第5話 天海さんの噂

「良い? ピンポンが鳴っても絶対出ないこと」

「はーい!」

「ちゃんと分かってるよー」

「むにゃむにゃ」


 ご飯が終わり、四人が風呂に入って。帰る時間になる。

 天海はこれからコンビニでバイトがあるらしい。……この時間からか、と驚いたものの。

 この三姉妹の晩御飯を作ったり、面倒を見ないといけないため。バイトはこの時間から二時間ほどしか出来ないと言っていた。


「もし柚が寝るんだったら二人も見てあげてね。起きといても良いけど、私が帰ってくる頃には寝る準備も済ませておくこと。十時過ぎには帰って来れるはずだから」

「はーい」

「はーい」

「むにゃ……い」


 紫苑がキラキラと目を輝かせているのは、三人の中だと年長さんだからなのだろう。やる気があるようで何よりである。


 扉を開けると、三人は玄関までとてとてと来てくれた。


「おにーちゃん、また来てね」

「ああ。また来るよ」


 紫苑達は少し目をうるうるとさせていた。


 頭にぽんと手を置くと。紫苑がぎゅっとズボンを掴んできた。


「持ち帰りたい」

「分かるけどだめ」


 やはりだめらしい。


 しゃがんで紫苑と視線を合わせる。そのまま手を広げると、ぎゅっと抱きついてきた。


 子供だからなのだろうか。とても温かい。


 そのまま抱きしめて背中をぽんぽんと軽く叩く。


「つぎ、ぼく!」

「わたしもー」

「はいはい。順番な」


 順番にハグをしてから、立ち上がる。


「おねーちゃんとはぎゅーしないのー?」

「え」「え?」


 紫音の言葉に思わず固まってしまった。紫音は……三人がじーっと俺と天海を見つめてくる。


「い、いや。べ、別にそういうのは」

「おねーちゃん……おにーちゃんとなかよしじゃないの?」

「や、ちが、てかまだ会って二日だし」

「……しおん。おにーちゃんとなかよしじゃないの?」


 うるうるとその瞳が滲み始めた。まずい、と天海が俺を見た。


「……意識、しないでよ」


 小さく呟かれた言葉が耳に入り。



 次の瞬間、体を温かいものが包み込んでいた。


「ほら。腕回して」

「……ッ、ああ」


 背中に腕を回して抱き返す。思わず呼吸を止めてしまった。

 紫音達がおお、と声を漏らしていた。


「……はい! 終わり!」


 バッと天海が離れた。紫音達がニコニコと俺達を見ている。


「ほ、ほら。行くよ」

「あ、ああ」


 天海が扉を開けて、外へ出る。


「なかよしさん!」

「また来てね!」

「いっしょにおひるね!」


 三人を見ていると、引き攣った顔が自然と笑顔を取り戻していく。


「ああ。またね。お姉ちゃんの言う事、ちゃんと聞くんだよ」

「はーい」「はーい!」「はーい」


 笑顔で手を上げる三人。そのままぶんぶんと手を振られた。


「きをつけてね!」

「ばいばーい!」

「またね!」


「ああ。ばいばい」


 手を振り返して扉を閉める。


 それでもまだ、ばいばーいと言う三人の声が外まで漏れてきていた。


「……なんか、ごめんね。色々」

「いや、楽しかったよ。三人も可愛かったし」

「や、最後のとか」

「あー」


 天海の言葉に先程の事を思い出してしまって。自然と顔が熱くなってしまう。


「や、ほんとごめん。紫音達泣かせたくなかったからって。……ごめん」

「べ、別に嫌だった訳じゃ」


 声が上擦りそうになって、一つ咳払いをした。


「ほら、あれだ。男子高校生はみんな女子高生とハグしたいみたいなとこあるし。俺もその例に漏れないというか」


 ……いや。この言い方だとめちゃくちゃキモイ奴なのではないか。


「あー、いや、今のは違う。いや、違くはないんだが」


 頭の中が真っ白になって、何と言えば良いのか分からなくなる。


「……ふ、くく」


 その笑う声に意識を持っていかれた。


「あははっ。何それ。……ふふ。慌てすぎっしょ」


 天海は目を細めて、口を小さく開けて笑っていた。


「にしても何、その言い方。私じゃなきゃ引いてたけど」

「わ、悪かったな。こういう経験なかったんだよ」

「ふーん、そっか」


 笑い混じりにそう言われて。目を逸らした。


「私も嫌じゃなかったけどね。男の人とハグしたのだって、アンタが初めてだし」



 どくん、と心臓が跳ねて。また、呼吸を止めてしまいそうになり。ぶんぶんと頭を振った。



「ほら、途中まで送るから。行こ。早くしないとバイトも遅れちゃうしさ」


 天海は俺の数歩先を歩いていた。足を早めると、天海もその分足を早くした。



 歩きながら。ふと、天海が話しかけてきた。


「……ね」

「なんだ?」

「あの噂。信じてる?」


『あの噂』


 その言葉に俺は足を止めた。天海も足を止めた。


「信じない」


 天海が何かを言おうとする前に。俺はそう言った。


「……ほんとに?」

「元々信じてる人も少なかった。一部の女子が騒ぎ立ててるだけだと。俺もそう思っていたし、今では絶対に違うと思ってる」


 天海がふーん、と。小さく息を漏らした。



「ミアって名前はさ。お母さんが付けてくれたんだ」

「……」


 唐突に語られる言葉。しかし、俺は黙ってその言葉を聞いていた。


「ミア。Mya。元はフランス語でMyriam。私の名前は『愛しい子』とか『最愛の人』っていうのが語源らしいんだ」

「そう、なのか」

「うん。お母さんから貰った、大切な名前」


 天海が振り向いた。その顔は――じっと、俺を見つめていた。


「私はこの名前に恥じない人生を送ろうと思ってる。だから、神に。お母さんに誓う。そんな事はしてないって」

「……天海」

「ん、ごめん。ちょっと話したくなってね。アンタには誤解、して欲しくなかったからさ」


 天海が小さく笑って。また前を向いた。


「すごく良い名前だと思う。それで、その名前に恥じないくらい頑張ってると思うよ。天海は」

「ありがと」


 月明かりに照らされる中。俺達は歩き続けた。天海の隣に付いて。歩き続ける。


 天海の耳は、ほんのり赤くなっているような気がした。


 ◆◆◆


 日常が戻ってくる。


 面白みのない日常。

 授業をして、友人と喋って。たまにはカラオケなんかに行ったりもして。


 授業が面倒だと愚痴ったりして、テストが近づいてくると勉強が嫌になる。


 そんな日常が戻ってくるのだと、思っていた。


 ◆◆◆


 天海達とのあれこれが終わった次の日。


 空気がおかしい。


 すぐに気づく事が出来た。


 普段は感じない視線。俺を見てひそひそと話す生徒達。


 最初は自意識過剰かと思った。

 気のせいだろうと思った。

 しかし違った。


 明らかに俺を見て話している男子生徒に女子生徒達。それらに気づかないほど鈍感ではなかった。



 廊下を歩いていると。教室から一人の生徒が出てくるのが見えた。


「……天海」


 天海が俺を見て。近づいてきた。


「天海。おは――」

「ごめん」


 天海は俺を無視して、すれ違う瞬間。そう言った。


「……天海?」


 あれだろうか。学校ではあまり話しかけて欲しくないとかそういうのだろうか。


 嫌な予感が胸の内を渦巻いていた。



 教室の扉を開けると。視線が集まってきた。


 じっと。何十もの視線に見つめられる。そして、ひそひそ話が始まる。


 おかしい。確実に。

 俺はクラスの中でも目立たない方だ。ここまで見られるのはおかしい。


 とりあえず無視し、自分の席へと座る。


「おはよ、柊弥」

「ああ、俊。おはよう」


 すぐに俊が近づいてきて、俺の目の前の席に深く座った。


「何があったんだ? これ」

「あー……無視して良いと思うぞ。どうせ数日後には誰も気にしてないだろうし」

「そうか」


 何となく、お前は知らない方が良いぞと言われているような気がする。

 俊が言うのならそうなのだろうと。俺も深くは聞かずにいた。


 ◆◆◆


「おい馬鹿、やめろ」

「なあなあ。天海の事買ったってほんとか?」


 知らない人。違うクラスの生徒。


 その言葉の意味が分からなくて。

 教室は静まり返っていた。


「やめろって言ってんのが聞こえなかったか?」

「いいじゃん別に。そんな怒んなって」


 俊がその生徒を止めようとするも、聞く気はないようだった。


「んで? ほんとなの?」

「……話が読めないんだが」

「や、最近お前? あー、世良っつった? 世良が天海と一緒に居たって聞いてな?」


 いや、それがどうしてそうなったんだ。そうはならんだろ。


 と、その時。あの噂の事を思い出した。


『天海ミアは体を売ってる』


 今までその噂は噂でしかなかった。


 それは女子による嫉妬のようなものなのだろう。そう思われていた。


 しかし、俺が天海と居る所を見られた。普段……というか、つい最近まで接点がなかった俺と天海が。


 別の想像をする人の方が多いと思う。だけど、以前からその噂は広がっていて。

 この世の中。良い噂よりも悪い噂の方が広がりやすい。広めやすいから。


 それと同時に。朝の事を思い出し、気づいた。


『ごめん』


 天海は知っていたのだ。この事を。


 色々言いたい事はあったはずだが。何も言えなかったのだ。

 俺が天海と話せば、余計噂を広げるだけだから。



 ――ごめん、なさい



 小さな言葉が聞こえてきて。目だけを動かしてそこを見る。


 天海はいつも通り窓を背にして。しかし、俯いていた。


 ――ごめんなさい


 色々な。本当に色々な感情を綯い交ぜにした言葉だった。


 気のせいではなかった。その口は小さく動いていて。雫が滴り落ちていた。


 全身にぶわりと鳥肌が立つ。心の中が赤く煮えたぎった何かで覆われていく。


「んで? どうなの? 買ったの?」

「お前なぁ!」

「俊。俺は大丈夫だから」


 ふー、と息を吐いて。内に籠った熱ごと逃がす。


 俊は良い奴だ。

 朝の事も多分、俺が知らないうちに解決しようとしてくれたからなんだと思う。


 ただ違うと言うのは簡単だ。それが一番早いだろう。感情のまま、否定するのは簡単だ。それが事実なのだから。


 多分、俊も動いてくれるから大事にはならないと思う。


 だけど天海は?

 天海の誤解は解けるのか?



『この名前に恥じない人生を送るよ、私は。だから、神に。お母さんに誓う。そんな事はしてないって』



 ガンガンと、昨夜の天海の言葉が頭の中を反響する。


 ああ言った彼女は、報われるのか?


 天海はそんな事をする人ではないと俺が言って、信じてくれるのか? こいつらは。


『ごめん』


 今度は頭の中で今朝の言葉が反響する。


 吐き気がする。腸が煮えくり返る。


 目の前でニヤニヤとしている男子生徒に殴り掛かりたい衝動に駆られる。


 しかし、それをした所で俺の……天海の立場が悪くなるだけだ。



 俺は、何をすれば良い?



 いや、一つだけある。ここを乗り切る方法が。天海も俺も――多分、傷つかない方法が。多分。


「俺は――」


 まだ出会って間もない。そんな事は分かっている。


 それでも、嫌だ。


 あの笑顔が見られなくなるのが嫌だったから。


 あの子達と会えなくなるのが嫌だったから。


 天海と。もう話せくなるという事が嫌だったから。




「俺は、天海と付き合っている」




 気がつけば。そう口走ってしまっていたのだった。

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