episode4 目覚め

 気持ちよく目が醒めた。このところ眠れない日々が続いて、夜中まんじりともせず天井を眺める。その反動からかある日突然、時間など意識になく深い眠りに落ちる日がやってくる。周期を気にしたことはないが多分…来る頻度もまばらで待ち望んでも来ることはない。昨夜はそんな夜が突然やってきた。久しぶりに深い眠りに落ち…今、ため息とともにスッキリと目覚めた。 

「おはようございます。昨夜はこの辺りは大変な雨で、時折雷も鳴っていましたが、大丈夫でしたでしょうか」

 部屋付きのバトラーが目覚めのミネラルウォーターを美しく磨き上げたグラスに注ぎ、差し出しながら話しかける。すでに時間は10時を過ぎている。この時間に目覚めた奥様のことを、バトラーは眠れなかったために起きるのが遅くなったと勘違いしている。奥様は昨夜食事を終えベッドルームに向かった午後7時から朝の10時までひたすら混沌と眠っていたのだ。

「おはよう。気が付かなかったわ。そう、大雨…雷も…」

「あの様な激しい雨を知らないで眠れるなんて、奥様はなんて大物なんでございましょう」

 なんて軽口を聞きながら、目を丸めた。

 そんなことが手柄になるなんて、大物でも何でも無い。周りの事など一切気にしないでただ昏々と眠っただけだ。ここのところ寝付けないで不眠が溜まっていた…そう答えようと上目遣いに見上げても、勘違いしているバトラーを相手に言い訳するのももどかしい。最早話したいことなどない。テーブルに朝食の用意が済んだら、直ぐに出て行って欲しいと心から願った。

「では、失礼いたします」

 重々しく頭を傾ける。有能で優秀なバトラーだ。何でも過不足なくこなして、もう良いと思った辺りで影のように消える。

「やれやれ、寝疲れたなんて言ったらバチが当たる。それにしても7時から10時、かれこれ15時間もよく眠ったものだ。

 あら、このフルーツの美味しいこと、新鮮なのね。今日はひとりを楽しもう。そんな日は雨でもいいのに、昨夜は一晩中降ったって話だからかね。もう降らないわね。上天気だこと」

 独り言をききながら、窓の外に目をやる。鮮やかなグリーンが目に飛び込んでくる。嫌々いけないいけない…独り言などするとまたあいつがやって来てしまう。と聞こえない声で自分に言い聞かせた。

 食事を終えると、午前中奥様はコテージ所有の広大な庭の、湿地帯に作られた見晴らしのいい木道の散歩を楽しまれた。その先の飛び石を巡る共同の花壇に、切り花にしていい季節の植物が植えられている。

 そこから手折った花を大事そうに抱えて一度部屋に戻る。美しいあじさいの花にもう一度ハサミを入れて硝子の投げ入れに活ける、その後は女神湖畔の日陰に腰を下ろして、ボートに戯れる、短期滞在の家族の楽しむさまを我が孫のように愛でていた。

 この距離で眺めるのが良い。肩掛けのトートバックに忍ばせた本を、読んだり閉じたりしながら日光浴を楽しむ。

 実に良い日だ。梅雨の晴れ間とも言うべきか、風も心地よくそよそよと吹き抜ける。さっき朝食を摂ったばかりなのに、もうランチが楽しみになっている。食欲がある。案外、自分は健康なんだなと思う。昨日メアリーが届けてくれた真っ赤な林檎でパイを焼いて欲しいとバトラーに頼んでおいた。無口なバトラーは、かしこまりましたとりんごを受け取ってキッチンに向かった。あれも楽しみだ。どんなパイが焼けているだろう。

 そろそろ部屋に戻ろう。そう思って立ち上がった。

 その時、見慣れた小さな犬がこっちに向かって走ってくる。その後ろで娘のレガがニッコリ笑って手を振っていた。

「母さんおはよう。家を出るのが遅くなって、もうごきげんようかしら」

「珍しいね。最近頻繁に顔を見せるじゃないか。こんな上天気なのに、雨を降らさないでおくれよ」

「まあ、相変わらずね。今日は母さんが気にしてたから、もっと光を通すカーテンがないかって、前から探してたのが見つかったの、それを持って来てみたわ」

 そう言って、包を自慢気に持ち上げた。

「嬉しいね。良いのがあったのかい。自分で探しに行きたいところだけれど、最近出掛けるのが億劫でね。有り難い」

 レガはセンスも良かった。トンチンカンなものを押し付けられたのなら断るところだけれど、あの麻紐で結んだ包の中にはきっと良いものが入っているに違いない。と奥様は心が踊った。

「部屋に戻ろう。頼んでおいた美味しいアップルパイもちょうど焼けているころだよ」

「まあ、母さん、またバトラーさんに無理を言ったのね」

「りんごを頂いたんだよ。何でもこなしてくれる優秀なバトラーだから…」

 我が儘が言えるとにっこり笑った。

「部屋付きのバトラーなんていい気なもんよね。なんでも叶えてくれる魔法使いを手に入れた気分はいかが?」

「魔法使いじゃないよ。ちゃんと順を追って作るんだよ。アップルパイ。私は真っ赤な林檎を手渡した。それを刻んで煮てパイにして…眼の前でいきなり出てくるのが魔法だろ」

「まったく、何を言っているの?突然眼の前に出てくるのも同じでしょ」

「ハハハ、お前の言うとうりだ。美味しいと良いね」

 奥様は機嫌良く笑った。笑うと湖水の鳥たちも華やかに舞って、にぎやかに波音が聞こえるようだった。母親の機嫌のいい様を見てレガが嬉しそうに背中を支えた。

 

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