episode3 時空の歪み

 久しぶりのケーキの会。遅くなったものの先生も無事到着して予定通り香り高い紅茶のシフォンケーキが焼き上がって会話が弾んだ。思わぬ話が聞けて面白かった。突然の事故に顔色を青くした先生も、恐ろしがってはいたが心配したほどの怪我もなくて良かった。

 二人が帰った後、先生から頂いた白檀の香りを楽しみながらあれこれ考えていた。この街ではいろんな事が起こる。安心して住んでいたいのに、思わず起こる不思議な出来事に首を傾げた。

「また、なにか悩んでおられるのですね」

 あの使いが顔を出した。意識をさとられまいと抵抗する。

「あら、帰ったんじゃなかったんですか?まさかあのまま何処に…いたの?こんなに長い時間留まっていたのは初めてじゃない」

「ずっと居たわけではありませんよ。私は時を出入り出来るのです。ここにいなくても、いつでも何処かで奥様を見守っていますよ」

 『さっきの私は眠っていたはず。今は起きている。意識もはっきりしている…』

「あ、紅茶入れますか。美味しいケーキもありますよ。先生がいらして無事焼けたんで」

「結構でございます。私は何も頂きません」

 風の使いはさらりと奥様の誘いを断った。

「そんなこと言わずに、遠慮なさらなくて良いのに」

「私はなにも頂きません。御存知じゃなかったですか?食べないのです。なにも」

「まあ、そうだったかしら初めて知ったわ」

 ポットを抱えてウロウロした。何も食べない。そう知らなかった…風の使いのことを詳しく知りたいとは思わない。興味もない。普通のおもてなしをしようと思っただけ…そう奥様は思うのだった。

「轍のことが気になっているんじゃないでしょうか、チャリオットのことですよ…」

「チャリオット?」

「ほらまた考えてしまったでしょう。そんなものがこの世界にあるのかって」

「なんでも分かってしまうのね」

 おでこに神経質なシワが寄る。それでも無関心を装って冷静に紅茶を一口流し込む。沈黙が心の中をすり抜ける。『私があなたのことを嫌っているのも分かるのかしら…』そう思って様子をうかがう…

「あんな大きな轍を作ってあそこを走ったのは、昔の戦士たちですよ。一台じゃない。何台も何台も、それで轍が深く大きくなったんですよ」

「まあ!そんな事あるわけないわ」

 奥様はひざ掛けを落として立ち上がった。想像話を聞きたいとは思わない。反応して立ち上がってしまうほど拒否反応が強かった。

「あの場所は時空が歪んでいるのです。ちょっとだけ…はみ出した昔が馬車道に傷をつけた」

 『まさか、これは信じては駄目な話だ。と深く息をした。口車に乗ってとんだ話を仕入れて、私が人に良いふらすとでも思って…』

 そんなつもりでキッと睨んだのかも知れない。

「信じてもらわなくても良ござんすよ。無理もない。こんな話人にしたら笑われますからね。いや、おかしくなったかと心配されますかね」

 といかにも分かった口調で話を続ける。

「私が存在する時点でこの場所は歪んでいるのです。と言うか少し扉が開きかけているんです。気づかないでしょうが、私はもう随分前から何度も此処へ来ています。此処を愛する方々のことが私も好きなのです」

 理解し難い話に目を閉じる。微かに目眩がするのだ。意識が跡切れ跡切れになって大きく息を吸ってもまともに戻れない。こいつは良い奴なのか悪い奴なのか測れない。

「少し横になるわ、あなたももうお帰りなさい。ケーキも食べないんでしょ。用は済んだようだから。そうしてちょうだい」

 気分が悪かった。風邪を引く前のゾクゾクが体を襲う。不安感が増大する。熱があるのかも知れない。

「では、ごゆっくりなさって下さい。また、次にあった時はお花畑にご案内しますよ」

「その話はしばらく良いわ。私ももう少しこのまま此処を愛する者でいたいから」

 頬に薄く笑顔を浮かべて風の使いは消えた。

「チャリオット…」


 ゆっくりベットに腰を下ろして気持ちを落ち着けた。遠くで枝が揺れている。もしや、風の使いがあそこまで行ったんだろうか…


 どうやら風の使いは時空をすり抜けて異世界を覗くことが出来るらしい。はみ出してあそこを走るチェリオットの姿をどこから見ていたのか。

「チェリオットってここは戦場かなんかなの?」

「そうですよ。いや現実には昔そんな場所だった。激しい戦いで使う一人乗りの馬車ですよ」

「そんな、この平和な世の中にそんな物騒なものが走っているなんて…」

「大丈夫です。昔の話です。向こうもこちらには変化を与えられない。勿論こちらも何も手出しは出来ないのです」

 その話は矛盾している。そのチェリオットとやらは、馬車道に大きな傷をつけたと今言ったじゃないか。制御しようとした御者さんが転んでたんこぶを作った。なのにこちらに変化を与えられないだって…あの風の使いはそんな話をした。

「時の中を彷徨っている僕達は時を傍観しなくてはならない。形を変えたり介入したりしては駄目なんです。どんな時もね、冷静に俯瞰していられる自信がないと他の時空へ行ったりしちゃあ駄目なんですよ」

 その言い方が癇に障った。解ったふりして何も解ってないんじゃないか。時空が歪んでるだって。そんな可怪しい話。

 風の使いの言葉に憤慨した奥様は、その日の夜から熱を出して寝込んだ。

 

 何処からか歌が聞こえる。子供の声?か細い小さな声で数え歌を歌う。子供のくせにファルセットが綺麗。夢の中でずっと繰り返しその声が聞こえていた。




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