第2話
「この画像の女性は誰だかわかる?」
ゴーグル型の装置をつけた少年、朔(さく)くんに向けて、私はそう問いかけた。
「わかりません」
朔くんの答えを聞きつつ、私は現在の彼の心拍数を覗いた。
数値は正常値よりも高い値を示していた。この女性に対して、危機感を持っている様子だ。
「次は別の写真を見せるわね」
私はそう言うと、別の女性の写真を朔くんに見せる。最初に見せた女性と髪の長さや年齢は同一であるが、彼の知らない赤の他人の写真である。
「彼女について見覚えはある」
「いいえ、ありません」
心拍数を覗く。
数値は正常値へと戻っていた。この女性に対しては、危機感を持っていない。
それから数枚、最初の女性と部分的に一致している箇所があるが、彼の知らない赤の他人の写真を見せる。いずれの場合も、心拍数は上がることがなかった。
対象の記憶除去。対象外への視覚的安全性が証明できた。
部分的記憶除去はこれにて終了。今日を持って少年の治療は完了した。
「お疲れ様。一ヶ月間、よく頑張ったわね。今日で治療は終了よ」
ゴーグル型の装置を外し、部屋の照明の眩しさで目を擦る朔くんに向けて、私は優しく言葉をかけた。彼は私の表情を見て微笑む。一ヶ月前はまるで生気を失ったかのようにやつれた表情をしていたのだが、今はすっかり元気になっている。
「これから君の行く施設についての案内があるわ。一階の受付にこの書類を持っていって案内を受けてね」
私は治療終了の旨が施された用紙を朔くんへと渡した。彼はそれを受け取ると、最後に私の顔を見る。瞳は物憂げな様子を浮かべていた。
「お姉さん、ありがとう。その……もし、何かあったら、またここに来てもいい?」
「ええ、もちろん。いつでも相談に乗るわ」
「ありがとう!」
朔くんの表情がパッと晴れやかになる。どうやら物憂げな様子だったのは、もう私に会えないと思ったかららしい。彼にとても愛されていることに何だかとても嬉しく感じた。彼に対して苦痛を強いてきたのだから、きっと良く思われていないと思っていたのだ。
「先生、ありがとう。じゃあ、またね!」
彼は診察室を出るまで私に顔を向けながら、手を振っていた。私もまた彼が部屋を出るまでの間は、彼の顔をしっかり見て手を振りかえした。
生きることを諦めていた患者が、元気な姿になって退院する。どれだけ辛いことがあっても、その瞬間を目の当たりにできると心が救われる。
「さてと、もう一仕事頑張りますか!」
ひと段落ついて天井に向けて大きく伸びをすると次の患者の診察に入った。
****
油の弾けた心地いい音に、ソースの芳ばしい香りが鼻腔をくすぐる。
お腹が減っていたせいか、口の中では唾液が多く分泌されていた。今日はアロマやヒーリングミュージックの力がなくても私の気分は上々だった。
このところ二日に一回の頻度で朔くんは私の元を訪ねに来てくれる。
学校にも再び登校をし始めたようで、前と同じいつもの日常を送っているみたいだ。彼は私の元に来ると昨日今日あった出来事を聞かせてくれた。
身振り手振りを使って楽しく話す朔くんの話を私は微笑ましく聞いていた。
すっかり元気を取り戻した彼。もちろんそれも嬉しいことだが、今こんなにも気分が上がっているのは、また別のお話だ。
朔くんは今日もやってきてお話を聞かせてくれた。
ただ、お話をする中で奇妙な質問を私にしたのだ。
『先生の誕生日はいつ? 今欲しいものってあったりする?』
その言葉を聞いただけで、朔くんが私に何をしてくれようとしているのかは予想がつく。
まだ小学生なのだから、誤魔化すのは難しいのだろう。逆に、私にとってはその下手な誤魔化しがとても愛おしく感じた。
嬉しさのあまりか、私はほんの少しばかり意地悪なプレゼントを求めた。金銭的には小学生でも買えるのだが、遠くにあるお店でしか買えないので、行くのに苦労するのが難点な品物だ。
「ただいまー」
「お帰りなさい! 今ご飯作っているから、ちょっと待っててね」
「ああ。それにしても、今日はなんだかとても気分がいいみたいだな」
「やっぱり、そう見えるかな? ふふっ、食事の時に話すから待っててね」
私は自慢げに言いながら、料理を皿に盛りつける。恭ちゃんは私に対して、鼻息を漏らして笑みを浮かべた。彼がスーツを脱いで着替えている間に、盛りつけたお皿をテーブルへと運び、コップにお茶を注いだ。
「それで、何があったんだ?」
二人で『いただきます』をして、箸を手に持つと早々にして、恭ちゃんが私に会話を促した。どうやら恭ちゃんは、かなりの欲しがり屋さんのようだ。
「患者だった男の子についての話なんだけど、数ヶ月前に部分的記憶除去の治療が完了して、今は元気に学校に通っているんだ。その男の子がさ、登校前に定期検診で私のとこにやってきてね。その際に『誕生日』について聞いてきたの。それで私の誕生日が一週間後のことを伝えたら、今度は『欲しいもの』について聞いてきたわけ。これって、私に誕生日プレゼントをくれるってことだよね?」
「聞いた限りだと、そうだろうな」
「だよね。それがすごく嬉しくて。担当の患者さんが私にお礼をしてくれるって言う経験がほとんどなかったから。それにまだ小学生の少年が、だよ。朔くん、きっと将来はいい旦那さんになりそうだね」
私がそう言うと、恭ちゃんの箸の動きが止まった。日頃、患者さんの表情や仕草を確認している私は、恭ちゃんが示す微妙な心情の変化を感じ取った。
「恭ちゃん?」
「今、名前なんて言った?」
「えっ? 患者さんの名前だよね。相葉 朔(あいば さく)くんだよ。それがどうかしたの?」
恭ちゃんは私から視線を逸らすと箸を静かに置いた。
まだ料理は食べ終わっていない。一体なぜ、箸を置いたのだろうか。
「渚、落ち着いて聞いてくれ。珍しい名前だから。おそらく今話してくれている少年のことだと思う。相葉 朔くんなんだけど。今日の夕方、歩道橋で足を滑らせて転倒し、今意識不明の重体なんだ」
「え……」
私は恭ちゃんからの報告を受けると血の気が引くような感覚に襲われた。
全身の力が抜けるような感覚に陥り、手に持っていた箸は地面へと滑り落ちていった。
カランカランと甲高い音が部屋中に響き渡った。
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