第8話 天海さんは名前で呼ばれたい(呼びたい)
「おねーちゃん! あ、おにーちゃんもいる!」
「紫苑」
幼稚園へ天海と向かうと、紫苑が走ってきた。転ばないかはらはらしつつも、転ぶ事なく駆け寄ってきた紫苑を受け止める。
「昨日ぶりだ、紫苑」
「きのうぶり! おにーちゃん! おねーちゃんはさっきぶり!」
「ん、さっきぶり。紫苑、おいで」
「わーい!」
天海が手を広げると紫苑が今度はそちらに飛び込んだ。可愛い。
すると、先生らしき女性の方が近づいてきた。
「あらあら、仲が良いんですね。こんにちは、天海さん。もしかして、彼が噂のお兄さんですか?」
その言葉にハッとなる。まだミアと手を繋いでしまっていた。
ミアも同時に気づいたのか。手を離して、こほんと一つ咳払いをした。
「こ、こんにちは。紫苑が話してたなら彼で合ってますね」
「は、初めまして。天海さんのクラスメイトの世良柊弥です」
挨拶はしておいた方が良いだろうと頭を下げる。すると、先生も頭を下げた。
「初めまして。お話は紫苑ちゃんからいっぱい聞いてます。紫苑ちゃんのクラスの先生をしている
丁寧な挨拶を受け、改めてお辞儀をしてしまった。
「えーっと。紫苑から聞いていたんですか?」
「はい! それはもう、昨日からずっとですよ。とっても優しくて、かっこいいお兄さんだと。ふふ、聞いていた通りの方ですね」
「そ、そうでしたか。……ありがとうございます」
少し気恥ずかしいものの、紫苑にそれだけ気に入られていたと思うと素直に嬉しい。
「よし、それじゃあ茜と柚も迎えに行こっか。樫村先生、ありがとうございます」
「はーい。お気をつけてください。また明日ね、紫苑ちゃん」
「うん! またね! せんせ!」
樫村先生が小さく手を振り、紫苑が大きく手を振り返す。もう片方の手は天海と繋いだままだ。
俺も小さく会釈をする。
そのまま樫村先生が見えなくなるまで、紫苑は手を振り続けていた。
紫苑が手を下げようとして、しかし俺を見て手を突き出してきた。その手を握ると「えへー!」と嬉しそうに笑った。可愛い。
「ね」
「なんだ? 天海」
「それ。一応紫苑達も苗字は天海なんだからさ。やめてくんないかなって」
その言葉に思わず足を止めてしまいそうになって。紫苑にちょんちょんと手を引かれて歩く。
「……やめて、と言うと」
「ミアって呼んで」
うっと喉が詰まりそうになった。
名前呼び、か。
「私も柊弥って呼ぶから」
「わ、分かった。ミア」
そう呼ばれて。また顔が火照ってきながらも、頭の中に一つ疑問が生まれた。
「そういえばあま……ミア。俺の事、ほとんど呼んでないんじゃないか? 基本アンタ呼びだったし」
「あー……そだっけ?」
改めて記憶を掘り返してみても、呼ばれた記憶は……あまりない。
すると。紫苑がぎゅー、と手を握って俺を呼んだ。
「おねーちゃんね! おとこのひととはなしたことないから! よぶのがはずかしいっていってた!」
「ちょ、紫苑!」
「……男の人と話した事ない?」
ミアが片手で顔を覆い隠した。危ないからと立ち止まると、紫苑も立ち止まった。
「……笑わないでよ」
「笑ったりしないよ」
そう前置いて。ミアが隠すのをやめ、しかし目を空へ向けた。
「私、自分でも数えるくらいしか男の人と話してなくてさ。しかも先生とかだし。プライベートだとアンタ……柊弥が始めてかもしれないくらい」
「そう、だったのか」
「そ。それで、馬鹿みたいだけどさ。私、柊弥の事どう呼べば良いのか分からなかったんだよね。たまーに苗字で呼んだりはしたけどさ」
「なるほど。そういう事か」
合点がいった。だから呼んでなかったのか。
という事は……俺の事を名前で呼ぼうと思ったのもかなり勇気が必要だっただろう。
「改めて。これからは柊弥で良いからな」
「……分かった、柊弥。よろしく」
「ああ。ミア。よろしくな」
お互いに名前を呼び合うと。紫苑がじーっと俺達を見て。ぱあっと、花が咲いたような笑顔を見せた。
「おにーちゃん! おねーちゃん! もっとなかよしさんになってる!」
「あー……そう見える?」
「うん!」
無垢な笑顔とはこの事を言うのだろう。凄く良い笑顔だ。
「ま、あれよ。紫苑達が仲良くするなら私も仲良くしないとなって思ってね」
「そーなんだ!」
紫苑が嬉しいのかぴょんぴょん跳ね回る。
元気な姿を見ていると、こっちまで元気になってきた。
「じゃあもっとなかよくなる! おにーちゃんと!」
紫苑が一度ミアから手を離して、俺にぴょんととびついてきた。
それを受け止めると、紫苑がコアラのようにぎゅーっと抱きついてくる。可愛い。
ずり落ちないようにしっかりと抱えて頭を撫でる。温かい。
ふと、ミアが紫苑を先に迎えに行く理由が分かった気がした。
茜と柚が居ると、紫苑は『姉』になってしまう。もちろん甘えはしてくれるだろう。しかし、昨日のように遠慮をしてしまうかもしれない。
だから紫苑を迎えに行って。二人を迎えに行くまでではあるが、甘やかしていたのだろう。
「えー? お姉ちゃんにも構ってくれないと寂しくなっちゃうんだけどなー?」
「……!」
わざとらしく言うミアに紫苑がハッと顔を上げて俺を見た。しゃがんで紫苑を下ろすと、紫苑はてててっとミアに近づいて腕を広げた。
ミアが紫苑の脇に手を入れて持ち上げ。紫苑がまたぎゅーっとミアに抱きつく。
ミアもぎゅーっと紫苑を抱きしめている。
嬉しそうに。
幸せそうに。
「おねーちゃんだいすき!」
「ん。私も大好きだよ、紫苑」
非常に微笑ましい光景である。写真を撮りたい。
「写真、撮っても良いかな」
思わず口にしてしまうくらい、その思いは強かった。
「ん、いーよ。SNSには上げないでよ?」
「上げない。さすがに常識はあるよ」
スマホを取り出し、カメラを開いて構える。紫苑はぎゅーっとミアに抱きついていた。
出来ればこのまま撮りたい。そう思って指を画面に近づけた瞬間。
ちゅっ、と。ミアが紫苑の額へキスをした。
それとシャッター音が鳴るのは同時の事だった。
「あ、しゃしんとってるー!」
「どう? いい感じに撮れた?」
「……」
撮った写真を。俺はじっと見ていた。
紫苑はミアに抱きしめられて、とても。とても良い笑顔を見せていた。
ミアも嬉しそうに。紫苑の額へと口付けをしている。
「あれ? おーい」
いつまでも見ていたくなる。とても和やかで綺麗で――
「お、良いじゃん」
「……ッ、み、ミア?」
すぐ隣にミアと紫苑が来ていて、俺のスマホを覗き込んできた。
「や、全然返事しないから見ようと思って。紫苑も良く撮れてるね」
「しおんもおねーちゃんもかわいいー!」
ふわりと、花のように甘く爽やかな香りが鼻をくすぐってきた。すぐ隣にミアの顔がある。
その栗色の瞳はじっと画面を覗き込んでいて。
綺麗だ、と思ってしまった。
「え? どした? じって見てきて。……もしかして。またなんか付いてたりする?」
「ああ……いや。なんでもない」
顔ごと背けて視線を逸らすも。頭の中には今のミアの表情と、あの写真に写っていた表情が浮かんでいた。
元々思っていた。綺麗な顔立ちをしていると。でも、今思えば、その表情にはどこか寂しさがあったような気がする。
それに比べて。先程の笑顔はとても――
「ほんとにだいじょぶ?」
「だいじょーぶ? おにーちゃん?」
「……ッ、あ、ああ。大丈夫。大丈夫だぞ」
頭を振って乱暴に意識を切り替える。ドキドキと心臓がうるさいが、空を見上げて息を整えた。
「あ、そうだ。その写真貰っていい?」
「もちろん。そういえば連絡先交換してなかったな」
「だね。やっとこ」
スマートフォンを取り出し、連絡先を交換する。紫苑が珍しそうに画面を覗き込んでいた。
「……よし。じゃ、よろしくね。暇な時とか紫苑達が話したいって時は連絡するはずだから」
「ああ。俺も暇な時にするよ」
見ると、ミアの口角が少しだけ上がっている。紫苑はいつも通りニコニコとしていて楽しそうだった。
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