第5話

 他愛のない喧嘩のような言葉の応酬を繰り広げながら、ベアトリスとクラウゼルはやっとのことで生徒会室に到着した。


(………ここはギラギラ眩しいヤンデレ攻略対象たちの溜まり場。一瞬でも気を抜くことなんて許されないわ。頑張るのよ、ベアトリス・ブラックウェル)


 ーーーギィっ、


 年月を重ねた、重みのある伝統的な生徒会室の扉がベアトリスが唾を飲み込むのと同時に開け放たれる。


「「「ようこそ、生徒会へ」」」


 3人の男性の声に導かれて、ベアトリスとクラウゼルは室内へと足を動かす。彼の歩みが警戒心マックスになっていることに違和感を持ちながらも、ベアトリスは微笑みを崩さない。


「お久しぶりですわね、皆さま」


 真っ赤な髪の騎士団長息子脳筋担当『鎖』のキース、藍色のロングヘアの魔法師団長の息子チャラ男担当『人形愛好家』のノア、ストレートな銀髪の宰相息子氷の貴公子担当『死体愛好家』のセオドリク。なんともまあ運営側のご都合主義の見える生徒会役員の図に、ベアトリスは密かに悪態をつく。


「ベアトリス!俺の筋肉が言っている!!俺と結婚してくれ!!」

「………婚約者さまを押し退けてわたくしに求婚するとは………、スカーレットさまにお便りを届けますわよ?」

「はははっ!それは手厳しい!!スカーレットは母上のお気に入りだからなっ!!」


 からからと笑いながら、なんの躊躇いもなく求婚してくる姿は、正直に言って軽い。


(スカーレットさまにさっさと捨てられればいいのに)


 太陽のような縦ロールに真っ赤な瞳を持つ美しい彼の婚約者を思い浮かべたベアトリスは、密かにキースに向けて毎日机の角で小指をぶつける呪いを願うのだった。


「ベアちゃん、クラウゼル殿下みたいな重ったい愛の男なんて捨てて、僕と一緒に遊ぼうよ!!」

「………うふふっ、エミーリエさまは、あなたがまた遊び呆けているって知ったら、どんなに泣きじゃくるでしょうね?あのお方の愛らしい若葉色の瞳が真っ赤に染まるのが目に浮かんでしまいますわ」

(あの小動物のような姿にぐすぐすと泣かれるのは、私も弱いのよね………、)


 ノアは婚約者のことをそれはそれは溺愛している。何故ならば、彼のお気に入りは彼の婚約者たるふわふわのミルクティーブラウンの髪に若葉色の瞳を持つ、1つ年下のエミーリエだからだ。

 逆に言えば、彼はエミーリエ以上のお気に入りの女性を見つけたら、簡単にエミーリエを捨ててしまうということだ。ちなみに、この男が乙女ゲームでは1番攻略が安易なキャラクターであり、1番気持ちの悪いキャラクターでもある。


「うぐっ、………べ、ベアちゃん………、」

「うふふふっ、生粋の女性好きのあなたが、そんな無様な真似を晒しませんわよね?わたくし、あなたがこのようなことをしていることを次に見たら、うっかりエミーリエさまにお話ししてしまいそうですわ。うふふふっ、」

「ーーーこの現状楽しんでない!?」

「あらまあ酷い」


 ベアトリスは、この男には鼻毛がお鼻からちょろんとのぞく呪いを願った。


「ベアトリス嬢、私との今後のお話はお考えいただけましたでしょうか」

「わたくし、あなたと永眠する気はございませんの。もしやりたいのでしたら、ジェニーさまをお誘いくださいな」


 物言わぬ者こそ美しいと考えるセオドリクの婚約者ジェニーは、真っ白な髪に真っ赤な瞳を持つ少女であり、ベアトリスの3つ年上で彼女のお姉さん的存在だ。いつも瓶底メガネをかけていて、美しい容姿が半減してしまっているが、物静かで本が大好きな彼女は合理主義者だ。


(ジェニーさまはセオドリクさまに心中を誘われても、“本の新刊が明日出るから読むまで死ねません”って言いそうだわ。セオドリクさまとは絶対に一緒に死んでくれないでしょうね)

「………ジェニーは死んでくれませんよ」

「そうですわね」


 にこっと笑うと、セオドリクは引き攣った笑みを浮かべて引き下がる。


「これ以上はクラウゼル殿下の逆鱗に触れてしまいそうですし、ね」

「………もう触れている。貴様ら、今日は放課後に付き合えよ?」


 殺気をぼたぼたと垂れ流して甘やかな笑みを浮かべ続ける彼は、正直に言って不機嫌を通り越している。けれど、ベアトリスは何事もなかったかのように微笑みながら生徒会室のソファーに腰掛ける。


(“こんな殺気、痛くも痒くもない”と言っていた頃が懐かしいわ。いつの間にか、王太子殿下の殺気って背筋に悪寒が走るくらいに恐ろしくなっていたのよね………、)


 机の中央に置かれているティーポットからカップにお茶を注いで、ベアトリスは周囲の男たちがにこにこと笑いながら火花を散らしているのを横目に、我関せずと紅茶をを飲み、マドレーヌを口の中に放り込む。甘くしっとりとしたバターの味が口いっぱいに広がって、幸せな気分になる。


(あぁ、今日は不幸日ね)


 ベアトリスは今にも魔法を展開しそうな男たちに遠い目を向けながら、チョコレート味のマドレーヌに手を伸ばすのだった。


 時間として1時間、紅茶にしてポット1杯分、マドレーヌにして10個分が経った頃、やっと男たちの冷戦に決着がついた。ベアトリスから見て、優勝はクラウゼル、準優勝はセオドリク、3位はノア、4位はキースだ。

 予測通りの結果は見ていてとてもつまらない。

 クラウゼルは甘やかな笑みを浮かべて、ベアトリスの隣に座ってきた。そして、ベアトリスが持っている食べかけのオレンジピール入りのマドレーヌをパクッと食べた。


「………お行儀が悪いわ」


 最初こそ顔が赤くなってあたふたと慌てた。けれど、ベアトリスがお菓子を食べる度に毎度やられてしまえば、いやでも慣れてしまう。彼はつまらなそうに少しだけ眉を下げると、何事もなかったかのように足を組み替えた。


「それじゃあ、役員決めと行こうか」


 クラウゼルの甘やかでいながら冷徹さを含んだ声をかけると、すっと空気が変化した。彼は決して大きな声を上げていなかった。けれど、従わざるを得ない。そんな声だった。


 時間にしてわずか数分、役員はあっという間に決まることとなった。

 生徒会長はクラウゼル、副会長はセオドリク、会計はノア、書記はキース、庶務はベアトリスとなった。

 ベアトリスは、乙女ゲームと違う采配になるように口を挟んだ。けれど、強制力なるものが働いたのか否か、采配は乙女ゲームとベアトリスの席以外が全て一緒になった。ベアトリスの席に座っていたのはもちろん、ヒロインのマリアだ。


「それでは解散にしよう」


 空になったティーポットとティーカップ、そしてケーキスタンドをしまったベアトリスを見たクラウゼルが声を上げ、生徒会初日は終了した。


 1番乗りに帰ったのはもちろんベアトリスだ。

 ベアトリスはルンルンとした足取りで、ほとんど忘れかけだったヒロインの元に足早で向かうのだった。


▫︎◇▫︎


「………なんで、なんでなんでなんでなんで!ヒロインの私がこんなところに閉じ込められてるのよおおおおぉぉぉぉ!!」

「それはあなたが鬼の形相で走ってきたからよ。お馬鹿ちゃん」


 待ちくたびれたヒロインが何度目かわからない絶叫を上げた時、ベアトリスはちょうど入室した。


(5時間以上も反省の時間をあげたはずなのに、なんで答えに辿り着けてないわけ?)


 ベアトリスは本気で悩んだけれど、答えはわからない。だからこそ、彼女にまっすぐと視線を向けて、持ち前の壊滅的な会話能力をフル活用して彼女に問いかける。


「東京都立葉桜高校1年、楠木くすのき梨瑞りず、15歳。生粋のゲーオタ。あなたの名前は?」

「え、えええぇぇぇぇえええええ!?」


 必死に頑張った結果の自己紹介だったのにも関わらず、返ってきたのは絶叫だった。どうやら肉食系ヒロインマリアは絶叫が大好きらしい。ベアトリスはじっと彼女の返事を待つ。


「えっと、………大学浪人中に死亡した相澤あいざわ真里まりです」

「ろう、にん………、」

(え、大学浪人って本当にする人いるの………?)


 前世適当な大学に進んで会社員になることを目指していた楠木梨瑞ことベアトリスにとっては、彼女の言葉が晴天の霹靂だった。

 あぁ、彼女は夢のために必死で努力できる人間なのかとちょっとだけ見直した。


「し、仕方がないでしょ!?『虹の王子さまを落としたい!!』が面白すぎたのが悪いのよ!!」

(あ、そう。だから?)


 一瞬だけきらきらとした視線をマリアへと向けていたベアトリスだったが、次の瞬間には冷めた目を彼女へと向けることになった。

 一瞬だけでも抱いた尊敬の念を返せと言いたくなりながらも、ベアトリスは彼女も自分と同じオタクであると判断して言葉を紡ぐ。


「で?あなたは何をしようとしていたわけ?言葉と行動によっては、牢にブチ込むわよ?」

「えっ!なんか唐突に扱いが雑!?」


 勉強とゲームの両立がモットーだったベアトリスのマリアへの態度がぞんざいになってしまったのは致し方ない。ゲームオタクとして1日3時間のゲーム時間を確保しながら受験勉強に取り組み、県立高校の中でもトップの高校に現役合格を果たしたベアトリスにとって、ゲームに時間を奪われて受験に落ちたマリアは取るに足らない存在へとなり落ちた。


「うぅー!クラウゼルさまルートの出会い編をクリアしようとしてたのよっ!!クラウゼルさまの美しい顔と“久遠くおんはやて”さまの麗しいボイスで好きって言われたくて頑張ってるのに、あなたは何度も邪魔するわけ!?」


 冷たい目を向けていたベアトリスに向けて、マリアが唐突に叫んできた。

 ぐわっと見開いた瞳は薄桃色で星屑が散っていて大変愛らしい………、はずだ。けれど、マリアの必死すぎる鬼の形相が全てを無駄にしていた。可愛らしいボブカットの焦茶色の髪に絶妙なバランスで配置されている愛らしく見える顔が、どう見ても般若にしか見えない。


 ベアトリスは若干引きながらも、怪訝な声を上げた。


「え、邪魔………?私、1回も邪魔なんてしてないわよ。そりゃあヤンデレ特有のエゲツないルートは全部潰させてもらったけれど、邪魔なんてしていないじゃない。あなただってこのゲームでバッドエンドとかノーマルエンドに行って死にたくないでしょう?」

(私、ヒロインがクリアしたことによって殺されたくないし)

「いやっ、それが出会いシーン丸潰しなんだって!!」

「へっ!?」


 訴えかけるように拳をぶんぶん上下に振ったマリアを見つめながら、ベアトリスはキョトンとした。そういえば、ベアトリスの前世楠木梨瑞はゲーオタであったが、それ故にやりたいゲームがたくさんあって、2周目の周回以降は必ず全部プロローグをスキップしていた気もしなくもない。

 いや、全部スキップしていた。

 認めよう。ベアトリスは、このゲームのプロローグを全くもって覚えていない。


「えっと………、クラウゼルルートのプロローグって学園で転びそうになったところを助けられるっていうやつよね?」

「いいえ、10歳の時よ。

 勉強に張り合ってくれる人間がいなくてつまらなくて、彼が勉強をサボって城下町で遊んでいる時が出会い。看板が落ちてきてマリアが怪我をしそうになるけど、お忍びだったクラウゼルが咄嗟に風魔法で加速してマリアを庇って怪我をするっていうのが流れ。

 そして、その時にマリアは治癒属性の魔力に目覚めるのっ!!

 クラウゼルが自分を庇って怪我をして、それにびっくりしたマリアが泣きながら『ごめんなさいっ、ごめんなさいっ!綺麗な手に怪我を負わせてしまってっ!!』って叫んだ瞬間にきらきらした金色の粒子が周囲に舞ってクラウゼルさまのお怪我が治るっていうのがこれまた綺麗なイラストでキュンキュンしてっ、」

「ちょっと待ってっ!!じゃあ、私はマリアとクラウゼルの出会い頭をぶっ潰してたわけ!?」


「だからそう言っているじゃない!!」

(そ、そんなっ………!!)


 ベアトリスは膝から崩れ落ちて、ずーんとうなだれた。モブオとの輝かしいウエディング姿だまた1段と遠のいた気がする。


「ねえ、………もしかしなくとも、あなたってクラウゼル推しじゃ、ない………?」


 呆然とした顔と声で問いかけてきたマリアに、ベアトリスは激昂する。今世でこんなに声を張り上げたのは初めてかもしれない。

 両親はベアトリスにとても甘かったし、周囲の大人たち、たとえば攻略対象の両親たちはいつも真摯にベアトリスと向き合い、正論であれば取り入れてくれた。

 よって、こんなふうに叫んで訴えかけたことなどなかった。


「当たり前じゃないっ!!なんであんなきらっきらしい猫被り男を好きにならないといけないわけっ!?私は、表裏のない平々凡々な地味顔男が好みなのよっ!!ちなみに、前世の最推しは『教えてくんA』よ!!」


 ぼや~っとした顔ににへにへと穏やかな笑みを浮かべる知的な眼鏡のサポートキャラクター。ベアトリスの超絶好みの顔立ちで、彼が出てくるところを全て見るためだけにあのきらきらしたクズばっかりが出てくる『虹の王子さまを落としたい!!』を周回しまくったのはいい思い出だ。

 そして、全ルートを受験勉強中に徹夜でバッド・ノーマル・ハッピーでクリアしたのも、とってもいい思い出である。

 他にも、全ルートクリア後に見事なまでに体調不良に陥りかけ、勉強以外に取り組む時間がなくなってゲーオタなのにも関わらず、ゲームをする時間がなくなったという思い出もある。けれど、それは地獄な思い出なため、今は封印することにした。


「なっ!あの地味顔で印象に残らないと有名な『教えてくんA』が最押しだなんてっ!!………ーーー考えらんない!!」

「勝手に言っていればいいわっ!!推しはそれぞれの心の叫び!!それを否定するなんて、オタク内では下の下なんだから!!他のオタクの推しを貶すなかれ!!」


 梨瑞流オタクルール①、

 他のオタクの推しを貶すなかれ。


 ベアトリスの前世楠木梨瑞は、周囲とは違った好みの持ち主だった。

 幼少の頃からのさまざまな芸術分野における習い事によって美的感覚は狂っていなかった。故に、綺麗・汚い、美しい・美しくないは分かったが好みが少し、そう。少しだけ他の人と違っていたのだ。

 故に、ゲーオタ同士のネット通話にて、意見が噛み合わない事が多々存在していた。楠木梨瑞はその度に他のオタクから諭されることが多く、よって、自分自身でルームを開いてオタクトークをしていたのをいいことに『梨瑞流オタクルール』を設立した。


 後に、このオタクルールが楠木梨瑞が使用していたトークアプリにて正式ルールとして採用されることとなった。


 だが、その時点でゲーオタ故に下校中にゲームをしていて、信号無視でトラックが突っ込んできたことに気が付かず呆気なく死んでしまった楠木梨瑞は死んでしまっていて、自分ルールが世界中で採用されて広まっていたことは、全くもって知らないのだった。

 ベアトリスは、モノを生み出す天才であり、そのことを自身では気がついていない前世からの生粋の残念少女なのだった。


「あぐっ、ご、ごめんなさい!!そんなつもりはなくて………そのー、私には『教えてくんA』の何がいいのかが分からなくて………、」


 困ったようにあたふたと拳を上下に振るマリアに、ベアトリスはフッと悲しげな表情をする。


「………私がイケメン嫌いなだけだから、気にしないで」

(イケメンなんて、全部全部いなくなればいいのよ!!イケメン断絶!!優男断絶!!キザなクソボケも断絶だー!!)


 心の中でハンカチを噛み締めて破かんばかりに力一杯ひっぱたベアトリスは、少しだけ息を荒くしながら真っ直ぐとマリアに視線を向ける。


「………悪役令嬢ベアトリスみたいな美女が言っても説得力皆無よ」

「知ってるわ。私、絶世の美少女だもの」

「いやっ、そこまで言ってないから。というか、美少女枠なら私の方が上だから。あなたは美女枠だから」

「はあ?」


 ドスの効いた声を出しながら、ベアトリスはマリアを睨めあげる。

 父親譲りのキツめながらに美しい美術品のような顔立ちに髪と瞳の色彩。

 母親譲りの豊富でふわふわとした髪質に出ているところはしっかりと出ていて締まるところは折れそうなほどに細い身体。

 恵まれた要素をこれでもかと受け継いだベアトリスは、容姿に絶対的な自信を持っていた。それに加え、美しく保つための努力も欠かしていなかった。

 例えば髪用のシャンプーやコンディショナー、香油、身体用のボディーソープや洗顔料、香油、保湿液は前世の知識をフル活用して髪はうるさら、肌はもちもちすべすべになるようにし、ふわっと香る自然のお花を意識した物を作り上げていた。

 他にも、体型維持のために剣術や体術ついでの筋トレやストレッチ、ヨガもやっている。

 ついでに言うと、栄養サプリメントも魔法で自作して体の栄養バランスをも完璧に調節している状態だ。

 抜かりはない。


(全てはモブオに好かれるため。手抜きなんてできないんだからっ!!)


 モブオのためにも負けられないベアトリスはきっと鋭い瞳をさらに鋭くして、マリアを睨みつける。


「私はどう見ても美少女よ!!」

「………………そんな巨乳美少女がどこにいるうううぅぅぅ!!分けろやおらああああぁぁぁ!!」


 わっと両手を広げて胸を掴みかからんと突進してくるマリアをひらりとかわし、ベアトリスは右足を前に出す。


 ーーーべっしゃーんっ、


(うわっ、なんで受け身を取らないわけ?)


 見事にベアトリスの足に引っかかったマリアは、本日2度目の顔面床キスを果たした。今にも泣きそうな彼女は、けれどそれでもベアトリスを睨みつける。


「『ベアー商会』作の絶対おっきくなるって有名なサプリメントを摂ってなおおっきくならない私に、その無駄にでっかい胸を分けてもいいでしょうッ!?」

「だーめ。これはモブオに綺麗って思われるための完璧なプロポーションのために育ててるんだから、あげないわ。というか、普通に考えなさいよ。物理的にあげられないわ」


 肩をすくめて苦笑をすると、マリアはわんわん泣き出した。情緒が不安定すぎて前世3つ以上歳上だったとは到底考えられない有り様だ。


「ねえ、あなたはクラウゼル推しなのよね?」

「えぇ、ぐすっ、そうよ?」

「じゃあ、掻っ攫ってよ。私、協力するから」

「へ?」


 困惑して床に座り込んだままぱちぱちと涙に濡れた瞳を開閉するマリアに、ベアトリスは聖母のような優しい笑みを浮かべる。


「私、クラウゼルが好きじゃないの」


 ーーーずきっ、


「それどころか、き、嫌いなの」


 ーーーずきずきっ、


「だからね、掻っ攫ってよ」


 ーーーずきずきずきっ、


「お願いだからさ」


 ーーーずきずきずきずきっ、


「私の前から、彼を奪って」

(ーーーいたい。………どうして、こんなに胸が痛むの?)


 歪んだ笑みは、彼女にどう写ったのだろうか。

 ベアトリスは彼女に手を貸して立ち上がらせた後、くるりと踵を返して学園に借りた馬で家まで走るのだった。

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