限界OL、家出少女にドーナツを
橙山 カカオ
第1話
夕日の眩しさに目を細め、アッシュグレーに染めたロングヘアにオレンジ色が映りこんでいた。
「……どうしよっかな」
呟いた声は目の前を歩く人々の足音にかき消されて、志緒自身にも、本当に口にしたか曖昧に感じられた。
ふと、背後に足音。億劫そうに振り返ると、百貨店の制服を着た女性が微笑んでいた。
「お客様、大丈夫ですか? ご気分が悪いようでしたら……」
「大丈夫です」
にこにこと微笑む女性の顔を見ていられず、志緒は弾かれるように立ち上がった。小さなリュックを背負いなおし、早足でその場を離れる。
人込みに流されるように歩く間にも、夕日はどんどん沈んでいく。ネットカフェでも探すかとポケットに伸びた志緒の手が止まった。
(……まあ、いっか)
スマホは先ほど電池が切れたばかりだった。モバイルバッテリーはリュックの中に入っているが、今は友人からのメッセージも、家族からの連絡も、見るつもりはない。
志緒はそれ以上考えることなく、夕日が眩しいから逆側へと歩いていった。
「これが、自由ってやつ?」
冗談めかした呟きを、長く伸びた影だけが聞いていた。
▼
苦手は敏感さに通じる。だから、夜の公園でベンチに座っている少女を見た時、咄嗟に目を逸らしてしまった。少女の灰色がかった髪が街灯に照らされて白く見えたのもあって、ヒールの歩調が乱れさえした。
「……?」
そのまま前を通り過ぎようとして……幽霊が持つにしては可愛らしいリュックが甘那の目に留まった。
歩みが緩む。ベンチを数歩通り過ぎ、街灯が照らす円から出て……止まる。
「…………」
鞄を握り締めて数秒。甘那はスーツの裾を翻して振り向き、ベンチに座る少女へと歩み寄った。その膝に触れないように注意しながら、パンツスーツを折り曲げてしゃがみこむ。
「きみ。大丈夫?」
「…………った」
「……うん?」
「おなか、へった」
そっか、という声が自覚なく甘那の口からこぼれた。
表情を見上げて観察しながら、ゆっくりを意識した声で問いかける。
「お名前は?」
「……」
「家出?」
「……そう」
「これ、食べる?」
甘那はかがみこんだまま鞄を開き、ビニール袋に包まれた紙袋を取り出す。ヒゲの紳士のマークが描かれたドーナツチェーンの袋をどこか自慢げに揺らして見せ、中から包み紙とドーナツを摘まんで差し出した。
少女は胡乱な表情でドーナツと甘那を見比べた後、ためらいがちに手を伸ばす。触れる前に、声が漏れた。
「……いいの?」
「どうぞ。隣、失礼します」
はい、と軽く指先へとドーナツを押し付けて、持たせる。ゆっくりと甘那の手が離れると、少女は両手でドーナツをしっかり掴みなおし、口元に運んだ。
甘那はベンチの隣に座り、自分も袋からドーナツを取り出して咥える。
「夜の公園でってのも乙だね」
「…………ありがと」
「どういたしまして。私は甘那。きみは何て呼べばいい?」
「……志緒」
「シオ、ね。了解」
しばしの無言。志緒と甘那は黙々とドーナツを味わう。夜の公園は人気がなく、時折ランニングをしている人が通りかかるくらいだ。
空腹だというのは本当だったのだろう、瞬く間にドーナツを食べ終えた志緒へ、甘那がウェットティッシュを差し出す。
「ごちそうさま」
「ん。行く当てはあるの? 家出少女」
「…………ないよ」
「家出だもんね」
甘那が苦笑して、またしばしの無言。風が木々を揺らす音が二人に降る。
「シオ」
「……なに?」
「クイズに正解したら、一晩泊めてあげる」
「…………は?」
「なぜ、私はあなたを助けようとしていると思う?」
「え、それが問題?」
「そう。制限時間は私の腰がベンチに負けるまで」
「……おばさんなの? カンナ」
「社会人は老いも若きも腰に爆弾を抱えてるものよ。あなたもあと十年すればわかるから覚悟しておきなさい」
「いやすぎる」
「答えは?」
「…………優しいから」
「不正解」
甘那が微笑む。その微笑みを横目に見て、志緒はわずかに不機嫌さを表して睨む。
「……暇人だから」
「不正解。出勤まであと九時間しかないよ」
「答えは?」
「優しい振りをして、あなたを襲おうとしている」
がおー、と手のひらを見せる仕草。
つまらなさそうに志緒が首を傾けた。
「意味わかんない」
「家出した子供に手を差し伸べる人は、とびきりの善人か、どうしようもない悪人だけ。で、確率は悪人の方が高い。次からは『ドーナツ食べる?』って聞かれたらさっさと逃げなさい」
「……何もなかったじゃん」
「次はこうは行かないから、家出なんてやめときな、ってこと」
ベンチから立ち上がり、甘那は笑う。ビジネス用の革鞄を志緒に押し付けて立ち上がらせた。
「うちにおいで。一晩くらいなら泊めてあげる。理由はわかる?」
「……私を襲おうとしている」
「はい、大正解」
バカみたい、と志緒もつられて小さく笑った。
▼
甘那の部屋は、公園から七分ほど歩いた距離にあるマンションの一室だ。一人暮らし用、若者向け、駅からは若干遠い。こじんまりとした建物の四階で、志緒はシャワーを浴びていた。
家出をして、見知らぬ人の部屋にいてもシャワーは心地よく感じるのだな、と他人事のように考える。
「シオー。服置いておくから使って。下着は持ってきてる?」
「ある」
風呂の外から甘那が声を掛ける。
何となく普段よりも時間をかけてシャワーを終えた志緒が脱衣所に出ると、折りたたまれたバスタオルと、グレーのスウェットの上下が用意されていた。隣には志緒のリュックサック。
バスタオルを取って水気を拭い、リュックサックを漁って下着を取り出した。スウェットに袖を通し、少し迷ったが勝手にドライヤーも借りて髪を乾かす。
リュックサックを掴んでリビングに出た志緒を、香ばしいコーヒーの香りが出迎えた。
「お疲れ。サイズ平気?」
「大丈夫」
「コーヒー飲むけど」
「……ミルク、ある?」
「牛乳で好きに薄めたまえ」
テーブルに向かい合って座り、カップを持つ。こぼさない程度に牛乳を入れたカフェオレは甘くなく、志緒は少し目をすがめた。
甘那はブラックのままコーヒーを啜り、しばし、リビングに沈黙が落ちる。
「で、シオ?」
「……」
「これからどうする感じ? 行く当てとかあるの?」
「ないけど」
「頼れる親戚とか……」
「いない」
「……左様で」
コーヒーより苦い現実を飲み込むために、甘那がコーヒーを一口。
「シオは」
言って、唇を閉じる。
呼ばれた志緒は、甘那の表情をじっと見ていた。
「……なんで、家出したの?」
「……甘那には関係なくない?」
「そーね。ただの興味本位。私は家出、したことないからさ」
「頭良さそうだもんね。カンナ」
部屋をぐるりと見回して、志緒が呟いた。
広くはない一人暮らしの部屋は良く整頓されていた。ただ一か所、ノートPCと何かの本や紙束が乱雑に積まれた場所を除いて。
「頭が良かったら、こんなに苦労してないんだけどねぇ……」
「苦労してるの?」
「してるしてる。毎日、超ハードで」
「ふーん……」
けらけらと笑う甘那の笑顔を、志緒がじっと見つめる。
その視線からコーヒーへと目をそらして、甘那は呟いた。
「本当に……もうちょっと頭、よかったらな……」
「どしたの?」
「何でもない。……で、どうして? 家出の理由聞かせてよ。あ、ほら。ドーナツとコーヒー代ね」
「後から言い出すのズルくない?」
「大人はズルいの。言ったでしょ」
けだるいやり取りに志緒の唇が綻ぶ。押しとどめていた言葉がこぼれた。
「……母さ……、母親が。泣くんだよね。あたしが何かすると、泣くの」
「……泣く、って、涙を流して?」
「そ」
カップを握り締めていた手を放して、志緒が『TT』のジェスチャー。
ぽつりぽつりと。
全く見知らぬ甘那が相手だからこそ、言葉が一滴ずつこぼれた。
「『どうしてそんなことするの』。『育て方を間違えた』。『何かできることがあったら言って』。『お願いだから』」
「あたしは別に、泣かせたいと思ってるわけじゃないんだけど。グレてるつもりもないし」
「やりたいことをやると、泣く。やりたくないことをやらないと、泣く。髪を染めた時も泣いたし。学校で喧嘩した時も泣いた。ピアス開けた時も」
「父親も仕事ばっかで帰ってこないし」
だから、
「――あたし、この家にいない方がいいかなー、って」
▼
静かに聞いていた甘那は、志緒の言葉が途切れてからしばらくして、一度二度頷く。
「そっか」
「そ」
「……辛かった?」
「んー……辛いっていうか……。……なんだろ。えー……ん……と」
志緒が言葉を探す。結局その脳内に相応しい言葉は転がっていなかったようで、ふてくされたようにコーヒーを啜った。
「得も言われぬ、ってやつだね」
「エモ……?」
「エモい、じゃなくて。えもいわれぬ。何とも言えない」
「それそれ」
「……それでも、さ」
「うん?」
「君のお母さんは、良い人だね」
「……はぁ?」
「子を想って泣ける親は、良い人だよ。……でもね。親がいい人であることと、君が辛いことは、両立するから」
「……別に辛くねーけど」
「例えばの話。だから、まあ……一晩ゆっくり考えてみなさいな。自分がどうしたいか。家出ってそのためにするんでしょ? 私はしたことないけど」
「うーわ、上から目線」
「大人ですから」
「はいはい。……ねえ」
「うん?」
「……………………ありがと」
「どういたしまして。さ、良い子は寝る時間ですよ」
▼
志緒がふと目を覚ますと、知らない枕に頭を預けていた。
知らない壁紙、知らない匂い。一瞬頭が混乱して、身体が震える。
「……、ああ」
家出したことを思い出し、力が抜ける。全く持って自分の趣味ではないグレーのスウェットは、色はともかく着心地は良く、袖を目の前に持って行って何となく眺めた。
「……あれ」
志緒の少しぼやけた視界に、光が見えた。
引き戸で仕切られたリビングから、灯りが漏れている。手元のスマホで時間を確かめると、深夜二時を回ったところ。
志緒はのそのそとベッドから起き上がり、眠い目を擦りながらリビングへ向かった。
「……ちっ……。……あー……くそ」
先ほどコーヒーを飲んだテーブルにノートパソコンを乗せて、甘那が何か作業をしていた。パジャマを着た背中が猫背に丸まっていて、手元には空っぽのコーヒーカップと乱雑に置かれた資料。
志緒には気付いていないようで、資料を見てはキーボードを叩いている。舌打ちしながら、不機嫌そうな表情で画面を睨む表情を、斜め後ろからしばらく見つめていた。
「……何してんの?」
その様子が、先ほど同じテーブルで説教をしてくれた女とは思えず――志緒は、一歩踏み出して控えめに声を掛けた。
びくりと跳ねるような反応で甘那が振り返る。
「あ……し、シオ。……起きちゃったの?」
「ん……喉乾いただけ。……仕事? それ」
「そう。お仕事。明日までに作らないといけなくてさ」
あはは、と笑って、カップを手に取る。口元にまで運んでようやく空だと気付いたのか、苦笑してテーブルに戻した。
志緒が言葉もなく眺めていると、甘那はまたノートパソコンに向き直る。
「コップは食器棚の二段目ね。冷蔵庫にミネラルウォーターもあるから、そっち飲んでもいいよ」
「ありがと。……ねえ、カンナ」
「うん?」
「それ、楽しいの?」
問いかけに、甘那の手が止まる。
止まって、ぴくりと動き、また止まった。
「……楽しい……よ。ちょっとハードだけど。望んで入った会社だし。仕事を任されるのは期待されてるってことだし。……まあ、ね? もうちょっと……頭が良かったらなって、思うけど……」
ノートパソコンの画面に向けて呟くように放たれる言葉を、志緒はほとんど聞いていなかった。声の震えだけで、感情は十分に伝わったから。椅子の後ろから、甘那の背中に抱き着く。
「……シオ?」
「カンナは良い人だね」
「いきなり、なにごと」
「思っただけ。……これ、邪魔?」
「うーん、すっごい邪魔」
「空気読め大人」
「邪魔だけど、ちょっと嬉しい」
「……あっ、そ。じゃあもう少しこうしててあげる」
再開したキーボードの音だけがリビングに響く。
リビングから明かりが消えたのは、朝の五時ごろだった。
▼
ぐう。
志緒の二度目の目覚めは、自分のお腹が鳴る音でもたらされた。
のろのろと身を起こしてリビングに出ると、何やらいい匂いがしていた。ベーコンが焼ける匂いが、お腹を鳴らせた原因らしい。
「おはよう、志緒。顔洗っておいで」
「ふぁい……」
甘那に促されて、勝手知ったる他人の家、洗面所に向かって身繕いする。
リビングに戻る頃には、テーブルに朝食が用意されていた。ところどころ焦げたベーコンと、涙目の目玉焼き。食パンが二枚に、バター、ヨーグルト。つつましく並ぶ、二人分の朝食だった。
「いただきます」
「いただきます」
声を重ねて、食べ始める。バターを塗った食パンを齧り、フォークで焦げっぽいベーコンを咥えた瞬間、志緒の瞳から涙があふれた。
ぽろぽろと、頬を濡らして止まらない。
「……泣くほど、まずかった? ご、ごめん」
「ちがう」
ぐす、ぐすと鼻を啜り、目元を拭いながら、ベーコンを味わって飲み込み、志緒が訂正する。
「めっちゃ、料理、下手っぽいのに」
「おい」
「わざわざ、作ってくれ、たの、嬉し、くて」
「……全くもう。美味しい?」
「めっちゃ焦げてる……」
「え、嘘!?」
結局、最後は二人とも笑顔で――朝食を綺麗に食べ終えた。
食後のコーヒーを飲みながら、甘那が切り出す。
「志緒。ちょっと真面目な話ね。親御さんに連絡して、迎えに来てもらいなさい」
「え……でも」
「もし虐待とかがあるなら帰すのも危ないけど、そういうことじゃなさそうだし。……悪い大人に、本当に襲われる前に、ね」
志緒は黙り込む。ふと時計に目をやって気付いた。昨日聞いていた甘那の出勤時間が、既に過ぎている。
「甘那、仕事は!?」
「休んだ」
「え?」
「有給取った。体調不良って言って。だから、今日中に迎えに来られるようにすぐ連絡しなさい」
「……でも、」
「親御さんは、あなたに料理を作ってくれてた?」
「…………うん」
「食費を稼いで、食事を作って。それ、結構大変なことだからね。『だから感謝しろ』とは言わないけど――」
『私の朝ごはんで泣くくらいなら、わかってるよね』と。甘那は言葉にはせずに考える。
自分にはできなかった、家出という選択肢を取った少女に、尊敬の念を覚えながら。
「……わかった」
「ん。ここって家から遠い?」
「わかんない……十駅くらいだと思う」
「なら十分迎えに来られるかな。私はあっちにいるから、電話かけなさい」
▼
志緒の母親がタクシーで駆け付けたのは電話のすぐ後だった。
招き入れられた母親は、志緒の姿を見た瞬間に涙を溢れさせ、隣に立つ甘那の頬を叩いた。
「アンタが! 志緒を!」
「や……やめてよ母さん! この人は助けてくれたんだよ!?」
「……申し訳ありません」
頬を紅く染めて、甘那は深く頭を下げる。スーツ姿だ。殴られることを予想していた……覚悟していたのだと、志緒は今更ながら悟る。
「離れなさい志緒! 帰るわよ!」
「……一晩、お預かりしていました。怪我などはないと思います」
「待って、ちょっと待ってよ、あたし……」
「いいから!」
ヒステリックに叫ぶ母親と、戸惑いながらも手を繋ぐ志緒がもつれあう。体力の差か、引っ張る母親よりもその場に残ろうとする志緒の方が勝ち、見つめ合う。
「あたしは甘那に助けてもらったの! お礼くらい言わせて……」
「いいの、志緒。……シオのお母さん。出る前にお願いがひとつあります」
「…………」
「この場で警察に電話してくれませんか」
「け、……警察?」
警戒もあらわに甘那を睨んでいた母親も、志緒も、きょとんとする。
その表情がそっくりに見えて、甘那は思わず笑いそうになり、ぐっと堪えて頭を下げた。
「お願いします。家出をかくまうのは、未成年者誘拐罪にあたります。私が自分から通報しては要らぬ疑いをかけるでしょうから、親御さんから」
「ちょ……ふざけんなよ!? あたしが勝手に来たんじゃん! 何もされてないし! 母さん、やめてよ!?」
「志緒。……君はまだ未成年なんだ。君の行動の責任は、まだ、大人が半分持ってる」
「何それ、意味わかんない! じゃあなんであたしなんか拾ったんだよ!」
「……それはね」
ああ、いい子だな、と甘那は思う。本気で怒ってくれているのが伝わる。
(会社では毎日怒鳴られてるのに、なんで志緒だとこんなに嬉しいのかな……)
自分の行動の理由を一晩考えていたから、答えはすでにわかっていた。小さく微笑んで、できるだけ誤解のないように伝える。頬が赤いのも、涙が伝ったのも、羞恥のせいにした。
「会社を、休みたかったんだ」
「……え?」
「辛かったんだよ。苦しかった。死ねば楽になるかもとすら思ってた。君を見かけたとき、面倒ごとには関わらないでおこうって一瞬思った。でも、こう思い返した。トラブルに巻き込まれれば、会社を休めるかもしれない」
「なに……それ……」
「で、その後こうも思ったんだよ。――どうせ仕事を辞めるなら、家出少女を助けて辞めるのも悪くない。前科はつくけど、胸は張れる、って。メインの理由はこっちかな」
格好悪いね、と、ぽろぽろ溢れる涙はそのままに甘那は微笑む。
「……恥ずかしくない! ふざけんな! たすけ、て、くれたんだから、理由なんて……どうでもいい……あたし……甘那みたいな……かっこいい大人になりたい、よ……」
その胸に志緒が飛び込んで、壁に押し付けるように抱き着く。声を重ねて、泣く。
二人の姿を見ていた母親が、震える手で携帯電話を取り出し――
▼
「……はぁあ……」
結局。
母親は警察には通報しなかった。
硬い声で礼を言い、志緒の手を強く掴んで出て行った。流石に志緒もそれ以上は抵抗しなかった。
一人になった甘那は床に座り込んで、深々と吐息する。
「志緒……」
喉元まで出かかった感情を、ぐっと飲み込む。
壁に手をついてのろのろと立ち上がり、リビングに戻る。
シンクに残る二人分の食器。
ベッドの上に畳まれたグレーのスウェット。
部屋の隅に追いやられたノートパソコン。
それらを眺めて椅子に座り、はは、と笑う。
「……このあと警察来たらどーしよ」
冗談のように口にできたのは、それでもいいと思っている証拠ではあった。自分の思いが変わっていないことを確かめて、甘那は笑う。
ふと、携帯電話を取り出した。
数秒ためらってから、記憶を頼りに電話番号を押す。
「…………ああ、もしもし。久し振り。今、平気? ……うん。うん。ごめんねいきなり。いえ、その……ちゃんと別れ話、してなかったな、って。自然消滅じゃなくて……そう。ちゃんと伝えようと思って。……一緒にいられなくてごめん。好き、だったけど、お別れしましょう。…………え、いきなりすぎる? いやそうなんだけどさ。理由? あー……理由ね。新カノ? そんなん無理なの良く知ってるでしょ。いやぁ……諸事情で……」
背中に触れる体温を思い出す。
「かっこいい大人にならないといけなくて、さ」
限界OL、家出少女にドーナツを 橙山 カカオ @chocola1828
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