食べなさい
カタオカアツシ
ある台所で
さあ、食べなさい。
母の口癖だった。
聞くたびに胃が痛くなり、吐き気がこみあげ、血の気がひいた。
優しい母だった、と思う。
一人っ子で、父は仕事に没頭していて家にはほとんど寄りつかなかった。母と私の距離はいつも心身ともに近かった。
母は私のことを大切にしてくれていた。健康を気に掛け、学校での出来事を根掘り葉掘り訊き、友人関係を事細かにチェックしていた。
そんな母の口癖が食べなさいになったのは、私がアトピー性皮膚炎になってからだ。
母はアレルギー反応が起きるものを調べ、私の生活からそれを排除するようになっていった。
甘いものや肉、脂質が多い食事はアトピー性皮膚炎を悪化させると知ると、母は食卓に一切それらを出さなくなった。
その頃から母は庭で家庭菜園をはじめた。
私に食べさせるための無農薬野菜を作るためだ。
ホームセンターで購入した野菜の種。それを母と二人で植えた。
美味しい野菜が出来ると良いね。
母は優しく笑っていた。
私が記憶している、母との最後の幸せな記憶。
しばらくして、家庭菜園で採れた野菜が食卓に並ぶようになった。
貧弱で醜く歪んだ野菜を、ただ塩茹でしただけのもの。土の臭いと妙な苦みが口いっぱいに広がった。食べるのを躊躇っていると、母は私の言い含めるように言ったものだ。
さあ、食べなさい。
私はただ喉の奥に押し込むために、貧弱な野菜を口に詰め込んだ。
いくら家庭菜園で採れた野菜を食べても、アトピー性皮膚炎はよくならなかった。営養が偏っているからか、どんどんと体重が落ちた。髪に艶がなくなり、筋と骨が浮き出て、目が落ちくぼんだ。
そして酷くなるアトピー性皮膚炎。
町を歩いていると、無邪気な幼児が私を指さして、お化けがいるよ、と言われたことがあった。
私は母に化け物にされたのだ。
そして私は大人になり、人とは極力関わらない仕事につき、延々と、母が栽培した醜くい野菜を食べさせられた。
さあ、食べなさい。
何年も、何十年も私は野菜を口に押し込められた。
気がつくと父は私と母を捨てて家を出た。とても悲しかったが、母は顔色一つ変えなかった。
私は骨と皮膚だけの者となり、歳を重ね、母は老い、今度は私が母の菜園を引き継いだ。
初めて母の野菜を食べてから五十年が経っていた。
もう、母は菜園には行けない。歩くことも出来ず、菜園が見える部屋で寝たきりになっている。
週に一度やってくる介護士は、初音さんは娘さんがいつも側にいてくれて幸せね、と引きつった顔で言うが、私とはほとんど目を合わせない。
共犯者にはなりたくないのだろう。
奥の部屋から母の呻り声が聞こえている。
私は家庭菜園から採ってきたトマトや人参、タマネギやブロッコリーを洗いもせずにまな板にのせ、ざくざくと包丁で切り刻んでいる。
包丁もまな板も土で汚れ、人参に生えた根には白胡麻のような虫がいる。
ブロッコリーにはみっしりとアブラムシが蝟集していて、包丁で潰すと赤い汁がブロッコリーを汚す。
それら切り刻んだ野菜を何年も洗っていない皿に放り込み、水道で自分の手だけを綺麗に洗う。
母がその音を聞きつけ、食事が近づいたことを知り、鶏のような悲鳴をあげた。
私は糜爛した皮膚の頬を吊り上げて、歯がすべて抜け落ちた口を開いて笑う。
土やアブラムシの死骸に塗れた野菜を、私は母のもとに持っていく。
母の悲鳴は、たぶん隣近所に届いているが、誰も私を止めはしない。
初音さんは幸せだから。
さあ、お腹いっぱい食べなさい。
食べなさい カタオカアツシ @konoha1003fuyu
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