目を閉じる彼女を見て。俺は一度、その手を握った。


「……じゃあ紫苑、茜、柚」


 三人を呼ぶと。大きくうん! と頷いた。


「お姉ちゃんの事はお兄ちゃんに任せて。帰ってきたら、いっぱい幼稚園と保育園で楽しかった事をお話するんだよ。そしたらきっと、お姉ちゃんは良くなるから」

「うん!」

「いっぱいおはなしする!」

「する!」


 三人へ向かって、腕を広げる。三人は飛び込んできた。


「偉いよ、三人とも。お姉ちゃんの事、よく見てくれてたね。紫苑も、連絡してくれてありがとう。めちゃくちゃ偉いよ」


 三人の中で文字をちゃんと読めるのは紫苑だけだ。スマホの扱いも慣れてないだろうに、よく頑張った。


 三人を撫でて、抱きしめて。

 それから紫苑達の準備を手伝う。三人はいつもの事だからか手際よく歯磨きをし、何を持っていくのか聞いて。一緒に準備をしてから。


「さ、行くか」

「うん!」


 玄関に向かう。時間も丁度良い。


「幼稚園とか保育園まではタクシーで向かうからね」

「わーい!」


 幼稚園に向かって、帰ってくる頃には病院も開く時間だろう。そのままミアを病院に連れていけば良い。


 少しお金はかかってしまうが必要経費だ。今のミアを長時間歩かせたくない。夏だし。


 それに、『今からタクシーを呼ぶ』と言ってしまえば、ミアは断ろうとする可能性もあるから。



 大通りに出てタクシーを拾う。少し不安だったが、想像していたより早く拾えた。


 そのまま紫苑達を幼稚園と保育園に送り迎える。最近はよく会っていたので、先生達も事情を理解してくれた。



 三人を送り届けてから。ミアの所へ戻る。タクシーの運転手さんにここで待ってて欲しいと伝え、アパートの階段を駆け上がる。


 鍵を開けて中に入ると、まだミアは寝ていた。……いや。眠れてはいないな。


「ミア」

「……ん」

「病院、行けそうか? タクシーは呼んであるが。厳しそうなら良くなるまで待とう」

「だいじょぶ。いける」


 少し怪しかったものの……行った方が適切な薬は貰えるだろう。


 ゆっくり。無理をしないようミアを立ち上がらせ、タクシーの所へ向かった。


 ◆◆◆


「どうだった?」

「風邪。でも最近流行りの夏風邪とはちょっと違うから、長引きはしないだろうって」

「そうか……良かった」


 さすがに診察室まで入る訳にはいかなかったので、待合室で待っていた。


 後は薬を受け取ってお金を払うだけ。ミアはボーッとしていた。


「ミア」


 名前を呼ぶと、ゆっくりと顔を向けてくる。


 それを確認して。俺は自分の膝をとんとんと叩いた。


「座るのもしんどいと思う。おいで」


 ミアは少し迷った素振りを見せた後に――こくりと小さく頷いて。横になった。


 太腿の上にミアの頭を置く。

 ミアはふー、と内に籠った熱を吐き出しているようだった。



「ありがと、とーや」

「どういたしまして」


 その頭痛が早く良くなるよう、頭を撫でる。ミアは目を瞑り。手でちょんちょんと脚をつついてきた。


「ん」


 差し出されたのは手。それを握ると、満足そうに口元を緩めたのだった。


 ◆◆◆


「色々、ごめん。迷惑かけて……学校も休ませちゃって」

「良いんだよ、一日くらい。後で俊からノートは見せて貰えば良いしな」


 学校にはもう連絡していた。基本保護者が行う事になっているのだが、事情を話しているので俺が連絡をしても問題ない事になっている。


 ミアも同様で。朝イチで連絡を入れたらしい。


「何か欲しいものとかあったら遠慮なく言ってくれ。なんでもしよう」

「……んじゃ、ちょっと手貸してほしい。顔洗いたくて」

「了解だ」


 ミアをゆっくりと起こし、立ち上がらせる。そのまま洗面所まで向かおうとした時だ。



 玄関の扉が開いた。



 思わず俺は固まってしまい――そこに居たのは。一人の女性だった。


「ミア、紫苑、から、連絡が、来てた、わ」


 黒髪を一つに束ねた、若々しい女性。とても綺麗な人だ。


 しかし、その女性は肩で息をし、汗だくになりつつも。ミアを見て……次に、俺を見た。


「君は……」

「あ。お母さん」


 ミアの言葉に。俺は背筋を伸ばしたのだった。

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