episode6 バーデン棟
珍しく風の強く吹く日、部屋の中にいても窓の外の世界が大きく揺れている。時折吹き上げる凄まじい轟音が恐ろしくて窓も開けれないで固唾をのんでいた。
そんな折、その昔仕事でお世話になった雑貨商のヨハン天空社で、秘書として働いていたサムが、恒例の魚介類を保冷箱に詰めて小型のピックアップ車を颯爽と運転してやってきた。
シンディより10歳ほど若い。頼もしく溌剌としたサムのことをシンディはとても気に入っていた。せっかくの来訪だから、シンディは、遠くから訪れた友人のために今日はバーデン棟を目指そうと思った。足腰が重くて中々行かないけれどまた改装されてより快適な場所になったと聞いている。気になるのはこの風の中、たどり着けるだろうか…
自然を満喫する為のコテージだから娯楽施設もこれといって無かったこの場所に少しは贅沢もと、社員の福利厚生も兼ねて作った大浴場。大きな建物だからどっしりとして風の影響を受け難い。向こうに籠もって温泉を楽しんでいる間に風が少しでも安らがないかと思いながら…日頃はご無沙汰のところだけれど…たまには足を運ぶのも良い。
バーデン棟は此処一年の間に建設された老人向けリゾート目玉のリラクゼーション施設。少しずつ施設を広げようやくグランドオープンを見た。建物の中にすっぽりと南国が再現されていて亜熱帯の植物が沢山植わっている。食堂も完備。美味しいイタリア料理のレストランだ。ゆったりと温泉気分を味わうなら時間をかけて滞在するのが一番だった…
話題には事欠かない。今日は意を決してあそこまで登ってみよう…
少し小高い山の中腹にある天然温泉は、ゆるい坂道なのに曲がりくねって距離があるせいか登りは息が切れる。健康を気にしながら息が切れない程度にゆっくり時間をかけて上がる。此処を名所に出来ないかと一般の来訪者、ビジターによる別荘やペンション利用客も楽しめるように新しく開発されたエリアだった。
休日は家族で集まりファミリー客の弾けるような声で賑わうバーデン棟。時折テレビでも取り上げられてトピックスで見たことが有る。行かないけど賑わいは知っている。そんな人気の施設も、平日は静かなリハビリエリアに姿を変える。歩行訓練のためにゆっくり歩く人や、時々湯に浸かりながら、あるいは浸かったままで談笑を楽しむ友人同士。湯は温かく滑らかに体に纏わりつき痛みを癒す。もちろん散歩道の他に車で上がれる道も用意されていた。
ジャグジーは苦手なシンディが寝湯でうとうとしながらこの夏の計画をサムに尋ねる。
「この夏はどうしようと思ってる?計画はもう立っているのかしら」
「10歳の孫が自然が好きで、此処に泊まりたいって、あなたとの写真を見せたのよ。前に撮った。あの湖の景色が良かったでしょ。そしたら来たいって、一緒に遊びに来る予定にしてるんです。
湖も素晴らしいけど、山の景色が最高でしょ。鳥のさえずりも素晴らしい。ぜひ此処へ招待したいと思ってるわ」
「それは良いわね。ここは別天地だから。住んでいる内に私も都会の賑わいを忘れてしまった。きっと誰もが癒やされるわ。子どもも安心して遊ばせられるしね。今まさに盛のレモンの花。夏にもまだ咲いているかしらね。この香りが目当てなら計画を少し早めないとって友達に言っているところ」
「ほんとに見事なレモンの花。山の半分を埋め尽くす白い花なんて…此処までの道にずっと続く華やかな香りが素晴らしかったわ」
バーデン棟の湖側一体にレモンの木が植わっている。その木の花が今真っ盛り。
散歩道を行くと、レモンの香りが漂う道すがら日当たりの良い高台に人が集まっていた。何処からこんな人数がというほど、このコテージにこんなに一ヶ所に集まって語り合おうという人がいようとは…と言っても7人ほど、この数がこの山では一大事。それで驚くこっちもどうかしているけれど…
人が集まっているのも謎だけど、わけを聞けば、この辺りにリスの道があるらしく。偶然見かけた御婦人が、もう一度遭遇できないかと目を凝らして探しているという話だった。
小さな動物が目につく場所は自然が豊かだ。レモンの群生地の後ろにはカシやブナが控えている。我が家の庭にもリスはやって来る。頬いっぱいに木の実を蓄えてウロウロしながら巣に運んでいる。
丘に差しかかってその一段と談笑して一息ついて振り返った景色は美しかった。湖が端から端までまるで海のように大きな姿を見せた。
「奇麗だね。レモンを通した空気がなんと清々しい」
「今が一番いいね。夏まで待ってくれないかなこの分じゃ」
「ここは子どもたちの遊び場には持って来いね。虫は好きなの?虫もたくさんいるわ」
虫嫌いの子どももいる。シンディはそれも気になって聞いてみた。
「虫大好き。大丈夫。水と虫と火が好きって子どもは。何かの本に書いてあったわ。あれ通りの子どもたちだから気を使わないで済むわ」
「それは良かった。せっかくの休日嫌なことがあったら可愛そう」
サムとそんな話をした。このコテージを気に入ってくれている人がいる。都会を離れて憩う自分には気に入る場所でも誰でもそうなるとは限らない。それを確かめられて良かった。
ゆったりと温泉を楽しんでその後、パエリアを焼こう。サムのお気に入りのワインも用意している。尽きない昔話に花を咲かせながらバーデン等までの僅かな散歩道を楽しんで歩いた。
リスには遭遇できなかったけど…家に来るかもしれない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます