限界OL、家出少女にドーナツを

橙山 カカオ

第1話


 主方しゅかた 志緒しおは沈んでいく夕日を眺めていた。百貨店前の階段に座り、唯一の荷物であるグレーとピンクのリュックサックを抱えている。

 夕日の眩しさに目を細め、アッシュグレーに染めたロングヘアにオレンジ色が映りこんでいた。


「……どうしよっかな」


 呟いた声は目の前を歩く人々の足音にかき消されて、志緒自身にも、本当に口にしたか曖昧に感じられた。

 ふと、背後に足音。億劫そうに振り返ると、百貨店の制服を着た女性が微笑んでいた。


「お客様、大丈夫ですか? ご気分が悪いようでしたら……」

「大丈夫です」


 にこにこと微笑む女性の顔を見ていられず、志緒は弾かれるように立ち上がった。小さなリュックを背負いなおし、早足でその場を離れる。

 人込みに流されるように歩く間にも、夕日はどんどん沈んでいく。ネットカフェでも探すかとポケットに伸びた志緒の手が止まった。


(……まあ、いっか)


 スマホは先ほど電池が切れたばかりだった。モバイルバッテリーはリュックの中に入っているが、今は友人からのメッセージも、家族からの連絡も、見るつもりはない。

 志緒はそれ以上考えることなく、夕日が眩しいから逆側へと歩いていった。


「これが、自由ってやつ?」


 冗談めかした呟きを、長く伸びた影だけが聞いていた。



 内原うちはら 甘那かんなは、ホラーが苦手である。

 苦手は敏感さに通じる。だから、夜の公園でベンチに座っている少女を見た時、咄嗟に目を逸らしてしまった。少女の灰色がかった髪が街灯に照らされて白く見えたのもあって、ヒールの歩調が乱れさえした。


「……?」


 そのまま前を通り過ぎようとして……幽霊が持つにしては可愛らしいリュックが甘那の目に留まった。

 歩みが緩む。ベンチを数歩通り過ぎ、街灯が照らす円から出て……止まる。


「…………」


 鞄を握り締めて数秒。甘那はスーツの裾を翻して振り向き、ベンチに座る少女へと歩み寄った。その膝に触れないように注意しながら、パンツスーツを折り曲げてしゃがみこむ。


「きみ。大丈夫?」

「…………った」

「……うん?」

「おなか、へった」


 そっか、という声が自覚なく甘那の口からこぼれた。

 表情を見上げて観察しながら、ゆっくりを意識した声で問いかける。


「お名前は?」

「……」

「家出?」

「……そう」

「これ、食べる?」


 甘那はかがみこんだまま鞄を開き、ビニール袋に包まれた紙袋を取り出す。ヒゲの紳士のマークが描かれたドーナツチェーンの袋をどこか自慢げに揺らして見せ、中から包み紙とドーナツを摘まんで差し出した。

 少女は胡乱な表情でドーナツと甘那を見比べた後、ためらいがちに手を伸ばす。触れる前に、声が漏れた。


「……いいの?」

「どうぞ。隣、失礼します」


 はい、と軽く指先へとドーナツを押し付けて、持たせる。ゆっくりと甘那の手が離れると、少女は両手でドーナツをしっかり掴みなおし、口元に運んだ。

 甘那はベンチの隣に座り、自分も袋からドーナツを取り出して咥える。


「夜の公園でってのも乙だね」

「…………ありがと」

「どういたしまして。私は甘那。きみは何て呼べばいい?」

「……志緒」

「シオ、ね。了解」


 しばしの無言。志緒と甘那は黙々とドーナツを味わう。夜の公園は人気がなく、時折ランニングをしている人が通りかかるくらいだ。

 空腹だというのは本当だったのだろう、瞬く間にドーナツを食べ終えた志緒へ、甘那がウェットティッシュを差し出す。


「ごちそうさま」

「ん。行く当てはあるの? 家出少女」

「…………ないよ」

「家出だもんね」


 甘那が苦笑して、またしばしの無言。風が木々を揺らす音が二人に降る。


「シオ」

「……なに?」

「クイズに正解したら、一晩泊めてあげる」

「…………は?」

「なぜ、私はあなたを助けようとしていると思う?」

「え、それが問題?」

「そう。制限時間は私の腰がベンチに負けるまで」

「……おばさんなの? カンナ」

「社会人は老いも若きも腰に爆弾を抱えてるものよ。あなたもあと十年すればわかるから覚悟しておきなさい」

「いやすぎる」

「答えは?」

「…………優しいから」

「不正解」


 甘那が微笑む。その微笑みを横目に見て、志緒はわずかに不機嫌さを表して睨む。


「……暇人だから」

「不正解。出勤まであと九時間しかないよ」

「答えは?」

「優しい振りをして、あなたを襲おうとしている」


 がおー、と手のひらを見せる仕草。

 つまらなさそうに志緒が首を傾けた。


「意味わかんない」

「家出した子供に手を差し伸べる人は、とびきりの善人か、どうしようもない悪人だけ。で、確率は悪人の方が高い。次からは『ドーナツ食べる?』って聞かれたらさっさと逃げなさい」

「……何もなかったじゃん」

「次はこうは行かないから、家出なんてやめときな、ってこと」


 ベンチから立ち上がり、甘那は笑う。ビジネス用の革鞄を志緒に押し付けて立ち上がらせた。


「うちにおいで。一晩くらいなら泊めてあげる。理由はわかる?」

「……私を襲おうとしている」

「はい、大正解」


 バカみたい、と志緒もつられて小さく笑った。



 甘那の部屋は、公園から七分ほど歩いた距離にあるマンションの一室だ。一人暮らし用、若者向け、駅からは若干遠い。こじんまりとした建物の四階で、志緒はシャワーを浴びていた。

 家出をして、見知らぬ人の部屋にいてもシャワーは心地よく感じるのだな、と他人事のように考える。


「シオー。服置いておくから使って。下着は持ってきてる?」

「ある」


 風呂の外から甘那が声を掛ける。

 何となく普段よりも時間をかけてシャワーを終えた志緒が脱衣所に出ると、折りたたまれたバスタオルと、グレーのスウェットの上下が用意されていた。隣には志緒のリュックサック。

 バスタオルを取って水気を拭い、リュックサックを漁って下着を取り出した。スウェットに袖を通し、少し迷ったが勝手にドライヤーも借りて髪を乾かす。

 リュックサックを掴んでリビングに出た志緒を、香ばしいコーヒーの香りが出迎えた。


「お疲れ。サイズ平気?」

「大丈夫」

「コーヒー飲むけど」

「……ミルク、ある?」

「牛乳で好きに薄めたまえ」


 テーブルに向かい合って座り、カップを持つ。こぼさない程度に牛乳を入れたカフェオレは甘くなく、志緒は少し目をすがめた。

 甘那はブラックのままコーヒーを啜り、しばし、リビングに沈黙が落ちる。


「で、シオ?」

「……」

「これからどうする感じ? 行く当てとかあるの?」

「ないけど」

「頼れる親戚とか……」

「いない」

「……左様で」


 コーヒーより苦い現実を飲み込むために、甘那がコーヒーを一口。


「シオは」


 言って、唇を閉じる。

 呼ばれた志緒は、甘那の表情をじっと見ていた。


「……なんで、家出したの?」

「……甘那には関係なくない?」

「そーね。ただの興味本位。私は家出、したことないからさ」

「頭良さそうだもんね。カンナ」


 部屋をぐるりと見回して、志緒が呟いた。

 広くはない一人暮らしの部屋は良く整頓されていた。ただ一か所、ノートPCと何かの本や紙束が乱雑に積まれた場所を除いて。


「頭が良かったら、こんなに苦労してないんだけどねぇ……」

「苦労してるの?」

「してるしてる。毎日、超ハードで」

「ふーん……」


 けらけらと笑う甘那の笑顔を、志緒がじっと見つめる。

 その視線からコーヒーへと目をそらして、甘那は呟いた。


「本当に……もうちょっと頭、よかったらな……」

「どしたの?」

「何でもない。……で、どうして? 家出の理由聞かせてよ。あ、ほら。ドーナツとコーヒー代ね」

「後から言い出すのズルくない?」

「大人はズルいの。言ったでしょ」


 けだるいやり取りに志緒の唇が綻ぶ。押しとどめていた言葉がこぼれた。


「……母さ……、母親が。泣くんだよね。あたしが何かすると、泣くの」

「……泣く、って、涙を流して?」

「そ」


 カップを握り締めていた手を放して、志緒が『TT』のジェスチャー。

 ぽつりぽつりと。

 全く見知らぬ甘那が相手だからこそ、言葉が一滴ずつこぼれた。


「『どうしてそんなことするの』。『育て方を間違えた』。『何かできることがあったら言って』。『お願いだから』」


「あたしは別に、泣かせたいと思ってるわけじゃないんだけど。グレてるつもりもないし」


「やりたいことをやると、泣く。やりたくないことをやらないと、泣く。髪を染めた時も泣いたし。学校で喧嘩した時も泣いた。ピアス開けた時も」


「父親も仕事ばっかで帰ってこないし」


 だから、


「――あたし、この家にいない方がいいかなー、って」




 静かに聞いていた甘那は、志緒の言葉が途切れてからしばらくして、一度二度頷く。


「そっか」

「そ」

「……辛かった?」

「んー……辛いっていうか……。……なんだろ。えー……ん……と」


 志緒が言葉を探す。結局その脳内に相応しい言葉は転がっていなかったようで、ふてくされたようにコーヒーを啜った。


「得も言われぬ、ってやつだね」

「エモ……?」

「エモい、じゃなくて。えもいわれぬ。何とも言えない」

「それそれ」

「……それでも、さ」

「うん?」

「君のお母さんは、良い人だね」

「……はぁ?」

「子を想って泣ける親は、良い人だよ。……でもね。親がいい人であることと、君が辛いことは、両立するから」

「……別に辛くねーけど」

「例えばの話。だから、まあ……一晩ゆっくり考えてみなさいな。自分がどうしたいか。家出ってそのためにするんでしょ? 私はしたことないけど」

「うーわ、上から目線」

「大人ですから」

「はいはい。……ねえ」

「うん?」

「……………………ありがと」

「どういたしまして。さ、良い子は寝る時間ですよ」



 志緒がふと目を覚ますと、知らない枕に頭を預けていた。

 知らない壁紙、知らない匂い。一瞬頭が混乱して、身体が震える。


「……、ああ」


 家出したことを思い出し、力が抜ける。全く持って自分の趣味ではないグレーのスウェットは、色はともかく着心地は良く、袖を目の前に持って行って何となく眺めた。


「……あれ」


 志緒の少しぼやけた視界に、光が見えた。

 引き戸で仕切られたリビングから、灯りが漏れている。手元のスマホで時間を確かめると、深夜二時を回ったところ。

 志緒はのそのそとベッドから起き上がり、眠い目を擦りながらリビングへ向かった。


「……ちっ……。……あー……くそ」


 先ほどコーヒーを飲んだテーブルにノートパソコンを乗せて、甘那が何か作業をしていた。パジャマを着た背中が猫背に丸まっていて、手元には空っぽのコーヒーカップと乱雑に置かれた資料。

 志緒には気付いていないようで、資料を見てはキーボードを叩いている。舌打ちしながら、不機嫌そうな表情で画面を睨む表情を、斜め後ろからしばらく見つめていた。


「……何してんの?」


 その様子が、先ほど同じテーブルで説教をしてくれた女とは思えず――志緒は、一歩踏み出して控えめに声を掛けた。

 びくりと跳ねるような反応で甘那が振り返る。


「あ……し、シオ。……起きちゃったの?」

「ん……喉乾いただけ。……仕事? それ」

「そう。お仕事。明日までに作らないといけなくてさ」


 あはは、と笑って、カップを手に取る。口元にまで運んでようやく空だと気付いたのか、苦笑してテーブルに戻した。

 志緒が言葉もなく眺めていると、甘那はまたノートパソコンに向き直る。


「コップは食器棚の二段目ね。冷蔵庫にミネラルウォーターもあるから、そっち飲んでもいいよ」

「ありがと。……ねえ、カンナ」

「うん?」

「それ、楽しいの?」


 問いかけに、甘那の手が止まる。

 止まって、ぴくりと動き、また止まった。


「……楽しい……よ。ちょっとハードだけど。望んで入った会社だし。仕事を任されるのは期待されてるってことだし。……まあ、ね? もうちょっと……頭が良かったらなって、思うけど……」


 ノートパソコンの画面に向けて呟くように放たれる言葉を、志緒はほとんど聞いていなかった。声の震えだけで、感情は十分に伝わったから。椅子の後ろから、甘那の背中に抱き着く。


「……シオ?」

「カンナは良い人だね」

「いきなり、なにごと」

「思っただけ。……これ、邪魔?」

「うーん、すっごい邪魔」

「空気読め大人」

「邪魔だけど、ちょっと嬉しい」

「……あっ、そ。じゃあもう少しこうしててあげる」


 再開したキーボードの音だけがリビングに響く。

 リビングから明かりが消えたのは、朝の五時ごろだった。





 ぐう。

 志緒の二度目の目覚めは、自分のお腹が鳴る音でもたらされた。

 のろのろと身を起こしてリビングに出ると、何やらいい匂いがしていた。ベーコンが焼ける匂いが、お腹を鳴らせた原因らしい。


「おはよう、志緒。顔洗っておいで」

「ふぁい……」


 甘那に促されて、勝手知ったる他人の家、洗面所に向かって身繕いする。

 リビングに戻る頃には、テーブルに朝食が用意されていた。ところどころ焦げたベーコンと、涙目の目玉焼き。食パンが二枚に、バター、ヨーグルト。つつましく並ぶ、二人分の朝食だった。


「いただきます」

「いただきます」


 声を重ねて、食べ始める。バターを塗った食パンを齧り、フォークで焦げっぽいベーコンを咥えた瞬間、志緒の瞳から涙があふれた。

 ぽろぽろと、頬を濡らして止まらない。


「……泣くほど、まずかった? ご、ごめん」

「ちがう」


 ぐす、ぐすと鼻を啜り、目元を拭いながら、ベーコンを味わって飲み込み、志緒が訂正する。


「めっちゃ、料理、下手っぽいのに」

「おい」

「わざわざ、作ってくれ、たの、嬉し、くて」

「……全くもう。美味しい?」

「めっちゃ焦げてる……」

「え、嘘!?」


 結局、最後は二人とも笑顔で――朝食を綺麗に食べ終えた。

 食後のコーヒーを飲みながら、甘那が切り出す。


「志緒。ちょっと真面目な話ね。親御さんに連絡して、迎えに来てもらいなさい」

「え……でも」

「もし虐待とかがあるなら帰すのも危ないけど、そういうことじゃなさそうだし。……悪い大人に、本当に襲われる前に、ね」


 志緒は黙り込む。ふと時計に目をやって気付いた。昨日聞いていた甘那の出勤時間が、既に過ぎている。


「甘那、仕事は!?」

「休んだ」

「え?」

「有給取った。体調不良って言って。だから、今日中に迎えに来られるようにすぐ連絡しなさい」

「……でも、」

「親御さんは、あなたに料理を作ってくれてた?」

「…………うん」

「食費を稼いで、食事を作って。それ、結構大変なことだからね。『だから感謝しろ』とは言わないけど――」


 『私の朝ごはんで泣くくらいなら、わかってるよね』と。甘那は言葉にはせずに考える。

 自分にはできなかった、家出という選択肢を取った少女に、尊敬の念を覚えながら。


「……わかった」

「ん。ここって家から遠い?」

「わかんない……十駅くらいだと思う」

「なら十分迎えに来られるかな。私はあっちにいるから、電話かけなさい」




 志緒の母親がタクシーで駆け付けたのは電話のすぐ後だった。

 招き入れられた母親は、志緒の姿を見た瞬間に涙を溢れさせ、隣に立つ甘那の頬を叩いた。


「アンタが! 志緒を!」

「や……やめてよ母さん! この人は助けてくれたんだよ!?」

「……申し訳ありません」


 頬を紅く染めて、甘那は深く頭を下げる。スーツ姿だ。殴られることを予想していた……覚悟していたのだと、志緒は今更ながら悟る。


「離れなさい志緒! 帰るわよ!」

「……一晩、お預かりしていました。怪我などはないと思います」

「待って、ちょっと待ってよ、あたし……」

「いいから!」


 ヒステリックに叫ぶ母親と、戸惑いながらも手を繋ぐ志緒がもつれあう。体力の差か、引っ張る母親よりもその場に残ろうとする志緒の方が勝ち、見つめ合う。


「あたしは甘那に助けてもらったの! お礼くらい言わせて……」

「いいの、志緒。……シオのお母さん。出る前にお願いがひとつあります」

「…………」

「この場で警察に電話してくれませんか」

「け、……警察?」


 警戒もあらわに甘那を睨んでいた母親も、志緒も、きょとんとする。

 その表情がそっくりに見えて、甘那は思わず笑いそうになり、ぐっと堪えて頭を下げた。


「お願いします。。私が自分から通報しては要らぬ疑いをかけるでしょうから、親御さんから」

「ちょ……ふざけんなよ!? あたしが勝手に来たんじゃん! 何もされてないし! 母さん、やめてよ!?」

「志緒。……君はまだ未成年なんだ。君の行動の責任は、まだ、大人が半分持ってる」

「何それ、意味わかんない! じゃあなんであたしなんか拾ったんだよ!」

「……それはね」


 ああ、いい子だな、と甘那は思う。本気で怒ってくれているのが伝わる。


(会社では毎日怒鳴られてるのに、なんで志緒だとこんなに嬉しいのかな……)


 自分の行動の理由を一晩考えていたから、答えはすでにわかっていた。小さく微笑んで、できるだけ誤解のないように伝える。頬が赤いのも、涙が伝ったのも、羞恥のせいにした。


「会社を、休みたかったんだ」

「……え?」

「辛かったんだよ。苦しかった。死ねば楽になるかもとすら思ってた。君を見かけたとき、面倒ごとには関わらないでおこうって一瞬思った。でも、こう思い返した。

「なに……それ……」

「で、その後こうも思ったんだよ。――どうせ仕事を辞めるなら、家出少女を助けて辞めるのも悪くない。前科はつくけど、胸は張れる、って。メインの理由はこっちかな」


 格好悪いね、と、ぽろぽろ溢れる涙はそのままに甘那は微笑む。


「……恥ずかしくない! ふざけんな! たすけ、て、くれたんだから、理由なんて……どうでもいい……あたし……甘那みたいな……かっこいい大人になりたい、よ……」


 その胸に志緒が飛び込んで、壁に押し付けるように抱き着く。声を重ねて、泣く。

 二人の姿を見ていた母親が、震える手で携帯電話を取り出し――




 

「……はぁあ……」


 結局。

 母親は警察には通報しなかった。

 硬い声で礼を言い、志緒の手を強く掴んで出て行った。流石に志緒もそれ以上は抵抗しなかった。

 一人になった甘那は床に座り込んで、深々と吐息する。


「志緒……」


 喉元まで出かかった感情を、ぐっと飲み込む。

 壁に手をついてのろのろと立ち上がり、リビングに戻る。


 シンクに残る二人分の食器。

 ベッドの上に畳まれたグレーのスウェット。

 部屋の隅に追いやられたノートパソコン。


 それらを眺めて椅子に座り、はは、と笑う。


「……このあと警察来たらどーしよ」


 冗談のように口にできたのは、それでもいいと思っている証拠ではあった。自分の思いが変わっていないことを確かめて、甘那は笑う。

 ふと、携帯電話を取り出した。

 数秒ためらってから、記憶を頼りに電話番号を押す。


「…………ああ、もしもし。久し振り。今、平気? ……うん。うん。ごめんねいきなり。いえ、その……ちゃんと別れ話、してなかったな、って。自然消滅じゃなくて……そう。ちゃんと伝えようと思って。……一緒にいられなくてごめん。好き、だったけど、お別れしましょう。…………え、いきなりすぎる? いやそうなんだけどさ。理由? あー……理由ね。新カノ? そんなん無理なの良く知ってるでしょ。いやぁ……諸事情で……」


 背中に触れる体温を思い出す。


「かっこいい大人にならないといけなくて、さ」

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