第3話 下心
彩音が浅草の中華料理店の個室に案内されたのは午後5時、「夕食を兼ねて説明をします」と担当の遠部野明マネージャーに言われていた。
そこには剣田藤樹という本部の部長さんも同席した。
食事の用意が出来るまでと言って遠部野が説明を始める。
「当社はNasi食販(株)と言って府中に本社があり全国に三百店舗以上を構え弁当事業を展開する企業でして……」
説明は本当にテーブルに色々に調理された料理が並べられるまで続いた。
食事中は剣田部長がやたらと彩音の私生活について訊いてきてちょっと閉口した。
――なんかこの部長にやににやして嫌な感じだわぁ……
中華のコース料理は美味しくてお腹一杯食べてしまった。
「只畑さんは食欲旺盛ですね」
そう剣田部長に冷やかされる。
食後もコーヒーを啜りながら説明は続いて、終わったのは午後八時を回っていた。
「一週間ほどの検討期間を置いて最終的にどうするのかご判断下さい」
剣田部長の締めの言葉でお開きとなった。
マネージャーは荷物を片付けて足早に帰って行くと
「只畑さん、もう少しお話をさせて貰えませんか?」と、剣田。
時計を見ると午後八時半。
「はぁ、ちょっと家に帰らないと主人も帰って来てるので……」
「いや、そんなに時間は取りません。三十分くらいで済みますので」
剣田の押しに彩音は渋々頷いた。
――いやぁねぇ、何か下心でもあるのかしら。九時になったら何と言われても帰ろ……
案内されたのは高層階のバー。カウンターが外を向いていて都心の夜景が綺麗に見えている。スカイツリーも華やかな蛍光色に彩られ雰囲気のある店だ。
彩音が周りを見回すとカップルばかり。
――やっぱりね、美味いこと言って狙いが見えたわ……あ~いやらしっ。
「実は、お店の指導はマネージャーが行うのですが、一人に任せっきりにすると独善的だったり独裁的になったり、オーナーさんのためにならない指導をする懸念があるんですよ。……それで、マネージャーを通さないで私に直接物言う機会を用意しておくことで、会社として適切にオーナーさんを指導する環境を作ろう……まぁ、簡単に言うとそういう事なんで、これから事業を始める只畑さんに事前にお話をしておきたかった訳です」
そう言って剣田部長は胸を張るが、マネージャーに問題があればその上司や本部に物言うのは当たり前で、今更、と彩音は感じた。
――マネージャーの居るところでそういう話をすれば牽制になるんじゃないの?
「はい、わかりました。何かの時にはお願いします」
「話はそれだけです。この『ニコラシカ』というカクテルはブランデーの上にレモンスライスを浮かべそこに砂糖をのせたもので、レモンを口に運び一気にブランデーを流し込む飲み方をするので、『覚悟を決める必要がある』というような意味があるんです。ここの素敵な景色見ながらこれを飲んで判断してください」
剣田部長はそう言ってカクテルを一気に飲み干した。
その様子を見てから彩音は唇を濡らす程度に口にしてみると、ブランデーの強烈な香りとアルコールで咽てしまった。
――こんなの飲んだら酔っぱらってお持ち帰りされてしまうわ……。
剣田部長はそれを見て笑った。
「じゃ、お送りしましょう」
*
徳森敦子は友達の只畑千里と学食で話し込んでいた。
「クリスマスはどうすんの?」と、敦子。
「私は家で親とケーキ食べる」
「あらー、可哀想に、彼氏いないからねぇ千里は」
敦子のちょっと人を小ばかにしたような言いぐさと笑いにムッとする千里が言い返してくる。
「敦子は彼氏いるから良いわねぇ。わんこの康太くん」
「へへへ、今年は人間のオスとクリスマスにデートの約束したのよ」
自慢する敦子に目を見開いて驚く千里。
「え~、訊いてない、いつ男できた?」
「つい三日前。一条准教授」
「え~、あんな浮気男と?」
「そうなの。提出したレポートじゃ単位やれないって言われて、夜に彼の仕事場にしてるって言うマンションに呼ばれて……」
「あんた、そんな口実に引っかかったの?」
「だって、私の事前から好きだったって。だから狙ってたって言われた」
「あんた、ばかねぇ、引っ掛けた女全員に同じ事言ってるらしいわよ」
「いいの、イケメンで筋肉もりもりで男らしくってさ。で、レポートの修正箇所を赤ペンで書いてくれて、そこ直したら単位くれるって言われた」
「ばかねぇ、そんな単位のために、寝ちゃったの?」
「だって、……」
「はいはい、良かったね。彼氏もどきできて……」
「何よー、僻んでる?」
「あんたの心配してんのよ。どうせクリスマスなんかドタキャンされるんだから」
「え~、そんなぁ」
「あんた、よく考えな。あんたを抱くために奴が仕組んだことを……あんた、妊娠でもしたら最悪だよ!」
「えっ、まったく考えてなかった……千里、ごめん」
「ったく。だからもう会っちゃだめよ」
*
只畑彩音が夫の脱ぎ捨てた靴下を拾い上げて、んっ、と可笑しなことに気が付いた。
疲れたと言って既にベッドに潜り込んでいた宗司を起して
「ちょっと、何これ!」
眠そうに彩音の方に身体を向けて
「俺の靴下」と、めんどくさそうに宗司。
「その下! 何かついてるでしょう」
宗司が目を凝らして靴下を覗き込み、「あっ」と声を出した。
「疲れた、疲れたって言って、私に手を出さないくせに、他の女だったら元気なのね」
「違う、誤解だ、会社の女性の髪の毛がたまたま靴下についただけだ」
「嘘言わないで、じゃ、どうして靴下の底についてるのよ。これは髪が落ちてるとこを歩いたから付いたってことでしょ。会社じゃサンダルとか履いてるしあとは靴じゃない、女の部屋とかホテルとか行かなきゃこんな付き方しないわよ!」
「……」
宗司が言葉を返せなくなった。
「会社の女?」
「……あ、あぁ、相談有るって言われて、個室の有る居酒屋で話聞いてた」
「どんな相談だったの?」
――どうせくだらない話に決まってる。女からって言ってるけど、宗司が誘ったに違いないし……
「別れた彼氏に復縁迫られて困ってるって言うんだ。それで、会社に好きな人がいて付き合ってるから諦めてって言ったそうだ」
「じゃ、問題解決じゃない」
「違うんだ。ここからなんだ。……その相手が俺なんだ……」
「はっ、俺って宗司の事?」
「あ~、勘違いしないでくれよ。俺はそれまで彼女と付き合ってなんかない。言訳で俺の名前を出しただけなんだ」
「まぁ、あるって言えば、良くある話だわね。で?」
「その彼氏に会わせろって、顔見たら諦めるって言ったらしい」
「ふ~ん、随分と疑い深い男ね」
「それで次の日会社終わってからそいつに会った」
「ふむ、で、決着した?」
「一応な。ただ、その男と別れてから男に尾行されてたんだ。で、撒こうとしたんだがしつこくて、それで困ってラブホテルに入った」
「何故、そこに行く? 居酒屋でも入って飲み食いしてればいいじゃん」
「彼女が怖がってそう言ったもんだから。でも、一時間は普通にテレビ見てたんだ。そうしたら部屋が結構暑くってビールでも飲もうかという話になって、飲んだら飲んだで暑くってシャワーで汗流すかって話になって……勿論、別々に入ったんだ。で、休憩時間が過ぎたんで帰ろうとしたら、彼女がまだ怖いって、本当に震えてて、それで、大丈夫って抱きしめてやった。……そしたらずるずると、なるようになってしまった」
「あ~、いらいらする。じゃ、その一回だけって事なの?」
「……いやぁ、それが、その後も時々会わないと男が見張ってるかもしれないっていうから会うとホテルへ行くコースになっちゃって……ごめん」
「で、何て言う名前なの、その女」
――ふざけんじゃないわよ……そんなばかな事言う女いる?
「山岸佐和子っていうんだ。27歳って聞いてた」
「じゃ、明日、はっきりと山岸に言って、女房にホテル行ったのばれたからもう付き合えないって」
「あ、あ~わかったよ」
「それと、今後は疲れたという言訳は許さないからね。ちゃんと……してね」
――好きでもない他の女なら抱けるのに、どうして私は抱けないのよ腹立つ……
「うん、そうする」
*
高橋麗香の夫は大手K建設(株)の只畑宗司課長の下で働いていたが40歳になった今年心臓の病気のため亡くなり麗香は38歳で未亡人になった。
……朝、普通にお弁当を持って出ていったのに午前十一時過ぎ会社で倒れたと連絡があって、病院に駆け付けた時には既に亡くなっていた。
余りにも突然の夫の死。心に穴が空いた。頭の中は真っ白で何も考えられず、何も出来ず、ただ呆然とし涙を流すしか出来なかったが、それも涸れ果てた。
初七日が過ぎ、ようやく自分を取戻したがこの一週間何をしてきたのかさっぱり記憶が無かった。
――あら、武史がいない……どうして? 私を置いて逝っちゃった……武史、たけし、タケシ……
親類も帰ってしまい静になった部屋にひとりいると、彼のことが頭を過りひとり仏壇を前に泣いた。
パート先の只畑彩音オーナーが時折顔を出してはお弁当を置いて行ってくれる。
それとK建設の只畑課長が社内の退職金などの手続きや役所への手続きなど代わりにやってくれたし、
近所に住む高校の同級生だった彩木徳道が訃報を聞きつけ声を掛けてくれている。
そんな周りの人々に支えられ明日からパートの仕事を再開することにした。
「こんにちわ~」彩木の声だ。夕方から飲食の仕事をしているのでそれまでは暇だからと言って毎日のように取り敢えず顔を出してくれるのだ。
「いつもありがとう。今日は買い物お願いして良い? 明日から仕事に行くんで食材を用意しときたいの」
彩音は笑顔を作ってそう言って買うものを書いたメモとお金を渡す。
「お~、そこのスーパーで良いんだろ?」
「えぇ、お願いします」
彩木と入れ違い位で只畑が来る。
「こんちわ~。只畑です~」
「あ~課長さんしょっちゅう来てもらって済みません」
「今、出ていったの、例の同級生?」
「え~、昼間は暇だというので買い物頼んだんです」
「そう、そんなの俺行くから、変な奴に頼んで後からなんだかんだ言われたら困るよ」
「ははは、大丈夫よ高校の同級生なんだから……」
「私、明日から仕事に行くことになりました。課長さんにはお世話になりっぱなしで済みませんでした。今度は自分で何でもやるようにしないと、あの人に怒られます」
「うん、そうだね。でも、困ったら連絡して、いつでも来てあげるからね」
只畑は仏壇に手を合わせて「それじゃ、また寄ります」と言って帰った。
麗香は亡き夫から只畑課長の女癖の悪さを幾度となく聞いていたので、近づき過ぎないように距離を図って色々頼み事もしてきた。
――今日も、麗香を見る目は女を品定めするようでなんとなく気持ち悪い。
彩木くんは高校時代にはちょっとやんちゃなグループに入っていたこともあったが、卒業するころには普通の高校生に戻っていた。麗香とは結構仲良く遊んだりしたが告られることはなかった。
何となくだが彩木くんの本性を知っている気がして安心できるのだった。
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