第4話 フィーアファルベン

【フィーアファルベン】


 プールへの入り方は大きく分けて二つあると私は思っている。

 一つ目は校舎と離れたところにあって、外から入るプール。二つ目は校舎と一体化していて、校内から入るプール。

 この学校は後者だった。

 私たちは一階のプールに二番目に近いトイレに出た。

 プールにあるトイレに直接行くのかと思ったのだが、どうやらプールのトイレは今、紫ばばあという花子さんと同じくトイレに出る呪霊が住んでいるので行けないらしい。

「水野さんってプールに憑んでるの?」

 プールへ繋がる教室棟の扉の前に、私たちは居た。

「そう。すごくかわいい子でね、身長は私より少し大きいかな。髪の毛がすごく長いの」

「なるほど……」

 水野さんはプールの排水溝に髪の毛を挟んで溺れ死んでしまった子の幽霊だろう、と私は推測した。世間では<プールに現れる白い手>の怪奇現象として知られている。

 夏の終わり、授業で最後にプールから上がろうと泳いでいた人が突然沈んで溺れ始めた。なんとかプールサイドまで辿り着いて引き上げてもらったところ、片方の足首に手形のアザができていた、という話が始まりだ。

 また、別の学校では足を白い手に捕まれてプールの底に引きずり込まれそうになったということが起こったので、怪奇現象として広まった。ちなみに、夜の学校プールで水の上に人が浮いていたという目撃情報もあるらしい。

「あ、帰ってきた」

 教室棟の廊下の奥にある職員室から、走る理科室のガイコツとドリブルをするバスケ少年がこちらに向かってきていた。

「カタカタ」

「持ってきたぞ、その扉の鍵とプールの鍵だ」

 理科室のガイコツとバスケ少年に職員室から鍵を取ってきて貰ったのだ。理科室のガイコツは、私たちの前にある扉の鍵穴に鍵を差し込んで回す。

 カチャと軽快な音がして、理科室のガイコツは扉を開けてくれた。

「あれ? 金次郎くんは?」

「金次郎なら、グラウンドでランニングしてるよ。もう一回花子に送ってもらうの面倒だろうからってさ」

 さっきグラウンドに残ったのかー。水野さんに会いに行くって言ってたのに……。

 私たちは開かれたドアの先の廊下を進み、プール直通の扉までやってきた。理科室のガイコツはまた鍵を開けようとしてくれる。

「あれ? 紫ばあ、今日はいないのかな」

 プール内の男子トイレと女子トイレの双方を交互に見て、花子さんは言う。

 さすが花子さん。トイレに出るだけあって、外から見ても今日はいるのかいないのか分かるんだ……。

 ちなみに、花子さんは女子トイレに出るが、紫ばばあは男子トイレにも出るらしい。

 カチャ。

 再び軽快な音が鳴り響き、プールへの扉が開かれる。

 入ってすぐ、両サイドには男女それぞれの更衣室。その先には横五十メートル、縦二十五メートルのプールが縦向きに奥へ伸びている。

 夜の学校プール。

 月光を反射してキラキラ輝いている水面には特に何も浮いておらず、まだ綺麗だ。

「さーて、水野探すかー」

 どうやら水野さんは自分から出てくるのではなく、こちらから探しに行かなければ見つからないらしい。

 バスケ少年と理科室のガイコツは左側。私と花子さんとじんくんは屋根や椅子がある右側。

 しばらくして、プールサイドを歩きながら私は呟く。

「んー、なかなか見つからないなぁ」

 水面はそよ風で緩やかに波打ち、夜の闇を吸い込んだようなダークブルーの水は底が見えず、まるで奈落のように果てしなく続いているように思える。

 プールの半分以上を見て歩いたところで、私は反対側のバスケ少年たちはどうかなと顔をあげる。

「みんなどう……」

 しかし、反対側には誰も居なかった。

 プールサイドの端から端まで見渡したが、二人の影は見当たらなかった。

「花子さん、バスケ少年たちが……!」

 花子さんがいるであろう背後を急いで振り返ったが、そこに花子さんもじんくんも居なかった。

 そして、今気が付いた。

――周囲が恐ろしく静かなことに。

 木の葉がかすれる音も、虫の鳴き声も、そよ風さえなかった。

 いつの間に雰囲気が変わって……⁉

 私は背中に掛けていた大鎌を手に取り、水平にして両手で持つ。

 嵐の前の静けさ。

「……」

 突如、プールの水面からバシャーンという大きな音と大きな水しぶきとをあげて四本の白い手が伸び、私に向かってきた。

 素早く反応した私は一回転して右下、切り返して左上、大鎌を横にしてカタカナのフを描くように右上、左下を切る。

 切られた手は黒い霧となって消滅し、腕はプールの中へと戻っていく。

 プールに一気に妖気が満ちた。

 月光は怪しさを纏い、水は青紫に不気味に輝いている。

 私は再び大鎌を水平に持ち、体制を整えた。

 プールから計十五本ほどの白い手が水しぶきをあげて伸びる。

「わぁあ……」

 ついそんな声を漏らすも、圧倒されている場合ではない、私は取り敢えず右方向へと走り出した。

 その後ろを白い手は束になって追ってくる。

 目の前にプールのフェンスが迫る。

 十分近づいてから、私はくるりと身をひるがえす。

 踏み出し、大鎌を大きく振りかぶって斜め左下へ振り下ろし、複数の白い手を切断。勢いを殺して大鎌を持ち上げ、右下に振り下ろして、そのまま二回転。計三回の斬撃を繰り出す。

 背後でタイミングばらばらに複数の衝突音が響く。

 即座に前に飛び、手を避けながら白い腕の間を縫うように飛び移って、その束を抜ける。

 足が床に着くタイミングに合わせて膝を曲げ、衝撃を軽減しての着地。

 追加でプールから数本の白い手が高速でこちらに伸びてくる。

 大鎌をX字に左右に振り下ろし、左、右と水平切り、振り切った勢いのまま一回転して、最後の正面の一本に左からの切り上げを当てようとする。

 しかし、その白い手は大鎌の切っ先をぎりぎりのところで急上昇し、攻撃を躱した。

 私の隙をついて、斜め上から白い手が伸びる。

 私はすかした大鎌の勢いに乗り、更に腕を振って回転を加速させ、再攻撃を仕掛ける。

 大鎌の先端が、迫っていた白い手の手首を突き抜けて腕と手とを分離した。足元に落ちた手は黒い霧になり、腕は水中に戻っていく。

「ふぅ」

 あーあぶなかったぁ! 危機一髪だったー。束になって迫ってくるとか本当にどうしたらいいの⁉ しかも、今の手フェイントかけてきたし!

 私は心の中で叫ぶ。

 まぁ、何とかなったしいいか。

「ん?」

 ふと左足首にヒヤリとした感触があった。見ると、プールから伸びた白い手が私の足首を掴んでいた。

「しまっ……!」

 白い手は勢いよく上に伸び、私は逆さまになって宙吊りにされる。シャツがめくれておなかが見えている状態で、私はプールに近づきすぎたことを後悔した。

「やらかしたー……」

 私は上下反対に、手を振るようにふらふらとしている複数の白い手を眺めた。まるで、死神ちゃんにバイバイとでも言っているかのようだった。

「……」

 そして、白い手は私をプールの中に引きずり込……まなかった。

「……、ん?」

 私を掴んでいる白い手はピタリと止まって動かない。まるで別の事に意識が向いていて、私のことなど後回しにしているかのようだった。

 次の瞬間、私の目に映ったのは、膨れ上がった水面が破裂して中から大量の白い手が空に伸びていくという光景だった。

 しかし、出てきたはずの白い手は瞬きの間にいなくなっていた。

――否、白い手は燃え尽きてなくなったのである。

 キラリと何かが光ったと思うと、私に向かって一本のナイフが飛んできた。キッチンナイフである。

「え……⁉」

 大鎌を持ち上げて防ごうとしたが、ナイフは私ではなく私を掴む白い手に刺さった。

 手は私を放し、くねくねと暴れた。

 私は空中で体を起こし、受け身を取って着地する。顔を上げると、大量の白い手が再び上空へと伸びていた。その向かう先を見て私は言う。

「花子さん!」

 教室棟三階ほどの高さに浮かぶ、ちょうど肩にかかるくらいの髪で白いワイシャツに赤い吊りスカートの姿。

 間違いなく花子さんだったが、背丈が伸びていた。前は小学生くらいの女の子だったが、今は高校生くらいの少女である。吊りスカートの肩にかける部分を最早使っていない。相変わらず目は前髪で隠れているが、花子さんの口元は笑っていた。

「ヒヒヒッ……!」

 花子さんは自分の周りに赤色の炎を出現させてそれを下から迫る白い手に投げつけていく。

「さ、さすが花子さん。一番知られてるだけある……」

 花子さんのように噂から発祥した呪霊はその噂が広まるほど、その噂を強く信じれば信じるほど、その怪異本体に大きな力が宿る。その性質から、花子さんのような存在を精霊と呼ぶ人もいるらしい。

 私の近くの水面からも複数の白い手が伸びる。私は大鎌を水平にして構えた。

 すると、プール中央の水面が若干盛り上がって、静かに水中から何かが上がってきた。

 黒く艶やかな長髪。藍色の生地から露出している青白い肌。控え目な体のライン。上下が分かれている古いタイプのスクール水着を着た、中学生くらいの少女が水面に立っていた。

 正真正銘、彼女こそがこの白い手の本体であり、水野さん本人である。

「うわぁ~、すごく長い髪」

 死神ちゃんも腰に届くほど髪を伸ばしているのだが、水野さんは自身の背丈ほどもあった。

 またも水面が揺らいで、さらに大量の手が伸びてきた。それは、ここからが本番だと言っているようだった。

「そろそろ張っとかないとまずいよね」

 私は大鎌に精神を集中させる。

 大鎌に刻まれた術式。その一つを解いていき、展開する。死神ちゃんの赤紫の瞳が僅かに光った。

「《冥帝空間域》」

 死神の術式の一つであり、死神の空間を強制的に現実の特定範囲に結び付けるものだ。この世と地獄との狭間にある冥界の帝がかつて使っていたとされる術式だが、死神ちゃんが使えるのは簡易版かつ相当古いものとなっている。

「おけ、上手くいったかな」

 黒い霧がプールと校舎の一部を囲い、花子さんの上空を覆って半球状の霧の幕を形成する。月光が遮られると同時に辺りがぼんやりと明るくなった。

 死神の鎌に刻まれた冥帝空間域は全部で三つの効果がある。

 一つ、この空間内は常に一定の光量で視覚できる。

 二つ、空間内の呪い、怪異、死神等を空間の外側から見えなくし、出られなくする。

 三つ、展開後に空間内で破壊されたものは空間収束時に元通りになる。

 この全ての効果は、死神が的確に仕事を行うための術式。つまりは――

「死神特有の空間領域だよ!」

 水野さんの横顔はぴくりとも動かず、真顔のまま。

 まぁ、辺りが見やすくなっただけで、特に目立った効果ないしね。攻撃性もないから安心してと言いたいところだけど。

 しかし、どうやら落ち着く様子もなく、猛攻撃が始まる。水面が激しく波打ち、頭上から複数の白い手が落石の如く降り注ぐ。

 私はなんとか身をかわしてそれらを避けていった。

 一発ごとにプールサイドの床に亀裂が入り、破片が飛び散る。

 バトル再開の連続衝突音が鳴り響いた。

「ハハハッ!」

 花子さんも再び手から赤い火の玉を出して、白い手の群れに投げながら空中を飛行する。

 私は横から飛んでくる手をサイドステップで躱す。そのたびに後ろの針金フェンスが破れている。

 さっきと違って、このパンチは一発でもくらったらオワリだ……!

 どんどん手が突っ込んできて、逃げ場を失いつつあった私は、ちょうど躱して横を通り過ぎるかたちになった白い腕に後ろ蹴りをお見舞いする。大してダメージはなく、微妙にふにゃっとしただけだったが、それでよかった。

 私は素早く白い腕に乗り、その進行方向の逆を走る。

 それを感じ取った水野さんは、フェンスに貫通していた腕たちを一斉に曲げて、津波の如く私を追う。

 大波に追われながら、私は水面に立つ少女に向かって緩やかな弧を描いた腕一本分の橋の上を駆ける。

 しかし、弧を描いているとはいえ一直線上を走っているのだ。進行方向の推測は容易い。右斜め前から、死神ちゃんの胴体を軌道上で捉えたパンチが直進してくる。

 私は跳躍して空中で前転し、飛んできた腕の上に着地する。少し流されるが、またパンチの逆を走る。回り込むかたちになってしまったが、私は水野さんとの距離を確実に詰めていく。

 視界の端々に白い塊が数個見えた。

 復活した手、新しく出てきた手たちが死神ちゃんの周りを囲い込み、弾丸の如き総攻撃を開始する。

 私は思いっきり足を曲げて弱跳躍。最初の足を狙った二本の内、上に重なった方の上を走る。同時に次なるパンチが上や、左右から迫る。

 跳躍。迫りくる拳をじゃっかん体をずらして避けながら、腕と腕の間を縫うように次々と飛び移っていき、上へ上へと登っていく。

 最後に、大きく上に飛んで手の群れから抜け出す。

 ジップパーカーがバサバサと靡き、髪がふわりと舞った。

 私は下を見る。

 数えきれないほどの手がそのひらを大きく開いてこちらに伸びてくる。

「うわぁ……」

 つい声を漏らしてしまった。なんというか、引き気味の声だった。しかし、すぐに見方は変わった。

 死神ちゃんには、その手が助けを求めているように思えた。助けを求めて、その手を伸ばしているように見えた。

 まだ世界に数多く残っている魂たち。呪いに変化しているもの、肉体を得て怪異になったもの、それらに取り込まれて、あるいは同種のものが融合して成ったもの。

 その全ての魂は悲鳴を上げている。

 見えているのに、ただ眺めているだけか。哀れむだけなのか。

 もうずいぶんと前に気づいたことだった。そして、心に決めたのだ。

――その魂たちを救いたいから、見過ごせないから、私は死神をしているんだ。

 例えその数が日本の人口を上回っているのだとしても、私は死神として出来る限り多くの魂たちを天に返すんだ!

 最近、散漫になっていた気持ちを固めて、私は水面に佇む水野さんを見る。迫りくる手の群れを見る。

 そして、固い意志の下に声を発する。

「今助けるからね!」


 下、プールの上空で死神ちゃんが白い手の群れの中へ落下していくのを見ながら、花子さんは空中を浮遊していた。

 後を追いかけてくる手に赤い火の玉をなげつけながら、優雅に腕の間をすり抜けていく。

「コレハドウ?!」

 ある程度距離を取ってから花子さんは止まり、火の玉を手の爪に引っ掛けて一回転する。

 炎が花子さんを包む。それは白い手を焼くバリアとなり、その進行を止める。熱気が花子さんの青白い肌を撫でた。

 炎が消え、花子さんは自身の周りにいくつかの火の玉を浮かばせて、相手をじっと見る。今まで歯を出して笑っていた花子さんの口が閉じた。同時に構えの姿勢も崩した。

 白い手たちは花子さんの前で止まって指を少し曲げて浮いている。数は三十ほどだろうか。

 戦闘中にしては長すぎる間。

 花子さんはふと、死神ちゃんを見た。

「ヘェ……」

 水野さんはその隙を見逃さなかった。

 両者が同時に動き出した。


 死神ちゃんは先程と変わらず、腕と腕の上を飛び移ったり、腕を渡ったりしていた。

 しかし、場所は変わっていた。もう、水の上ではない。下はプールの更衣室だった。校舎側に寄ってきているのだ。

 死神ちゃんは、上に伸びる白い手たちを束ねるように周りを回っていた腕に飛び移って駆ける。まるで螺旋道路を上っているかのようだった。

 手の総攻撃は一旦止まったが、後ろには大量の白い手が追いかけてきていた。死神ちゃんは走るスピードを一段階上げた。そのまま緩やかにスピードを上げていく。

 疾走。吹き抜ける風が一段と強くなり、背後の白い手は置いて行かれ始める。

 行く先、束から離れて一際大きく腕が曲がっていた。私は構わず、スピードを上げ続ける。

 カーブまで来た。そこで死神ちゃんは今までの勢いのまま、前方に思いっきり飛んだ。

 空中。強風に吹かれながらも、目はしっかりと着地点を捉えていた。

 飛んだ先、着地したのは、校舎三階の鉄筋コンクリートの上だった。私はすぐに右に走り始める。同じように加速をし、コンクリートの上を疾走する。

 背後で、追ってきていた白い手の束が盛大な音を立てて校舎に突っ込んだ。

 正面、花子さんが校舎ギリギリで急カーブし、同じく追ってきていた白い手の束が校舎に激突する。

 二つの衝撃波。窓ガラスが割れ、キラキラとした破片が周りを飾る。

 死神ちゃんと花子さんが互いの物理的距離を縮めていく。両者ともほぼ変わらぬ速さで、二つの衝突箇所の真ん中ですれ違った。

 死神ちゃんの赤紫の瞳と花子さんの真っ赤な瞳とが視線を交わす。

 ほんの一瞬、流れゆく世界がとてつもなくスローになった気がした。

 そこから加速的に景色が動いていった。元通りになっても、死神ちゃんはもっと速く走れると思った。だから、走る足をもっと速く動かした。

 正面から迫ってくる手の束に鉄筋コンクリートから、跳び箱の上で前転をする容量で腕の上に飛び移り、全速力で疾走する。

 下り坂を自転車でとばしているときのような、今までにない疾走感を味わいながら、滑り台のような腕の束を下る。所々、伸びてくる手を他の腕に飛び移ったりして避けながら、ついに水面の近くまで来た。

 腕は直角に折れて水の中へ続き、先に道はない。

 死神ちゃんは前に飛んだ。目の前に水野さんが立っている。

 気づいてから一振りもしなかった大鎌を持ち上げて、空中で横一回転する。

 勢いのついた大鎌は、一回の回転が終わったすぐ後に静止した。

 水野さんの黒髪が舞い、死神ちゃんの黒髪とジップパーカーがバッと持ち上がる。

 横に並んだ二人を中心に衝撃波が広がり、水しぶきが上がった。

 大鎌の刃先は、水野さんの胸元を捉えていた。突き刺さって、ペンダントの紫色の石にひびを入れていた。

 ピキッと音がして、アメジストは砕けた。


「これアメジストじゃないかも」

 数週間前と比べて和らいだ日の下で、私とユナは代わり替わりにこの前拾った紫の石を公園の水飲み場で磨いていた。

「だって、中に変なもようがかいてあるもん」

 私は小さな手で数回、蛇口を回して閉めてユナの横にしゃがみ込み、ある程度泥が取れて綺麗になったその石を見る。

「ほんとだー。赤いね……」

「きれーい」

 しばらく、二人で水にぬれたその石を太陽にかざして見惚れた。

「この石、取られないようにあそこにしまわない?」

 そう言って、私は近くにあった空の祠を指さした。

「いいね、そうしよー」

 公園の隅に行って紫の石を祠の中に入れ、私の赤紫の瞳とユナの緑の瞳がお互いを映す。そして、ユナは笑顔で言った。

「わたしたちのたからものだね!」


 なんで思い出したんだろう……。

 バスケ少年をプールから引っ張り上げながら、そんなことを思った。もう一度見ようにも、さっきの紫の石は小さく割れて沈んでしまったのだった。

 しかし、あまり深く考えている場合ではなかった。

 実はさっき、同じようにして花子さんに引っ張り上げてもらったのだ。どうやら水野さんの周りの水面は立つことができたらしく、私も最初は立っていたのだが、水野さんが倒れると同時に一緒に水の中へ落ちてしまったのだ。

 つまり、短く言うと、とにかく寒い!

「さすがに、時間差ぼちゃんでほとんどずぶ濡れはドッキリすぎるよー……」

 唯一濡れなかったところといえば頭のてっぺんぐらいである。

「俺なんて、プールの底でとんでもない水圧くらってたんだぜ? 死ぬかと思ったわ。もう死んでるけど」

 そう言って、バスケ少年はなかなかプールから上がれないガイコツの救出に向かった。

 いつの間にか小学生の姿に戻った花子さんが、プールサイドに寝かせておいた水野さんの顔を覗き込んでいる。

 私は花子さんのところへ向かった。

「あれ? 花子さん、戻ってる。どういう原理?」

「うん。私の因果の術式だよ。戦闘開始っていう発動条件で、戦うための呪力を解放するの」

「ほぅ、つまり戦闘モード的なやつですな」

 うんうん、と花子さんは頷くと、水野さんに視線を落とす。

「あ、目、覚めた?」

「えっと……」

「死神ちゃんが助けてくれたんだよ」

 そう言って、花子さんがこちらに顔を向けると、水野さんもこちらを見る。

「あ、ども」

「あ、えっと、助けてくれてありがとうございます」

「どういたしまして!」

 続けて水野さんは「あ、あの」と小さな声で言う。

「えっと、その、す……透けてます……よ」

「?」

 私はハッと自分の胴体を見る。

「は、早く言った方がいいかと思って……! そ、その……かわいらしい、ですね……」

「どういたしまして!!」

 私は急いでジップパーカーのチャックを一番上まで上げた。

「おーい。ガイコツやっと戻ったぞー。ったく、大変だったぜ。引っ張り上げようとしたら腕が取れたり……」

「ねぇ、バスケ少年。見た?」

 そちらを向かず、私は訊く。

「はー? 見るも何も、髪の毛全濡れで前も見えんわ。あぁ、早く乾かさねぇと」

 確かに、いつも立ってギザギザしているバスケ少年の髪が、今はぺったんこになって目元を覆い隠している。

 となりのガイコツもカタと首の骨を曲げた。

「ぷっ、なにその髪型! おもしろ……」

 私はバスケ少年の頭を見て、つい笑ってしまった。

「すごいね……」

「カタター……」

 続いて花子さんもくすくすと笑い始めてしまった。

「お、おい! そんなにおかしいか!?」

「金次郎像が見たら、ノートに絵描いて、一生保管しそう……」

「ま、マジでそれだけは勘弁してくれ……」

 バスケ少年は項垂れる。

「えっと、だーくな感じでかっこいいと思います!」

 そこに水野さんのフォローになっていないフォローが入り、さらに肩を落としたバスケ少年であった。


 夜の学校からの帰り道。

「あ~寒いぃぃ」

 私はジップパーカーの高い襟で口元を隠しながら、月明かりと街灯に照らされた道路を歩いていた。

 横の角から酔っぱらったおじさんが、ふらふらとした足取りで死神ちゃんとすれ違い、逆の方向を歩いて行く。

 死神ちゃんの影が後方に小さくなった。

「……あ?」

 おじさんは、唐突に自分の前に落ちたそれを呆けた顔でしばらく見た。

――そこにあったのは、首が取れて頭が大きく欠けた地蔵だった。

「誰だよなぁ~、こんなところで地蔵壊したやつ~! …………地蔵?」

 振り返るとそこには、辺りに破片を散乱させて倒れている地蔵と、その横に座る一匹の野良猫がいた。

「猫?」

 よく見れば奇妙な猫だった。普通の猫が醸し出しているあのやわらかい雰囲気がない。体毛が少し逆立ち気味で、大きな目の細い瞳孔がじっと酔っ払いを捉えて離さない。

 猫と目が合って離せないまま、その横で振れている猫の尾へと視線が動く。

 左右に尾が振れる。

 暗闇で少し影が重なって見えている。最初はそう思っていたのだった。しかし、その瞬間は明らかにそれを否定した。右に左にと遅れて見えるはずの影が、それぞれまったく逆の位置にあった。

 真逆の二つのメトロノームを縦に重ねたかのように尾が振れている。

――そいつには、尾が二本あったのだ。

 さっと視線を戻したとき、既にそいつの目は大きく見開かれていた。

 酔いも覚めて、背筋に寒気が走る。

 そいつが一歩踏み出した。

「あ……ああ……、やめろ……くるなぁああ!!」

 猫の鳴き声が住宅街に響く。

 雲一つない、静かな夜だった。




次回:7/17(水) 18時公開。

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