【短編】部分的記憶除去システム(Remove Part of Memory System)

結城 刹那

第1話

「では、これから部分的記憶除去に入ります。辛い治療になりますが頑張ってください」


 私は目の前にいる少年の手をしっかり握りしめる。今の彼にとって、私という存在が命綱となっていることだろう。それを示すかのように、握った少年の手はとても冷たく震えていた。


 両腕、両足、腹部を椅子に固定し、目にはVRゴーグルのような装置を取り付けている。装置の先端はさらに別の装置につながっている。別の装置は少年を取り囲むように設置されており、少年はまるで機体の操縦室にいるかのようだった。


 私は少年の手を握りしめながらもう一方の手を使って、装置に搭載されたパネルを操作する。この操縦室での操縦士は少年ではなく、私なのだ。

 パネルを操作し、ある女性の写真を少年の見ている視界へと映し出す。


「この女性は誰だか分かりますか?」

「僕のママです」


 少年が答えを口にするのと同時にさらにパネルを操作し、右腕を固定した装置から薬物を彼に注入する。しばらくして、少年の呼吸音が聞こえるようになった。鼻呼吸は口呼吸へと変わり、上半身が動くほど深く呼吸をしている。見るからにとても辛そうだった。


 無理もない。先ほど投入した薬物は扁桃体を活性化させ、彼の恐怖と不安を増幅させたのだ。呼吸を荒げ、今にも叫び出しそうな彼を見ているのは私にとっても辛いものだ。でも、彼が頑張っているのに、私が我慢をしないわけにはいかない。


 全ては『彼の母親について、一切の記憶を失くす』ために。

 少年の心拍数は危険値である120を超えた。そのタイミングで装置は自動的に動作を停止する。ゴーグルに映し出された画面が消え、少年は一時的にリラックスモードとなる。暴れ出さないように完全に安静になるまでは椅子に固定し、身動きを取れなくする。


「お疲れ様。気分はどう?」


 しばらく安静にし、心拍数が正常値に戻り、呼吸も自然になったところで彼を解放した。ゴーグルを取ると、少年はまるで生気を失ったかのように目をうっとりとさせていた。元々、母親の顔を見ただけでも心拍数は上がっていた。その上でさらに不安にさせるように促したのだ。全身に疲労が蓄積されるのも当たり前の話だ。


「今日はベッドでしばらく安静にしててね。まだ先は長い。でも、いつか楽になる時が来るから。それまではお姉さんがついていてあげるから安心して」

「ありがとう。ねえ、先生。僕はママのことを忘れてしまうんだよね?」


 少年の目はとても儚げだった。体に痣ができるほど、暴力を振るわれたにも関わらず、彼はまだ自分の母に愛情を抱いているのだろう。理由もなく好意を抱いてしまう。良くも悪くも、それが親というものなのだ。


 私は少年の両肩に手を置き、諭すようにそっと口にした。


「ええ。忘れてしまうわ。でも、それが君にとって『幸せの道』だから。今は我慢してね」


 ****


 部分的記憶除去。

 現在試験的に勧められている精神療法の一つだ。

 危険を伴う療法のため、治療の際は入念な審査や申請が必要となってくる。


 解離性健忘。心的外傷やストレスによって引き起こされる記憶障害を逆手にとり、対象に対して強い恐怖や不安を与えることで忘れさせるというものだ。ここから分かるとおり、患者に長期間の重圧的ストレスを与えての療法となるため、下手をすれば患者を壊してしまう恐れがある。


 だからこそ、治療は慎重に進めていかなければいけないのだ。


「はあ〜」


 私はソファーに腰をかけると、何も考えることなくただただ天井の照明を見ていた。耳から聞こえてくるヒーリングミュージックや鼻腔をくすぐるアロマの香りの心地よさに浸りながらゆっくりとリラックスする。


 危険なのは患者だけではない。我々、精神科医にとっても苦痛を伴う療法なのだ。

 感情伝染。心理学における用語の一つで、文字通り、感情は人から人へと伝染する。特にネガティブな感情はポジティブな感情よりも伝染しやすい。


 精神的な障害を抱えた患者を相手にしている私たちもまた、精神的な障害を抱えやすい。その証拠に精神科医の自殺率は他の職業に比べて非常に高い。


「随分とお疲れのようだな」


 ふと視界に男の人の顔が入る。彼は私に向けて優しく微笑んでいた。しかし、私にとっては不意に男の人の笑みが割り入ってくるのは恐怖でしかなく、隣にあった枕を掴み、彼へと投げつけた。


「イッタ〜!」


 彼は手で顔面を抑え、その場に硬直する。私は彼の方を向きながら持っていた枕を両手で抱いていた。そこで、彼が誰であるかに気がついた。


「恭ちゃん、ごめん」


 慌てて彼に謝罪する。

 君塚 恭司(きみづか きょうじ)。大学時代の先輩であり、今は恋人として同棲をしている。彼もまた心理学を学んでいるが、私と違って警察官として、その知識を役立てている。


「大丈夫、大丈夫。でもまさか、カノジョにぶたれる日が来るとはな」

「本当にごめんよ。急に現れたからびっくりして手が出ちゃった。ご飯の用意するからちょっと待っててね」

「いいよ、いいよ。様子を見る限り、疲れが溜まっているみたいだからゆっくり休んでて」


 恭ちゃんはそういうとスーツをハンガーにかけ、キッチンの方へと歩いていった。

 私はお言葉に甘えて、もうしばらく休むことにした。申し訳程度にソファーから立ち上がり、恭ちゃんの食べる席の向かい側へと腰をかける。

 

「やっぱり、精神科医の仕事は大変そうだね」

「うん。それに、今は『部分的記憶除去装置』の試作療法をしているから、それがメンタルに結構くるんだよね」

「渚の場合は、被害にあった患者に対して、苦しい思いをさせているからね。僕よりも辛そうだ」


 恭ちゃんは現在、警視庁刑事部再犯防止課に所属している。そこでも、私たちと同じく『部分的記憶除去装置』を使っている。釈放となった犯罪者に対して、事件の一切の記憶をなくさせるらしい。それが再犯防止につながると予想しているようだが、色々と問題点も多いみたいだ。


「うん。みんなとても辛そうにしている。患者の心を和らげるために精神科医になったのに、和らげる方法が苦痛を伴うっていうのは酷な話だよ」

「違いない。でも、短期的な苦痛で、その後の長期的な安寧につながるのであれば、使わない手はないよ」

「理解はできている。ただ、納得ができないだけ」


 これは私自身の感情の問題だ。

 頭では理解しているが、心は理解を拒んでいるのだ。

 感情的問題はゆっくりと時間をかけるしかない。精神科医として、そのことだけは常に肝に銘じている。


「俺も一緒さ。だからといって、状況が変わるわけではないから二人で一緒に受け入れていこう」


 私は恭ちゃんの言葉に深く頷いた。

 同じ悩みを持っている人が近くにいる。それだけで私の心は救われた。

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