第14話 それぞれの道

【それぞれの道】


 気づくと、見内は廊下に戻ってきていた。

 後ろを向くと、教室だった。どうやら教室の引き戸から出てきたらしい。すると、同じ教室の違う引き戸が開き、そこから西が出てきた。

「あっ、西さん!」

「……見内さん?」

 見内は西のところへ駆けつけ、少し安心する。

「よかったです。合流できて」

「そうですね。みなさんは?」

 珍しく微笑んだなと思いながら、見内は首を横に振る。

「まだ合流できてないです……。まだあの中か、違うところに出たかもしれません」

「そうですか」

 西は辺りを見回す。

「ここは何階なんでしょうか? 見たところあの空間からは出たと思いますが」

 二人は廊下の両端を見た。片方は壁で、近い方は教室だった。

「美術室……」

 かろうじて読めるプレートには<美術室>と書かれていた。

「音楽室でも図工室でもないですね。順に降りていくと屋上から三階目が渡り廊下ですから、それよりも下の階でしょうね」

 西が言い、見内はグラウンド側の窓の外を見る。先程よりも地面が近くに見え、木の葉が視界を遮って、グラウンドを快適に見渡すことはできなくなっていた。

「二階……でしょうか?」

「そう思いますね」

 見内は近くの階段を見に行く。上への階段は繋がっていることがその場からでも分かった。

 近づいて見てみると、下への折り返し階段は完全に崩れていた。上階からの階段と下階からの階段、その間にある踊り場までも崩れてなくなっている。

「崩れてますか?」

「はい……」

 西も後から着いてきて、一緒に下を覗く。

「予想的中です」

 下の階から更に下の階へ続く階段はなく、階段の残骸が平たいコンクリートの上で山になっていた。

「……?」

 すると、下の階から物音が聞えてきた。耳を澄ますと、足音のような瓦礫を踏む音が複数聞こえてきた。

 死神ちゃんたちかな? と見内は思った。

 しばらくして、見下ろしていたスペースにその正体が現れた。

 その姿を見て、見内は息を呑む。思わず両手で口元を覆った。

 そこには、一口で言うならば、化け物がいた。例えるなら、トカゲの手足を極端に短くして体と目玉を巨大化し、鱗を剥いだような姿だった。

 そんな巨体が、まるで人の足音かのような小さな音でここまでやってきたのだ。

 そいつは階段のスペースに頭を出し、引っ込めた。

「な、なんですか……あれ……」

 見内の顔からは既に血の気が引いて青ざめていた。見内は西を見る。対して西は無表情をキープしていた。まるでなんてことないように、ただ下を見下ろしている。

「ねぇ、見内さん」

 そして、彼女は口を開いた。

「あそこにさ、行ってみたいと思わない?」

「……へ? あそこってどこですか……」

 西は下階を指さす。

「え……? 何を言って……」

 次の瞬間、見内は背中に強い衝撃を覚えた。

「え?」

 見内は空中にいた。二階の床から足が離れ、階段があった空間に押し出されていた。

 空中で見内は振り返った。そこには腕を前に突き出した西の姿が見えた。彼女は――大きく口角を吊り上げて、笑っていた。

「ヒヒヒッ」


 扉を開けた先、死神ちゃんはどこか暗い空間に戻ってきていた。

 周りを見渡すも、みんなの姿はない。見渡すといっても、死神ちゃんの後方は引き戸で、左右はコンクリートの壁がある。正面は、右の壁は少し行ったところで曲がり、左の壁は続いていたが、すぐに壁に当たった。

 つまり、短い廊下の奥の右側に空間があるのだ。隔てるものは何もなく、すぐにその空間全体を見渡すことができた。

 死神ちゃんはそこに並んだ多くの机を見た。そして、ここが職員室であることを瞬時に理解した。

 廊下の奥の壁には窓が付いていて、そこから差し込む月光が室内を照らしている。

 突然、ガラッと音がして、死神ちゃんは自分が入ってきた職員室の戸を見る。すると、そこには無地が立っていた。

「あ、無地さん!」

「あ、死神、ちゃん」

 無地は内巻きショートを揺らしながら、死神ちゃんのところへ向かってくる。

「無事でよかった! 怪我とかしてない?」

「大丈夫。死神ちゃん、こそ、大丈夫?」

「うん! みんないなくなちゃった後にすぐ扉に入ったからね」

「よかった」

 無地さんの様子からして、まだ他のみんなとは合流できてないっぽいか……。

「ここは?」

「たぶん、というか絶対、職員室だよ」

 直列に並ぶ机とそこに付属した椅子はよく職員室に置いてある椅子や机たちだったし、机上には教科書やら書類やらが積まれ、床にそれらが散らばっていた。机は横側を接着して並び、その列が複数、部屋の奥に向かって伸びていた。

 すると、無地が再び、私たちが出てきた引き戸へと向かい、取っ手に手を掛ける。無地の腕がぷるぷると震えているのが遠目でも分かった。

 今度は両手を使って、引っ張り始めた。

「もしかして、開かない?」

「……」

 無地は引っ張るのを止めて、引き戸の方を向いたまま首を縦に振る。

「あ、あらら」

 死神ちゃんは再度、職員室を見渡す。そういえば鍵が必要だったことを思い出して壁際を見ていくと、すぐに見つかった。

 壁の一部だけ木の板が張り付けられており、そこに数個の鍵が掛けられていた。

「あ、鍵あるよ」

 無地は諦めて戻ってきた。私は、鍵を取りに行こうと出向く。

 椅子を避けながら進み、鍵に手を伸ばす。そして、はっとした。

 ここは職員室の中である訳だから、退室時に室内に鍵を置いておくことはできないし、意味がないのである。なので、大体は職員室の鍵は事務室にある。

 私は無地の方を振り向くと、無地もそのことに気が付いたのか、もう一度戸を確認しに行った。

「死神ちゃん、ここのドア、中から、ロック解除、できる。けど、開かない」

「あー、地震とかで歪んで開かなくなったのかも」

 私は机と机の間を歩きながら、空中に黒い円を出す。

「無理やり開けよっか」

 そこから出てきた柄を掴んで引っ張り出した。そのときだった。

――黒い手が死神ちゃんに向かって飛んできたのは。

「……っ!」

 前に飛んで間一髪で回避し、空中で身を翻す。続けざまに二つの拳が左右から迫る。死神ちゃんは大鎌をX字に振り下ろして、Xの下部分の二か所で攻撃を当てた。

 大鎌は、撥ねかえった。

「……⁉」

 反動で上半身が上を向き、体が仰け反って空中でバランスを崩すも、なんとか両足で着地する。

「死神ちゃん……!」

 言って、無地はドア近くから机近くまで短い廊下を走る。

 私は少し膝を曲げて腰を落としたまま、大鎌を構えた。

 黒い手はゆっくりと死神ちゃんたちとは反対のサイドへ戻っていく。

 私と無地は職員室の奥に目を向けた。

 そこに立っていたのは異質な雰囲気を纏った一人の女性だった。


 西に一階へ落とされた見内は、階段の瓦礫の上で薄っすらと目を開けた。そこに映ったのは、言うまでもなくあのトカゲのような化け物だった。

 横顔が見えた。太ったように首がなかった。ソイツがゆっくりとこちらを向き、赤に染まった目で見内を捉えた。

 喉が詰まって声が出なかった。

『グルアァァァァ!!!!』

 校舎に化け物の歓声が響き渡った。

 私は恐怖に従って立ち上がり、化け物の尻尾の方から廊下に抜けた。化け物は二階でいう美術室の方を向いていたので、方向転換にしばしの時間を用いた。

「ヒヒヒ、ハハハッ!!!!」

 逃げ走る見内の背中に、高い笑い声が刺さった。しかし、今はそれを気にしている場合ではなかった。

 化け物が食いしばった歯を剝き出しにして四足歩行でドタバタと迫ってくる。不格好な走り方に反してそのスピードは恐ろしく速かった。

 化け物が口を開いた。もう化け物の齧りつける範囲に入っていた。

 追いつかれた、もうだめだ。

 そう思った見内の左腕を、誰かが力強く引っ張った。バタンという音と共に、見内はその部屋に引き込まれた。

 同時に、化け物の歯が今さっきまで見内の居た場所で嚙み合った。

 見内は引っ張られて、そのままの勢いで壁に背中を打った。

「うっ……!」

 目を開けると、そこは女子トイレだった。ピンクの内装に、何個も更衣室が並んでいる。勿論、所々が黒ずんで廃れていた。正面を見ると、一部がすりガラスになったドアから僅かに月光が届いていた。

 その前に誰か居た。

 背中を打った衝撃でぼやけた視界の中、暗闇で目を凝らすと、徐々にその輪郭が見えてくる。

 そして、私の顔は背中の痛みと恐怖で引き攣った。

 おかっぱ。白と黒の吊りスカート。中学生くらいの背丈をしており、長い前髪のせいで目は見えなかった。

『あぁ~そぉ~ぼぉ~?』

 トイレの花子さんは、一字ずつゆっくりと発音して歩み寄ってくる。

 目を見開く。顔を背けようとするが首がうまく回らず、見内は目を離せなかった。

 花子さんの周りに、どこから出てきたのか、複数の刃物が浮かぶ。

『さつじんごっこしよぉ~』

――トイレの花子さんは学校ごとに別人が住んでいる。もちろん、花子さんの噂がある学校だけなのだが、死神ちゃんの学校のように平和な遊びをする者もいれば、危険な遊びをする者もいて、学校によって個性がある。

 見内は並んだ刃物を見て視界が一機にぼやけたかと思うと、力が抜けたように瞼が閉じて俯いた。震えていた肩も止まり、身体は言うことを聞かなくなる。

『フヒヒ』

 暗い意識の中で、花子さんの笑い声が聞えた。

 少しだけ瞼が持ち上がって目を伏したようになる。ぼやけた視界。それが見内の緑色の瞳に溜まった涙によるものか、意識がもうろうとしているからなのか、分からなかった。

 自分の膝が見えていた。

『あ! ちょっとまってよー』

 脳内でそんな無邪気な声が響いた。

 見内は静かに目を閉じた。


――それは、小学五年生の春のこと。澄み渡った青空の下、心地よい気温の中で私たちは散歩をしていた。

 肩から黄色のバインダーを下げて、町をクラスメイトのみんなで歩く。

 小学校の授業で、地域探検だった。両サイドを山に挟まれた谷にある小さな町で、町の真ん中には一本の川が流れている。

 私は女の先生と手を繋いで一緒に歩いていた。橋に差し掛かり、私は遠目に川の流れを眺めた。すると、一緒に歩いていた女の子が突然走り出して、橋の真ん中で止まった。

「早くおいでよ~!」

 彼女はこちらに手を振り、水色の瞳をキラキラさせて元気に言った。

「あ! ちょっとまってよー」

 私は先生の手を放して、彼女のところへ走って向かった。

「ねぇ、ユナ! みてみて! 魚が泳いでるよ!」

「えー? どこー?」

「ほら、そこ!」

「あ、ほんとだ! こはる、よく見つけたね!」

「ふふん」

 見事なドヤ顔だった。

 そして、私たちは神社でお弁当を食べて小学校に戻った。

 小学校は山の方にあり、新築の教室棟五階建て。そこから渡り廊下で繋がった別の棟は三階建てと、都会に負けないかなり大きな小学校だった。

――それから、少し経って、こはるは転校することになった。

 別れを告げて、私は必然的に学校で一人になった。こはる以外の人とあまり遊んでこなかったからだった。声をかけてくれる人もいたが、誰と遊んでも、私の心は晴れなかった。

「地下室には行っちゃいけないよ」

 おばあちゃんの家に預けられた日だった。おばあちゃんは私に優しくそう言った。地下室といえば、おばあちゃんがいつも漬物を作るときに行っている場所だ。昔に防空壕としておじいちゃんが掘ったらしい。

「わかったー」

 古い木製の家のベランダに座っていた私は返事をした。

「もう、それは振らんのか?」

 私の横に座ったおばあちゃんが訊いてくる。私は膝に置いていた木刀を見る。そして、おばあちゃんは庭に置いてある藁の束を見て言った。

「あれはもうだちかんな。どろまるけになっとる。片づけようか」

 こはるのおじいちゃんが作ってくれたものだったが、何度も叩いたり蹴ったりしたせいで藁が破れ、乾いた泥が大量に付いていた。

 そして、昼時を過ぎた。

――なぜか、私は地下室の廊下に立っていた。

 漬物が置いてあるのは突き当りの部屋だった。しかし、私は廊下の途中にあるドアの前に立っていた。

 古い木製のドア。暗い色の、表面が少し削れて色が剥げているような、そんなドアだった。

 ヒヤリとした空気が肌を撫でた。心地よかった。

 私はその部屋に入った。

 その後のことは覚えていない。

 気づけば私は、母校の小学校の屋上に立っていた。追い風に少しばかりもたれかかり、ショートカットの切り目の少女を見ていた。

 私はその時に言った言葉を思い出した。

「――だって、私は、この場にいる全員を殺すんだから」


 見内は目を見開いた。

 紫紺の瞳が露わになり、手元の空気が紫に光りながら燃焼して現れた<それ>を握る。

『⁉』

 花子さんは見内の変化に気づいて後ずさる。

 見内は立ち上がった。手にした、紫の糸を主役に装飾された鞘から少し抜いて『刀』の刃を光らせる。

 いつの間にか、彼女の腰まで降りたぼさぼさな髪は艶やかになり、楕円形の眼鏡はレンズが割れて足元に落ちていた。

 花子さんを捉えた紫紺の瞳が光る。その表情は――

――見内憂梛は、笑っていた。


 あわあは気づけば冷たい床の上に立っていた。

 目をしばたたかせながら、周囲を確認する。フローリングの床にワックスがかけられ、様々な色の色テープが張り付けられている。左右の壁にはバスケットゴールが取り付けられており、あわあの正面にはステージがあった。

 ここは体育館だった。

 そこで、あわあは一人の少女を見つけた。ちょうど自分の横に並ぶように立っていた。髪をポニーテールに纏め、ぱっちりとした目が印象的な少女だった。

 彼女も何回か瞬きをし、こちらに気づく。

「「あ」」

 二人の声が重なった。あわあは猫耳を畳み、二又の尻尾も上着の中に隠した。

「あの、これどういう状況か分かりますか?」

 なんとか猫人間であることはバレなかった。質問に対し、あわあは質問を返す。

「ああ、えっと、変な本棚がいっぱいある空間に入った?」

 敬語は苦手だった。

「あ、はい。死神ちゃんっていう人たちと鍵を探しに図書館に入ったんですけど……」

「死神ちゃん?」

「はい、本人がそう名乗たのでそう呼んでましたけど……あだ名ですかね? でも本当に大きな鎌を持ってたんですよ」

「死神ちゃんは今どこに?」

 あわあは彼女に詰め寄って問い詰める。

「あ、えっと、本棚が沢山あるところではぐれてしまいまして……」

「そっか……」

 あわあは下がって少し気分を落とす。

 彼女は不思議そうな顔をあわあに向けるが、すぐに合点がいったように手を叩く。

「私、妃彩って言います。死神ちゃんの知り合いですよね? よろしくお願いします!」

「あわあ。よろしく」

 お互いに挨拶をし、あわあはステージの方を見る。妃彩も一緒にステージを見た。

「ここ、体育館ですよね。とりあえず出ます?」

「うん」

 妃彩が言い、あわあと後ろの鉄製の引き分け引き戸の方を振り向こうと横を向いたときだった。

 顔がお互いに向き合っていた。あわあの見る妃彩の顔の後ろに、殺気を感じた。

 素早く動いて、あわあは妃彩の後ろに回り込み、そこにいた怪物を回り込んだ勢いを乗せた回し蹴りでぶっ飛ばす。

 その怪物はステージの方の壁にぶつかって動かなくなった。羊に馬の脚が付いた身体をしていた。

「な、なんですかあれ……さっきも同じようなの見たけど……」

 怪物が居た場所と代わってあわあが立つ。

「なにあれ……組み合わせがだだくさだなぁ」

 正直、結構不格好だった。本当にテキトウにくっつけたみたいな姿だった。

「というか、あわあさん戦えるんですね」

「まぁね」

 そう言って、二人は顔を見合わせる。

――そして、そのまま動けなくなった。

 強烈な呪いの気配に当てられたからだった。

 あわあは表情を驚きに染め、妃彩は顔から血の気が引いていた。

 あわあはかろうじて目だけをステージの方へ向ける。視界の端にさっきまではなかった何か大きなものが映った。

 あわあは単発ダッシュをした。短い距離と時間でスピードを重視した走り方だ。自分より大きな妃彩を担ぎ、ステージから離れた。後方で爆発音がし、体育館に木霊した。

 妃彩を素早く降ろし、それを見る。

――ステージの前に、巨大なぬいぐるみが居た。

 そいつは地面に叩きつけた拳を引いて浮きあがった。天井と床の間に浮遊したそいつの目があわあたちをギロリと睨む。

 巨大団子が二つくっついたような体。上に目と口があり、下に腕が左右に二本ずつ付いている。後ろの両手には針と毛糸玉が握られ、体表は色々な布が縫われて繋がっており、継ぎ接ぎだった。

 そんなステージを覆い隠すほどの巨体と、あわあたちは対峙した。


 憂梛は女子トイレから出てきた。

 今までの階は階段の横にトイレがあったが、一階は廊下の真ん中にトイレがあった。

 無傷で廊下を歩き、二階へ上がる階段の前まで着いた。

 すると、横からドタバタと騒がしい足音が迫ってくる。トカゲの化け物が口を開いた――と思った次の瞬間には頭から尻尾まで横に真っ二つになっていた。

 黒い液体が傷口から飛び散り、トカゲの化け物の巨体は黒い霧へと分解されていく。

 そのときにはもう、憂梛は階段を上り始めていた。

 力が抜けたようなその顔から、表情を読み取ることはできなかった。

 踊り場を曲がり、もう半分の段を上がる。

 艶やかな髪に微風を通し、少し目を伏せていた。黒白の膝下丈のセーラー服はスカートを膝上まで破っていた。

 短くなったスカートとパーカーの裾を揺らし、最後の一段を上る。

 そして、廊下の中央に立つ。

 憂梛の前には驚いた表情をした水戸西が振り返った姿勢で立っていた。

「……⁉」

「ひっ」

 憂梛は笑った。それに対し、西は冗談ではないという顔をした。

「噓でしょ……? アレから逃げてきたってワケ?」

「探したよぉ、西さん。……っふふふ」

 狂気を纏った見内を前にして、西は彼女の手に握られたものを見る。

 そして、西は見内の全体を見た。雰囲気や気配を感じ取るためだった。一気に黒い気配が西に圧力をかけた。

 西は逃げ出した。真っすぐ反対側の階段を目指して全力で走った。

 憂梛の瞳が月光に反射して狂気の紫に光る。にやりと口角が上がった。

 遅れて憂梛が走り出す。

 クラスで一番足が速い西が亀に見えてしまうほど、憂梛の速さは尋常ではなかった。

 西は足に瓦礫が刺さろうが、壁にぶつかって肌を擦りむこうが構わずに無我夢中で逃げ惑った。

「なんだよ、もう‼ 殺したと思ったのに‼ なんで生きてるんだよ‼」

 西はこれまで出したことがないほど大きな声で叫んだ。

「殺すことが私の生きがいなのに‼ やっと殺せたと思ったのに‼ やっと一人殺れたと思ったのに‼」

 ついに廊下の端に辿り着いて西は階段を登ろうとしたが、弾かれたように後ずさり、グラウンド側の窓に背中を打って尻もちをついた。

 階段の方から現れたのは、黒いピステのような素材のコートを羽織って全身に包帯を巻いた男のような怪異だった。フードをかぶっており、手には斧が握られていた。

 男は西から目を離して憂梛の方を見た。否、顔も包帯で巻かれていたので、こちらを向いたといった方が正しかった。しかし、まるで実際に見ているかのように正確に憂梛を見据えた。

 そして、相手に選ばれたのは――憂梛だった。

 彼女から出る強い殺気のせいだろう。今の状況で、強い方を先に倒そうとするのは男の立場からすれば当然の選択だった。

 男は西を無視して通りすぎ、憂梛と向き合った。

 憂梛はそれまでを呆然と見ていたが、男のその行動を見て面白そうににやりと笑った。

「ヒッ……!」

 西は小さく悲鳴を上げて、四つん這いですがるように美術室の中へと入っていった。

 憂梛の目の前に立つ怪異は強い呪いの気配を放っていた。憂梛は相手がそれなりに多い呪力量を有していると踏んだ。

 憂梛は紫紺の瞳でそいつを見据える。

「殺んの?」

 憂梛が言う。

 男は声に出して返事はしなかったが、斧を持ち上げて切り払った。


 死神ちゃんと無地は職員室で異質の雰囲気を纏う女性と対峙していた。長い黒髪に赤いラインの入った黒いローブを着ている。その足元から伸びる黒い手は、よく見てみると真っ黒ではなく、外側が月光に当たって薄く紫になっていた。

 死神ちゃんの視界の端で拳の形に割れた床が見えた。あのパンチに当たったら確実に骨は折れるだろうと思った。

「あれは、怪異?」

 私たちは女性から目を離さず、無地が問うてくる。

 それに私は驚いた。

「無地、なんで怪異なんて知ってるの?」

 言葉のニュアンスからして、いくつかの種類が選択肢にあるのだろう。しかし、それを知っているのはこっち側の人間だけのはずで、一般人が知る訳もなかった。今の私の問いも、知らない人なら頭にクエスチョンマークが浮かぶはずだったのだが、案の定、予想は的中した。

「実は、私、呪術師」

 呪術師。それは怪異や呪いと戦うために呪術を扱う人のことだ。似ているのが死神で、こっちは死神の鎌を用いて戦う。

「そうだったの⁉ 全然気が付かなかった!」

「ふふん」

 無地はドヤ顔する。

「あ、私もよくわかんないんだけど、たぶん呪いだと思うよ」

 私は無地に聞かれていたことを思い出して、回答を述べる。今まで怪異か呪いかは、ほとんど見た目で判断してきた死神ちゃんなので、あまりはっきりとは言えなかった。

「なるほど」

 無地は返事をすると、萌え袖から手を出して握っていたビンの蓋を開ける。

 え、もしかして、それずっと持ってたの? 全然気づかなかった……。

 私はそう思いながらも、無地の一連の動作を見守る。

 無地は取り外した蓋を片手で持ったまま、ビンを逆さまにする。ビンの口から、中に入っていた黄色のインクが落ちる。

「?」

 死神ちゃんは不思議に思った。わざわざ開けたインクを零してどうするのだろうと。しかし、黄色のインクが床に落ちることはなかった。

 ビンから垂れたインクは、途中からまるで無重力になったかのように空中に浮き、無地の周りを漂い始めた。

「ほえ、そういうことか」

「そういう、こと」

 無地はビンに蓋をして、漂う黄色のインクを丸くして球状にする。どうやら準備は整ったらしい。

 相手もずっと待ってくれる訳ではない。早速、黒い手を伸ばしてパンチを繰り出してきた。

 私と無地はお互いに違う方向に走り出した。

 私は職員室の床を駆け、飛んでくるパンチを避けながら近づいていく。

 机を蹴って横のストリートに移動し、着地したところに飛んできたパンチを体を横にずらして避ける。すれ違いざまに黒い手の腕に大鎌の切っ先をかすめてみると、水野さんの腕よりは柔らかくなかったものの切り傷をつけることが出来た。

――腕からなら切れる。

 私はそう思った。

 無地は走るのがあまり得意ではなかった。足も速いというほどではなかった。しかし、スケートやローラーシューズは得意だった。なので漂わせたインクを何滴か靴下に敷いて滑ることで、同じことができるようにしていた。

 無地はパンチを避けながら、セーターのポケットから二つ目の黄色インクのビンを取り出して開封する。

 浮かんだインクを周りに漂わせながら、ジャンプと着地を繰り返して机の列を横断していく。

 死神ちゃんと同じ道に入って、無地はしばらくの間だけ死神ちゃんに守ってもらう。

 死神ちゃんは走りながらひたすらにパンチを避け、その後に腕を切り落として相手の手数を確実に減らしていっていた。その後ろに無地が来て、私はなるべく後ろにパンチが行かないように頭上やほぼ真横を飛ぶパンチは避ける前に切り落として対処した。

 ところで、職員室はこんなに広くはなかったはずだと、死神ちゃんは思った。走り出してから止まっていないが、一向に職員室の端に辿り着かなかった。しかし、女の呪いとの距離は確実に詰まっていた。

 たぶん、そういう術式だと思った。部屋を少しずつ長くして距離を伸ばす、それ以上のスピードで走り続けないと彼女に近づけないという、そういうものだ。

 ランニングマシンみたいだな、と私は思った。

 無地は脳内で特定の形をイメージする。より明確に輪郭をハッキリさせることで、完成度は大きく変わってくる。すると、威力も応じて変わる。

 無地は片手を伸ばし、手で作った筒の中にインクを入れる。そして、棒を少し曲げたような形を作り、両端を細いインクの糸で繋ぐ。

 弓だった。

 もう一方の手で浮かせておいたインクを掴み、矢の形を作った。矢を糸にかけてすぐに打てるようにする。

 すると、ちょうどいい椅子が前に見えた。

「死神ちゃん!」

 無地は叫び、椅子に飛び乗りながら足裏に敷いていたインクを取り、その椅子を踏み台に跳躍した。

 私は少し頭を下げる。

 同時に無地は弓を射った。

 インクの矢は死神ちゃんの頭上を通過し、複数の黒い腕の合間を縫って女の呪いの肩に命中した――する直前だった。不意打ちだったのにも関わらず彼女は一瞬にして術式を組んだ。

――矢が彼女に刺さることを起源として、因果の術式が構築を開始した。


 美術室のドアが閉じられる。

 西は両手で取っ手を掴んだまま、ドアを睨みつけていた。腸が煮えくり返るような怒りと憎しみが全身を駆け巡っていた。

 なんでこうなった?

 屋上で輪になっていたとき、西は状況を理解した。荒廃した建物。人の目が一切ない、一歩間違えれば事故が起きる危険な場所。これ以上に適した環境はないと思った。――人を殺すのに適した環境だ。

 屋上から降りると、思った通りの環境だった。それがビルではなく学校だったことに少し驚いたが、別に問題はなかった。

 西は最初は動かなかった。だから、妃彩たちが崖っぷちに立っていても、その背中を押すことはなかった。最初はみんなの警戒心が強いため、行動は起こさない。もし見られた場合、反撃される前に全員を殺さなければならなくなるからだ。なにより、最初に全員殺してしまうと面白くない。隙を見て一人ずつ殺っていく予定だった。

 そして、更に面白いことが起きた。どうやら、この建物には<人外>がいるらしかった。機会あるたびにそいつらは私たちを襲おうとしてきた。

 殺人を犯す上で、西の理想の立ち位置は<共犯>だった。自分が対象を誘き寄せ、その先で殺させる。最も邪道な方法だ。

 その理想の環境が、西の目の前には広がっていた。西が四人の中から対象を選んで人外へと導き、一人ずつ殺していく。そんな構想を頭に浮かべていた。

 しかし、状況が変わった。

 今まで逃げてばかりいた私たちの中に、人外に対して反撃した者が現れたのだ。死神ちゃんだった。名の通り、背丈ほどの大鎌を振るって、怪物の足を切断した。

 西は少し焦った。武器を持っているなんて分からなかったからだ。もし、殺人を企てていることがバレてあの鎌を振るわれたら、西は即死だ。

 そんな結末、今までで一番面白くない。幸い、西の企ては死神ちゃんにはバレていなかった。見るからにお人良しで他人の悪意に気づかない人柄だった。だから、死神ちゃんを一番先に殺ろうと思った。いくら武器を持っていても、隙を突けばいけるはずだった。実際、隙だらけだった。ただ、不審な視線を向けてくる無地も、迅速に片づけなければならないと思った。

 しかし、更に状況は悪化した。

 全員と離れ離れになってしまったのだ。頭に血が上った。ストレスで精神が狂い、頭がどうにかなってしまいそうだった。これでは台無しだ、人外に殺される前に誰か一人でも見つけなければ、合流しなければと思った。

 そして、西は見内と出会った。なんという幸運だろうと、そのときは思った。一番殺しやすそうな人物だったからだ。まんまと、見内は引っかかってくれた。分かりやすい振りも入れたというのに、最後まで見内は西を信用しきっていた。一階に落とし、あのトカゲのようなデカブツに食い殺させる。絶好のシチュエーションで、西の理想とする殺し方が出来た。

 気分爽快だった。これだと思った。今まで積み上げた信用を死をもって一気にぶち壊す、この心地よさを味わいたかった。やっと、一人殺れたと思った。

――それなのに、アイツは再び西の前に現れた。

 死体としてではなかった。生きた状態でだった。どこかに落としたのか眼鏡は掛けず、いつの間にか髪はサラサラになっていた。

 西は絶望した。頭が真っ白になった。

 西の犯す殺人方法で一番やってはいけないこと、それは対象を殺し損ねることだった。なぜなら、この方法は死ぬ間際に犯人が分かるからだ。その絶望した顔も西の好物だったが、もし助かってしまった場合、西はこの世で生きてはいられなくなる。

 そんなミスを、西は今まで一度もしたことがなかった。絶対殺せるタイミングで完遂してきた。

 だから、どうしていいか分からなかった。見内から放たれる強烈な圧力と、どこから持ってきたのか手に握られた日本刀を見て、西は逃げ出した。

 西はたった今通ったばかりの美術室の引き戸を叩いた。どうしようもない敗北感と、煮えたぎる怒りが身を焼いた。

「クソッ‼」

 そして、思い出した。

「……ッ! ……まさか、アイツッ‼」

 それは西が中学生の頃だった。引っ越す前の家、生まれて初めて住んだ家で、西はリビングへのドアを開けて呆然と佇んでいた。目の前には言い争っている男と女の姿。それが自分の両親であることを西は分かっていた。

 またか。そう思って心を空っぽにし、感情を剥いで、ただ見ていた。そこに蝕み始めているものを、西はまだ知らなかった。

 初夏だった。少し暑かった。

 ドア窓は開かれた状態で、ベランダへと出ることが出来た。

 そのベランダの柵に、突如、人影が現れた。

 ソイツは柵から降りて、部屋の中に土足で入ってきた。

 それでも、西は呆然とそれを見ていた。両親も、気づいていないようだった。

 頬に何か付着した。西はそれを手で拭って見た。灰色の視界に、自分の手についた液体が見えた。

 前を向いた。同じくらいの年齢の少女が一人、刀についた液体を切り払っていた。その左右には倒れた人間が二体、転がっていた。

 少女は西を見た。西もまた、少女を見た。

 両目に紫色の瞳を持っていた。

 西は彼女が出ていった後も、呆然とただ佇んでいるだけだった。西の心を蝕んでいたソイツが、空っぽなそこで急速に進行を始めた。剥いだ感情は、条件下以外では戻ってくることはなかった。

 そんな記憶を思い出して、西は美術室の戸を叩いた手を降ろす。

「そうか……オマエだったのか。あのとき、私を完成させたのは」

 少し微笑を浮かべて、西は唇を噛んだ。

「クソッ‼ なんなんだよッ……! 私の人生、一体なんなんだよッ! ……私は、わたしは……」

 西は自分の人生を嘆いた。不幸な、不運な、そんな自分の人生を嘆いた。そして、愚かな自分自身を呪った。頭に浮かんだ自傷的な言葉に、西は笑った。

「……ふっ。ほんとに、何してるんだろうね……」

 そんなことをしても、他人への怒りは止まらなかった。今まで全て他人のせいにしてきた西だった。学校ではそこそこの優等生を演じ、ムカつくヤツを機会あるたびに手にかけてきた。信頼を積んで、殺させてきた。

 あるときは自転車に乗ったヤツに横断歩道を渡らせて車にひかせた。イヤホンなんてつけてるのがいけないと思った。

「ネェネェ、ネェネェ」

 あるときは踏切に老害とイキリ坊主を入れて人身事故を起こした。勝手に信用してのこのことやってくるのがいけないと思った。ざまあみろと思った。

「ネェッテバ。コッチムイ……」

「うっせぇ! 黙ってろッ‼」

 ついに我慢の限界がきて、西は振り返った。

 そこには赤い服を着た長身の女性が立っていた。顔の正面で分けた長い黒髪に、口に大きな白マスクを着けている。

 その女性の首に切れ目が入った。

 西はその切れ目が開くのを見て全てを悟った。

「ほんとに、ついてないですね」

 迷子だった自分自身と心が、ようやく帰路に就いたような気がした。

――やっと逢えるね、パパ、ママ。

 西はあの日以降に初めて、穏やかな顔をした。


 あわあは右から飛んできたフックを身をかがめて躱し、鹿に熊の手足がついた怪異の腹を思いっきり蹴飛ばした。

 今、あわあと妃彩は、複数体の怪異と一体の呪霊に囲まれていた。

 正面に浮遊している呪霊は団子を二つ引っ付けたような体で、表面を様々な布で継ぎ接ぎにしており、腕が左右に二本ずつあった。

 呪霊が呼んだと思われる怪異の姿は個体ごとに様々で、鹿に馬の脚を付けた大きなものから、狐に兎の脚をつけてトカゲの尻尾にしたものまで、色々だった。

 妃彩を庇いながらの戦況で、あわあは一方的に攻められていた。

 このままじゃジリ貧する……。

 そう判断したあわあは仕方なく袖から手を出し、人の手のまま爪だけ猫にし、殺傷能力を高めた。先程はパンチで急所を攻撃したり、蹴りでぶっ飛ばしたりしていたが、これではなかなか一撃では仕留められなかったからだ。

 怪異に痛がっている素振りはなかった。たぶん、自分の意志で動いているのではないと思われた。

「やっぱり、アイツを倒さないとダメ……?」

 実際、動物融合の怪異は呪霊の後ろからどんどん出てきていた。後ろ二本の腕がせわしく動いていることから、そこで怪異を作っているのだろう。

 つまり、あの呪霊を倒さない限り、怪異はほぼ無限に出てくる。しかし、あわあは一般人である妃彩を守りながら戦わないといけない。

 あわあ単体で突っ込むと妃彩が危なくなる。かといって、妃彩を背負って戦うと、怪異の攻撃を避けきれない。

 圧倒的人数不利。それが現状だった。

 あわあは考えた。どうしたらいい? どうしたらアイツを仕留められる?

「……」

 実に簡単な答えが出てきた。

 あわあは温まってきた身体を動かし、敵を捌くスピードを上げた。動きになるべく無駄をなくし、一度の攻撃で複数体攻撃していく。

 人数不利。それを無くすには、

――呪霊が怪異を生み出す前にここにいる怪異を全て倒せばいい。

 呪霊は今、生み出した怪異にあわあを攻撃させ、怪異生成時の隙を無理やり埋めている。もし、ここにいる怪異が全て動かなくなれば、あの呪霊は大きな隙をあわあに突かれることになる。

 問題は、あわあの体力が尽きる前に怪異の生産スピードを上回る速さであわあが怪異を倒していかなければならないことだ。

 しかし、今のところ順調に怪異の数は減ってきていた。最初に一気に出てきた怪異もほとんどあわあにやられ、途中から追加された怪異もあっけなくあわあにやられていた。

――このままいけば、人数不利は抜け出せる。

「……はぁ……ふぅ」

 しかし、あわあはかなり体力を消耗していた。

 妃彩はあわあの後ろで戦いを見ていた。その動きはまるで猫のようで、途中からその姿が洗練されて美しく感じた。

 そこで、妃彩はあわあの息が上がっていることに気づいた。自分にもなにかできることはないかと、辺りを見回す。

 背後の鉄の引き分け引き戸。バスケットゴール。左にある同じ引き戸。

「あ」

 その戸の横に備え付けの消火器があった。

 妃彩は走り出す。

 あわあはそれに気づいて妃彩に目を向ける。

 離れたら危ないって……!

 妃彩はガラスの扉を開けて中にあった消火器を取り出し、安全ピンを抜く。

 そして、あわあは見た。妃彩に、さっきぶっ飛ばしたはずの鹿に熊の手足がついた怪異が迫っていっているという光景を。

「――っ!」

 短期ダッシュ。跳躍し、その後ろ首を掻っ切った。

 鹿の熊は倒れ、動かなくなった。血は赤黒かったが、噴き出ることはなかった。

「妃彩、動くなら言って……」

「ご、ごめんー」

 あはは、と妃彩は謝り、あわあは少し呆れたような、安心したような顔をする。

「それ、どうするつもり?」

 動物融合の怪異は移動したあわあたちを追って走ってくる。

 妃彩はあわあの前で、消火器を構えて立った。

 怪異が迫ってくる。あわあはすぐに動けるように準備しながらも、息を整え、それを見ていた。

 範囲内に入った。そう妃彩が判断した瞬間、消火器から放たれた白い煙が怪異たちを包んだ。

 すかさずあわあが煙の中に突っ込み、予め覚えておいた怪異の位置を横断していく。中からバタバタと音が聞え、煙が晴れるころには怪異は一匹残らず倒されていた。

「ありがとう。お陰で早く楽に片づけられた」

「いえいえ、こちらこそ庇っていただいて、ありがとうございました」

 お互いに感謝を言い合い――あわあは背後に殺気を感じた。

 紙一重で投げられた巨大な刺繍針を避け、あわあの青紫の瞳が呪霊を捉える。

 一気に加速し、急接近。跳躍し、呪霊に迫る。

 向かってきたパンチの上に手を突いて前転して上に乗り、走る。綿でも入っているのか、もふもふとした感触を裸足の裏に感じた。

 後ろの腕が刺繍を止めて針で刺してきた。さすがに避けきれず、あわあは後ろに飛んで体育館の床に着地する。

 すると、縫いぐるみの呪霊は片手を伸ばした。その先のステージ横の壁に黒い円形ができ、中から<ミノタウロスを連想させる怪異>が現れた。頭と足が牛で、体と腕はマッチョの肌色だった。その手には巨大な斧が握られている。間違いなく、あの呪霊の傑作だった。

 ミノタウロスは真っすぐ妃彩へと向かっていく。

 まだいたのか、とあわあは思った。同時に、妃彩の近くから離れたことを強く悔やんだ。

 妃彩は自分に迫ってくるミノタウロスから目が離せなかった。逃げようと思っても、体がすくんで動かなかった。

「……っ‼」

 あわあは全力で走った。ミノタウロスよりもあわあの方が身軽で速かった。

 そこで、呪霊はあわあと妃彩の間に動物融合の怪異を複数体召喚した。最初に出したときよりも多かった。

 あわあはそれに対処するしかなかった。交戦は避けられなかった。避けたとしても、そこに障害物が出来た時点で、間に合わなかった。

 妃彩の上半身が飛んだ。

 横に振られたミノタウロスの斧で体の上と下が分かれた。家に帰るという妃彩の目標は達成されることなく、ここで終わらせられた。

 あわあは赤に染まった無残な光景を見て、下唇を噛んだ。

「ッ~~~~~~~!!!!!!」

 あわあは乱暴に腕を振るった。もうどこに当たろうと良かった。視界に入ったものを片っ端から、いつの間にか猫に戻ってしまった大きな手で引っ搔き回した。

 視界に映るものがなくなった。追加された怪異を全て倒し切った。あとは呪霊とミノタウロスだけだった。

――そのミノタウロスがあわあの背後に立っていた。

 振り返ったときにはもう遅かった。ミノタウロスは斧を持っていない方の棍棒とも呼べる腕であわあを薙ぎ払い、ぶっ飛ばした。

 衝撃波。体育館の壁が凹む。

 あわあは体育館の壁に背中から衝突し、命の灯火を失った。

――その首に巻かれていた青い紐が僅かに発光する。


 憂梛は振られた斧を刀で弾いた。

 相手は全身を包帯で包んだ男の怪異。ピステのような素材の黒いコートを羽織り、フードを被っている。

 男は斧を弾かれ、よろめく。すかさず憂梛が刀で男の腹を狙うが、男は後ろに飛んでそれを回避した。

 憂梛が刀を振り切ったところで男は立て直し、勢いよく二歩前に出て斧を横に振り下ろす。対して憂梛は刀を両手で握り、腕に力を入れ、振り下ろされた斧に当てた。

 金属同士が勢いよく衝突し、高い音を鳴らしながら火花を散らせた。両者がお互いを弾いて下がり、距離が空く。

 憂梛は戦いを楽しんでいるかのように笑っていた。

 男は、包帯で顔が覆われているので表情は見えなかった。

 二人は助走をつけて跳躍。お互いが両手で武器を持ち、空中で再び刀と斧が衝突した。

 衝突後、片手を離しながら男が斧を振り切ったのに対し、憂梛は刀を逆再生かの如く戻し、刀から片手を離して腕を振り、弾かれた勢いと共に一回転。振り返り際に男の腹を蹴飛ばした。

 ぶっ飛ばされた男は空中で、空いている片手を開いて掌をこちらに見せ、その腕を廊下の床から憂梛に向かって振り上げた。まるで下投げをしているかのように見える動作だった。

 いつの間にか、男の少し前の床に黒い円ができていて、その動作と連動して中から牛鬼を食った<暗い白色の巨大ミミズ>が出てきた。

 まだ着地する前の、空中で浮いている憂梛に廊下いっぱいに口を広げたミミズが迫る。

 改めて見てみるとデスワームと言った方が近いなと憂梛は思った。

 憂梛は刀を再び両手で持ち、その手を顔の横に持ってきて刀の刃先をデスワームに向ける。

 デスワームが憂梛を呑み込んだ。憂梛は口を閉じて視界が暗くなった瞬間、刀を水平に振り、片手を離して振り切った。

 次の瞬間、デスワームは黒い体液をまき散らしながら横真っ二つに切られ、中から――狂気的な笑みを浮かべた憂梛が出てきた。


 インクの矢で肩を刺された女の呪いはガクッと項垂れ、動かなくなった。長く艶やかな黒髪が垂れて表情は伺えなかった。

 職員室が少しづつ伸びていく現象は起きなくなり、死神ちゃんは机の上を飛び渡ってすぐに女に近づくことが出来た。

 祓うべく、死神の鎌を振るう。その刃先が女に触れた。

 そのときだった。

――因果の術式を発動するために設定された条件が達成された。

 矢が刺さる直前に組まれた術式の構築は既に完了していた。そして、その術式の発動起源――つまり発動条件は、死神ちゃんがその大鎌で彼女を切りつけることだったのだ。

 起源が達成され、術式に刻まれた結果が起こる。因果の術式が発動した。

 死神ちゃんの意識が白に染まっていく。

――気づけば、こはるは緩やかな芝生の坂でユナと並んで立っていた。

 公園にある坂からは二人の住む町が一望できた。両サイドを山に挟まれ、町の真ん中には川が流れている。近くを見れば、紅葉した木の葉が公園に舞っていた。

――これは、夢?

 死神ちゃんは故郷の景色を見ていた。

 視線が勝手に動き、こはるはユナの顔を見た。とても幼い顔だった。小学四年生くらいを思わせた。ユナはこちらを見て朗らかに笑っていた。

 すると、その顔は急に驚きの表情に変わって、前を向いた。こはるも一緒に前を向いた。

 そこには背丈十二メートル強の巨大な黒紫の塊がいた。手足があり、目と口があるのが分かった。そいつは公園に入ろうとしていた。

 そして、公園の中に、そいつの前に立ちはだかる一人の女性が立っていた。綺麗な黒髪を風に靡かせて、赤いラインの入った黒いローブを着ていた。

 こはるはユナを見ようとしたのか、やや目の前の光景に引っ張られながらもそっちを向いた。ユナは少しフラッとして、芝生の上に倒れてしまった。

 こはるは再び正面を向いた。黒紫の化け物は既に公園の中に入ってきていて、大きすぎるが故に視界に収まっていなかった。

 すると、強風の中、さっき立ちはだかっていた女性がこはるの視界に現れた。彼女は死神が持っているような漆黒の大鎌を手にしていた。

 その大鎌が赤い粒子へと変化し、吹き荒れる強風を無視してこはるを包み込んだ。

「この子もわがままだし、扱いに慣れるまで少し時間がかかるかもしれないけど」

 女性はこはるに優しく言った。そして少し微笑んだ。

「いい? こはる。この鎌は、その子を守るために使いなさい」

 その女性はユナの方を見て言った。そして、真剣な表情に戻ってこはるに背を向けた。女性の前に何か紫の模様が現れた。それに対して、黒紫の化け物は一生懸命に抗っているようだった。

 そこで、こはるは意識を失った。

――死神ちゃんは忘れていた記憶を見ていた。

 気づけば、死神ちゃんは大鎌を振り下ろし終えていた。目の前に立っていた女の呪いは黒い霧となってほとんど消えていた。

 死神ちゃんは放心状態だった。

『ありがとう』

 そんな声が、霧となっていく呪いから聞こえた気がした。

『行きなさい』

 死神ちゃんは何とも言えない複雑な感情の下、悲しいとも嬉しいとも言えない、そんな顔をしていた。どちらかというと悲しみの方が大きかったかもしれなかった。


「往生際じゃない?」

 憂梛は口角を上げながら男の怪異に向かって言い放った。

 男の怪異は片膝を床について、斧を持つ腕にできた傷口をもう一方の手で押さえていた。

 今の立ち位置は先程と入れ替わって、憂梛が美術室側、男の怪異が教室側に居た。

 すると、突如として男の横のグラウンド側の窓が独りでに開いた。そこから、少し小さいあのデスワームが飛び出してきて男を丸呑みにし、床に黒い円を作って消えた。

 逃げられた。

 憂梛は笑みを消し、少し低くしていた姿勢を崩した。刀を鞘に収めて美術室の引き戸に歩み寄る。そして、その前で立ち止まった。

 もう、美術室に入る必要はなくなっていた。

 憂梛は美術室に背を向けて二階の廊下を少し歩いた。自然と、重なる記憶があった。

 階段を二人の小学生が仲良く駆けあがっていった。二階に上ってきて三階へ行ったのだ。

 憂梛が小学生だったときの記憶だった。

 ふと、憂梛はここに転移する前のことを思い出した。

 公園の祠の前に憂梛が立ち、その扉を開けた。中にはこはるとの宝物が閉まってあった。中に模様があるあの紫の石だ。

 憂梛はその石を取り出した。手の中で、その石は輝き始めたのだった。

「そう、か。自分でこの状況を作ったんだ」


 体育館は地獄絵と化していた。

 床に無数の動物融合の怪異の死体が転がり、ステージを見て左の鉄扉近くにはミノタウロスに体を分断された人間が倒れ、壁際には背中を強打して意識がない猫又が壁に背を預けて座っていた。

 この場で動いているのは、ステージの前に浮遊している融合呪術を持つぬいぐるみの呪霊とそいつが生み出したミノタウロスのような怪異だけ。

 ミノタウロスは呪霊の前をドスドスと歩いた。

――そして、その首が撥ねた。

 床にその頭が転がり、巨体は大きな音を立てて倒れた。

 あまりにも突然な出来事に、ぬいぐるみの呪霊は動きを止めた。

「脆いな」

 その声は呪霊から発せられたものではなかった。

――体育館に一人の男が現れていた。

 白と黒の袴を着ていて、目鼻立ち、輪郭まで全てが整っていた。しかし、美少年という印象ではなく大人で、どこか古い雰囲気を持った人物だった。

 それは、その男から発せられた低い声だった。

 男を視認した瞬間、呪霊は荒れ狂い始めた。腕が後ろから更に生えて全部で八本になり、持っていた針を男に向かってぶん投げた。

「なんだ? 傑作を壊されて怒っているのか?」

 男は針を一歩前に踏み出て避けた。

「違うか」

 呪霊は男に接近し、拳を振り下ろした。それを男は軽々と躱した。

 呪霊は増やした腕を全て使ってマシンガンのような連続パンチを打ち込む。それも、男はステップを踏んで全て躱して見せた。

 そして、男は呪霊の鍛えられたようなムキムキの腕のパンチを片手で受け止め、掴んだ。

「俺の腕よりも多いとは。好かんな」

 言って男は掴んだ呪霊の腕を引っ張る。

――ブチッと音がして、ぬいぐるみの呪霊の腕が取れた。

 呪霊は声になっていない悲鳴を上げた。そして、体の後ろから手の本数分の針を取り出してきた。

「つまらん」

 男は心底そう思っているかのように言い、呪霊に背を向けて右手を左肩の前に持ってきて、そこから素早く右横に腕を振った。

 その直後、男を針で突こうとしていた呪霊の顔が、横真っ二つに切断された。

 ボフッと音を出して、ぬいぐるみの呪霊は体育館の床に、中から飛び出た綿を巻き散らして落ちた。

「さて、あの少女はこれからどうでるか。楽しみだな」


 もう大半が黒い霧になってしまった女性の呪いを見て、死神ちゃんは歯を食いしばっていた。

「死神ちゃん?」

 無地は心配して声をかける。

「ごめん、無地さん。私、行かなきゃいけないところができた」

 独りでに職員室のドアが開いた。

 死神ちゃんは走り出した。


 憂梛は二階から一階へ飛び降りる。

 階段の残骸を踏み、一階の廊下へ出る。そして、右を見る。

 そこに教室はなく、外へと続く両開きの開き戸があった。覚えている。その先に廊下が続いて、隣の棟へ繋がっているのだ。

 目の前の扉と、次の扉が独りでに開いた。

 憂梛は口元に笑みを浮かべて走り出した。


 こはるは森の中で生い茂る草をかき分けて走っていた。正面に木が見え、その前を左に曲がった。

 死神ちゃんは職員室を出て、左に曲がった。短い廊下を走る死神ちゃんの後ろを無地が追う。

 こはるは短い髪を揺らしながら走り、左から急に出てきた鹿を避けるように右に曲がった。

 死神ちゃんは腰まである長い髪を靡かせながら走り、左から急に出てきた呪いを避けて右に曲がった。

 死神ちゃんは顔だけで後ろを振り返った。

「任せて!」

 その無地の言葉を聞き、死神ちゃんは走り続けた。

 無地はそのまま速度を落とさずに出てきた熊のような呪いに向かって走った。その制服の色が、まるでそこからインクが出てくるかのように溢れ出し、無地は芸術的な色の流れで軌道を描いて熊の呪いに蹴りを入れた。


 ユナは雑草が茂った森の中で何かを目指して無我夢中に走っていた。茂みから浅い川が流れる場所に出て、水を飛び散らせながら川を横断し、再び森の中に入った。

 憂梛は教室棟の廊下から外の渡り廊下に出た。外の冷たい風を切って、図書館を横断し、更に独りでに開いた扉を抜けて隣の棟に入った。


 こはるは山の坂をずるずると滑った。

 死神ちゃんは玄関へと続く階段を軽快な音を立てて下った。


 ユナは正面に迫った低い木の枝を潜って開けたところに出た。

 憂梛は玄関へと続く開き戸を蹴飛ばして開けた。


 こはるはちょっとした坂の上に全身草まるけで立っていた。

 死神ちゃんは児童玄関の正面にある大階段の上で立っていた。


 ユナは坂の下でこはると同じく全身草だらけで立っていた。

 憂梛は児童玄関の正面にある階段の下で立っていた。


 こはるのキラキラとした水色の瞳と、ユナの優し気な緑色の瞳がお互いを見つめ合う。

 死神ちゃんのアメジストのような赤紫の瞳と、憂梛の狂気を帯びた紫紺の瞳がお互いを見つめ合う。


 こうして、二人は再び出会った。




次回、7/24(水) 18時公開。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る