episode2 紅茶のケーキ
爽やかな朝を過ごしに、テラスにメアリーがやって来た。庭にはアジサイの花が淡い空気を纏って咲いている。二人は月に二回、先生をお招きしてケーキを作る会を催している。今日は約束のその日、朝からお土産や材料を抱えて、楽しそうに大変そうにメアリーがやってきた。
「まあ大荷物だこと」
「ほらこれ、とても薫り高い紅茶を頂いたのよ。今日のケーキにどうかと思って、飲んでしまうのも良いけれど、この香りを生かしてケーキにしたらって、モントレー教授にね頂いたの」
「ほんとに、なんて良い香り、沁みる香りね。これで紅茶シフォン、これなら先生もきっと気に入ってくださるわ」
「あら、でも先生、遅いですね。もうこんな時間、今日はお稽古日でしたっけ?間違ってないわよね」
先生の訪れる気配がないことに、曜日を間違って来てしまったんじゃないかとメアリーが心配した。
「それは大丈夫。私もこの頃、直ぐに何でも忘れてしまうけど、ほらカレンダーに大きな赤マルの印。あれくらい大きくないとまずいのよ。昨日まで覚えておいても近づくと忘れちゃう。印がしてあるでしょ。今日はケーキ教室の日って」
「時間が決まっている時は特にね。忘れないように注意が必要」
「今日がいつかも解らなくなるから今日の印も付けてる。あの付箋は1日毎に動いて行くの、この日が今日ですよって」
友達のメアリーとの会話は楽しい。その上、今日は約束のケーキ教室の日。大きくメモした赤い丸は何でも忘れてしまいがちな奥様の心の道標だった。
突然、けたたましくリリーン、リリーンと電話のベルが鳴った。二人はビクッとして一瞬会話が途切れ、奥様が立ち上がった。
「まあ何かしら、急な電話、先生来られなくなったのかしら?」
小走りで急いで受話器を上げた、
「もしもし、ケラーです。急な御用かしら、来客中なんですけれど」
「お忙しいところを申し訳ありません。外線からベーカーさんのお電話です。この先の牧場で馬車の轍に車輪を取られて立ち往生されているらしいんです。到着が遅れると話しておられます」
「まあ、大変。先生にお怪我はないんですか」
「そこのところは…判りかねます。取り急ぎのお電話で、ひとまずご連絡をと」
「わかりました。ありがとう」
と、受話器を置いて考えた。
「メアリー聞いたかしら。大変なことになったわ。先生の馬車が…」
「みなまで言わずとも…でも、連絡が来たのだからお怪我は酷くはなさそうね。ケーキどうしましょう。先生が来ないと作れないわね」
「そうね。ひとまずお茶でも入れましょう。おかけになって」
「ああ、シンディこれニシンの燻製。ちょっと得意なの。少しだけど夕食にどうかと思ってこしらえてきました」
「まあご主人の大好物でしょ。こんなにたくさんありがとう」
急なアクシデントに空白の時間が出来た。久しぶりに会えたメアリーにさっきの風の使いの話をしようかと思った。でも、よくよく考えてみればあれは夢だったかも…そう思って今日は止めておこうとお茶の用意を始めた。
急な電話がなって、紅茶のケーキが宙ぶらりんになって、話題からかき消された。今や先生の消息を知りたくて電話を待ちわびている。鳴らない。そのうち待ちくたびれて表に出てみようと立ち上がった時、玄関の呼び鈴がなってお待ちかねの先生が到着した。
「遅れました〜♪すみません。大変な目にあってしまって。でも辿り着けましたよ。これで安心、良かったわ」
「まあ、先生お怪我はありませんの?心配してました」
「どんな大きな車が通ったのか深い轍ができてしまって、馬車が傾いて、私も半分ひっくり返ってしまったの。恐ろしい思いをしました」
先生の抱えた大きな包みを受け取って、家の中に招き入れた。
「先生、お待ちしてました。大変な目に会いましたね」
「メアリーさん。お待たせ。なんて日でしょう。あら、なんていい匂い」
「これ、今日のケーキに入れてみてはどうかと持ってきた、紅茶なんです。とても香りの高い。もう飲んでしまったんですけど」
ベーカー先生は目を閉じて、ゆっくりと息を吸って、紅茶の香りを楽しんだ。
「う〜ん、とてもいい香り。清々しい。ごめんなさい、遅れてしまって」
そう言って、急いでエプロンを取り出すと支度を始めた。ベーカー先生のエプロン姿は勇ましい。さっき事故にあった姿とは思えなくて二人は安堵した。
ともに何かを作ると会話が弾む。わざわざ時間をムダ遣いしてひとときを楽しむのだ。
「う〜ん。これはホントに良い香り、思った通り良いケーキが焼けましたね」
「う〜ん思った通り。香り高い」
「とっても美味しい」
ケーキの中につぶつぶと紅茶が入っている。歯ざわりはともかく、香りが堪らない。話題の中心となるケーキが焼けて良かった。
「それはそうと、さっきの事故?怪我をした人はいなかったの?」
「ああ、御者さんがね、手綱を持ったままひっくり返ってしまって、顔に大きな打撲だったのね、今日の夜から酷い青タンが出来ると思うわ」
「まあ、それは大変。最後までなんとかしようと苦心されたのね」
「そうなの。御者さんは手綱を持っていないとね」
「大きな立派な轍が出来ていたらしいの、その轍に足を取られてひっくり返ったらしいわ」
「大きな轍…」
「そう道が傾いてしまっていて走れなくなっていたのよ。連絡したらここのホテルの方が迎えに来てくれて、ホッとしました」
ああ、迎えが…それで先生はここにたどり着けたのかと、そうだったのかと納得した。
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