16-2 夏の顛末
再び、ここを訪れることはない、とまでは思っていなかったが、緊張だけはあった。喫茶店、ナイトクルーに足を踏み入れる。からんからん、ドアにくくられたベルが思ったよりも大きな音を立て、おれは思わず飛び上がった。気を取り直し、深呼吸する。
店内は大きなソファもあるゆったりとした雰囲気で、蓄音機からは落ち着いた……ジャズだろうか。それが延々と流れており、店内はコーヒーと煙草の臭いが入り混じって独特の香りに満ちていた。席を探す前に、柏木に言われていたことを思い出す。堀越のことで何かわかったら教えろ、と柏木は言っていたが、それを口実に、おれは彼を呼び出して松平平樹の行方を追うのだ。そして、リコーダーを手に入れる。
だが、改めて店内を見ると、ひとり怪しい人間がいた。顔面の半分をガーゼか包帯で覆った男である。雰囲気は大人びているが、歳は多分同じくらいの。おれは方針を切り替え、その男の席に近寄った。
「あの、こんにちは」
「お前は……松平の親戚の!」
相手は、柏木だったが、それどころではない。目が血走っている。しまった、と思った。だが、さすがにここで荒事を始める気はないらしく、座れ、と彼はジェスチャーした。おれはそれに従い、椅子に座る。
「なんの用だ」
「松平平樹を探しています。どこにいるか知りませんか」
「堀越じゃねえのかよ」
「あいつは今も、警察に捕まったままらしいです。ああ見えて、結構余罪があったらしいですよ」
これは、ペイペイから聞いたどうやらそれらしい話である。
「そうだろうな。あいつは借金まみれだったからな」
「それより、松平平樹の行方です」
「知っちゃいるが、本当にいるかはわからねえな」
柏木はあいまいなことを言った。
「どういうことですか」
「あいつの行方はおれもよく知らない。いくつか、あいつが家代わりにしている場所は知ってるけどな。それなら教えてやってもいいが」
「お願いします」
おれは頭を下げた。
「でも、タダってのも困るな」
「金でしょうか」
「そういうことだな」
しまった、とおれは思った。金はない。
「ちなみに、いくらぐらいでしょうか」
多分出せない、が、値段によっては出す覚悟があった。そんなおれの様子を見てか、柏木はぷっ、と噴出した。
「嘘だよ。おれは、やった仕事はきちんとする。あの仕事はおれにとってもやり残しだ。ちょっとつつきに行くから、お前はおれのあとを尾行しろ」
口元をにやつかせ、柏木はすっと立ち上がった。そして、おれの肩を叩く。
「ぼけっとすんな」
そこで、おれはうっすらと後悔した。本当にこれ、ついていって大丈夫だろうか。だが、深く考える間もなく、おれは柏木の後を追った。
さくさくと会計をすました柏木は、さっさと先を歩く。
「なんか喋れよ」
急に、柏木はそんなことを言い始めた。尾行しろ、なんていっていたから、後ろを歩いていたのに。
「えっと、どこに行く気なんですか」
おれは慌てて適当なことを言った。
「あいつ、いくつか寝床を持ってるから、そこを回る。金はある癖して、家にはいずらいんだってよ」
「そうらしいですね。あの、気になってたんですが、堀越と松平平樹はどういうつながりがあったんですか」
「あ? ああ、金貸してたんだってよ。松平は金だけはあったからな。でも、堀越は金もねえくせに酒もギャンブル癖も悪くてな。一応地元の友達だからってことで面倒見てたって聞いてる」
なるほど。おそらく、堀越は借金ついでにリコーダー盗難に巻き込まれたのだろう。
「ちなみに、桜木先生は?」
「桜木も松平の古い友達らしいな。確かにあいつら、全員競馬も競輪も好きだし、仲はいいんじゃないか」
そういえば、言われてみればそんな気はする。
「あと、いい加減はっきりしてほしいんだが。お前はなんなんだ」
「え? 何の話ですか?」
「自分の親戚、フルネームで呼んだりすんのは変だろ。別に殺したりしねえから正直に言えよ」
「おれは、ただの導大寺高校の生徒です。ただ、部活でリコーダーを探しています」
おれは正直に答えた。
「そうか。最初から変な奴だとは思ってたけどな。リコーダーって、朝霧夕都のだろ。ただの変態か」
「いや、そういうわけじゃないんですが」
おれはつい必死になってそう言った。
「まあいい。隠すな。確かに、朝霧夕都はいいよな」
「あ、はい」
おれは適当に頷いた。こいつ、朝霧夕都のファンなのか。
「そういえば、リコーダーの場所、知らないんですか」
ここに来て、おれは忘れていたことを訊ねた。わざわざ松平平樹を探さなくても、こいつならば知っているのではないか。
「いんや。知らない」
「あの、学校に忍び込みましたよね」
「そんなことまで知ってるのか」
「はい、まあ」
おれは恐る恐るそういった。
「忍び込んだが、その前にお前んとこの先生、桜木に見つかった。今思えば、あいつの罠だったとは最悪だ。もっと早くに気付けばよかった」
柏木はそういって、顔の半分に貼られたガーゼをひっかいた。その時の傷なのだろう。そういえば、遠目に見て、派手に転んだ奴が一人いたのを思い出した。
「松平はほいほい金は貸す癖に、ケチだからな。最後の最後にならないとリコーダーの隠し場所は教えないときた」
そしてこいつは、案外ホイホイと内情を話す。
「でも、驚いたな。朝霧夕都って本名は浜井タテコってんだろ。会ったことはないのか?」
「一応、あります。でも、ほとんど学校休んでいたので」
「そうか。残念だな。おれも高校に通えばよかった。ほら、ここだよ」
喫茶店から徒歩、しばらく。対して離れていないアパートに来た。
「結局、前金しかもらってなかったが、怪我もさせられたし、せっかくだし満額か、もう一度学校に忍び込む話でも取り付けるとするか」
そういって、手を組み、ぼきぼきと音を鳴らした。どうやって取り付けるつもりなのか、背筋が凍る。あまりおれの前でそれはやらないでほしかった。
「おれも手伝います。それでなんとか一枚噛ませてもらえませんか。学校も案内できます」
つい、おれはそう口走った。
「面白いな。松平もいい加減、学校には近づきたくないだろうし。おれは堀越の借金分が埋め立てられれば、それはそれでいい」
そういいながら、アパートの階段を上る。表札のついていない家の前で、柏木は呼び鈴を鳴らした。だが、出ない。
「いねえのかな」
その時、おれは、なんとなく身が凍えるのを感じた。嫌な予感、と言うのがした気がした。
「おーい、いねえのか」
そういって柏木はどんどん、と戸を叩き、手を止めた。
「開いてるな」
柏木はドアノブをガチャガチャとひねった。
そのとき、おれは本能的に、やめろ、と言いかけた。だが、それより早く、柏木は行動していた。
ドアが開いた瞬間、今まで一度も嗅いだことのない種類の悪臭が飛び出し、あたりを満たした。この時点で、おれは全てを察した。夏の虫た空気があたりを支配する。
――松平平樹は、すでに自ら命を絶っていたのだ。
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