本論Ⅰ 百合感染拡大の要因

「二組の田中品子と四組の滝沢夏音がSNSでツーショットあげてら。こいつらもう駄目だな。昨日まで親友だとかいってやがったのに」

 阿賀川がノートに連なった名前に赤ペンで線を引く。ノートのタイトルには『東高 百合感染者リスト』と書かれている。

 オフの阿賀川は髪に櫛を通して、前髪をクリップで止め、眼鏡を外してカラコンを装着している。アニメキャラじみた、色の濃いエメラルドの瞳は宇宙人が阿賀川本人に成り代わったみたいだ。

 地味で陰気でオタクっぽい、じめっとした通学時オンとはまるで別人。目尻にシャドーをのせてパリッときめた阿賀川は、鋭利なカッコよさを視るものに与える。オンの陰気さは、オフには一転、魅力的な翳となるから不思議なもんだ。

 私と阿賀川は放課後を個人経営のファミレスで過ごしていた。阿賀川の親戚が経営するこの店は、場末と呼ぶに相応しく、客入りもなく、分煙もまともにできていない。ソファは黄ばんで端から綿がはみ出ているし、一杯百円のコーヒーはぬるいし、メロンソーダはシロップを薄めた味がする。マスターも私らしか客がいないと、奥に引っ込んで出てこない。現世から隔離されたように時代遅れで、常に夕日の差した店だ。それでも人目を気にせず、私たちが素を晒すことのできる貴重な空間だった。

「レポート、どうしよっか」

「軽くブレストしよ。なんでもいいから聞いてみて。答えるから、それメモって。あとからまとめて、文献で補強したらいけるっしょ」

「うーん……じゃあ、初歩から。百合の感染源って、なんなんだろ」

 私は話半分に、ぼんやりとして空気に問いかけた。

 オフの私はドルオタを脱ぎ捨てて、一般無感想少女へ戻る。傾倒するような趣味はなく、世の中に対して特に意見のない類いの人間だった。授業や講演で求められるコメントシートが大の苦手で、それ故にドルオタの仮面は便利だった。

「根っこの部分って意味なら、はじまりの同性愛者だろ。原初のイヴとイヴの反乱だよ。ただ近年大流行している百合の原因って意味なら、文化的概念百合、あるいは百合という言語からの思考汚染といったところかな」

「言語が思考を規定する」

 感染拡大初期にはSNSでもさんざん騒がれたから私でも知っていた。

「SF人がみんな大好きサピア・ウォーフ仮説だな」

 差別言語抹消令に関する陰謀論も、この『言語が思考を規定する』という考え方が軸に展開されていた。言葉狩りをすることで、反政府的な思考を制限し、国民は政府の操り人形になるというものだ。実際には言語は流動的で、使えなくなれば必要に応じて生まれ、別の言葉が多義的に開かれていくもの。言葉ひとつ消しても思考に枷を嵌めることはできない。すべての人間から一斉に消し去れるならまだしも、死語にされたぐらいでは大した効力はもたなかった。ただし、思考を操作することはできなくとも、影響や誘導といった『弱い規定』には効果があった。

「こういう逸話がある。英語には肩こりという単語がなかったのだそうだ。それまでアメリカ人は肩こりを知らず、肩こりにはならなかった。けれども、日本人から肩こりという言語と概念を教えられた途端に肩こりを発症するようになった」

「なんか聞いたことあるかも」

「出典不明の噂だけど、百合でも同じことが起こった。これまで一般的でなかった同性愛が政府公認で強引に常識に格上げされ、百合という概念が表舞台に取り上げられた。全国の人間が百合を知った結果、ただの友達だったあの子と私の関係が百合へと変わる。全国各地で百合の大量発生が起こった。世に言う、百合の感染爆発だ」

「かくして世界は百合の炎に包まれた、と」

 適当に話を締めくくると、阿賀川がストローを噛んだ。

「物事はそう簡単じゃない。感染の拡大に一役買ったのが、百合概念の性質。トリックと言い換えてもいい。百合が肩こりと同程度の概念だったなら、ここまで広がることはなかっただろう」

「若いと肩こりにはならないからね。筋肉痛と競合してるし、肩こりの方が範囲狭いかも」

「そう。百合の厄介な特性は、その範囲にこそある」

 キーボードをチンタラ弄っていた指を止め、エンターをトドメ打ちする。阿賀川が百合について詳しい。メモを取る必要もないぐらい。たぶん、あらかじめテーマに合わせて知識と考察を積んできている。もしくはその逆か。

「百合はふたつに大別できる。『広義の百合』と『狭義の百合』だ。月森はふたつの違い、わかる?」

「同性愛かどうか、だと思うけど」

「正解。まず『狭義の百合』は女同士の恋愛関係、つまりは女性の同性愛のみを指して百合という。シスターフッド――姉妹的な繋がりを含むいわゆる『エス』や友情は含まれない。公的な同性愛の解禁で一般的になった百合の認識というのは、この『狭義の百合』の方。禁止語彙のレズビアンが語義的には的確だな。

 対して『広義の百合』は、主に創作界隈に存在した百合の捉え方で、女性同士のあらゆる感情的関係を包括する概念の代名詞とされた。恋愛はもちろん、友情や母性、憎悪や敵対関係とにかくなんでも。女同士であれば百合で、作者ごとに捉え方は千差万別。概念が広がり過ぎて堤防決壊、百合が氾濫していた」

 阿賀川はノートに楕円を三つ重ねる。外・中・内の三重丸のうち、外と中はほぼ重なる大きさで、内の円はかなり小さい。彼女はそこに名称を書き込んでいく。外は『女性』、中は『広義の百合』、内には『狭義の百合≒レズビアン』と、それぞれの概念の範囲を分かりやすく図示してみせる。

「世間的な視野は一番小さい円だよね」

「ここからが感染拡大の肝。このふたつの百合の概念範囲は、レズビアンや同性愛といった狭い範囲の言葉が差別言語抹消令で使えなくなったことで混同、同一視されるようになった。これだけ開きがあるにも関わらず、だ。女同士の関係がほぼすべて百合に含まれるが、一般的には同性愛として認識されている」

「つまり百合認定されるときには『広義の百合』の範囲で押し込まれて、百合認定されたあとは『狭義の百合』――同性愛者としての見られ方をするってこと? であってるよね」

「それに百合認定は他人からだけじゃない。自ら百合だと思ってしまうことも問題だ。広い意味で百合を自認して百合宣言すると、外的には狭い百合だと捉えられる。友達だったのに、気付けば恋人にされていた、なんて百合汚染拡大のトリックだ」

「だから、百合感染に抵抗するには、異性を意識しているアピールが必要なんだよね。もしくは同性を意識してないと明示するポーズが。百合豚を撃ち殺す武装が必要だったわけだ」

 私たちの武装は他人からの百合認定に抗うため、必要な物だ。三人固まって行動しながらにして百合だと思われないには、一般的な『狭義の百合』へのアンチテーゼを掲げればいい。同性への無関心なり、異性との関係なりがそれにあたる。私たちが携えた彼氏・BL・ドルオタが武器になる理由だ。

「もうひとつ、他人からの視線で問題になることがある」

「ほう、まだなにかあると」

「別に他人からどう見られようと好きにさせておけばいい、と思わないか?」

「まぁ、確かに。対抗概念で武装してまで、視線や偏見に抗う必要ないよねと思ったことはあるかも。過剰防衛といえなくもない、かな」

「他者からの視線と認識が、私たちの思考にも直接影響を及ぼすとしたら?」

「百合豚が私たちをどう考えるかが、私たち自身の思考を変えるってこと?」

「私たちは自分たちが肉体で外界と分断されたスタンドアローンと誤解しがちだ。悲しいことに我々は世界から孤立していないし、ミクロな視点でみれば、私の原子は毎分毎秒世界と置換され続けている。一は全で全は一なんだ。万物は流転して、私は君と地続きなのさ」

 阿賀川はノートにいくつかの単語を書き込む。言語化、同調圧力、共感、観測理論――。

「量子論の世界では観測行為そのものが現象に変化を及ぼす、観測問題と呼ばれるものがある。感情は頭蓋骨の外に存在しないもので、脳内を飛び交う極小の神経の発火によって発生する不定形の揺らぎだ。喜怒哀楽のように習慣的、文化的に規定されているけれど、それらは果たして私たちの感情を正確に捉えたものだろうか。喜怒哀楽は意思疎通のために設定された記号に過ぎない。私たちはあくまで近似する概念として、当てはめて喋っているだけだ。

 ここで最初の理論に立ち返ろう。『言語が思考を規定する』、サピア・ウォーフ仮説だ。言語とは私たちの外に設定された物差しだ。形なき感情という揺らぎを、言語という外からの視線で観測することで、私たちは自分たちの感情の形を後付けで決定している。

 他者の視線や言語化、『百合』という言葉によって表されることで、私たちは私たちの揺らいでいた関係性を確定されてしまっている。人間の関係なんて一面的じゃない。疎遠になったり、深くなったり流動的だ。百合であるか否かは、外の意志で決定されていると私は考えている」

「量子論って、めっちゃ小さい視点の話じゃん。実際の生活では無視できるぐらいの」

「脳内の神経発火は量子論が適用出来るぐらい小さい話だと思うのだが。脳の活動の、電気信号の、ほんの一部影響を受けただけでも、考え方は変ってしまうかもしれない。それに私たちは自分たちが思考する際に言語を使うことで、充分すぎるほど観測の影響を受けている」

「なにそれ、リアル怖い話やめてよ。言葉で頭の中身が変わってしまうなんて……」

 そこまで言葉にして固まった。心当たりを思い出して凍り付いてしまったのだ。

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