第27話 「科挙」についてと、教育社会学の話

 今回は歴史の史料とかの紹介ではないです。スミマセン。

 前回、璋伶が朱莉姫のバックアップを得て科挙に合格していたのだという話を書きました。


 科挙を登場させておりますが、お詳しい方は既にご存知の通り、科挙は隋の文帝が始めたとはいえ、制度が固まり、弊害も生まれてくるのは宋代以降かと思います。


 拙作は唐代をモデルにしておりますが、科挙については後の時代にあらわれてくるような問題をお話に取り入れております。


 また、拙作はファンタジー小説であり、鷲生はファンタジーであればそんなに史実ガチガチに制約される必要はないとも思っておりますし、ファンタジー世界を借りて現代の現実社会の描写を盛り込めるのも架空小説の良さだと思っています。


 そして、拙作でも、史実の科挙というより、現代の教育選抜システムの問題について思うことを書いております。


 近代以前の貴族性(アリストクラシー)による選抜から、近代は能力主義(メリトクラシー)による選抜になった……ということになっています。

 だから階層の再生産はなくなった……はずです。

 しかし、今の日本でも(フランスなど諸外国でも)エリート家庭の子がエリートとなる傾向は消えません。


 ……とここまで読んだ方には、「フランス」という国名が出てきたことで「ああ、ブルデューの文化的再生産の話か」とお思いの方もいらっしゃるかもしれません。

 フランスのピエール・ブルデューという大物社会学者の有名な理論です。

 鷲生はウン十年前に放送大学の宮島喬さんの講義で知り、印象に残っています。

 当時のテキストがあればいいのですがさすがに手元になく、鷲生の記憶の中からお話しますが、「ブルデュー」「文化的再生産」「文化資本」などのキーワードで検索すれば色んな方の説明が見つかると思います。


 学校の選抜システムの外でも、親の階層が子に受け継がれる原因ははあります。

 親が賢ければ子供も「遺伝で」賢く生まれ、だから高学歴になって親と同じような社会的地位が得られるのも原因の一つでしょう。

 また親の地位が高くてお金持ちなら、塾だの家庭教師だの、学歴を取得するための課金だってできます。そのような「経済資本」によって子どもが高学歴を手になるのも大きな原因です。


 これらは学校でやって行ける能力を学校外で獲得するというお話でしたが、さらにもう一つ、学校という選抜システムそのものがエリート家庭の文化を高く評価するからそうなるのでは?という面も指摘されています。


 家庭にはそれぞれの文化があります。

 たとえば家に競馬新聞くらいしか文字がない家庭と、親がインテリで分厚い専門書が本棚にずらりと並んでいる家庭では、子どもの価値観や語彙力にも大きな違いが生まれるでしょう。

 また、家族旅行の行き先も国内の温泉とかTDLという家庭と、できるだけ海外旅行に連れて行って美術館で有名絵画なんかを見せる家庭とでは、子どもが身につけられる教養にも差が出ます。

 あと、机に向かう習慣とかですね……。


 ブルデューの出身国・フランスでは、受験に小論文や面接が重視されているのだそうで、そういった受験システムでは、受験生が家庭で身に着けた語彙力や文章力、海外で見聞を広げる機会があったかどうかが大きく影響してしまいます。

 学校側が既存の社会階層の上位層の文化を良しとし、家庭でそれらを引き継いだ子どもが有利な立場で学歴を獲得し、そして親と同じく高い社会階層となることになります。


 貴族性を脱して能力で公平な選抜をしているはずのシステムが、階層の再生産を生み出している――これがブルデューの再生産論の大雑把な内容です(Wikipediaにも「文化的再生産」の項目があります。あまり親切な解説ではありませんが……)。


 宮島喬さんの講義で今でも興味深く覚えているのは、「マークシートで回答させるセンター試験など日本の受験制度に批判は多いが、出身階層の文化に左右されずに、学校で受けた教育での能力を『公平に』みることができるものであり、そこは日本の入試制度の良いところなのでは?」という指摘でした。


 入試改革といえば、小論文や面接を取り入れることがよしとされますが、決して手放しで素晴らしいと言えることではないだろうと思います。

 最近某国立大学が二次試験を「面接と小論文中心にする」と発表したというニュースが流れましたが、これからますます日本も階層社会化が進んでいくんだろうなあ、と感じています。


 拙作の璋伶も貧しい生まれで、まずは経済的に科挙の受験が困難でした。

 そこは朱莉姫が支援することで何とかします。


 しかし、科挙に合格しても高級官僚たちとかなり毛色が違う異色の存在だったことでしょう。


 璋伶は科挙は偶然受験が可能となったから受けただけで、科挙合格を長年の夢としてきたわけではなく、科挙を通じて評価される教養をさほど身に着けていません。


 他の受験生は科挙に受かることを目指し、その受験勉強に長年取り組む(取り組める環境にある)ことで、科挙が重んじている価値観を内面化していきますが、璋伶はそうではない。


 頭は良くて器用なので試験そのものはクリアするし、出身家庭の階層差が出にくい実学分野は強いけれど、教養が滲み出る詩文なんかは周囲との違いがどうしても出てくる……。


 言葉の端々や文章の持ち味、振舞い、身のこなしなどなどがおよそ高級官僚らしくない。

 教養があるかどうかとか、教養とは何かとか、その評価も主観的ですから、璋伶としてもそれを乗り越えるのは困難だったと思います。


 高級官吏が実務的な分野を軽んじがちだった点については平田茂樹さんの『世界史リブレット 科挙と官僚制』22頁に「伝統中国社会が求めた人材――実務か徳行か」という項目があります。


 その項目のむすびの部分には以下のように書かれています(32頁)


「徳行に加えて法律に代表される実務を兼ね備えた人物を求める考えは、酷薄さを養い、風俗をそこなうとの理由から排除されていく」


「実務能力が問われ始めた宋代の、実務と徳行を巡る選択が、官僚=政治家、胥吏=実務担当という分離を決定づけ、官僚となるための要件としては儒教的教養を十分に備えているかという面のみが問われていくことになったのである」


 せっかく頭がよく多方面に才能のある璋伶なのに、文官として活かされることはありませんでした。

 そこに冬籟が南妃を下賜されるために武将になる道を提示します。

 璋伶も朱莉姫もそれをとても恩義に感じます。

 これから彼らは冬籟や白蘭をなにかと助けてくれるようにになります。

 

 そろそろ終盤にさしかかってきました。

 どうか最後までご愛読くださいますよう。




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