女神湖のコテージ

@wakumo

episode1 風の使い

 風は…異世界の作品を紡もうとする者に、欠くことのできない未界からの賜り物、啓示を運ぶ…渦巻く風は掻き交ぜ吹き上げ沈殿しようとする心の檻を浮遊させ物語への道標を示す…

 揺るぎない神からの言葉を頭上へ注ぎ、日常に囚われる思いを揺さぶる。固定観念を打ち砕き新しい感覚を呼び覚ます。

 風が吹けば固く結ばれた結界が緩み、想像もしなかった珍事が起こり、乱れた流れに促されて思いもよらぬ未知なる姿を顕し、泡立ち、せめぎ合い、せせらぎ、生命がカサカサと嘯き、磁界が乱れる…

 心の隅に存在する誰にも見つけられなかった暗い裂け目が、風の祈りを機に広がる。そして一筋の明かりが差し込む。そんな不思議をいとも簡単に招く鍵。

 一度も顧みることの無かった、存在すら忘れていた時の扉が開いて、気がつくと既にその中に迷い込んでいる。まだ知らぬ未知の世界は形も定かではな無く、匂いも色も何もないのだけど…風は…そこへいつの間にか忍び込んで、ありとあらゆる物語を繋いでいく…


 ロッキングチェアーにまどろんでウトウトと物思いにふける時に限って煩わしく出現する邪魔者たち。知らず知らずささくれだった気持ちを柔らかく包み込んで未知からの使いはやって来る。


 キンコーン…玄関のチャイムが鳴る。

 扉の前で誰かが開けてくれるのを待つ気配がしている。

 深く腰掛けたロッキングチェアー、ようやく温まったひざ掛けが惜しまれて立ち上がるのも気だるい。訝しみながら身体を傾けると、目の前にはいつの間に入り込んだのか、風の使いが立っていた。

「こんにちは、今僕のことを考えていたでしょう。家の前を通りがかったら僕を呼ぶ声がしたのでね、立ち寄って見ました」

 そう名乗る旅人の風貌はどこか滑稽じみて時代錯誤を思わせる。首にカラフルなスカーフを巻き、手には短い小枝を弄んでいる。その小枝で何をしようというのだ。道化師ほど軽やかでもなく頬はこけて貧しげだ。誰の前にでも簡単に姿を表すという無作法者ではないにしろ、自ら名乗る『風の使い』というイメージには程遠い姿なのだ。

「いつも思うのだけど、風の使いなら小枝じゃなくてステッキの方が似合うんじゃないかしら。カラフルなスカーフもいいけど、柔らかいシフォンのタキシード。あれがあなたなら、きっと似合うと思うわ。スタイルも良いし、その藍染のステテコじゃ迫力がなさすぎて、思わず和んでしまう。あぁ、真っ直ぐ向かないで…正面から見るのはなんだか恥ずかしくて笑ってしまう」

 奥様は赤くなって外を眺め、今何時かと柱の時計を眺めた。風の使いはその視線を気にもせず、

「良いんですよ、私は『風の使い』と言う名の道化なんですから、緊張させるのは私のやり方に反しますからね。私の来訪を待ちわびていたのでしょう。こうやって方々駆け巡っていますとご要望の匂いがするんです。一瞬の塞ぎが私を呼ぶんですよ。そろそろ寄らないといけないなって」

 驚きとともに可笑しみがこみ上げる。久々の、奥様と風の語り合いはこんなふうに始まった。

「この前、外のテラスで話していたじゃないですか」

「え?何を」

「そろそろ花の咲く所に行ってみたいって」

「旅行の話?ああ、御近所さんとね。そんな事も話したかもね。春も近い。花も綺麗に咲いてるんじゃないかって」

「行ってみますか」

「そんなこと、季節のお話よ。もうひとりになって今更。行きたいところなんてないのよ」

「まさか、どこにでも行けます。ご案内しますよ。私のこの手に繋がって何処へでも、行きたいところへ」

「まあ、怖い。そんな話を簡単に信用すると思って?何処へ連れて行かれるか解ったものじゃないわ」

「おやおや、私は死神じゃありません。担当が違いますよ。そんな物騒な話はよして下さい」

「さあどうかしら、私の時間を狙っているとしか思えない」

 風の使いはゆっくりと笑って奥様の話を遮った。

 ここは神秘の湖、女神湖。お気に入りの滞在型ホテルの一室。奥様はもう長い間ここに滞在している。このホテルで時々出会うこの風の使いとの奇妙な会話を楽しみ…とまではいかないが拒むこともなく応対していた。

「今朝のオードブルはどうでした?」

 風の使いは、さも自分で用意したものかのように朝の食事の具合を訊ねる。笑いをこらえながら、

「とても美味しくいただきましたよ」

 と丁寧に答えた。

「最近この近くに素晴らしいソーセージを作る工房が出来ましてね。そこから取り寄せてるんですよ。シェフのお墨付きです」

「まあ。そんなことまで、よくご存知ね。ここの人でもないのに」

「どうも…」

 そう言ってうやうやしく頭を下げる。

 こういう静かな時間を、意外なお客様と過ごせる別荘を、何処かに持ちたいと長い間探していた。もうリタイアした仕事にも半ば興味を失って、何も考えず昼寝などできる場所。大きな湖を囲う白樺や桜やニレの木々たちが、かすかな香りを放ちながら揺れるほとり。

 外のテラスにはお茶をいただけるテーブルと椅子があって三人くらいならゆとりでランチも楽しめる。そこに時々友達がやってきてよもやまな話をする。

 忘れかけていたような懐かしい話や、この歳になっても許してくれずまだこの先起こりうる明日の話や、罪のないお天気の話。楽しみは尽きない。想い出も尽きない。長い間生きてきたご褒美に楽しかった思い出話だけする。

「まだお呼びじゃないわ。さあさあ、あなたの出現を心待ちにしてる人のところへ行きなさい」

「だから死神じゃないって言ってるじゃないですか。私は風の使いなんで、生きている人相手の商売なんです。見軽に何処にでもお連れしようと思って…」

「またその話。今度、また今度、そんな気分の時にね」

 今日のところは断っておこう。午後からケーキを作る予定もある。風と遊んでなんかいられない。追い返すとしばらくして…目が覚めた。

 おや、私…寝てたのね。奥様はテラスの椅子でぼんやりとした。今そこにいた誰かに、ちゃんと話が出来ていたんだろうか。誰もいなかったはず大丈夫。私のこの寝ぼけた姿など誰にも見せていない。と自嘲気味に笑った。


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