本論Ⅱ 百合関係における諸問題の例示

「そういえば、エイミはどうした? 部活の日でもないだろ」

 阿賀川の問いに、動揺して瞬きを早くした。

「知らない言葉をしゃべってた」

 私は阿賀川に目撃したすべてを語った。起きた出来事としてはエイミが知らない外人男と会話して、会話が盛り上がって、道案内してくるから先に行っててと言われただけ。はじめは外人男もエイミもたどたどしい英語で会話していたのだが、ふとエイミが聞いたこともない謎言語を話し始めたら、男の方も一気に謎言語で流暢に話し始めたのだ。そのときのエイミはまるで別人で、私の知っている人間ではないみたいだった。

「そんで尻尾巻いて逃げたんだ。案外、ホントに彼氏ができるかもよ」

「縁起でもないこと言わないで」

「真面目な話をすると、エイミの父親と同じ出身地だったんだろう、その外国人。そもそもジルコヴィッチなんて姓からして英語圏らしくないしな。あまり話したがらないから詳しくは知らんが」

 エイミはどこかの国の父と日本人の母の間に生まれたハーフだ。五歳ぐらいのときに帰化して日本国籍を得てからは、日本名の吉田詠美を名乗っている。日本に来た理由については複雑な経緯があるらしく、本人も詳しく知らないと言葉を濁されてきた。

「たぶんヨーロッパの、憶測でよければスラヴ系。訛りだとか、雰囲気にピンときたんだろ。しゃべれるのが嬉しくてテンションがあがる。別におかしなことじゃない」

「知らないひとみたいだった」

 不安になるなんて馬鹿なことだと自分でも思う。しかし、先ほど示された、言語という外からの観測作用で思考が影響を受ける仮説は、私を揺さぶるには十分だった。

「言葉が変わると性格まで違ってみえることってあるじゃん。それってさ、使用言語で思考の癖が変わるって可能性ない? そうなったとき、エイミィ・ジルコヴィッチは、私たちの知ってる吉田詠美じゃなくなってしまうんじゃないの?」

「いつも以上にぼんやりしていると思ったら、そういう理由か」

 阿賀川はノートを閉じて、シャーペンをバックに投げ捨てた。作業終了の合図だ。

「言語にはふたつの側面があると思っている。ひとつは意思を伝達する記号としての機能的な側面。危険を知らせたり、求愛したりする動物の鳴き声を複雑にした機能。もうひとつは自己表現の手段としての側面。そのふたつが混在して使用されるから混乱する。皮肉だとか、イディオムだとか、言外に意味が置かれるものもあるけれど、基本言葉には言葉通りの意味しか含まれない。どう表現しようと、頭の中にあるクオリアは変化しない。エイミが直接嫌いと言ってきたわけじゃないだろ?」

「そうだけどさ」

「月森のなかにわだかまりがあるなら、そう言えばいい。言語は思考に影響を及ぼすかもしれないけれど、言葉は所詮道具に過ぎない。体の外に飛び出さなければ意味を為さないものだ。影響を及ぼすというのは、つまり関わり合うということでもある。月森がエイミと深く関わりたいと思うなら、口に出して、言葉を交わしてわかり合う以外に手段はない」

 阿賀川はコミュニケーションの基本、と強調する。

「言わなきゃ伝わらない」

 私はくたくたのスプリングで弾みをつけて、ソファから尻を引き剥がした。

「私、エイミを迎えに行ってくる」

 荷物はすべて置いたまま、ファミレスの扉へと突進する。

「『三人』は案外短かったな」

「なにか伝言?」

 阿賀川が小さく呟いて、扉に手を掛けたまま振り向く。

「いいや、気を付けて。月森は周りが見えなくなる癖があるから」

「わかった、いってきます!」

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