第6話 淡雪
【淡雪】
赤に染まった空の端が青を混ぜるグラデーションをいっぱいに広げる。
しかし、それは違っていた。
赤が広々とその翼を広げているのではなかった。青が、黒が、その帳を下ろし、赤を覆っているのだ。
死神ちゃんはミクナちゃんを無事に家へ送り、さきほどの祠へ向かって歩いていた。予想が当たっているのならば、祠の前で待っていればいずれ現れるはずだ。
赤色に染まった祠周辺の風景を見ながら、死神ちゃんは周囲を確認する。
チリンと鈴の音がして振り向くと、道路の端に黒猫がいた。
黄色の瞳に赤い首輪。日陰の暗闇に調和していて見落としかけたが、昼間に見たのと同じ猫が同じ場所に座っていた。
その黒猫はサッと後ろを向いて、道の端を歩き始める。見失わないように目を凝らしながら、私は黒猫の後ろをついていく。
しばらく歩いていくうちに、私は違和感を覚えた。さっきから、最近よく見かけていた猫の姿が一匹も見当たらないのだ。
私は辺りを見回す。
ふと、前を歩いていた黒猫がいないことに気が付いた。
「あ、あれ? いない……⁉」
急いで近くの細い路地裏を覗くと、その奥で黒猫が黄色い瞳を光らせてこちらを見ていた。私はほっと胸をなでおろして、路地に入る。人ひとりがちょうど通れるくらいの道幅だった。
また少し歩き、前の黒猫が止まって、私も止まる。猫はこちらを振り向いて座り、黄色い目を向けてきた。
どうやら、到着らしい。
猫はコンクリートの上に登り、家の間の塀の上を渡って闇に溶け込む。
私は路地の先へと進んだ。
ここまでくると、夕日の光も遮られて届かない。いや、もう日は沈んでしまったのかもしれない。
歩を進めるにしたがって、気配や雰囲気に違和感が生じていくのが分かる。それほど歩かないうちに違和感は形となって現れた。
暗すぎる路地で視界に変化が生じる。
辿り着いたのは空き地のような地面がむき出しの少し草の茂った場所だった。コンクリートブロック積みの塀が四角形に空き地を囲い、所々にコンクリート部材が置かれている。
そして、その上や地面に座っているのが、大量の猫たちだった。
五十匹近くはいる。一匹いっぴきが緊張感を放ち、一声も鳴かない。きっと突然の侵入者に警戒しているのであろう。
猫の集会に突然入ってきた、この私を。
私は空き地の中央に向かう。そこで立ち止まり、正面のコンクリート部材に座っている白猫と向き合った。
猫の本能において、毛を逆立たせて瞳孔が小さくなる警戒時に目を合わせると、猫は最大限の警戒態勢を整えると聞いたことがある。
周りの猫はそうなのだが、まるでそこが主席かのように座るその白猫は、毛を逆立たせても瞳孔を細めてもいなかった。ただ特徴的な青紫色と薄い黄緑のオッドアイの瞳でこちらをじっと観察している。
私はその間に現状を確認する。まずここは、猫の集会が行われていた空き地のような特殊空間。展開しているのは中央のコンクリート部材で出来た主席に座るこの白猫だろう、かなり黒い気配を感じる。周りの猫だが、黒い気配を纏っている猫が三匹混じっていて、その他の猫は普通だった。
全て合わせて四匹の黒い気配を纏った猫がこの場にいるのだが、猫の怪異は二種類ある。
一つ目は化け猫。化け猫とは、とてつもなく長生きして呪いを纏った猫か、未練や怨みから死後に仮の肉体と呪力を得て怪異と化した猫のことである。基本的な呪術は、身体強化による二足歩行、人間の言語の習得、憑依、祟りによって対象者を呪うというものがある。
二つ目は猫又。変化の経緯は化け猫と変わらないとされ、化け猫の基本的呪術に加えて死者の蘇生など、より高い精度で呪術を使用する。そして、見た目上一番の特徴は尻尾が二本あることである。
大勢の猫に紛れている三匹は化け猫だ、と死神ちゃんは判断する。すると、正面の白猫が今まで垂れていた尾を持ち上げた。
死神ちゃんから見て、尾は右側に見えた。遅れて左側にもう一つの尾が起き上がってきた。
死神ちゃんと向き合っていた怪異は、猫又だった。
私は少し目を見開いた。
その反応を見て、猫又は怪しげに目を細めた。
「ここになんのようだ」
猫又は静かに言う。予想と反して、猫又から発せられたのは少女のような声だった。
問われ、私はいつもより少し声のトーンを落として答える。
「最近、飼い猫の失踪が増えて困ってる。だから、ここにいる猫たちを解放して家に帰してもらいたいんだけど」
一拍おいて、猫又は首を横に振る。
「それはできない」
私は猫又に問う。
「なんで?」
猫又は言う。
「教えない」
私は周りに居る猫たちを見て言う。
「他県の猫たちまで集めて、一体なにをしようとしているの……?」
猫又の目に力が籠る。
「ここに集めた子たちもしばらくは帰せない。今すぐここを立ち去れ」
死神ちゃんは困った顔をする。
「……」
猫又の眉間にうっすらとしわが寄る。
「あなたには関係ないの」
私は猫又と目を離して顎に手を当てて少し俯き、思案する。
「んー……でも……」
猫又の毛が逆立ち、瞳孔が小さくなった。
「関係ないって言ってるでしょ!!」
「うわぁっ⁉」
私はジリと後ろに下がる。猫又がコンクリート部材から飛び降りてきたのだ。
猫又が地面に着地したとき、その姿は刹那の内に変わっていた。
「ひ、人型……」
立ち上がるとちょうど女子中高生のような体つきで、衣服は着ていないが白に茶色が混じった体毛が体の一部を覆っている。もちろん、猫耳と二又の尻尾もあった。
「自分で出ないなら、あたしが即行押し出してあげる」
鋭い目つきで下から睨みつけるように、いつの間にか青紫になった双眸が私を捉える。
な、なんで⁉ いくらなんでも交渉決裂はやすぎない⁉
仕方なく、私は空中で黒い円形の影から大鎌を取り出す。片手で持って、構えはしなかった。
猫又は姿勢を低くして私との間合いを詰め、猫の前足の鋭い爪で二連撃をしてくる。
私は体を後ろに反らして躱し、ちらっと猫又の足を見る。足も猫の後ろ脚になっており、毛の間からは太い爪がのぞいていた。
「よそ見!」
続けてもう一度爪の二連撃が飛んでくる。今度は体をそらしても避けられないようにするためか、一歩踏み込んできた。
私は跳躍して猫又の頭上を飛び越え、空中で体を捻って、着地したときに猫又の方を向いているようにした。
「えっと、あの!」
「っ!」
猫又はさっきよりも素早く間合いを詰めてくる。その顔は更に険しさを増していたように思った。
詰められた距離を私は後ろに飛んで広げる。そのままコンクリート塀に乗って飛び、今度は私が一気に近づく。
着地と同時に姿勢を低くして、切っ先を後ろに大鎌をふるう。足払いのつもりだったが、これは簡単に避けられた。
「出て行って」
立ち上がった私に、大鎌を振り切った方向の逆からフックが迫る。
私はかがんで猫又の腕をくぐり、大鎌を横向きに振るう。
猫又はさっき私がしたように上空に跳躍して攻撃を避けた。
私は考える。なぜ、猫又はすぐに攻撃を仕掛けてきたのか。なぜ空間内に猫以外を入れることを激しく拒むのか。
振り返った猫又から、段々と膨れ上がる感情が伺えた。
「私にかまわんとって!」
そこで私は理解した。猫又は切羽詰まっているのだ、と。この事柄の裏にはなにかそれなりの事情が隠れているのだ。
猫又がコンクリート部材の後ろに姿を消す。
私は空き地の中央に立ち、不意打ちに備える。
不意打ちは隙を突けるが故に相手は急所を狙ってくる。あの爪をまともにくらえば、人間である私はおろか再生能力のある怪異でも致命傷だろう。
耳を澄ます。周りの猫があちこちで動き回っている。
ガサッと一際大きな音がして、すぐさまそちらを振り向く。
そこに見えたのはソフトボールほどの石だった。
「フェイント……‼」
背後に殺気を感じた。おそらく猫又が飛び掛かってきているのだ。
一気に頭が冷えた。突発的で瞬間的な危機に対して、死神ちゃんは一時的にこうなるのだった。
「なんでそんなに焦ってるの?」
振り向き際に言ったその言葉は猫又の表情を一瞬、切ないものに変えた。
大鎌は身体全体を使って弧を描く。故に、死神ちゃんが身を翻す動きは速く、たとえフェイントでも防ぐことが出来た。
フェイントを防がれて下がった猫又だが、すぐにその場から姿が消えた。
周りの家の壁を蹴って死神ちゃんの背後に回り、飛び掛かってくる。
すぐさま振り返って爪を大鎌で防ぐ。
顔と顔が至近距離まで近づいていた。
「ほかっといてよ‼」
空中にいるのにも関わらず腰の入った三連撃が飛んできて、私はギリギリのところでガードする。
――そして、私は見てしまった。
私はそう言った猫又の顔を見てしまった。
無意識に脳が加速し、目に映るすべてがゆっくりとハッキリしていく。
まるで見過ごすなとでもいうように視界がフォーカスされる。両目に溢れんばかりの涙を溜めた猫又の青紫の瞳と、
――首に巻かれた青い紐のリボンに。
私は目を見開いた。
「どうして……」
「っ!!!!」
猫又は大きな目をぎゅっと瞑った。涙が弾けてキラキラと空中に飛び散る。
私は大鎌を持ったまま腕をクロスし、若干の空間を残して自分のお腹の前にもってくる。次の瞬間、私はお腹を狙ったグーパンチをガードして後ろにぶっ飛ばされた。
「くっ!」
ほぼ反射的に行った防御行動だった。
猫又が地面を蹴ったのが見えた。鋭い爪が迫ってくるのが見えている。
しかし、私はそれをただ見ているだけだった。
今、私の脳内は目の前の事実の整理と思考で埋まっていた。だから、横に走り始めるその動きは今までで一番のろかったと思う。
情報の整理が終わり、私は部分的な放心状態から覚めて猫又の方を向き、立ち止まる。
意識的に一度瞬きをして、脳内が切り替わる。
頭に浮かんだそれが事実かどうかを確かめるために、脳内で成立した憶測に根拠を持たせるために、まずは彼女を追いこむ必要があった。
「ほかっておけないよ」
「……」
その言葉に偽りはなかった。彼女にはこうしなければならなかった理由があった。つい<猫の手>も借りなければいけないような事情があった。それは、つまり自分ひとりでは対処できない何か。
私を捉える猫又の瞳は、大切なものを守ろうとする決意を宿している。
私はそれを見たことがあった。だから、放っておけなかった。
「何もせずにただ見ているだけは嫌だ!」
「……!」
左右に振った死神ちゃんの黒髪が舞う。その双眸はしっかりと猫又を見据えた。
「私はあなたを助ける。だから、まずはあなたに認めてもらう!」
私は両手で大鎌を持ち上げ、猫又に突撃する。
猫又もまた、両手の爪を出して私に突っ込んでくる。
大鎌と爪が触れたと認識した瞬間、二人の斬撃の嵐が目にも止まらぬ速さで衝突し合う。
死神ちゃんの頬に並んだ三つの切り傷が出来る。
猫又の爪は大鎌の刃に当たってボロボロになっていく。
押されているのは猫又だった。体に次々と浅い切り傷が造られていった。
死神ちゃんが大鎌を振りかぶって降ろし、互いの連続攻撃が止まった。
連続攻撃を止めた私は後ろに飛び、塀を蹴って空中で縦回転し、猫又に大鎌を振り下ろす。
大鎌の切っ先は衝撃波と共に地面に突き刺さり、それを回避していた猫又は塀から飛んでキックを繰り出す。
私は大鎌を左右に切り払ってから一回転し、爪を弾き飛ばす。
空中で体制を崩した猫又が着地姿勢を取り、予測していた地点に二本脚で降り立つ。
「おかえし」
言いながら、私は猫又のお腹に回し蹴りを入れる。
「ぐはっ!」
ぶっ飛ばされた猫又は背後にあったコンクリート塀に激突する。
すると、周りに居た猫たちが猫又のところへ走り出し、化け猫三匹を先頭にして私の前に立ちはだかる。
「ニャー! シャー‼」
「ええ……⁉」
私はジリジリと少し後退する。ハッと見ると、塀に激突したはずの猫又は人型ではなく、猫の姿に変化していた。
そのまま流れるように猫の群れに紛れてしまう。そして、猫の群れは私を取り囲むようにして広がりだす。
「お、おお……?」
分かりやすく動揺して、私は空き地の中央へと移動し、目を走らせる。しかし、あちこちへ走り回る猫たちの中で、最早どれが猫又なのか判別がつかない。
「あなたはさっき、あたしを助けると言った」
猫たちのどこからともなく猫又の声が聞こえてくる。どうやらこの自分の特殊空間を通して喋っているらしく、本人の位置は特定できない。
「でも、あなたはすぐにこの町から出ていかなければならなくなるの」
「それは、どうして?」
私は周りを見渡しながら問う。
「この町の所々に祠があって、その中のお地蔵さんたちが最近、故意的に壊され始めているのは知っているでしょう」
知っている前提で言われたのか、語尾にクエスチョンマークはついていなかった。それに対し、死神ちゃんはというと、
「あ、え、そうなの⁉ あの一つだけかと思ってた……!」
全く知らなかった。
「……あたしたちはその八つを守るために見張っていたの」
猫又の少し呆れたようなため息が聞こえた気がした。
「なんでお地蔵さんを守ってるの?」
「あのお地蔵さんは、この町の中央にあるお寺に二百四十センチお姉さんを封じるための封印術式母体なの」
封印術式母体とは、祓うことが困難な怪異や強力な呪具を封印するために封印の術式を刻み込んだ物体のことである。
それはともかくとして……。
「二百四十センチお姉さん⁉」
都市伝説の一つである二百四十センチお姉さんとは、背丈が約二百四十センチの、超デカイ白ワンピース姿につばの広い帽子をかぶった女性の怪異である。「は? は? は?」などと言いながら、狙った人間を数日以内に取り殺し、特に気にいらなかった人間を呪いにかけて呪霊化させ、一生苦しませると言われ、主に自分をバカにした人や自分の気分で人を襲うとされる。その危険度と脅威度は計り知れたものではない。
でも、私の記憶だと封印が解かれて全国各地で現れるようになったって聞いたんだけど、もう一回封印されたのかな……。
猫又は説明を続ける。
「解放された二百四十センチお姉さんを人間がもう一度封印したんだけど、その封印術式母体であるお地蔵さんが破壊されたら、寺の封印だけじゃ弱くて二百四十センチお姉さんは自力で出てくる。でも、お地蔵さんはもう七つも破壊されてしまった……。多くの仲間を失った」
「多くの、仲間を……」
それはつまり、お地蔵さんを壊されないように見張っていた猫たちがお地蔵さんを破壊する何者かに殺害されたということを意味する。
「何者なの?」
「……わからない」
少し間をおいて、猫又が答える。
「でも、かなりの強敵であることは確かで、あたしと同じ猫又が二人やられた」
怪異の中でも上位の猫又が二人もやられるということは、相手はそれ以上の存在だ。そして、その〈何者か〉は二百四十センチお姉さんを解放しようとしている……。
「ひぇえ……」
「……あなたと話してると調子が狂うような……。ねぇ、さっき〈放って〉を〈ほかって〉って言ったけど、あなた、岐阜の方の人なの?」
「えっ、ああ、まぁ、出身は岐阜の田舎だよ?」
「ふぅーん」
微妙な反応をして、猫又は言葉を続ける。
「なら猶更、あなたはここから逃げて。その〈何者か〉が一体何のために二百四十センチお姉さんを解放しようとしているのかは知らないけど、この町にいると危ないわ」
「じゃあ、君たちだけで二百四十センチお姉さんと戦うっていうの?」
「…………そうよ」
その声が少し震えているのを私は聞き逃さなかった。強がっているのだ。本当は怖いし、逃げたいと思っている。でも、守りたいのだ。この町の住人を。
「君は本当にこの町の住人を愛しているんだね」
「……」
猫又からの返事はなかった。
すっかり暗くなった住宅街を、スーツ姿の若者が歩いていた。平均より背が高く、顔も整っていてスーツも着こなしている。つまるところ死神ちゃんの兄である。
こはるは無事に依頼をこなせただろうか。
自分の妹や任せた依頼のことを考えながら、仕事終わりにコンビニに寄ろうと思い、帰り道にある店舗に向かっていた。
猫についた残穢からして今回の件は化け猫か、あるいは上位種の猫又が絡んでいるだろうな。一体この町で何をしようとしているのか……。
目の前に蛍光看板が近づき、コンビニの駐車場に入ろうとすると、彼は視界に黒い物体を捉えた。
「ん……?」
赤い首輪をつけた黒猫だった。駐車場と道路の間の低い蛍光看板の近くに寝転がっている。普段はそんなに気にかけないのだが、なぜか目に留まった。
よく見てみると、その黒猫には中身がなかった。魂が入っていないのだ。
「幽体離脱か。これほど老いていればないこともないな」
と言っても珍しいことには違いないが。
そう思いながらも、兄はコンビニへと入っていった。
「は? 今なんて?」
猫又が展開する空き地の特殊空間の中で、死神ちゃんは五十匹近い猫たちに取り囲まれていた。それぞれが走ったり歩いたりしていて、猫の姿に戻った猫又がどれなのか見分けがつかない状況だ。
「だから、私は逃げない」
猫又の聞き返しに、私は胸を張って答える。
姿が見えなくとも、猫又が眉間にしわを寄せたのがわかった。
「どうして分からないの! 二百四十センチお姉さんに目をつけられたらあなたも死ぬのよ‼︎」
「さぁ? どうかな、戦ってみるまで分かんないよ?」
猫又は唇を噛んだ。
「やっぱり、強制的に追い出すしかないようね」
すると、猫たちが一斉に駆け回り始める。さながら竜巻のように。ガサガサという草の音と大量の足音で錯乱する。
「この町はあたしが守る」
所々で猫が突発的にニャーニャーと鳴き出す。
私はゆっくりと瞼を閉じた。
四方八方からの猫の鳴き声が鼓膜を震わせる。
「ここに住まわせてくれた、助けてくれた、この町をあたしは守る!」
猫又の脳内で記憶がフラッシュバックする。
逃げ惑ってボロボロになったあたしを心配してくれた子供たちの顔。
子供たちから話を聞いて水や食べ物を持ってきてくれたおじいちゃん。
怪我が治ってからは、子供たちが通りすがりに笑顔で手を振ってくれる。
おじいちゃんとおばあちゃんが「元気にしとるか?」と撫でてくれる。
子供たちがあたしのことを色んな人に話したらしく、次第に手を振ってくれる人も増えていった。
あたしはただの猫じゃなくて、猫又なのに。
猫又にとって、今のそんな何気ない日々が宝物だった。
しかし、全てを失って怪異になったあの日から、猫又の心を蝕む後悔と虚無感が消えることはなかった。
「あたしはもう二度と……! あんな悲しい別れはしたくないの‼︎」
猫又が叫んだ次の瞬間、全ての猫が死神ちゃんに飛びかかる。
跳躍した猫たち全員が周りに浮いている。高く飛んだ者もいれば、低く飛んでいる者もいて、逃げ道は全方位どこにもなかった。
しかし、それを避ける気は死神ちゃんには毛頭なかった。
――いくら引っかかれようと、あなたを見つけられればそれでいい。
脳が加速し、時がゆっくりと進む。
目を開く。赤紫の双眸が露わになる。
私は右手を横に真っすぐ伸ばした。
その掌に、牙を向いた一匹の猫が頭をぶつけて少し俯いたようになる。
流れるように、私はその猫の前で片膝を地面についてしゃがみ込む。
ぶつけた手を猫の横顔を撫でるように顎まで滑らせると、自然に牙を剥いた口が閉じる。
もう一方の手でその猫を支え、地面にそっと下ろす。
それから少し顎を持ち上げて、互いに見つめ合う。
多くの猫たちが私たちをギリギリで避けて流れていく中で、死神ちゃんは勝ち誇ったような顔をした。
その猫、猫又はまん丸の目を大きく見開いていた。
猫又の脳内で再びフラッシュバックが起きる。
山の中の古い日本家屋。その縁側の座布団の上で、あたしは丸くなっていた。となりには小さな女の子が地面につかない足をばたつかせて座っている。
失った日常の風景。何度も戻りたいと願った過去。
それは生前の記憶だった。
「あれ? 今気づいたんだ?」
私は悪戯っぽく笑ってみせる。
「こ……こは……る?」
猫又はその形のいい小さな猫の口を動かした。
「いかにも、私が神下こはるである」
ちょこっと威張り気味に、でも優しく私は言う。
猫又は思い出した。こはるに噛みつこうとするとき、こはるはいつもこの手法であたしの口を閉じさせていたということを。そして、彼女は決まってその後に、にこっと笑って見せる。
「ふっ……ふふっ。なにそれ、なんでちょっと威張ってるの?」
――こはるだ。ほんとうにこはるだ。こはるにまた会えた。
猫又は笑いながらも、大きな青紫の瞳から大粒の涙をこぼす。
トラ猫の柄がみるみるうちに白単色へと変わっていき、猫又は今日最初に見た姿に戻る。
死神ちゃんは目頭を熱くしながらも笑って、白猫の両脇を掴んで抱き上げた。
「久しぶり! あわあ! 会いたかったよ……!」
白猫の猫又、改め、あわあも思いっきり嬉しそうに笑って言う。
「あたしも……あたしも会いたかったよ! こはる‼」
死神ちゃんはあわあを胸の内に抱きしめ、空き地の中央で一緒に寝転ぶ。すると、死神ちゃんの背中に接した地面から光が溢れていった。
柔らかな光が二人を中心に広がっていく。
たとえ家に囲まれてコンクリート部材が散らばった空き地でも、安心感のある光に包まれたこの空間は、まるで青い空の下に無限に広がる草原で寝転んでいるかのようだった。
いや、実際にそうだった。実際にあわあの特殊空間は変化していた。
二人は再会を喜び合い、青々とした芝生の上で暖かな日の光を浴びながら、しばらく目を瞑っていた。
私は胸の上に寝かせたあわあの瞳から、今にも溢れそうな大粒の涙を人差し指の上に乗せる。
「ほんとに久しぶりだね……、5年ぶりかな? 6年ぶりかもね」
「うん、本当に……」
途中で、あわあは口をつぐんだ。
私はそれに気づかずに頭を下ろし、どこまでも澄んだ群青を見上げる。あわあも猫の体を横に倒して青紫の瞳に空の色を映す。
家も塀もなくなった空間に心地よい暖かな風が吹いた。
「春だね」
「外はこれから冬なんだけどね」
春風で前髪をふあふあとさせて、死神ちゃんは楽し気に笑う。
あわあは死神ちゃんの上から降りて、少し離れたところにちょこんと座る。綺麗な白色の毛並みが靡いている。
「?」
私はそれを目で追って、首をかしげる。すると、あわあは少し俯いて言った。
「こはる。あたし、ずっと――」
そこまで言ったところで、あわあは白い光を纏い始める。
「……ええ⁉」
私は驚いて上半身を起こす。
周辺に満ちていた太陽光が次々と淡い白色の光となってあわあを包み込む。ついに見えなくなったかと思えば、集まった光はパッと弾けて消えた。
眩しさが薄れていって私がそっと目を開けると、そこには一人の女の子が座っていた。
座っていても地面につくほど長い雪のような銀髪に、目元近くでぱっつんな前髪の幼女。しっかりと上までファスナーを上げたその服は、死神ちゃんの着ているジップパーカーに似ていて、膝下まで覆うスカートと口元を隠す高い襟が一体化していた。
「?」
女の子はそっと目を開けてパチパチすると、信じられないものを見たというように自分の体を慌ただしく見て、自分の小さな両手をぐーぱーする。すると、頭の左右両方の銀髪の中からぴょこっと猫耳が飛び出した。服の後ろからは二又の尻尾が左右にゆらゆらと振れている。
「あわあ~~~⁉」
大きな青紫の目を見開いて、白猫幼女となったあわあが小さな口を精一杯開いて叫ぶ。
「こは……」
「かわいい~~‼」
天使のような幼女のあわあを目にした死神ちゃんは、珍しく黄色い声を上げて口元をジップパーカーの襟で隠した。
「あわあだよね⁉ なんか前のヒト化よりも小さくなってない?! 綺麗な髪! その服どうしたの? ちょっと袖余ってるのかわいいんだけど! 服のデザインもめっちゃあわあに似合ってるよ‼」
あわあには、この瞬間だけは死神ちゃんがギャルかなにかに見えた。しかし、ここまで褒められるとさすがに照れる。
「よくわかんないけど、あわあ、たぶん進化? したかも……」
「だとするとかなり革命的な進化だよ‼ 大化の改新⁉ いや産業革命を超えるか⁉」
しばらくの間、目をキラキラと輝かせた死神ちゃんに多方面から鑑賞され、あわあは話を切り出した。
「あの、そろそろ……」
「はっ! ごめん、話の途中だったね」
私は我に返り、あわあの前に座る。
緊張が取れてあわあはふぅと肩の力を抜く。そして少し目を伏せて言う。
「こはる。あわあ、ずっと謝りたかったの」
死神ちゃんは心当たりがないようにコテッと首を傾げる。
あわあは俯いたままちらっと私を見てから、続ける。
「その……あの日、勝手にいなくなったこととか。さっきも、急に襲い掛かったりして……」
あわあは袖の中で地面を握るように指に力を入れて、今まで喉で止まっていたその言葉を言う。
「ごめんなさい!」
もうあわあは普通の猫じゃない。あの頃を一緒に過ごしたのは家猫の頃のあわあであって、猫又のあわあじゃない。だから、このまま捨てられてしまっても仕方がないと思った。こはると幼少期を過ごしたあわあは既に死んでしまったのだから。
しばらくの沈黙。
あわあの瞳は溢れんばかりの涙を溜めている。すると、こはるは腰に両手を添えて言った。
「そうだね、私だから良かったけど、急に襲い掛かるのは良くないね」
あわあは目をぎゅっと瞑る。
次の瞬間、あわあの体を包み込んだのは、見捨てられる絶望の寒気でも空間が解けて路地裏に吹き込む鋭い冷風でもなく、
――柔らかく暖かい、生きている人の優しい抱擁だった。
「でも、あなたはこの町の人たちを守ろうとしてくれた」
「そ、それは! あわあがこの町の人に助けてもらったからで……!」
あわあは抱きしめられながらも大きな声で言った。
こはるはあわあの頭の横で、囁くように言う。
「私だって、この町の人たちのこと、好きだよ?」
あわあはその言葉に反応するが、こはるの腕の中で叫ぶ。
「でも! あわあはもう……! もう、あの頃のあわあじゃ……」
「それでも、私たちはまた出会えた。出会えたのに、なんで別れなくちゃいけないの?」
私はあわあの頭をそっと撫でる。
「たとえ猫又になっても、私は猫又のあわあが好きだよ。今までずっと、どんなときも、私たちの心はどこかで繋がってたんだもん」
あわあはこはるの腕の中でしゃくりあげながらぼろぼろと涙を零す。
「だからさ、また一緒に暮らそう?」
こはるはあわあと目を合わせる。あわあは頭を上げて、こはると見つめ合う。ガーネットのような赤紫と青紫の瞳がお互いを映し合う。
「うん! あわあも、またこはると一緒に暮らしたい‼」
涙ぐむこはるに、あわあはぎゅっと抱き着く。
こはるも腕いっぱいに抱き返した。
「おかえり、あわあ」
「ただいま、こはる!」
青空の下、草原でくつろいでいる猫たち。その中で、二人の再開を見届けた赤い首輪をつけた一匹の黒猫が、静かに空間を破って外に出ていった。
あわあの展開する特殊空間。全方向を住宅に囲まれた、コンクリート部材の散らばって雑草が生えているような空き地。照明はなく、薄暗くて住宅の向こう側は見えない。
最初に見たそんな光景に、あわあの空間は戻っていた。
あわあは人間の幼女姿のままで、集めた猫たちをよしよしと撫でている。
私はというと、猫の群れの中から依頼の黄色い首輪で四葉のクローバーのバッチがついた三毛猫を探していた。
そこで、ふと私はあわあに問う。
「そういえば、最後のお地蔵さんってどこにあるの?」
「外に置いてあると危ないから、ここにあるよ」
あわあは猫を撫でるのを止めて私の方を向き、空き地の四つ角の一番私に近い一方を指さす。
「そこ」
確かにそこには、祠に入っていたものと同じであろうお地蔵さんが置いてあった。
「あのさ、ここオープンな空間だし、その何者かが入ってくると危ういから私の鎌にしまってもいい?」
「いいけど、大丈夫なの?」
私は大鎌を持ち上げて自慢げに言う。
「鎌を無くさない限り大丈夫! って言っても死神の鎌は使用者を認識してるから絶対戻ってくるんだけどね」
ちなみに、誰かに奪われようなら神のご加護で天罰が下るから要注意。
「ふ~ん。まぁ、しばらくここが見つかることはないと思うけどね。定期的に出入口変えてるし」
あわあは余裕そうに言って近くの猫と向き合うが、その言葉はフラグだった。
――その場にいた全員が、空間の歪みと共に新たな侵入者を感知した。
刹那の瞬間、一つの甲高い金属音が鳴り響く。
音の発生源は最後のお地蔵さんの数センチ手前だった。
それは、死神ちゃんの大鎌と何かが衝突した音。
間一髪で敵の攻撃を阻止した死神ちゃんは視界の端でなにか黒い気配を見て、少しの目まいを起こした。
――気配からしてかなり上位の怪異……!
気合で目まいを治し、私は遠隔操作でお地蔵さんの下に円形の黒い影を出す。いつも大鎌を入れている収納空間である。
お地蔵さんは重力に従って影の中にストンと落ち、私はすぐに収納を閉じる。この収納は死神ちゃん以外には開けることができないのでひとまずお地蔵さんは安全だ。
問題は突如現れたこの怪異。あわあが出入口を定期的に変えていると言っていたし、一体どうやって……。
何者かは奇襲を防がれて、後ろに飛ぶ。
「見るな‼」
あわあが叫ぶ。それはこの場にいる全員への警告だった。彼女も後ろを向いているらしく、塀に声が反響していた。
今の状況は、私の後方に何者かが立ち、その先の一直線上にあわあが背を向けて立っている。
「……っ!」
阿吽の呼吸。私とあわあは同時に振り返った。
視界は横に伸びて理解不能な形になったため、敵は見えなかった。
今までにないスピードで何者か目掛けて斬撃がすれ違う。
しかし、それらは空を切っていた。
すれ違った二人の間に、いつの間にか消えていた黒い気配が再出現する。それはさっきとは比べ物にならないほどに黒に染まっていて、押しつぶされんほどの威圧感を放っていた。
死神ちゃんは腕を振り切った状態で停止している。体が動かなかった。張り付くような緊張感の中、額に一筋の冷や汗がスッと流れる。
それはあわあも同じだった。
すると、何者かは背筋が凍るほどおぞましい女性の声で喋り始める。
「我は化身、玉藻前」
背筋が凍った。
九尾の化身、玉藻前。平安時代に世を騒がせたとされる怪異で、上皇を病にかけて殺害しようとしたが、その正体が九尾の狐であることがバレて成敗され、周囲に毒を出して近づく者の命を奪う殺生石になった。その後、殺生石は僧に破壊されて各地に飛散したのだ。
そこで、私は思い出す。つい数年ほど前に騒ぎになったニュースを。
二千二十二年三月五日。
その日、那須の殺生石が二つに割れていたのが発見された。
「我は再びこの世に還った。邪魔をするな、次はない」
そう言い残して、玉藻前は消えるように姿をくらました。
次回:7/19(金) 23時公開!
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