第一話 前


「眠いしゃい」

  狭い事務室。真ん中に応接用の長テーブルとソファを置き、窓側に所長の座るディスクを置いて、それ以外は配置など何も考えず滅茶苦茶に観葉植物が置かれた部屋。そんな部屋の中でふわりと大口をあけて少女が一人あくびをする。 

  たくさんの書類が積まれたディスク。黒い社長椅子に座るその少女。少女はそばにいるもう一人を横目でちらりと見た。 

「警察からは何を言われたんしゃい」 

 すぐに視線を外して問いかける少女。もう一人の青年は静かな目でそんな少女を見つめていた。

 「ここ最近の不審な貧血についてです」 

「貧血ねぇ」 

 少女の問いに答えるその声はとても穏やかなものだった。心配することなどない。不安になることなどない。気にすることなど何一つないのだと思わせるような、まるでまだ幼い子供に声をかける母のように優しげな声。耳に甘やかに入り込み、脳髄の奥の奥までぐずぐずに溶かしてしまう。そんなどうしようもないほど穏やかな声だった。

  そんな穏やかな声を聴きながら少女、山中理矢の顔は平穏とは程遠いところにあった。面倒だとでも言いたげな不機嫌な顔をしながら、その目は暗く淀んで哀しみをたたえている。

  青年はそんな少女を見るともなしに見ながら一切の顔も声も変えない。ただ普通に話し続ける。

 「はい、貧血です。警察が言うには、ここ最近の貧血で倒れる人の数が尋常ではなく、しかも、そのほとんどが夜に倒れているとのこと。それから倒れている人に共通点が。みな首筋に小さな二つの傷跡があった上に前後の記憶が曖昧なようです。」 

「首筋に二つの傷跡。それに記憶喪失しゃいか」

「はい、傷痕に関しては本当に小さなものですが、それでも針よりは多少太いかと」 

「そう」 

 少女の目が二人しかいない部屋の中に注がれる。何を見ているのか分からない目は部屋の中を見渡して、ゆっくりと窓の外へとむけられた。

「咬まれたんしゃいかね」 

 少女が独り言のように問いかければ青年はそれを待っていたかのように淀みなく答える。 

「私が見た限りではそうかと。」 

「ふーん、小さな痕……、蛇か、吸血鬼かのどちらかしゃい。蚊ではないかな」 

 少女の口元が緩く笑みを浮かべる。それは自分をあざ笑うかのように小さく引き攣った歪んだ笑みだった。そんな少女にも青年は何一つ変わることなく笑みを浮かべ続ける。何処までも穏やかで優しい笑みをずっと浮かび続ける。少女の言葉を肯定しながら柔らかな瞳で少女を見る。 

「そうでしょうね。蚊でないことは確かですよ」 

  少女の足がふらりと降られた。目線だけ窓の方向を向いていたのがくるりと椅子を回転させて青年からその背も向けてしまう。大げさにされる背伸び。ぴゅぅと口笛の高らかな音を少女は鳴らす。 開け放されていた窓から一匹の鳥が少女の手の甲へと舞い降りる。 

「どっちしゃいかね。調べんと駄目しゃい」 

 その白い鳥の翼を撫でながら、少女は窓の外の景色を見つめる。都会ではありながらも人の喧騒からは少し離れた場所に建つビル。その二階の窓から眺める世界。商店街と言えるほどではないが小さな店が立ち並び数人の人が過ぎ去っていく。 だけど少女が見つめるのはそんな景色ではなかった。甘い紅茶のような色をした目は景色を通り越してその先にあるものを見つめる。 

「社長」  

 青年はそんな少女の名を呼ぶ。わずかに首だけを振り返った少女は生返事で言葉を返した。手の甲に乗った鳥を撫でながらその眼が見つめるものは変わらない。何処か疲労した様子を見せながら少女の口からは音にならないため息がでていく。

 「ん、何しゃい?」

   青年の優しい色をした目がそれを見ていた。その口元も顔さえも見えないはずだけど、青年は確かに見ていた。そして見ていながら青年は変わらぬ声を続ける。 

「いい加減にして下さい」 

「何がしゃい」 

 柔らかな青年の声。それに少女も同じような柔らかさで返す。まるで何処までも無垢で無知で何も知らない分からない子供なのだと訴えるような羽毛のような声で。青年は変わらない。変わらない笑みを浮かべ続ける 

「気付いているなら、知っているなら、分かっているなら、それ相応の動きをして下さい」 

 青年が言う。その言葉に窓の外を見ていた少女の目が微かに揺れた。鳥を撫でていた手が止まり、その目が伏せられる。一分もかからなかった。再び顔を上げた少女は今度は窓の外を見ていなかった。同じ方向を見ながらもっと近い何かを見ていた。

 「……気付いてないしゃいかもよ」 

 うっすらと笑みを浮かべて少女が言う。悪戯っ子のような茶化した笑みを浮かべようとして、青年の前にそれは止まった。変わらない目で青年が少女を見ていることが、少女には分かった。その眼を前にして少女はこれ以上騙すことは出来なかった。 

 いつまでも変わらない優しくて柔らかな目。まるで子を慈しむ母のように、宵闇の中で地を照らす星や月の光のように優しい目。まるで大切なものを抱きしめる腕のように、穏やかな天候の中人々陽気に誘う春の風のように柔らかな目。 

 いつまでも続き続けるそれは、少女には安心とそうしてどうしようもないほどの義務を突き立てた。

 「それはないですね。昔からこうなることは分かっていましたから」 

 その眼と同じような色をして、そしてその眼とともに何処までも変わらないもはや普遍的とも思えるほどの声で青年は少女を刺す。少女の小さな肩が震えた。 

「あんたは嫌いしゃい」

  震える唇で少女はぽつりと呟く。悲しみを込めて、苦しみを込めて。 

「あんたは嫌いしゃい」

  もう一度呟いて少女は肩越しに男を見た。少女の思い描き続ける通りの変わらない顔して少女を見て立っている。少女の口角が自然と上がった。

 「でも好きしゃいね。だって私は私よりもあんたの方が信じられるしゃいから。だからお願いね、清水。信じてるしゃいから」

  どんなことがあろうと少女が思い浮かべる通りの姿をし続ける彼は、ゆらゆらといつだって揺れ続ける少女にはどうしたって必要だった。   

「あいつの様子見てきてくれるしゃいか」 

 少女が静かにかけた声に手の甲にいた鳥は人間みたいに頷くような仕草をして、少女の手から飛び立った。白い羽根が部屋の中に舞う。ふんわり漂いその一つが落ちた先は机の上に置かれた資料の一つだった。 その羽が落ちた資料を感傷を込めた目で見つめる少女。……中川理矢。この事務所の社長だった

 「猶予はそれほどないと思っていてくださいよ」 

 少女に青年は声をかける。 

「分かってるしゃいよ」 

 それに応える少女の声は小さくわずかばかりの外の声に掻き消えていた     




1   


「甘い」 

 学校も終えいつものように公園で本を読んだ後、帰っていた少年、尾神蓮は後ろから聞こえたそんな声で振り向いた。確かにその声は聞こえてきたのに振り向いた先には誰もいない。人通りの少ないその道は微かな明かりだけが闇に飲み込まれてそこにあるだけだ。 

「甘いね」 

 もう一度そんな声が聞こえた。また、後ろから。ゆっくりと少年、蓮はさっきまで自分が歩いていたその向きに顔を向ける。そこには誰かが居た。 

 でも、誰かは分からない。暗闇に隠れて姿が見えなかった。それでも街灯の光がわずかに届かなかった闇の 中に誰かがいることだけはハッキリと分かる。 

 暗闇の中に、はっきりと赤い瞳が浮かんでいる。 

 猫のように大きな赤い眼。

 「凄く甘いね」 

 血走ったその目はにったりと獲物を見つけた猫のように笑う。 

「甘いな。食べたいな。食べても良いよね」 

 笑った赤い眼。その眼は蓮の腰あたりにある。 

 つまり、子供のような身長。クスクスと笑いながら話すその声さえもどこか幼く甘く感じられた。

 「食べるよ」 

 赤い眼をした子供は前へと一歩足を進めた。その瞬間風が吹く。目を瞬くよりも前に子供はすでに蓮のすぐ傍に来ていた。歪んだ口元の笑みが一瞬だけ視界に映り込んだ。 

 ドスと首筋に何かが当てられる感触。手刀を入れられたのだと蓮が気づいたときには、又に地面に倒れ子供に肩を押されて乗り上げられていた。子供、いや人間とは思えない力で押さえつけられ動くことさえままならなかった。そんな蓮に子供は嬉しそうに笑う。首元に顔を寄せて匂いを嗅ぎ、それから制服越しに首筋に歯を立てる。黒い生地が破れ肌に直接尖った歯が当たる。 

「頂きます」

  言葉と共に、首筋に小さな痛みが走る。小さく甘い痛み。

  そこから何かが吸われるような、奪われるような感覚がする。甘い甘いうずきと共に。

  身体から力が抜けていくような感覚がするなか、蓮は何とか腕を動かそうとした。掴まれた腕はされど抜けない。幾度目かの挑戦が失敗に終わると今度は逆に全身の力を抜いた。何かを吸うことに夢中になっている子供は蓮のそんな些細な動きには気を留める暇もなかった。 そんな子供ににやりと笑い、すっと、左足に力を込めた。そして、

 「何すんだよ」

 赤い眼のなにかを蹴り上げた。 

「…っ」

  飛び上がったそれ。無理やり突き刺さっていたものがぬけてちくりとした痛みが走る。ポタリと何かが顔に付いた。拭ったそれは生暖かく、暗い闇の中でもわかるほどの赤い色をしていた。

“血”

 触れた首筋にも血が付いている。痛みはない。

 「あんた、何」 

 赤い眼の何かを睨み付けながら、尾神蓮は腰を落として数歩、後ろに下がった。問いかける声は低く狭い路地の中に響き渡る。ゆらりと何かが動く。 

「まだ、食べてない」 

 赤い眼の何かが言う。問いかけには答えずただ赤い眼を蓮に合わせて幼く舌足らずな声で話す。 

「何食べているのかは知らないけど、これ以上は食べさせないよ」 

 蓮がさらに後ろに下がるのと同時に、赤い眼の子供が一歩前にでた。

  最初より近くなった距離に子供赤い眼の何かのシルエットが分かった。ふんわりとした姿、髪は少し長く、そしてふわふわとしたスカートが風に打たれて揺れている。

  少女、いや、女の子だ。  赤い眼をした女の子。 

「食べるよ。お腹空いてるもん」 

 赤い眼が笑う。赤い眼の女の子が動く。

  懐に入ってくる女の子はスカートだと言うことも気にせず蹴りを入れてくる。その足を蓮は掴みとめる。思った以上の衝撃によりバランスを崩しながらも軸は保ち、こぶしを丸空きの少女の脇に叩き込んだ。そのまま蹴りを一つ。掴んでいた足を払った。

 「なら、応戦させてもらう」 

 離れた距離。女の子を睨み体勢を立て直しながら蓮は宣言する。地面に打ち付けられた女の子はそれでも立ち上がりその不気味な赤い目を蓮に向ける。

 「良いけどね。どうせ無駄なことなんだから」

  地面に打ち付けられた際、擦りつけた頬の血を手で脱ぎ取った女の子は、その手を舐めながら蓮に言葉を返した。口元に余裕の笑みを浮かべながら。  笑みを浮かべたまま女の子は地面をけろうとした。身構える蓮。だが蹴ろうとした女の子は突然その動きを止めると顔を抑え苦しみもがき始めたのだった。 

「うっうう……」

  女の子の口からうめき声が漏れ、苦悩するようにその頭は大きく振られた。突然のことに驚きどう対処するべきか判断できずにいた蓮はふっと気付く。 

 手のひら越しに見える女の子のルビーのように赤い目が、空のような青い眼に変わっていくことに。

  驚きで言葉すらもなくした蓮に苦痛に耐えながらも女の子は何かを放り投げた。

  ゆらりと蓮の目の前に広がり視界を奪うのそのなにかは布だ。そう認識したときには遅かった布が蓮の目を覆い、動きを止める。

  暗闇に視界を閉ざされた中蓮は口笛の音を聞いた。そしてそれのすぐ後にバサリと何かが風を叩きつけるような音も聞こえてくる。それは一度ではなく数回続いた。

  何が起きているか確かめようと蓮は目を覆う布に手を伸ばした。 

 開け放された視界。だがそこには誰もいなかった。あたりを見回した蓮はふっとあの音がまだしていることに気付く。その音がしている方向、上空を見上げた。

  見上げたそこにはあの女の子がいた。赤かったはずの目を青い色に変えて、ひらりとスカートをはばたかせる女の子が。夜の空の上に浮かんでいた 。その女の子の背には大きな翼がはえ、その横には二つの小さな蝙蝠が 。

 その二つと共に女の子は夜の闇の向こうへと消えていた。 

 大きな翼で空を飛んで 。

 それを呆然と見送った蓮はなおもその後しばらくその場に立ち尽くした。首筋に手を伸ばし血がもう出ていないことを確認し、蓮は細い息を吐いた 

「なんだったの」 

 疑問に満ちた声が漏れた。 

  喧騒がやまない夜の町の中、女の子はビルの屋上を囲むフェンスの上に強風を受けながら立っていた。 

 今は、静かな青い眼をして、 

 ひらひらと風に乗ってスカートが踊る。金色の髪が暗い宙に浮かび上がるのにその小さな体はピクリとも動かなかった。青い瞳だけがゆらゆらと揺れ続け、見るでもなしに眼下に広がる町並みを見下ろしていた。 

 すんと、女の子の鼻が息を吸い込む。小さく開けられた口からは尖った牙が見えた。気怠げにおろされた手が持ち上げられその牙をゆっくりと辿る。

 「おいしかった」 

 恍惚とした声で女の子は告げる。頬が赤く染まりふぅうと熱い吐息が漏らされる。牙に触れた手がゆったりと赤く染まった白い頬を撫で上げる。その手が瞼に触れる。 

「極上だった。食べたいな、あれを……」

  熱を含んだ甘い声はまだ暑い夜の風の中に含まれ霧散していく。女の子の青い目が徐々に赤く変わりだしていく。

「お腹空いた」

  血の通う赤い唇の下、鋭い牙が月の光を受けきらりと光る。熱く甘い舌足らずな声が空気を震わせ、口元にゆったりとした笑みが広がっていく。だが、その途中口元は苦しげにゆがめられる。風を受け変わらぬ姿で立ち尽くしていた女の子の体が苦痛に耐えるように背を丸めて呻く。 

「うぅ…………」

  赤に変わろうとした瞳がまた青に戻っていこうとする。 

「alisu様」 

 誰もいなかったはずのその場にポンと音を立てて現れた蝙蝠が、女の子の名を心配げに呼ぶ。赤と青がまじりあう目がそれを見た。 

「……気にしないで。それより帰るよ」

 「はい」

 ふらつく体を抑え込んで女の子は狭い足場を蹴る。高いビルの上、薄暗くのしかかる夜の闇、それをかき消そうかとするかのように明るく光を纏う地上の世界。そこに落ちていくかのように手を広げた女の子の背から黒い翼がはえる。 

 バサリと風を切るように力強く翼が一つ羽ばたけば落ちていた女の子の体はより深い夜の闇の中へと上がっていく。ふっと上昇していた女の子の体が動きを止める。 

 赤が色濃い瞳が眼下を見下ろした。 

「おいしかった」

  また女の子は呟く。甘い声で、

 「眷属」

  蝙蝠を女の子は呼んだ。恍惚とした声で。

 「あの餌を探して」

 「分かりました」 

 蝙蝠は飛んでいく。甘い声に命じられるままに。それを見つめて女の子は笑みを浮かべる。赤い舌がチロチロとその唇をなめた。 

「食べないと。あの極上の餌を」 

 にやりと笑う女の子の目はその舌よりも唇よりも赤い色をしていた。



                          

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